2011 年 11 月 のアーカイブ

大友美有紀

大友美有紀(サンアド)、2012年1月から参戦します。

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古居利康 11年11月13日放送



①ジーン・セバーグのベリーショート

ひとつの髪型が、
世界を変えることもある。

1957年、『悲しみよこんにちは』という
アメリカ映画に登場した
ジーン・セバーグのベリーショートが、
世界中の女の子に、ブームを巻き起こす。

女の子だけではなかった。

映画を見て彼女に魅了された
ジャン=リュック・ゴダールは、
長編デビュー作『勝手にしやがれ』に、
セバーグを起用する。

世界の映画の流れを変えた
ヌーヴェルヴァーグの第一波は、
ジーン・セバーグの髪型と共にやってきた。



②アンナ・カリーナの時代

「ほれぼれするほど美しい女を出演させ、
その相手役に『あなたはほれぼれするほど美しい』
と言わせること。これが映画なのだ」

と、ジャン=リュック・ゴダールは言った。

美しい女に出会うこと。
それがかれの映画最大のモチベーションだった。
1960年代のゴダールは、アンナ・カリーナという
女性との出会いぬきには語れない。

『小さな兵隊』、
『女は女である』、
『女と男のいる舗道』、
『はなればなれに』、
『アルファビル』、
『気狂いピエロ』、
『メイド・イン・USA』。

これら7本の映画は、
アンナ・カリーナという女性の、
ハタチから27歳までの、
美しいドキュメンタリーのように見える。



③アンナ・カリーナの誕生

コペンハーゲンで生まれたアンナ・カリーナは、
17歳の冬、パリに出る。ほぼ一文無しだった。

あるとき、〈カフェ・ドゥ・マゴ〉のテラスに
坐っているところを写真に撮られる。
その写真が縁でココ・シャネルに出会う。

「ハンヌ・カリン・ブレーク・バイヤー」
というデンマーク語の本名をもっていた彼女に、
「アンナ・カリーナ」という名前をつけたのも
ココ・シャネルだった。

アンナ・カリーナとなった彼女に、
雑誌やコマーシャルの仕事が入る。
石けんの広告にセミヌードで出演していた彼女を見て、
この娘なら服を脱がせてもよかろう、と思った
ゴダールが、『勝手にしやがれ』の出演を打診する。

「きみには脱いでもらう」
黒眼鏡の男ゴダールがぶっきらぼうに言う。
「いやです。脱ぎません。」
憤慨したアンナ・カリーナは席を蹴って帰ってしまう。

主演はジーン・セバーグに決まっていた。
アンナ・カリーナに依頼したのは、
ほんの小さな役にすぎなかった。



④アンナ・カリーナと赤いバラ

『勝手にしやがれ』を撮り終えた
ジャン=リュック・ゴダールから、
アンナ・カリーナのもとに再び出演依頼がくる。

「こんどはヒロインの役だ」と、ゴダール。
「また脱ぐの?」と、アンナ。
「いや、こんどは脱がなくていい」と、ゴダール。

数日後、黒眼鏡には不似合いの、
真っ赤なバラを50本抱えた
ジャン=リュック・ゴダールが、
アンナ・カリーナのアパートにやってくる。

こうして、ゴダール2本目の長編映画、
『小さな兵隊』への出演が決まる。



⑤ドルレアック姉妹

姉、フランソワーズ・ドルレアックは、
1942年にパリで生まれた。1年7ヶ月後、
妹、カトリーヌ・ドルレアックが生まれた。

父は映画俳優、母も舞台俳優
という芸能一家に生まれた姉妹だった。
姉は、10歳のとき、子役でデビュー。
あるとき、ある映画で、じぶんの妹役に実の妹を推薦し、
妹をデビューさせてしまう。

姉、フランソワーズは、
1963年、フランソワ・トリュフォーの長編第4作、
『柔らかい肌』に主演。
妹、カトリーヌは、母の旧姓だったドヌーヴを名乗り、
カトリーヌ・ドヌーヴとして、
ジャック・ドゥミ監督のミュージカル、
『シェルブールの雨傘』で主演。

そして、そのジャック・ドゥミの次の作品、
『ロシュフォールの恋人たち』に双子の姉妹役で共演。
姉妹は、フランス映画の最前線に立った。

しかし、姉、フランソワーズ・ドルレアックは、
1967年、不慮の交通事故で、その短い生涯を終えた。

妹、カトリーヌ・ドヌーヴは、その後大成し、
ヌーヴェルヴァーグの枠におさまらない女優として、
いまもなお現役で輝きつづけている。



⑥ベルナデット・ラフォン・18歳

25歳のフランソワ・トリュフォーが
つくった短編映画、『あこがれ』。

18歳のベルナデット・ラフォン演じる  
美しい年上の娘にあこがれ、
あとをつけまわす、5人の悪戯っ子たち。

真っ白なシャツにスカートをなびかせ、
自転車で疾走するラフォン。
彼女が自転車を降りた隙に、
サドルの残り香をかいでうっとりする少年。

若い生命の輝きと、思春期のめざめを、
白という色で表現した作品。
それは、フランソワ・トリュフォーという
映画監督がもっていた
無限の可能性の色でもあった。



⑦ベルナデット・ラフォン・33歳

『勝手にしやがれ』は、もともと、
フランソワ・トリュフォーが発案した
ストーリーだった。

じぶんで監督するつもりでいたが、
事情があって盟友ゴダールに譲った。
もし実現していたら、主役は、
ベルナデット・ラフォンになるはずだった。

その穴埋めに、
トリュフォーは、短編映画『あこがれ』から
15年後、33歳のラフォンを主役に映画を撮る。

『私のように美しい娘』
というのが、その映画の題名だ。



⑧男と男とジャンヌ・モロー

『大人は判ってくれない』、
『ピアニストを撃て』につづく、
フランソワ・トリュフォー3本目の長編映画、
『突然炎のごとく』。

21歳のとき、
原作となった小説を読んで以来、
映画にしたかったが、
ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』で
 強烈な存在感を示した
女優ジャンヌ・モローとの出会いが、
10年越しの構想に道を開いた。

男と、女と、男。
女が複数の男を同時に愛しつづけることは可能か。

説明してしまえばただの俗っぽい話。
自堕落に見えても不思議はないこの女性の役を、
ジャンヌ・モローの知性と美しさが救った。

この作品に刺激されて、
ゴダールは『気狂いピエロ』という映画をつくる。

ヌーヴェルヴァーグは、
かくのごとく、波となって連鎖する。

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宮田知明 11年11月12日放送



グレースケリー①

幼い頃のグレース・ケリーは、
病弱で内気な女の子だった。

オリンピックのボート競技の
金メダリストである父は、
スポーツのできる姉や兄の方をかわいがった。

「グレースにできることは、
姉のペギーならもっとうまくこなせる。」
と、父に言われつづけた。

尊敬する父に認められたい。
その想いが、グレースを動かす力になった。

1955年3月30日、
『喝采』でアカデミー主演女優賞を獲得した時の、
彼女の語った言葉。

 これで、やっとケリー家の一員になれました。

ハリウッド女優から、モナコのプリンセスへ。
今日、11月12日は、
グレース・ケリーの誕生日。



グレースケリー②

「背が高すぎ。痩せすぎ。
顎ががっちりしすぎ。」

若き日のグレース・ケリーは、
自分の容姿に
コンプレックスを感じていた。

しかし、それこそが
オードリー・ヘップバーンや、
マリリン・モンローと違う、
彼女らしい、全く別の魅力を放っていた。

その美しさを一言で表した言葉が、
「クールビューティー」。

もし、グレースが、
背がちょうど良くて、痩せてなくて、
顎ががっちりしていなかったら、
同じ成功は得られなかったのかもしれない。

今日、11月12日は、
グレース・ケリーの誕生日。



グレースケリー③

「嬉しくて、この喜びを何て
言葉にしたらよいか分かりません。
この受賞を可能にしてくださった皆様に、
心から感謝を述べたいと思います。」

映画『喝采』でアカデミー主演女優賞を
獲得したグレース・ケリー。
しかし彼女は、その時の気持ちを
こうも語っている。

オスカーを受賞した日、
 それは私の人生の中で一番寂しい時間でした。

受賞後、宿泊先のホテルの
部屋に戻ったグレースは、たった一人きりだった。

いくら成功しても、
分かち合える人がいなければ幸せではない。
一人彼女は、そう感じていた。

しかしその1ヶ月後に、
まさか運命の出会いが待ち受けていることなど
知る由もないグレース・ケリー。
このとき25歳。

11月12日は、グレース・ケリーの誕生日です。



グレースケリー④

ハリウッドのスター女優グレース・ケリーと
モナコのプリンス、レーニエ三世

華やかな世界に住む2人の交際の手段は
文通だった。

カンヌ映画祭で出会い、
ほんのひととき、交わした会話。
それ以来、2人は手紙のやりとりを欠かさなかった。

後にグレースはこう語っている。

女性がある程度の成功を果たすと、
結婚することで自分を失わず、
尊敬できる男性を見つけるのは大変なこと。

そのことを考えたら、
ふたりを隔てる距離などは
問題ではなかったのかも知れない。

11月12日は、グレース・ケリーの誕生日。



グレースケリー⑤

そして、お姫さまは、
幸せに暮らしましたとさ。

おとぎ話ならそこでハッピーエンドだが
モナコのプリンセスになったグレース・ケリーの現実は
その先があった。

本音を話せる友人がいない。
自由に出かけることもできない。
フランス語も流暢に話せない。

公務や生活に慣れて、
安定した毎日を送れるようになるには、
女優になってからアカデミー賞を取るまでより
ずっと長い時間を要した。

グレースは言う。

私は、女優に挑戦したように、
結婚にも挑戦したんです。

今日、11月12日は、
グレースケリーの誕生日。



グレースケリー⑥

 ただ月を眺めるためだけに
 竹で縁側を作るとは、
 なんと素敵なセンスなんでしょう。

大の親日家、グレースケリーが、
京都の桂離宮を訪れたときの言葉。

いつかモナコにもこのような庭園を造りたい。
そんな願いをかなえたのは、
他ならぬ夫のレニエ公。

グレースが亡くなって12年後に完成した日本庭園。
その茶室は、GRACE GARDENと名付けられた。

そんなグレースが、日本に送った言葉。

優しさ、礼儀、美、敬愛といった美徳を
日本が失わずにいることを、
世界中が切望しています。

今日は、日本を愛した
グレースケリーの誕生日。



グレースケリー⑦

「出産おめでとう(グレース公妃より)」

病院で出産があると、自ら病院へ出かけ、
お祝いの言葉と自分のサインを入れたカード、
そして花束を届けた、グレース公妃。

少しでも国民とのつながりを深めたい。
そう考えてのアイデアだった。

アメリカABCテレビのインタビュー中に
語った彼女の言葉は、
そのまま人柄や生き方を象徴している。

慎ましく、思いやりのある人間だったと、
みんなの記憶に残しておいてほしいのです。

今日、11月12日は、
グレースケリーの誕生日。

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五島のはなし(164)

五島の秋は夏でした。
全国的に暑かったみたいですけどね。
11月に海で泳ぐとは。ま、大人は泳がないけど。

この時期の五島の旬といえば、ウチワエビ!
ウチワエビの味噌汁を食べるだけでも、秋の五島を訪れる価値あり、だな。

いぜん、ぼくが父の名言として紹介したものに
「あらかぶ(カサゴ)は黒い方がうまい」というものがあったけど、
いまここに、父の第二の名言を書きます。
「おれは、ウチワエビはイセエビ以上だと思っとる」

父の教えというものはすごい。
血肉のようにぼくも思っているんだもの。
ウチワエビの味噌汁は、あのイセエビを軽く凌駕する味わいだ。

そんなどうでもいいようなことを再確認しつつ
秋の五島の旅を終えたのであった(終)

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蛭田瑞穂 11年11月6日放送



追悼スティーブ・ジョブズ①ロバート・ノイス

さまざまなIT企業が集まるシリコンバレーで、
「シリコンバレーの主」と呼ばれる伝説の起業家がいる。

彼の名はロバート・ノイス。

半導体の集積回路を発明し、
世界最大の半導体企業「Intel」を創業した。

その功績はあとに続く多くの起業家たちから敬われ、
スティーブ・ジョブズがアップルを追放された時、
まず彼のもとを訪れたという逸話が残っている。



追悼スティーブ・ジョブズ②デニス・リッチー

2011年10月5日、アップルの創業者
スティーブ・ジョブズが亡くなったその8日後、
同じくコンピュータの歴史をつくった偉大な人物が亡くなった。

彼の名はデニス・リッチー。

コンピュータの黎明期に「C言語」というプログラム言語や、
「UNIX」というPCのオペレーションシステムなど、
現在の情報化社会の礎となる技術を開発した。

彼がいなかったら、インターネットもスマートフォンも
生まれていなかったかもしれない。

わたしたちは世界を進歩させた偉人をまたひとり失った。
R.I.P.



追悼スティーブ・ジョブズ③

アメリカ合衆国大統領、バラク・オバマは言った。

 スティーブ・ジョブズ、彼は私たちの生活を変え、
 産業の在り方を変革し、歴史上少ない偉業を達成した。
 私たちの世界観を変えたのだ。

マイクロソフト会長ビル・ゲイツは言った。

 スティーブのように何世代にもわたって受け継がれる
 強い影響を残す人物はめったに現れないだろう。
 スティーブが去り、寂しくて仕方がない。

アップルの共同創業者、スティーブ・ウォズニアックは言った。

 ジョン・レノンやケネディ大統領が死んだ時のような
 衝撃を受けている。心に大きな穴が開いたようだ。

フェイスブックのCEO、マーク・ザッカーバーグは言った。

 スティーブ、良き先輩、良き友人でいてくれてありがとう。
 つくり出したものが世界を変えられるのだと、
 教えてくれてありがとう。

2011年10月5日、アップル創業者のスティーブ・ジョブズが亡くなった。
世界中の人々が哀悼の意を表した。



追悼スティーブ・ジョブズ④ヒューレット・パッカード

ウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカード、
ふたりのエンジニアが1939年に創業したヒューレット・パッカード。

IT企業の聖地シリコンバレーの草分け的な企業であり、
のちの起業家たちに多くの影響を与えた。

スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが
出会うきっかけとなったのも
ヒューレット・パッカードのインターンシップだった。

意気投合したふたりはガレージでコンピュータを自作する。
それがのちにアップルの誕生につながるのである。



追悼スティーブ・ジョブズ⑤リー・クロウ

“Here’s to the crazy ones”、
「クレイジーな人たちがいる」という一節から始まる
アップルコンピュータのCM。(日本語版)

ジョン・レノンやガンジー、モハメド・アリなど、
20世紀を代表するさまざまな有名人、文化人が現れる映像に、
詩のようなナレーションが重なる。

 彼らの言葉に心を打たれる人がいる。
 反対する人も、賞讃する人も、けなす人もいる。
 しかし彼らを無視することは誰にもできない。
 なぜなら彼らは物事を変えたからだ。
 彼らは人間を前進させた。
 彼らはクレイジーと言われるが、
 わたしたちは天才だと思う。
 自分が世界を変えられると
 本気で信じる人たちこそが、
 本当に世界を変えているのだから。

このCMを制作したのはクリエイティブディレクターのリー・クロウ。
スティーブ・ジョブズの盟友として数々のアップルの広告を手がけた。

“Here’s to the crazy ones”
今こそこの言葉を、スティーブ・ジョブズに捧げたい。



追悼スティーブ・ジョブズ⑥ダグラス・エンゲルバート

1961年、エンジニアのダグラス・エンゲルバートは
コンピュータのマウスを発明した。

しかし、その発明は時代の先を行き過ぎた。
当時はまだパーソナルコンピュータがなく、
マウスが製品化されることはなかった。

その23年後、アップルコンピュータがマッキントッシュを発表する。
このコンピュータの登場によって、
人々はマウスの直観的な操作性に初めて触れた。
マウスはコンピュータの標準デバイスとして世界中に普及した。

すでに特許が失効していたため、
ダグラス・エンゲルバートに巨額の富が転がり込むことはなかった。
しかし、現在彼は「マウスの父」と呼ばれ、歴史に名を残している。



追悼スティーブ・ジョブズ⑦ティム・バーナーズ・リー

1955年に生まれ、現在の情報化社会の発展に
大きな貢献をしたふたりの人物がいる。

ひとりはスティーブ・ジョブズ。
ご存じアップルの創業者。

もうひとりはティム・バーナーズ・リー。
「World Wide Web」の構造を考案した、
インターネットの生みの親のひとり。

インターネットの仕組みをつくったティム・バーナーズ・リーと、
それを手軽に使うための道具をつくったスティーブ・ジョブズ。

あなたたちのおかげで、わたしたちの世界は大きく広がった。



追悼スティーブ・ジョブズ⑧アラン・ケイ

1973年、ゼロックス・パロアルト研究所の
科学者アラン・ケイが、
「パーソナルコンピュータ」という構想のもと、
「ALTO」という名前のコンピュータをつくった。

ひとつひとつコマンドを打ち込むそれまでのコンピュータと違い、
「ALTO」はグラフィカルなアイコンやウィンドウを
マウスで操作する画期的なコンピュータだった。
しかし、「ALTO」は試作機のまま、日の目を見ずに終わる。

それから十数年後、アップル・コンピュータがマッキントッシュを、
マイクロソフトがウインドウズを発表する。
いずれも「ALTO」の強い影響を受けて生まれたものである。

アラン・ケイの描いたパーソナルコンピュータの世界は
スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツの手によって現実のものとなった。

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佐藤延夫 11年11月5日放送



戸塚洋二さんの話1

ある少年が、ラジオを聞いている。
そのうち、聞くだけでは飽き足らず、
バラバラに壊し、
中身をじっくりと観察する。

どうやらエナメル線の巻いてある数には規則性がある。
蓄電池との関連も気になる。
これは奥が深いなと思う。

そしてラジオが聞けないと文句を言う親を尻目に、
真空管を買ってきて、もう一度組み立てる。

物理学者、戸塚洋二さんは
子供のころから物理学者だった。



戸塚洋二さんの話2

物理学者の戸塚洋二さんは、
不真面目な学生だった。

講義に出ることはほとんどなく、
空手部の部室にたむろしているか、
麻雀に出かけているか。

留年した彼を拾ったのは、
のちにノーベル賞を受賞する小柴教授だった。
その数年後、戸塚さんは奥様にこう言ったそうだ。

「もうさんざん遊んだから、遊びはもういい」

不真面目と大真面目は、紙一重。



戸塚洋二さんの話3

物理学者、戸塚洋二さんの業績といえば、
ニュートリノ振動を確認したことだ。

ニュートリノとは、物質を構成する最も小さい粒子、素粒子のひとつで、
宇宙の中や、人間の体の内部からも発生している。
戸塚教授は、このありふれた粒子、
ニュートリノの質量がゼロでないことを世界で初めて証明した。

そしてノーベル賞の受賞が目前と言われたころ、
ガンと闘いながらブログを開設した。
タイトルは、

A Few More Months

物理学者は、命のことを綴り始めた。



戸塚洋二さんの話4

「負の遺産」。

環境問題について議論されるときに、
必ずと言っていいほど登場する言葉だ。

「絶対に残してはならない」
「我々の世代で解決すべきだ」

専門家や知識人が口角泡を飛ばす中、
物理学者、戸塚洋二さんは、亡くなる前にこんなコメントを残している。

「僕が嫌いな言葉がひとつある。
それは子孫に負を残すなっていう言葉。
若い皆さんは、我々より頭が良くなってるはずなんだから、
彼らに任せれば簡単にやっちゃうよ。」

一見、無責任にも思える言葉は、
裏を返せば、人類への期待と優しさで溢れている。

それは、次の時代を生きる人に贈られたエールなんだ。



戸塚洋二さんの話5

ノーベル賞に最も近いと言われた物理学者、
戸塚洋二さんは、ガンと闘っていた。
病床では学者らしく、
死ぬことがなぜ恐ろしいかを考えた。

「自分の命が消滅したあとでも、
 世界は何事もなく進んでいくからだ」

もちろん、恐怖を克服する方法も、考えた。

「宇宙や万物は、何もないところから生成し、
 そして、いずれは消滅、死を迎える。
 いずれ万物も死に絶えるのだから、恐れることはない」

この理論は、証明されたのだろうか。



戸塚洋二さんの話6

物理学者、戸塚洋二さんは
ブログの中で、いくつもの花の写真を取り上げている。

迫りくる命の終わりを感じながら、
一輪ずつアップで写真を撮り、
こんなコメントを残した。

「命が縮んでいくとき、
 爆発的ないのちを見るのは素晴らしい」

今でもその小さな命は、ブログの中で輝いている。



戸塚洋二さんの話7

ノーベル賞に最も近いと言われた物理学者、
戸塚洋二さんがこの世を去って3年が経つ。

先生の本を開くと、
平成20年にこんな言葉を残している。

「大宇宙は数限りないニュートリノを住まわせるが、
 大宇宙の中でニュートリノが果たしている役割は
 その片鱗さへ分かっていない。」

今年、ニュートリノの速度が、
光よりも速いという実験結果が発表された。
その速度は、毎秒30万6キロで、
光の速度に比べて6キロも速い。

アインシュタインの相対性理論と矛盾する結果に、
戸塚先生ならどんなコメントを残し、
何を思っただろうか。
お話を伺いたかった。

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