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2011 年 11 月 のアーカイブ

名雪祐平 11年11月27日放送


肉体コンプレックス チャールズ・ブコウスキー1

父が失業した。
そして、息子への虐待が始まった。

息子の精神は追い詰められ、
全身が悪性のニキビに襲われた。
その酷さは整形手術を受けるほどだった。

写真など撮られたくもない。
人に近づきたくもない。
ぽつんと孤独な学生時代。

やがて大学を中退し、アメリカ放浪の旅に出た。
肉体労働で稼ぎ、酒びたりになりながら。

安いモーテルで、いつもいつも詩を書いた。

それが、いま世界中でカルト的人気を誇る作家
チャールズ・ブコウスキーの
若い日々だった。






肉体コンプレックス チャールズ・ブコウスキー2

若いときから、
女にまったくモテなかった。

肌はでこぼこ、醜く、孤独な作家
チャールズ・ブコウスキーの小説や詩は
労働者たちに愛された。

ロサンゼルスの郵便局を辞め、
やっと作家一本でやれるようになったのは
50歳のとき。

作品が売れ出したとたん、
いままで無視していた女たちが次々と寄ってきた。
それはまるで甘い砂糖水にたかる虫。

そんな女たちを、恨みでも晴らすかのように抱き、
インタビューでは
「一晩で6人の女と寝た」と笑った。

73歳で亡くなるまでパンクな人生を貫いた
ブコウスキーの墓には、こんな言葉が刻まれてる。

DON’T TRY.
やめておけ。




肉体コンプレックス  三島由紀夫1

肉体は、人生を左右する。

文豪・三島由紀夫の
子どものころのあだ名は、アオジロ。

青白い顔、貧弱な体のせいでイジメられた。

肉体にコンプレックスを抱えた三島は、
作家になってからボディビル、剣道、水泳に通い、
肉体改造にいそしんだ。

そして見事な、
筋肉隆々になった三島はこう書いている。

 私はようやくこれを手に入れると、
 新しい玩具を手に入れた子供のように、
 みんなに見せ、みんなに誇り、
 みんなの前で動かしてみたくてたまらなくなった。

 私の肉体はいわば
 私のマイ・カーだった。

1963年、そのマイ・カーを撮影した
前衛的なヌード写真集『薔薇刑』が発表された。

当代きっての人気作家が世の中に
センセーショナルな裸を突きつけたのだ。

この写真集は、三島の死後、
世界の代表的な写真集として
「20世紀101冊の名作」に選ばれている。

筋肉とは何だろう。
強いものこそ美しいという哲学か。




肉体コンプレックス 三島由紀夫2

三島由紀夫といえば、
数々の名作とともに、ボディビルの印象が強い。

幼いころから
か細かった体を大人になって鍛え上げ、
頑健な肉体に改造した。

作家なのに、なぜそんなに鍛えるのか。
三島はニヤリと答えた。

 ぼくは切腹して死ぬからだよ。

 本当に切腹するとき脂身が出ないよう、
 腹筋だけにしようと思っているんだ。

この強烈なナルシストは用意周到に、
自決する日に向かって
自らの姿をイメージをしていたのだろう。

1970年11月25日、クーデターに失敗し、
三島は本当に腹筋を引き裂いた。




肉体コンプレックス カレン・カーペンター

神から授かった美声の持ち主
カレン・カーペンター。

兄リチャードとのポップ・デュオ、
カーペンターズのヴォーカリストとして、
世界中でメガヒットを飛ばし続けた。

すべてが順調のようにも見えた。

幼いころから兄を崇拝するがために、
自己評価が低いカレン。
すこしぽっちゃりした体型も
ステージ中央に立つことになってしまったことで、
コンプレックスになってしまったのか。

よくあるダイエットは、
狂気の拒食症へと変貌していった。

歌のツアーで非常に激しい仕事をしながら、
下剤を一晩に80錠以上も服用していたという。

身長163cmに対して、
体重はたった35kgに落ち込んだ。

享年32歳。

何がカレンをそうさせたのか。
いまは、美しい歌声が聞こえるだけ。




肉体コンプレックス ゲーテ

文豪、ゲーテ。

ワインを1日2~3リットル吞み、
肉料理や甘い菓子が大好きな大食漢だったという。

74歳のとき、心筋梗塞を患い、
死の危機に直面するが、復活した。

ゲーテは医者に聞いた。

 自分の年齢で結婚は体に毒か?

実はこのとき、
ゲーテははるか年下の17歳の少女に
熱烈な恋をしていたのだった。

医者には止められなかった。
しかし、少女の母親からは猛反対され、
結婚は叶わなかった。




肉体コンプレックス 松田優作

1970年代、テレビに松田優作がいた。

人気抜群だったゆえに
固まってしまった自分のイメージに
苦しめられた。

自分自身を壊せ。

映画『野獣死すべし』では
奥歯を4本抜き、体重を10kg減量する。

185cm近い身長も高すぎる、と感じた。
骨を削って低くできないか、
足を5cm切ろうかと思ったという。

ものすごい役者魂。

足が短い人には、
考えもつかない話である。





肉体コンプレックス サミー・デービスJr.

美貌の女優マイ・ブリッドを妻に射止めた
歌手サミー・デービスJrが言った。

 いまの自分に不満は一つもない。

すると、底意地悪いインタビュアーが聞いた。

あなたのつぶれた鼻や、
片方しかない目や、
醜さについても?

サミーはこたえた。

 ぼくみたいな完璧に醜い男は、
 かえって魅力的なのさ。

並みの男くらいなら醜いほうが目立ち、
そのうち魅力にも気づいてくれる、
という持論だった。

なるほど。
きっと、並みのインタビュアーが
足元にもおよばないくらい
モテたに違いない。

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坂本仁 11年11月26日放送


ジョー・ストラマー

パンクとは何かという命題に、
答えてくれる言葉がある。

月に手を伸ばせってのが、俺の信条だ。
たとえ届かなくても。

ピストルズと並んでUKパンクの雄と称される
The Clashのボーカリスト、
ジョー・ストラマーの言葉だ。

来日コンサートの際には、
ファンからの膨大なプレゼントを、
多額の超過荷物料金を支払ってすべて持って帰った。

ファンを大切にする。
そんな彼の姿勢も、パンクだった。



ザック・デ・ラ・ロッチャ

レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンは、
政治的メッセージを歌う反体制のバンドだった。
搾取される先住民の悲劇、
画一的な教育の恐怖など、
そのメッセージはいつも過激で、
アルバムが合衆国政府の要注意著作リストになったこともある。

けれど、ボーカルのザックは次のように語る。
「全ての革命的行動は愛の行為。
俺がこれまでに書いた曲は全てラヴ・ソングだ。」と。
弱者への強い愛が彼らの、強烈なパフォーマンスの源泉だった。



ベン・E・キング

何かをつくることは、孤独な作業だ。
つらい暗闇の中で、もがき、苦しみ、
自分が納得する作品をつくりあげる。

「ダンスウィズミー」、「ラストダンスは私に」などで知られる
ミュージシャン、ベン・E・キングは、
曲作りに関して次のように語る。

「Good」が「Better」になるまで、
「Better」が「Best」になるまで、決して気を抜いてはいけない。

完璧になるまで妥協しない。
そんな自分を追い込む曲作りのつらい状況の中で、
キングは、彼のヒット曲、
「スタンドバイミー」を思いついたのかもしれない。



BONO

1971年、ジョンレノンは「イマジン」という名曲を書いた。
そして、わたしたちはみな、想像することで、世界は変わると信じた。

けれどそんなジョンレノンの「イマジン」に異を唱えるロックスターがいる。
全世界のアルバムセールスが一億三千万枚を超えるモンスターバンド
U2のリードボーカル、ボノ。
彼は言う。

夢見る時代は終わったんだ。
これからは行動する時代だ。
すべては夢見ることから始まるけど、
夢で終わるなら寝てる方がましだ。と。

数々のチャリティーコンサート、
貧困救済を目的とするOne Campaignへの参加、
売上げをエイズ救済基金にするREDの新設など。
そして、その功績から3度ノーベル平和賞の候補となった。

世界を行動で変えるロックスター、ボノ。
彼のような人がきっと21世紀をしあわせな世紀にしていく。






サーストン・ムーア

80年代のアンダーグランドシーンを牽引した、
ソニックユースのボーカル、
サーストン・ムーア。
パンクの概念をアメリカに植え付けた人だ。

新生児の泣き声。
これこそがバンクロックに対する僕の定義だ。

サーストン・ムーアに言わせれば、
僕らは皆パンクの魂を持って生まれてくる。




ポール・マッカートニー

イエスタデイ、
ヘイ・ジュード、
レットイットビー。

数々の名曲を残したボール・マッカートニーは言う。

「努力することより、しないことの方が、難しいんだよ」

彼にとって
あれほど多くの愛すべき美しいメロディを書くことは
むしろ努力をしないことだったのだろうか。

ちなみにポール・マッカートニーは
ポピュラー音楽史上もっとも成功した作曲家として
ギネスブックに認定されている




ベック・ハンセン

多くの成功したミュージシャンがそうであるように、
ベック・ハンセンも若い頃は経済的に貧しかった。

10代の頃はゲットー暮らし。
ロスの中学卒業後は、家具の運搬、芝刈り
衣料工場などなど仕事を転々としながら、
生計をたてた。
18歳の頃、ニューヨークへ。
ホームレスをしながら、曲をつくった。

けれど、ベックは若い頃を「昔は貧しかった」と
懐かしむようなことはしない。
むしろ、次のように語る。

ホームレスをやっていても悲惨だと思ったことはない。
僕には音楽があったから、いつも裕福だった。と。

人からみたらつらい時代も、
彼には音楽性を育んでくれたハッピーな時代だったのである。

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三國菜恵 11年11月20日放送


言葉のはじまり/ある映画の翻訳チーム

1953年公開のハリウッド映画『Terminal Station』は
恋愛映画の名作として知られている。
この作品が日本で公開になる際、
原題の雰囲気にふさわしい日本語が当時見あたらなかった。

そこで翻訳チームの面々が頭をひねって、
こんなことばをつくりだした。

Terminal Station.
“終着駅”。

映画らしい情感あふれるその言葉は、
のちに歌謡曲や小説のタイトルとしても
多く使われるようになる。




言葉のはじまり/吉田松陰

自分のことを“僕”と呼び、
相手のことを“君”と呼ぶ。

この“僕”と“君”ということばを最初に使ったのは、
松下村塾をつくった吉田松陰であると言われている。

「下僕」ということばがあるように、
“僕”は自分のことをへりくだって言う表現。

いっぽう“君”は、
「君主」ということばがあるように、相手を立てた表現。

松下村塾出身の高杉晋作は、
奇兵隊を結成した際、この考え方を導入した。
ひとりひとりがどんな身分であろうと、
自分のことを“僕”と呼び、相手を“君”と呼ぶことでお互いに敬意を表す。

武士と町人、農民が
身分にとらわれず共に戦う奇兵隊にとって
身分を超えた呼びかたはぜひとも必要なものだった。


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中村直史 11年11月20日放送


言葉のはじまり/池田菊苗

「うま味」という言葉を英語で言うと・・・?
答えは、UMAMI。
世界には、UMAMIに相当する言葉がない。
そもそも旨味という概念がなかった。
帝国大学理学部教授 池田菊苗(いけだきくなえ)が、世紀の大発見をするまでは。

いまから100年以上も前、
甘味、酸味、塩味、苦味以外に、
味覚の基本となる物質があると信じ、探し求めた池田。

日本で長らく「ダシ」として使われてきた昆布に着目し、
ある物質を分離することに成功した。
物質の名は、グルタミン酸ナトリウム。

この発見に日本中が驚いた。
けれど、池田のすばらしい仕事は、成分の発見にとどまらなかった。
それは「うま味」というネーミング。
たった3文字のこのすばらしい名前が生み出されたために
この発見は、科学界だけでなく、みんなのものとなったのだ。

わたしたちがおいしい料理に舌鼓をうつとき、
何気なく使ってる「うま味」という言葉。
そこには、味わい深いストーリーがかくされていた。

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三島邦彦 11年11月20日放送


言葉のはじまり/ 伊東忠太

建造物の造に、家と書いて、造家(ぞうか)。
明治のはじめ、今でいう建築には
この造家という言葉が使われていた。

その時代、伊東忠太(いとうちゅうた)という一人の若者がいた。
造家学の研究で博士課程を満了したエリートだったが、
ひとつだけ不満があった。
それは、造家という言葉に、美意識が感じられないこと。

画家を志したこともあった伊東にとって、
美意識は何よりも大切なものだった。
伊東は、建築という言葉にその思いを込め、
造家をすべて建築と言い換えることを訴えた。

  建築は世のいわゆる純粋芸術に属すべきものにして、
  工業芸術に属すべきものにあらざるなり。

この若き伊東の宣言は、大きな波紋を生み、
学会や大学の学科の名前はやがて、
建築学会や建築学科へと変わっていった。

それまでの仏教建築とは一線を画す築地本願寺の建立など、
伊東はそれからも日本の建築界に新しい美意識を打ち出し続けた。
日本の近代建築の出発点。
それは、「建築」という言葉そのものだった。

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中村直史 11年11月20日放送


言葉のはじまり/鈴木昭

「激辛」という言葉はあるお店から生まれた。
そう聞くと、カレー屋かラーメン屋を想像する。
けれど激辛の発祥はせんべい屋だった。

東京の老舗、神田淡平(かんだあわへい)。
店主、鈴木昭(すずき あきら)がつくりだした新しいせんべいは
まるで唐辛子の塊のようだった。その名も「激辛」。

ネーミングのインパクトもあり、いつしか激辛せんべいは大ヒット。
その後の激辛カレーや激辛ラーメンへとつながり、
1986年には流行語大賞銀賞にも選ばれた。

激辛せんべいの燃えるような味とネーミングが、
まさに、ブームに火をつけたのである。

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三島邦彦 11年11月20日放送


言葉のはじまり/ 大宅壮一

クチコミという言葉の生みの親は、
昭和を代表するジャーナリスト大宅壮一(おおやそういち)。

もともとは、ラジオとテレビをクチコミュニケーション、
略してクチコミといい、
新聞と雑誌を手コミュニケーション、
略して手コミといったのが始まりだった。

クチコミという言葉は人々の口を介して広まるうちにもとの意味を離れ、
大宅が意図していなかった意味が、まさにクチコミによって生まれた。
これは、その大宅が残した言葉。

 最終のそしてもっとも有力な審判者は、目に見えない大衆だと信じている。




言葉のはじまり/ 福地源一郎

社会という言葉は
明治時代、society(ソサエティ)の翻訳として生まれた。

最初に使われたのは新聞記事。
書いたのは東京日日新聞の主筆、福地源一郎。
新聞記者の地位を劇的に高めた人物である。
これは福地が新聞社に入った時の決意の言葉。

  新聞記者が戯作者なみというのなら、
  私の手によってそこから引きあげてみようではないか。

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三國菜恵 11年11月20日放送


言葉のはじまり/城戸四郎

映画会社「松竹」の元社長・城戸四郎(きどしろう)。
小津安二郎や山田洋二らを映画界におくりだした彼は、
まさに映画の黄金時代を築きあげた、名プロデューサー。
いわゆる、先見の明がある人物だった。

1928年、城戸はアメリカへ渡り
「トーキー」をはじめとするたくさんの映画を目にする。
そのとき、こんなことを思ったという。

これからの女優は顔だけではなく、
からだ全体のプロポーションがよくなくてはいけない。
なかでも脚がポイントだ。

城戸は帰国後、女優のオーディションを開催。
こんなことばで呼びかけた。

“脚線美女優”募集。

“脚線美”ということばがこのとき生まれた。
ミニスカートブームが起こる、はるか30年も前に
城戸は「女性の新しい魅力」について見ぬいていた。

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厚焼玉子 11年11月19日放送


王妃マルゲリータとピザ

マルゲリータというピザがある。
トマト、モッツァレラチーズ、バジリコのトッピング、
赤、白、緑の配色が美しいピザだ。

このピザが生まれたのは1889年のことだった。
ナポリを訪れたイタリアの王妃マルゲリータのために
ピザ職人のラッファエーレ・エスポジトが3種類のピザをつくり
そのなかで王妃がいちばんお気に召したピザに
マルゲリータという名前をいただいたのだ。

マルゲリータの誕生日は明日11月20日
この日はピザの日になっている。




王妃マルゲリータと真珠

イタリアの王妃マルゲリータの名前は
ギリシャ語で真珠という意味をあらわす言葉
「マルガリータリ」に由来している。
真珠のように美しくという願いが込められているのだ。

王妃マルゲリータの写真を見ると
頭に月桂樹のティアラを飾り
首には10本ではきかない真珠のネックレスを
巻いている。
その真珠は夫である国王が浮気をするたびに
増えていったらしい。

夫が浮気をして…
などと国民に愚痴をこぼしたりはなさらないけれど
ネックレスを見ればわかる人にはわかる。

賢明な王妃マルゲリータの名前は
イタリアのピザの名前にもなっている。

明日11月20日はピザの日




王妃マルゲリータとピザの店

ブランディというナポリのピザの店には
1889年6月の日付の古い手紙が
いまも残っている。

それは手紙というよりは感謝状で
王妃のためにつくったピザがおいしかったと書かれ
とくにトマトとモッツァレラのピザがおいしいと
つけ加えられている。

その「とくにおいしかった」ピザは
王妃の名前であるマルゲリータと呼ばれ
やがて世界中に知れ渡る。

ナポリのピザの店ブランディには
日本語のホームページまである。

明日11月20日はピザの日




王妃マルゲリータともうひとつのエピソード

本当かどうかは知らないけれど
イタリア王妃の名前をつけてもらったピザ、マルゲリータには
もうひとつのエピソードがある。

イタリア王妃のためにピザをつくるように命じられた
ピザ職人ラッファエーレ・エスポジトが
とりどりのピザをつくって王妃の前に並べた後に
エスポジトの妻が新しいピザをひとつ焼いて持ってきた。
王妃はそのピザがたいへん気に入り名前をたずねたけれど
気紛れに妻が焼いたピザに名前のあろうはずはなく
エスポジトはひたすら恐縮するばかり。

そこに妻が助け舟を出した。
「王妃さま、このピザは王妃さまと同じ名前で
 マルゲリータと申します。
 トマトの赤、モッツァレラの白、バジリコの緑は
 イタリアの国旗をあらわします」

それが評判となって店は大繁盛。
でも気の毒なエスポジトは、それ以来妻に頭が上がらなかった。

明日は王妃マルゲリータの誕生日、そしてピザの日でもある。






王妃マルゲリータと自転車

世界でもっとも古い自転車メーカーは
1885年創業のイタリアのビアンキ。
ビアンキの自転車の色はチェレステという緑色に近い青色で
チェレステは空を意味すると同時に
イタリア王妃マルゲリータの瞳の色ともいわれている。

1895年、ビアンキの創始者であるエドアルド・ビアンキは
女性用自転車を制作して王妃に献上し
その乗りかたも指導したと伝えられるので
王妃の瞳の色というのも本当かもしれない。

自転車に乗る王妃さま、ピザの名前の王妃さま
国民に愛された様子が目に浮かぶ。

明日11月20日は王妃マルゲリータの誕生日、そしてピザの日。




王妃マルゲリータとティアラ

 1867年のパリ万国博でゴールドメダルを獲得した
月桂樹のティアラは
イタリア国王エマヌエーレ二世が買い求め
やがて息子の嫁になるマルゲリータへの贈り物にした。

花嫁はこのとき16歳と5ヶ月。

金とダイヤモンドの超豪華版のティアラを身につけた
王妃マルゲリータが
庶民に愛されるピザの名前になったのは
それから22年後のことだった。

明日11月20日は王妃マルゲリータの誕生日、
そしてピザの日




王妃マルゲリータのフルネーム

ピザの名前にもなっているイタリアの王妃マルゲリータの
フルネームは長い。
マルゲリータ・マリア・テレーザ・ジョヴァンナ・ディ・サヴォイアが
その正式な名前だ。

マリア・テレーザは父かたの祖母の名前だが
ジョヴァンナは17世紀までさかのぼる。
マリーア・ジョヴァンナというしっかりもの王妃さまが
一族のなかにおいでになるのだ。

マリーア・ジョヴァンナは
当時王さまや貴族が独占していたチョコレートを
一般に販売することを許し
チョコレート文化をヨーロッパに広めた。
さらにグリッシーニというクラッカーのようなパンの発明も
マリーア・ジョヴァンナの手によるものらしい。

食べることが大好きなイタリアでは
王妃さまも食文化に貢献する。
我々がいまマルゲリータというピザを食べられるのも
王妃マルゲリータのおかげだ。

明日11月20日は王妃マルゲリータの誕生日、そしてピザの日。

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五島のはなし(165)

五島の秋の魚屋さんはどんな品ぞろえか調査してきました。



スターはヒラスですね。
一般的にはヒラマサと呼ばれる魚です。
見た目ブリと似ているけど、もっと歯ごたえがあり上品な味。



ヤズはブリの子ども、つまりハマチとかイナダのこと。
ヒラスと姿は似ているのにこの値段の差。ヒラスのスターぶりがわかるでしょう?



ゴマスはイシガキダイのこと。
イサキはイッサキと呼ばれます。「ッ」が入るのが五島弁の特徴。





きれいな真鯛。シイラは「万引」と呼ばれます。
五島風に言うと「マンビッ」。ここでも小さい「ッ」が入る。
万の力で引っぱる、そんな強い魚だから万引。
四国や九州の他の地域では万力(マンリキ)と呼ぶところが多いはず。

あー釣り行きたくなってきた。

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