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2009 年 9 月 のアーカイブ

バリ島見聞録(3)

バリの悪いイメージのみ語って
更新が滞って心傷めたさいとうです。


翌朝、寝付きが悪かったにも関わらず目覚めは爽快でした。
鶏がそこかしこでコケコッコーとないており、
木々のざわめきや生き物の気配のテンションの高さ(?)に
だらだらしてるんじゃねー!
と背中を押されてる感じがしました。

そしてその泊まった宿からの眺めを見て、
ようやくバリにきたのだなぁ〜と感じました。

P7095093
そこからの眺めはジャングルそのものでした。
まるで映画「地獄の黙示録」を見ているよう。。。

空気は日本と同じように湿気がありますが、
木々から吹いてくる風はさわやかそのものです。
普通のことを言ってすみません。

そこは緑の洪水。
昨日の夜と真逆の風景が広がっていました。

朝食を持ってきてくれるスタッフに
トゥリマカシー(ありがとう)と
おずおずと初めての現地の言葉を使うと
素敵な笑顔でサマサマぁ〜(どういたしましてー)
といわれ、またまた
バリに来たなぁ〜と思いました。

この日からバリ人の笑顔見たさに、
一日に20回以上はトゥリマカシーを言うようになりました。


次回からはもうちょっと内容のあるものを書きたいと思います。。。

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Vision収録見学記part2-(1)

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石橋涼子-一発勝負のライブ感


再びVision収録現場におジャマしてきました
薄組の石橋です。
今回の収録、またまたラジオCMとの違いで
驚いたことがありました。

VisionはVieVieさんのナレーションと音楽を
同時に!録音しているのです!同録!!

セリフを噛んだら全部録りなおし。
音楽も一曲使用ならともかく、
数曲を組み合わせる場合は
ナレーションに合わせて一発勝負のミックスです。

すごーいすごーい!!

と、驚いていたら、プロデューサーさんに
なんで?と逆に驚かれました。
生放送が多いラジオとしては
これくらいの尺ならば一発で録れるのが常識なのです。

かっこいー。

モチロン、一発録り至上主義!というわけではありません。
ナレーション、音楽、SEそれぞれが素材としてスタンバイする中で、
何度かテイクを重ねながら、
30秒や60秒を仕上げていくラジオCMのつくり方も大好きなんですが。

とはいえ、VieVieさんとディレクターさんの息の合った
ライブ感には興奮です。
聴いているだけでドキドキです。楽しい!

そして!隣のスタジオではまさに番組生放送中。
ゲストに某アイドルグループ。の卒業生が来ていました。
「かわいいなあ」と、カメラ片手にちらちら覗いていたので、
スタッフさんにすっごく訝しげな顔をされました。
次回、Vision立会い不許可になったらすみません!

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厚焼玉子 09年9月27日放送

ワーズワースの家

ワーズワースの家


湖の詩人ワーズワースが生まれたのは
イギリスの湖水地方、
川や森に囲まれたコッカマスの町。

その目抜き通りに面した家を見学に行くと
なんだかいい匂い。
キッチンでミートパイを焼いている最中です。
庭では野菜を収穫しています。

お父さんの書斎や客間の道具に
手を触れることはできませんが
子供部屋の家具やおもちゃはご自由にどうぞ。

ただ家を眺めるだけでなく
当時の暮らしぶりも見ることができる。

ワーズワースの家はまだ生きて呼吸しています。



ワーズワースの落書き

ワーズワースの落書き


湖の詩人ワーズワースは8歳で母親に死に別れます。

裕福な法律家だった父は
幼いワーズワースを湖水地方中部の村
ホークスヘッドのグラマースクールに送りました。
9歳の少年が下宿生活をしながら
学校に通ったのです。

その学校は小さかったけれど
16世紀に創立した伝統ある学び舎でした。
白い壁に木の床、細長い木の机に
椅子は背もたれのない木のベンチ。

机のひとつには
ワーズワースの名前が刻まれていました。
少年ワーズワースが
小刀で刻んだいたずら書きです。



ワーズワースとアンおばさん

ワーズワースとアンおばさん


湖の詩人ワーズワースが
母の死をきっかけに
ホークスヘッドで学校生活を送っていたころ
その下宿先のおかみさんにアンおばさんと呼ばれる人がいました。

アンおばさんは孤独な少年に愛情を注ぎ
少年も母のようにアンおばさんを慕いました。

ワーズワースが大学生になった夏休み
なつかしいアンおばさんに会うために
ホークスヘッドを訪れたときの詩があります。

ヒースの野を越え
牧場の丘からウィダミア湖へ駆け下り
大声で渡し船を呼んで湖を渡ると
また丘を駆け登ってホークスヘッドへ向う…
その飛ぶような足取りとはやる心を
その詩はうたっています。

丘から見える湖は青く輝き
その湖の向こうになつかしいおばさんがいる。

ワーズワースがその詩のなかで
アンおばさんを表現した言葉「kind and motherly」は
湖水地方の風景そのものでした。





ワーズワースのクリスマス休暇

ワーズワースのクリスマス休暇


13歳のワーズワースは
クリスマス休暇で家に帰るために
迎えの馬車を待っていました。

待ち切れず、原っぱに駆け出し岩山に登り
吹きさらしの風のなかで
草の上にしゃがみこんで馬車が来る道を眺めていました。

それほど待ちかねたクリスマス休暇の最中に
ワーズワースの父は亡くなり
馬車を待っていたときの風の声、森や水のざわめきは
ワーズワースの心の中に暗く沈みます。

その風景は一生ワーズワースにつきまとい
常に警告を発するブレーキの役割を果たしました。



ワーズワースの散歩

ワーズワースの散歩


大学から湖水地方を離れていたワーズワースが
再び湖のそばに戻って来たのは1799年のことでした。

グラスミア湖のほとりの
もとは宿屋だったというダヴ・コテージを借りて
妹のドロシーと一緒に暮らしはじめます。

家は湖に面し、小さな果樹園と庭がありました。
バラとスイカズラが白い壁を彩っていました。

この頃の生活の中心は散歩。
ふたりは昼でも夜でもかまわず歩きまわりました。
5キロ離れた隣の町などは散歩のうちにも入らないくらい
20キロ先の友人の家でも気軽に歩いて遊びに行きます。
けれども、本当に好きなのは山や谷、森に湖。
ここにはワーズワースの作品のテーマが
すべてそろっていました。

大自然こそ自分の書斎と言い切るワーズワースにとって
山や湖を歩くことは
感性を研ぎすまし、詩の風景をさがすことでもありました。

そんな詩人の心中を知らない村の人々は
ワーズワースのあまりに長い散歩の理由がさっぱりわからず
ときには、こんな愉快な噂もあったようです。
「フランスのスパイかしら?」



ワーズワースの最後の家

ワーズワースの最後の家


1813年
湖の詩人ワーズワースは最後の引っ越しをします。

古い農家を改築したその家からは
ふたつの湖を眺めることができました。
庭はワーズワース自身が設計し
まわりの風景に溶け込むように
注意深く木々や草花が植えられています。

この最後の家こそワーズワースにとって完璧な家。
でも自分が死んだらどうなるだろう…
 
 家の正面の壁や石段はそのまま残るだろうか。
 庭はどうだろう。
 美しいシダやコケ、野生のゼラニウム…


ご心配なく。
心ある人たちの手でいまもちゃんと守られています。



ワーズワースの朗読

ワーズワースの朗読


湖の詩人ワーズワースが
書き上げたばかりの新しい詩を真っ先に聴いたのは
庭の小鳥たちでした。

ワーズワースは
新しい詩をつくるたびに庭に出て朗読をし
小鳥が返すさえずりで
作品の出来を判断していたといいます。

批評家の小鳥の名前は
残念ながら伝わっていないのですが。



ワーズワースの自然保護

ワーズワースの自然保護


湖の詩人ワーズワースの存在は
イギリスの湖水地方を世界的に有名にする一方で
湖水の景観を守る意識を人々に植えつけました。

1844年、この地方に鉄道を敷く計画が持ち上がったとき
ワーズワースは湖の環境だいなしにすると猛反対。
モーニング・ポストに反対の意思を表明する文書を投稿し
それがきっかけで鉄道計画は中止になります。

いまでもウィンダミアから湖に向う鉄道はなく
自動車では近づけない湖もあります。
そのかわりに活躍するのがフットパスと呼ばれる散歩道。

歩いてください。
そして美しい自然を楽しんでください。
ワーズワースの声が聞こえるようです。

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保持壮太郎 09年9月26日放送

カーネル・サンダース

カーネル・サンダース


彼の人生は
波乱に富んでいた。

消防士、車掌、タイヤのセールスマン。
さまざまな職についたが失敗。
29歳で事業を興したものの倒産。

3度目の倒産で
一文無しになった彼が思いついたのが、
フライドチキンの
フランチャイズビジネスだった。

彼は65歳になっていた。
けれども彼は働きつづけた。

 人間は働きすぎてだめになるより、
 休みすぎてサビつくほうがずっと多い。


 カーネル・サンダース

いまだに彼は、
雨の日も、風の日も
街角で微笑みつづけている。



西村真琴

西村真琴


ROBOTという言葉の語源は
チェコ語で“労働”を意味する。

ロボットというものには、
もともと“人間の労働を肩代わりするもの”
という発想が少なからず含まれていた。

1928年、大阪。
東洋で初めてのロボットが発表された。

けれども、
そのロボットができたことは
ただ
“ほほえむ”
ことだった。

開発を担当した西村真琴は、植物学者。

“労働”という意味から
解き放たれたロボットは、
その後この国で、
独自の進化を歩むことになる。



ウィンストン・チャーチル

ウィンストン・チャーチル


偉大なる政治家、
ウィンストン・チャーチル。

第二次世界大戦下では
首相兼国防相をつとめ
戦後、ミズーリで行った
「鉄のカーテン」演説では
東西冷戦の到来を予言。

文才にも秀で、
ノーベル文学賞も受賞した。

ただ、
彼のもっとも偉大なる業績については、
wikipediaには乗っていない。

彼は、こう語った。

 私の功績の中でもっとも輝かしいことは、
 妻を説得して私との結婚に同意させたことである。






ガガーリン

ユーリ・ガガーリン


地球にキャッチコピーを
つけるとしたら
あなたはどんな言葉を選ぶだろう。

人類初の
宇宙飛行を体験した
ユーリ・ガガーリンは、こう言った。

 地球の色は、優しく光る淡い水色で、
 暗黒空間へとつづく境目は、
 とてもなめらかな曲線で美しい。
 地球の影からでたとき、
 地平線はまた違ったようにみえた。
 地平線には、明るくオレンジ色にひかる帯があり、
 その色は、再び、淡い水色に、そして濃厚な黒色に変わった。


その表現は、
あまりに綿密だったので
誰かが勝手にこう略した。

 地球は、青かった。

あれから半世紀。
これ以上のキャッチコピーを
わたしたちは知らない。



ヤンソン

トーベ・ヤンソン


心覚えていますか。
生まれたときのことを。

覚えていますか。
泣くこと、食べること、歩くことを
ひとつひとつ
身につけていった日々を。

覚えていますか。
そのあと起きた
もしかしたら人生で
一番すばらしい出来事を。

フィンランドの作家、
トーベ・ヤンソンは、
彼の腐朽の名作のひとつ
「ムーミンパパの冒険」に
こう書いています。

 わたしは、ひとりめの友だちを見つけたのでした。
 つまり、わたしは、ほんとうの意味で生きることをはじめたのでした。


そう。
僕たちは、
あしたも誰かと
生きている。



ヘンドリックス

ジミ・ヘンドリックス


ロックの歴史は、
僕らの中で、
少なくとも2度変わった。

一度目は
ジミ・ヘンドリックスが登場したとき。

そして二度目は
ジミ・ヘンドリックスがこの世を去ったときだ。

たった4年間のきらめきが、
あまりにもまぶしすぎて。

僕らは
彼に“史上最高のギタリスト”なんて
チープな呼び名をつけて
なんとか前にすすむことにした。



モハメド

モハメド・アリ


たらればの話をしよう。

もしもあなたが
ボクシングの
世界チャンピオンになったら、
という話だ。

ファイトマネーで、
豪邸を買うのもいい。
知名度を活かして、
政治家になるのも悪くないだろう。

カシアス・クレイという青年がいた。
彼はそんなたらればに、こう答えた。

 チャンピオンになったら、
 古いズボンを穿き、
 汚い帽子をかぶって
 髭をはやすんだ。

 そして僕であるということだけを
 愛してくれそうな素敵な
 オンナノコをみつけるまで
 道を歩きつづけることにするよ。


そして彼は、
偉大なるチャンピオン
モハメド・アリとなる。

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バリ島見聞録(2)

バリの玄関口であるングラ・ライ空港に午前0:01分に到着。
香辛料に似た独特の香りが旅の情緒を引き立たせてます。
しかし、入国審査時の長い列での疲れきった旅行者達の
くだけた服装と死んだ目が集団移民を思わせたり、
照明の異様な暗さがテリーギリアムの映画「12モンキーズ」を思い起こさせて、
南国の楽園に来たというのにさっそく心細くなってしまいました。

現地のスタッフにピックアップされ、
初めてのバリということで、少し遠回りをして
繁華街であるクタ、レギャンのメインストリートを
通ることになりました。


クタ、レギャンのメインストリートは、
原宿・竹下通りのような細い道にテンションの高い
六本木の外人が大挙して現れた感じで騒々しく、
深夜にも関わらず、一方通行のその道は渋滞が起こっていました。
ゴミの散らかった道路に面したいくつかの飲食店は、
爆音でユーロビート系のテクノがかかっており、
店に雇われているであろう男女が道行く人を
挑発するように体をくねらせていました。

芸術、伝統芸能、田園風景、神々そしてナシゴレンと
思い描いていた楽園のイメージとはほど遠く、
良識人がバリの変化に対して警鐘を鳴らしていたことの一端を
バリについて1時間もたたずで感じてしまいました。

その後、泊ることになっているバリの中心部にあるウブドへ。
先ほどの喧噪と打って変わって、暗闇と静寂の一本道をひたすら北上。
その行程で、道の両脇に無数の石像が並んでいる一画がありました。
10分たっても途絶えることのない、車のライトで不気味に照らされた石像群は
異空間に繋がる道の憲兵のように思え、
このまま地獄にいってもおかしくないなぁと変な覚悟をもちました。

一時間弱のドライブを終え宿へ。
外から漏れるカエルの鳴き声と虫々のぞあぞあする存在感のせいで
なかなか寝付けませんでした。

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(つづく)

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バリ島見聞録(1)

webを担当しています斎藤拓と申します。
縁あってお仕事でバリに数週間滞在する機会をいただき、
強い印象を得て帰ってきたので、
そのことを数回にわけて書かせていただきたいと思います。


「島といえばハワイか五島だよね」
そういう中村さんに横やりをさすようで多少なりの躊躇はあるのですが、
それはそれ、バリ島のおおらかな気質に浸ってきた私は、
あまり深いこと考えないで書き連ねたいと思います。(中村さん、ごめんなさい)



バリ島。


私にはどちらかというとハワイと並んで、
あるいはワンランク落ちる
海のある南国のリゾート地としての
イメージしかありませんでした。


今回の滞在のために色々調べてみると、
幾つか興味の引く事柄にあたりました。


・芸術の島であるらしいこと。
・ケチャ、ガムランなどバリ伝統芸能があること。
・神々が住む島であるらしいこと。
・稲作を中心とした農業が盛んで田園風景があるということ。
・ナシ・ゴレンなど食文化も充実しているということ。


本屋にいけばバリ島に関するがたくさん並んでました。

ちなみにネットの“アマゾン”で「バリ」で検索すると
13,297件(「バリバリ伝説」なども引っかかってしまいますが)
「サイバン」で1,452件、「グアム」1,763件と桁違い。


それらの本を幾つか開くと
大半のものは熱病ともいえるほどバリ礼賛の言葉が並んでいました。
そして残りのものは、愛情の裏返しとしての
バリ島の変化に対する警鐘を鳴らすものでした。


9度バリを訪れたことのある知人にその良さを聞くと
「居るだけでいい」
という言葉が返ってきました。


バリ島に対する憧憬がぱんぱんに膨らんだ状態で、
日本を発ったのでした。


バリ本

つづく

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バリ島見聞記など

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ここしばらくバリ島に行っていた
VisionWebチームの斉藤くんが帰国しました。
さっそく明朝から「バリ島見聞記」の連載を開始します。

また、Visionの収録をまたもや見学した石橋涼子さんの
「見学記PartⅡ」も近日開始。

お楽しみにね。

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Vision収録見学記(10)

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熊埜御堂由香―書く人と録る人

アイスクリームを落としただけで泣く石橋さんのお話は
Vision薄組の打ち合わせの場で飛び出した彼女の思い出話でした。

薄組は、薄景子さんを座長に、
薄さん、くまのみどう、石橋さんが原稿を持ち寄り
お互いの原稿を見ながら共通のテーマを見つけて
1日分、7~8本の原稿をまとめていきます。

打ち合わせで薄さん、石橋さんと話していたら、
わたしも小さい頃のことを思い出しました。
母親の長い、長い、お買い物が終わるまで
「ここで待ってるのよ」と言われ、手渡された
2段重ねのアイスクリームのこと。
ご褒美のはずの、それを食べきれずに
ドロドロに溶かしてひとり泣いたこと。

Visionの原稿を持ちよる、打ち合わせは
好きなひとの名前をこっそりだれかに
教えるような、なんともいえない恥ずかしさがあります。

だけど、どうでもいい話も、仕舞い込んでいた話も、
ついついしてしまう
そういう打ち合わせはたいそう盛り上がるのです。

収録の終わりにVieVieさんに言われました
「書き言葉と読み言葉で伝わることの違いをよく考えて原稿を書いてみてね。」

原稿で「哀しい」という言葉を使ったことに対する
アドバイスです。「哀しい」と「悲しい」のニュアンスの違い。
そう、原稿にした森茉莉というひとは
「哀しく、甘美で、幸せな」
人生をおくったひとですが、
「悲しい」人生を送ったひとではなかった。
そういう気持ちで書いていて、
そんな気持ちまで汲み取ってくれて収録するひとがいる。

自分が書いたものに他者のメスが入る、
おもしろさとおっかなさ。

収録から帰ってラジオをつけっぱなしにしていました。
VieVieさんの声がして、
自分が書いた言葉が、あたらしい音色で流れてきました。

(第一部 おわり)

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「おくりびと」は こちらから


Watch DEP 1/6 in ã��ã�©ã��  |  View More Free Videos Online at Veoh.com


モトのページはこちらです。
20分づつ6つに別れているのが面倒ですが
画質はなかなかであります。
http://www.veoh.com/browse/videos/category/drama/watch/v18089250DWMJFC68

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江口順也 09年9月20日放送

E.yazawa1

矢沢永吉 12歳


はじめてビートルズを聴いたとき、
あなたは、なんて思っただろうか。


12歳だった矢沢永吉は、
ラジオから流れてきた
“プリーズ・ミスター・ポストマン”を耳にして、
こう思った。



 こいつは、儲かりそうだ。


海の向こうのサクセスストーリーを、
矢沢少年は、
他人事では片づけない。


もしかして俺だって、音楽をやれば、
世の中ひっくり返せるんじゃねぇの?


イギリスから来たポストマンが
広島の少年に届けたのは、
ロックスターへの招待状だった。







E.yazawa2

矢沢永吉 上京


ふるさとを捨て、
ロックスターになるために上京してきた
若き日の矢沢永吉。


その口は、もっぱら二つのことに使われた。

ひとつは、歌。

もうひとつは、ハッタリ。

初めてのマスコミ取材で、
大新聞の記者を相手に
将来の目標を、こう答えてみせた。



 10メール先のタバコ屋にもキャデラックで行って、
 ピュッとハイライト買えるくらいの男になりたいっすね。


ツテもない。金もない。夢しかない。
ナメられたら、はい、それまでよ。
オレに、還る場所はない。


ヤザワのハッタリは、
自分を夢から逃げさせないための
ディフェンスラインだった。



E.yazawa3

矢沢永吉 スター街道


階段を一段抜かしで登っていくと、
人よりも早く、てっぺんに着く。


矢沢永吉の生き方には、
そんな無言のルールが感じられる。


初めてのライヴハウス、皆が浮かれているときに。
ヤザワは独り、それをどうレコード会社に売り込むか考えていた。


デビューバンドが、全国のチャートを沸かせているときに。
ヤザワは独り、世界の音楽シーンへの挑戦を考えていた。


いつも周囲より、一段先へ、先へ。
それが幼いころからの矢沢のクセであり才能であり、
孤独。


 
 お前らとは夢のデカさが違うんだ。


そう心に秘めながら、走り続けたその道を、
人は後から、スター街道と呼んだ。



E.yazawa4

矢沢永吉 臆病


みずから敵の間へ躍り込んでいくのは、
臆病の証拠であるかもしれない。


と言ったのは、ニーチェだ。

矢沢永吉は、自身を臆病者と呼ぶ。


 「大丈夫かな?」
 「今のオレは、間違ってないか?」
 「後悔してない?」
 「これでいいのか?」


そういつも、自分にクエスチョンしている。

臆病なやつは、常に怖れているから、
次にどうすべきかを必死で探る。調べる。計算する。


大胆なライオンよりも、
本当に恐いのは、
臆病なライオンのほうだ。



E.yazawa5

矢沢永吉 どん底


てっぺんを走っていた男は、
ある日、どん底へと突き落とされる。


スタッフに裏切られ、
35億円というフザけた借金を
ひとり背負わされた、矢沢永吉。


傷つき、落ち込み、苦しみ抜いて、
しかし男は、こう考えるようになった。



 これは、矢沢永吉という役なわけ。
 田舎から夜汽車に乗って上京し、
 いろいろ苦労して最後にスーパースターになるって役さ。
 悪くないだろ?


視点を変えれば、気持ちが切り替わる。
地獄から這い上がったスターは、
いま苦しい人に、強く語りかける。



 リストラされたって、借金を背負ったって、それは役だと思え。
 苦しいけど死んだら終わりだから、本気でその役を生き切れ。


E.yazawa6

矢沢永吉 スタイル


テクノロジーが、あっという間に、
ものごとや価値観を変えていくようなときに。
矢沢永吉は、こう答えを出した。


 
 ひとつだけわかったことはね、
 ダウンロードできないものを作らないといけないと思ったの。


すべては検索でき、すべてがデジタルコピーできる時代。

歌はダウンロードできる。

しかしスタイルは、ダウンロードできない。


E.yazawa7

矢沢永吉 Happy Birthday.


時間よ止まれ。

かつて、
そんなタイトルで日本中を酔わせた
矢沢永吉も、


五日前に60歳の誕生日を迎えた。

Happy Birthday、永ちゃん。

二十代の終わりに出した
自伝「成りあがり」を開くと、
こんなことが記されている。



 50になってもケツ振って
 ロックンロールを歌ってるような
 かっこいいオヤジになってやる。


今夜、開かれるのは、
予言の年齢を10も超えた
「還暦記念ライヴ」。


その公演タイトルはズバリ、

「ROCK’N’ROLL」。

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