五島の言葉で歌う五島のバンド
ベベンコビッチオーケストラのライブが
12月27日に開催されました。
youtubeにいくつかアップされています。
http://www.youtube.com/user/bebencobicci
2009 年 12 月 のアーカイブ
ベベンコビッチオーケストラのライブ
中村直史の里帰り
五島の中村直史くんは里帰りしています。
たぶんいま脳味噌はお粥の状態です。
寒いけど釣りをしているのだろうか…
こたつで丸くなっているのだろうか…
ベベンコビッチのライブは見れたのだろうか…
youtubeで釣りをしている人の動画を
発見しました。
異常に真剣に釣っています。
この緊迫感は五島の人とは思えません。
お〜い、中村く〜ん。
釣ってますか〜。
厚焼玉子 09年12月27日放送
医者で作家 1 渡辺淳一
医者という職業はかなり忙しい。
医者で作家の人たちは
いつ小説を書くのだろう…はともかく
どうして小説を書きたくなるのだろう。
それに関しては
渡辺淳一先生が明快に述べている。
医学も文学も「人間とはなにか」という
問いかけから発している。
医学は肉体的な面から、文学は精神的な面からという
違いはあるが
目的とするところは人間であり
その点でまさに同じである。
言われてみれば、その通りでありました。
医者で作家 2 森林太郎
陸軍軍医の森林太郎は
1884年、22歳のときにドイツ留学を命じられ
天皇陛下に拝謁する光栄も賜って
横浜港から出港した。
ライプツィヒ大学とミュンヘン大学で学び
赤十字国際会議には日本代表の通訳として出席。
医学の道は森林太郎に洋々たる未来を約束していた。
1888年、
帰国の途についた森林太郎を追うようにして
ドイツからひとりの女性が日本に向った。
もし、この女性がいなかったら
森鴎外の処女作「舞姫」はなかった。
医者で作家 3 手塚治虫
手塚治虫は医学部を卒業し
1年間のインターンも務め、さらに国家試験にも合格して
医師免許を持っている。
ただし、患者を診たことは一度もない。
大学時代から漫画が売れはじめ
教授からも医者よりも漫画家になるようにと
すすめられてしまったのだ。
漫画家として長者番付に載るようになっても
「僕の本業は医者」と言いはっていたのだが
博士号を取るための論文に関しては
書く時間はおろか
研究する時間もあろうはずがなかった。
けれども、いつの間にか
手塚治虫は博士号を取っている。
記録によると、それは1961年33歳のとき。
医学雑誌に発表されたその論文のタイトルは
「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」
この長いタイトルは
手塚治虫の超カルトクイズにも出題された。
医者で作家 4 なだいなだ
芥川賞最多落選記録を持つなだいなだ先生は
もともと精神科のお医者さま。
アルコール依存症を研究のテーマにしていた。
フランスに留学して神経学を学び
1955年に精神科医になると同時に
文筆活動を開始した。
作家と医者、二足のわらじどころではなかった。
放送作家でありコラムニストだった。
短歌と俳句も詠んだ。
61歳からは作家に専念、
74歳でネット上の仮想政党「老人党」を結成。
80歳でまだまだお元気。
精神科のお医者さまってタフなのでしょうか。
医者で作家 5 北杜夫
作家の北杜夫は
精神科の医者であると同時に患者でもあった。
病名は躁鬱病。
無気力な鬱の状態が長くつづいた後に
やってくる躁状態のときは
ひっきりなしに水を飲まなくてはいられないほど
よくしゃべり、
体重が減るほど動きまわり
また株に手を出して破産も経験している。
その一方で精神科医としての目は
自分のそんな状態を冷静に見つめ
ユーモラスなエッセイにして発表した。
北杜夫のおかげで
躁鬱病はすっかりイメージアップしてしまった。
まわりの理解も深まり
患者は精神科の門を気軽にくぐれるようになった。
日本の精神医学史において
北杜夫の存在は貴重だ。
作家で医者 6 加賀乙彦
作家の加賀乙彦は精神科医だった。
拘置所で囚人の治療にあたった経験もある。
犯罪心理学の研究室にいたこともある。
犯罪心理学というポイントから
社会を見つめる目を持っている。
異常な状況においては異常な反応が正常である
加賀乙彦の言葉は
言われてみればあたりまえのこと。
でも、言われなければ気づかなかったこと。
犯罪を通して人の心をさぐる日本の作家は
彼より以前にいなかった。
医者で作家 7 藤枝静男
作家であり眼科医でもある藤枝静男は
書くことを余裕で楽しんでいるような
幻想的な作風で知られている。
その一方で
近代文学社に毎年の寄付を申し出て
それがきっかけで近代文学賞が設立されたことは
意外と知られていない。
第一回近代文学賞の受賞者は吉本隆明。
これを忘れてはいけない。
坂本和加 09年12月26日放送
開高健と山の上ホテル①
山の上ホテルは、
神田駿河台の高台にございます。
小さな、文化人のホテルです。
開高健先生も、よくいらっしゃいました。
散歩のついでに、ふらっと。
あのかた、釣り師としても有名ですが
書いておられるほど
釣りはお上手ではないようでした。
釣りの話をするときは、両手を縛っておけ。
これは、開高先生が
お好きだった、ロシアのことわざです。
石本恭子と山の上ホテル②
山の上ホテルは、
昭和29年にオープンした、
客室100前後の小さなホテルです。
当時、一機しかなかったエレベーターは
まだ手動で、石本恭子という
オペレーターが操作しておりました。
言葉遣いは美しく聡明、長身で上品な顔立ち。
淑女と呼ぶにふさわしく、
忘れがたい印象を残す女性でした。
ただ、それだけの話なのですが、
「旅館や料亭は、文化そのものであり、
そこで働く人たちもまた文化だ」と
言ってくださったのは、山口瞳先生でした。
丸谷才一と山の上ホテル③
丸谷才一先生が
山の上ホテルにお泊まりになるときは、
たいてい別館の623号室です。
山の上ホテルの、この部屋だけ、
カーテンが完全な暗幕になっているんです。
丸谷先生は夜型ですから、
明け方に眠るにはちょうどよかったのでしょう。
山の上ホテルは、作家の先生方が
何日間もカンヅメになる場所です。
そして、たくさんの丸谷文学もまた、
ここで生まれました。
けれど丸谷先生は、こんな風に言っています。
作品が完成するのは、
読者が読んで感心したときです。
池波正太郎と山の上ホテル④
池波正太郎先生は、
執筆と言うより休息のために、
よく山の上ホテルにお見えになりました。
池波先生は、お部屋で
よく画を描かれていました。
座卓が汚れないようにと、
ビニールカバーを持参されて。
几帳面で、洒落た粋人というのは、池波先生のことです。
ホテルに何枚か飾っております、
先生の水彩画は、お人柄そのものです。
山の上ホテルのレストラン⑤
山の上ホテルには、
作家の先生方をはじめ、
多くのお客様が例外なく好んだ
天ぷらの名店があることでも知られています。
創業者、吉田俊夫が仕入れまでみるほどの
食通だったせいもあるでしょう。けれどなにより、
吉田は、大通りにある鰻屋や鮨屋より
裏通りで見つかるような「天ぷら屋」が好きでした。
天ぷら職人に共通する、外連のない、
律儀で地味なところが。
今年の、全米のレストランガイド
サガット・サーベイにも載ったそうです。
「天ぷら 山の上」は、いまや
日本食の看板レストランです。
吉田俊夫と山の上ホテル⑥
山の上ホテルは
今でも文藝春秋や中央公論に
小さな広告を載せています。
山の上ホテルの広告は、
文案もデザインも、みんな自前です。
会社勤めから
ホテルの創業者となった吉田俊夫は、
広告もしかり、初々しいサービスや、
素人っぽさにこだわっておりました。
願わくは、ここが有名になりすぎたり、
流行りすぎたりしませんように。
三島由紀夫の寄せた言葉を矜恃として
当時のパンフレットに載せたのも、吉田です。
今もまだ、知る人ぞ知るホテルであることが
それを証明してくれています。
五島のはなし73(倉成英俊くんのはなし)
いま思いましたが、
紀行文って、書くの、はじめてかもしんないです。
中村直史の同期の倉成英俊といいます。
出張で、五島列島に行くというラッキーがあって、
「いま五島なんだけど」と、弾んで中村くん(以後、ただしと呼びます)に
電話した所、
帰ったらここに書くようにと宿題を出されました。
そんで、いま書いている次第です。
しかし、すっかり遅くなりました。
このブログを止めていたのは僕です。
ではしばし、僕の五島への旅に、お付き合いを。
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飛行機に2時間。クルマに1時間。フェリーに3時間。
待ち時間入れて計7時間という、
インドへ行くのと同じくらい時間かかって、僕が着いたのは。
五島列島最北端、宇久島。
道中、フェリーの甲板に出てみると、雲間から満月。
それを反射する海には、光の道。
こんな風景を見て育ったのか、あいつは、と
東京にいるただしに思いを馳せながらタバコの煙を、、、
とかそういうことまで書いていたらきりがないですね。
(そもそもタバコはすっていないし)
何をしに行ったのかは、完全にこちらにまかせます↓
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20091205/06.shtml
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091208-00000305-mailo-l42
宇久でのできごと、
カンタンに順を追ってみると、
PM8:00宿に着く。/晩ご飯の魚にさっそく感動。/翌朝。神浦小学校へ。/5、6年生合わせて6人のクラスでCMの授業のお手伝い/給食を一緒にいただく/普段何をしているの?と質問する。/その回答。テレビ、とかDSとか、あんまり都会と変わらない/(しかし、この子たちはお父さんお母さんが漁に出て忙しいから毎朝弟たちのご飯をつくったりしているのだと後で知る)/昼休み一緒にサッカーする。/全学年一緒。学校で兄弟のよう。/地元の人に島一周ドライブに連れていってもらう。/エメラルドグリーンの海を見る。/平家盛が上陸したと言われる自然の入江を見る。/夜は、その地元の人のお宅でごちそうになる。/ブリの刺身(超うまいのに、とれたすぐだから脂が乗ってなくてまずいとか言ってる)、くじらとふきの煮物、あおさの天ぷら、鯛の鍋、その他たくさんのごちそうごちそうごちそう/なぜかその家にはカラオケがある/なぜかミラーボールもある。しかも2個ある。/地元の人が集まってくる/みんな歌がうまい/僕はなぜか北酒場を歌う/流れ星を3つ見る。/・・・
と1日分だけ書いてはみましたが、
ああ、もう結論を言いたい。
紀行文に結論など、いらないことはわかっていても、この辺でまとめたい。
だって、
僕が経験した、宇久島での1番の印象的なできごとは、
超シンプルに1文で言えるから。
それは、
「朝日を見た、そして、夕陽も見た。」
地球上で毎日起こっているはずの、太陽を基準にした、時の流れ。
そんな本当は、とっても当たり前のこと。
それを、体で感じた。
よく考えて見ると、
ビルで囲まれた所では味わえない。
海に囲まれた島の特権。
帰って来て2週間。
僕はそれから一度も朝日も夕陽も見ていない。
いま、2009年12月22日AM5:26。
もうすぐ今日も島に、朝日が昇る。
のであります。























