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2012 年 4 月 のアーカイブ

名雪祐平 12年4月29日放送


アラハン around100 ボブ・ホープ 1

アラウンド100歳
ボブ・ホープの場合

長年にわたって
「アメリカ一おかしな男」として
親しまれたコメディアンは、
何度か、おかしく死んでいる。

1回目。
「ボブ・ホープ95歳で死去」
というデマが国中をかけめぐり、
なんとアメリカ下院議会で追悼演説まで行われた。

そのことを聞いたボブ。

 たぶん私ではないと思う。

と、ユーモアたっぷりに答えた。

そう、たぶん、そう。




アラハン around100 ボブ・ホープ 2

アラウンド100歳
ボブ・ホープの場合

死亡記事は、
生きているうちに用意されている。

100歳を目前にした、
アメリカを大物コメディアンもそうだった。

テレビ局CNNのウェブサイトで
パスワードの保護が無効になり、
ボブの死亡記事が生前に公表されて
しまったことがあった。

騒動のあと、
無事、誕生日を迎え、ボブは100歳になった。

しかし2カ月後、こんどは本当に死の時がやってきた。
埋葬法を聞かれ、ボブは答えた。

 何か、びっくりさせてくれ。 

そんな言葉を
あらかじめ死亡記事として用意できる能力は、
どこのテレビ局にもなかった。





ger0nim0
アラハン around100 三浦敬三 1

アラウンド100歳
三浦敬三の場合

生涯、山岳スキーに夢中だった。

60歳の還暦に、初めてのヨーロッパ遠征で滑降。

70歳の古希に、エベレストのシャングリ氷河滑降。

77歳の喜寿に、キリマンジャロ頂上噴火口滑降。

88歳の米寿に、アルプス・オートルート完全踏破。

90歳の卒寿に、モンブラン・バレーブランシェ滑降。

99歳の白寿に、息子と孫と再びバレーブランシェ滑降。

晩年のインタビューで、
若いスキーヤーにアドバイスはありますか?
と聞かれて、三浦敬三はこうこたえている。

 そうですねえ、特にないですね。
 もう自由に滑ってますもんね、その人たちは。
 自由自在にやってるのがいい。

 新雪が降るとね、
 いたる所もう滑ってきますね。
 あれが非常にいいですね。
 
100歳の少年の目で、そうこたえた。




アラハン around100 三浦敬三 2

アラウンド100歳
三浦敬三の場合

1904年、日露戦争開戦の年、
青森県の山あいに生まれた。

電気も水もなく、天秤棒を肩に水くみが日課の
少年時代だった。

やがて山岳スキーに魅せられ、
日本の草分け的山岳スキーヤーになった。

息子、三浦雄一郎も、プロスキーヤーなった。
孫、三浦豪太も、モーグルのオリンピック選手になった。

孫は言う。

 登山をすると、おじいちゃんが
 子どもだった頃の生活を体験できます。
 山の中には電気も水道もコンビニもありませんし、
 携帯電話だって通じない。

でも、そこで、

知恵が、協力が、代々、受け継がれていく。


DesEquiLIBROS
アラハン around100 グランマ・モーゼス 1

アラウンド100歳
グランマ・モーゼスの場合

1860年、アメリカ東部の貧しい農家に生まれた。

12歳から奉公に出て、27歳で結婚し、
夫とともに農場を借り、
10人の子を生み、そのうち5人を亡くした。

農場の妻として立ち働き、
勤勉そのものの生活であった。

夫の死後、リューマチで手が動かなくなった。
リハビリをかねて油絵を描き始めたのが、
75歳の時だった。

それから運命は、
彼女をアメリカの国民的画家にしていく。

3年後、町のドラッグストアの
ショウウインドウに飾られた彼女の絵に
偶然一人のコレクターの目が止まり、
80歳で初の個展を開催。

この個展に大手百貨店が注目し、
グランマ・モーゼスは世界中にファンをもつ
有名画家となった。

何歳でも、なんでも、始められる。
モーゼスおばあちゃんが、おしえてくれた。



Bosc d’Anjou
アラハン around100 グランマ・モーゼス 2

アラウンド100歳
グランマ・モーゼスの場合

くたくたに立ち働いた、75歳までの農家の彼女。
こつこつと描き続けた、75歳からの画家の彼女。

まるで、2つに色分けされた人生のように見える。

けれども、モーゼスおばあちゃんは言う。

 わたしの生涯というのは、
 一生懸命に働いた一日のようなものでした。

国民的画家と呼ばれても、
大統領からホワイトハウスに招待されても、
つつましく暮らし、
101歳で亡くなるまで1500点以上の作品を描き続けた。

素朴で、暖かくて、懐かしくて、
みんなが一生懸命で、楽しそうで、
そんな田園の光景や生活の
そんな絵の中にいるように、生きた、
モーゼスおばあちゃん。




アラハン around100 奥村土牛

アラウンド100歳
奥村土牛の場合

最高峰の日本画家の一人である。

土の牛、と書いて土牛。

中国の詩「土牛、石田を耕す」という
一節からとったもの。

壊れやすい土の牛でも、
根気よく耕せば、
石ばかりの荒れた田を美しい田にできる。

そういう意味通りに、
土牛は老年になってもなお傑作を生み出した。

97歳の時こと。
はからずも長者番付に名前が出たことがある。
不動産屋にせがまれて
土地を手放したせいだった。

その時の言葉が、いかにも土牛。

 土地でお金が入るなんて恥ずかしい。




アラハン around110 きんさんぎんさん  

アラウンド110歳
きんさんぎんさんの場合

きんは100歳100歳
ぎんは100歳100歳
そんなコピーで日本中の人気者になった双子姉妹。

生まれてきてうれしかったことは?
と小学生に質問されてぎんさんはこたえた。

 あんたに会えたことじゃ。

宮沢りえのヌード写真集が話題になった時
きんさんは真剣にこたえた。

 何億積まれてもわしゃ脱がん。

亡くなったきんさんを弔問に訪れて
ぎんさんはつぶやいた。

 おみゃあ、こんなに
 つべたくなっちまって。(つめたくなっちまって。)

きんは107歳107歳
ぎんは108歳108歳

長生きっていいな、と思わせてくれたお二人。
ありがとうございました。

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佐藤理人 12年4月28日放送

aimeeorleans
スティーブ・マックイーンとカースタント「一枚の写真」

まだ映画にCGがなかった時代の話。

一人の映画監督が
ある危険なシーンのスタントを引き受けてくれる
命知らずのスタントマンを探していた。
主演の俳優に相談してみると、

ちょっと高いが、いいスタントマンがいる

と言う。監督が

高いのは仕方がない。紹介してくれるかい?

と頼むと、俳優は監督に一枚の写真を手渡した。

写っていたのはその俳優
スティーブ・マックイーン本人だった。





Podknox
スティーブ・マックイーンとカースタント「ブリット」

映画史上最高のカーチェイスは何か。

アンケートの答はいつも同じ。スティーブ・マックイーンの「ブリット」だ。

咆えるエンジン。きしむタイヤ。巻きあがる白煙。
サンフランシスコ市街の急斜面を舞台に、
宙を舞い、坂を駆け下り、互いにぶつかり合いながら
猛スピードでチェイスする二台の車。

最高時速160kmにも達したこの危険なアクションを、
マックイーンはスタントなしで演じきった。

それまでのカーチェイスといえば、
ハンドルを握った俳優を背景に合成するだけだった時代。
この映像は評論家の度肝を抜き、

観客は11分もの間、
自分の内蔵を地下室のどこかに置き忘れてしまう。


と絶賛された。



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スティーブ・マックイーンとカースタント「目覚め」

1934年3月24日。
4歳の誕生日を迎えたスティーブ・マックイーンは、
母ジュリアから素敵なプレゼントをもらった。

ぴかぴかの赤い三輪車。

幼いスティーブ少年は父がいない寂しさを紛らわすために、
来る日も来る日も近所の子供たちとキャンディを賭けて競争した。
そして大抵一等をとった。後に彼は語る。

あれがレース熱の始まりだった。

中学生になると彼は町の不良グループに入り、
改造車での違法レースに明け暮れるようになる。

そして1944年、警察の世話になりすぎた彼は、
ついに少年院に入れられてしまう。

しかしそのときスティーブは14歳にして既に、
強力な改造車を作る凄腕のエンジニアになっていた。



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スティーブ・マックイーンとカースタント「大脱走」

史上最高の映画スターの一人、スティーブ・マックイーン。
その人気を決定付けたのは、戦争映画の傑作「大脱走」だった。

この映画は第二次世界大戦下のドイツで実際にあった
250人の捕虜脱走計画を描いたものだが、
登場人物が多すぎて脚本は混迷を極めていた。

6人の作家が11通りの脚本を考えてもストーリーはまとまらず、
マックイーンが撮影現場に着いても役さえ決まらない有様だった。

役が決まらないことに怒り、
一時は撮影をボイコットしようとしたマックイーン。
しかしあることを条件に出演を承諾する。

それは、

バイクの腕前を披露させること。

ドイツ兵のオートバイを奪い疾走する脱走シーン。
そして高さ3.6mの有刺鉄線を時速100kmで飛び越えるクライマックス。
映画史に残るこの名場面は、実はマックイーンのアイデアだ。

逃走シーンでは見事なバイクの腕前を披露したマックイーンだが、
肝心のジャンプシーンだけは自ら演じることができなかった。
どうしても保険会社の許可が下りなかったのだ。

実際にジャンプしたのはマックイーンのレース仲間で、
スタントを一緒に考えたバド・イーキンスだった。

ちなみにマックイーンをバイクで追うドイツ兵のスタントも
マックイーンが演じていることは意外と知られていない。



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スティーブ・マックイーンとカースタント「栄光のル・マン①」

「大脱走」のヒットにも関わらず
俳優スティーブ・マックイーンは憂鬱だった。
次の作品としてふさわしい脚本になかなか出合えなかったのだ。

失望から逃れるように彼はモータースポーツにのめりこんだ。
そのために6本もの出演依頼を断るほどだった。

結婚を続けるなら自分との時間を作って欲しい。
妻に頼まれてもその決意は揺るがなかった。

ある日マックイーンは「ル・マン24時間レース」を観戦する。
観衆の大歓声、エンジンの轟音、時速400kmを超えるスピード。
これこそ自分が求めていたものだ。彼は新聞記者に語った。

今までにないとびきり最高のレース映画を作るんだ!

そうしてできたのが、
史上最高のレース映画「栄光のル・マン」である。



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スティーブ・マックイーンとカースタント「栄光のル・マン②」

これまでのレース映画につきものの
よくあるまやかしは避けたいと思っている。
レースは美しいスポーツ。私はそれを正しく映画化したい。


映画「栄光のル・マン」を作るにあたり、
スティーブ・マックイーンがどうしても譲れなかったもの。
それは本物のレースのリアリティだった。

ハリウッドのレース映画の大半はスターに吹き替えを使っている。
私はその世話にはなりたくない。


スタントには現役のレーシングドライバーを起用。
自分が乗るポルシェにももちろんスタントは使わなかった。

さらに実際のル・マンにも車に撮影用カメラを積みこんで参戦。
レースをこなしながら撮影を行った上、
9位でゴールするという度を越えた熱の入れようであった。

しかし、観客に強く訴えるストーリーが必要という監督と、
レースそのものを描きたいマックイーンの間に確執が生じ、
監督は途中降板することになってしまう。

その監督とは、あの「大脱走」を撮ったジョン・スタージェス。
「栄光のル・マン」について彼は

途方もないジョーク、800万ドルをかけたマックイーンのホームムービー

と酷評。マックイーン自身は、

私は自分の持っている全て、キャリア、金、結婚、人生を投げ出した。

と語る、文字通り全てを賭けた映画だったが、
結果はスタージェスの予想通り大失敗に終わった。




スティーブ・マックイーンとカースタント「栄光のル・マン③」

ル・マン24時間レースを描いた映画「栄光のル・マン」。
そのカースタントを全て自分でやることについて、
プレイボーイ誌の記者がスティーブ・マックイーンに尋ねた。

確かにヘルメットをかぶって車を運転しているのはあなたです。
でも車の中にいるのが誰か分かる人なんていないでしょう?


マックイーンは答えた。

観客が分かってくれるさ。
もっと大事なのは、私自身わかっているということだ。
問題はありのままに、ごまかさずに演じるってことなのさ。


映画は本国アメリカでは大惨敗であった。
しかしここ日本では大ヒットを記録。

映画公開の2年後には、
日本人チームが実際にル・マンに初参戦を果たし、
日本のル・マン熱の火付け役となった。

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厚焼玉子 12年4月23日放送


東京タワーとVision

J-WAVEが東京タワーからあなたへお届けする
最後のプログラム、Vision。


1988年
それは東京ドームがオープンした年でもあった。
J-waveは東京タワーに送信所を設け
秋には本放送を開始した。

東京タワーは私たちのシンボルでもあった。

2003年、
J-waveが六本木ヒルズにスタジオを構えたとき
東京タワーは握手できそうな距離まで近づいた。

窓からは毎日東京タワーが見える。
夕暮れに沈んだ街から明かりの残る空に向かって立ち上がる
東京タワーのライトアップは空よりも明るく美しい。

私たちは毎日東京タワーを眺め、東京タワーとともに働いてきた。
だから、お疲れさまは言わない。
さようならも言わない。
いまこの瞬間も東京タワーとお隣同士の距離は変わらないのだから。

J-waveの窓から東京タワーの左を見ると、
ビルのてっぺんから東京スカイツリーが顔を出している。
高さ634メートルのこの新しいランドマークは
みんなに「上を向いて」というメッセージを送っている。


上を向いて、未来を見つめ、希望を抱き
明日に向かって、みんなの心のウエーブをつなげていこう。

YOUR WAVE MAKES THE WORLD

J-waveはこれからも
ふたつのタワーに見守られて
あたらしいウエーブを発信していきます。

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熊埜御堂 由香 12年4月22日放送

八犬伝
師のはなし 司馬遼太郎の言葉

歴史小説を通して
人間を描き続けた作家、
司馬遼太郎はこう言った。

食欲と性欲と睡眠欲が三大本能として、
四番目は教育する本能、
そして教育を受けたくなる本能かもしれません。


春、わけもなくわくわくするのは
知的な新しい出会いを
本能が察知しているからだろうか。

お気に入りの本を、親しくなったあのひとに
思わず、すすめるように。
教え、教わり人は生きていく。


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薄景子 12年4月22日放送

itou
師のはなし 岸本葉子の先生

エッセイスト、岸本葉子。
彼女の人生訓となる、
高校の先生の言葉がある。

「うちの子はやればできる、やらないだけ」
という親がいるが、それは違う。
重要なのは、やるかやらないかだ。

その言葉に導かれるように、
岸本は自分で400枚の原稿を出版社にもちこみ、
それがデビュー作となった。

編集者は言ったという。
「本を出してくれるなら書く」という人は大勢いる。
だが実際に書いてくる人はその何百分の一だ。

人生は、やるかやらないか。
いい教えは、一生、生徒を育てつづける。

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石橋涼子 12年4月22日放送


師のはなし 内村鑑三と斉藤宗次郎

明治のキリスト教伝導者であり
社会運動家でもある内村鑑三のもとには、
弟子になりたいという者が後を絶たなかった。
しかし大きすぎる期待は失望へと変わりやすいもので、
内村のもとを去る者も後を絶たなかったという。

師弟関係というものに絶望した内村は、
弟子を持つの不幸
という文章まで書いた。

そんな師匠を最後まで慕い続けたのが斉藤宗次郎だ。

なにしろ斉藤は、雨にも負けずのモデルになった
と言われている人物だ。
雨の日も風の日も師匠のもとへ通い、敬い、尽くし、
病気の内村を最期まで看取った。

内村鑑三は、最晩年にようやく
弟子を持つことの幸福を知ったのではないだろうか。

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茂木彩海 12年4月22日放送


師のはなし 立川談志のことば

立川談志の人情噺「芝浜」をはじめて聴き、
感動でしばらく席を立てなかった。
立川談春。その時、17歳。
高校を中退し、立川談志に弟子入りすることを決意する。

「師匠が黒と言ったら白でも黒になる」
というほど徹底した師弟関係の中、
大量の用事を言いつけられても、師匠が笑顔になる
その一瞬のために、目の色を変えて駆けずり回った。

そんな談春を悩ませたのが、弟弟子の志らく。
あとから入門してきた彼を談志が何かにつけて誉めるため、
談春はすっかり腐ってしまったのだ。

そんな談春を、ある日師匠は呼び出し、
二人きりになったところで、こう切り出した。

お前に嫉妬とは何かを教えてやる。
己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱味を口であげつらって、
自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。


いま、「最もチケットが取れない落語家」と呼ばれる立川談春。
彼の師匠は、落語だけでなく、
人生の師匠でもあったということは、言うまでも無い。



東十条の王子
師のはなし 尾田栄一郎の師匠

いま、日本で一番売れている漫画。ワンピース。
作者の尾田栄一郎が大学を中退してアシスタントについたのは
「ジャングルの王者ターちゃん」の作者、徳弘正也だった。

この2人が描く主人公には、
“不器用さ”という共通点がある。

ターちゃんは腰蓑ひとつといういでたちで
ジャングルの王者でいながら、徹底した菜食主義者。

一方、尾田の描いたルフィーは、様々な能力者がいる中、
一番弱そうなゴム人間という設定。

その理由を尋ねられた尾田は、こう答えている。

どんなに話が深刻になってもルフィーは伸びたり膨らんだり。
いつでもふざけるチャンスをくれます。

格好良くて、強くて、完璧なヒーローよりも、
不器用なヒーローこそ、読者に永く愛される。

師匠、徳弘の精神は、主人公を通して尾田へと受け継がれている。

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小野麻利江 12年4月22日放送

yoti
師のはなし 香川真司とレヴィ・クルピ

ドイツ・ブンデスリーガの強豪、
ボルジア・ドルトムントで活躍する、香川真司。

Jリーグ・セレッソ大阪に入団当初は、
責任感の強さから、
ミスをすると自分を責める傾向があった。

そんな彼に、監督のレヴィ・クルピはこう言った。

人はミスをして当たり前だ
ミスを繰り返すなかで自分を見つければいい
もっと強気な姿勢を見せてくれ


今の香川の活躍の裏には、
才能を見抜き、励ましてくれた
師の存在がある。



師のはなし 野村克也と江夏豊

1976年。望まないトレードによって、
阪神から南海ホークスへ移籍した、投手・江夏豊。
すでに全盛期を過ぎていた彼は
長いイニングを投げられず、
先発として、思うような成績を残せずにいた。

監督であり捕手でもあった野村克也は、
江夏の制球力は健在なことを見抜き、
リリーフ投手への転向を何度も打診する。

しかし当時リリーフ投手の地位は極めて低く、
先発にこだわる江夏は、反発し続けていた。
「トレードのうえ、今度はリリーフ投手への転向か。
何で自分にばかり、恥をかかせるのか」

ある日のこと。
野村は、江夏が新撰組が好きだと知り、
こんな言葉で説得することにした。

二人で野球界に、革命を起こそう。


リリーフ投手の地位をくつがえし、
日本野球界に革命を起こす「師弟」の誕生。
野村の采配は、ここでも功を奏した。

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4月22日25時、東京タワーから送信する最後の番組Vision



写真はVisionの番組を放送しているJ-waveの窓から見た
東京タワーです。
1988年、J-waveはここから電波を発信しはじめました。
VisionはそのJ-waveの開局以来の番組です。

私たちのチームがVisionを担当したのは2009年からです。
もう3年、東京タワーにお世話になっているわけです。

今週の日曜の25時、日付けが変わっていますから
正式には2012年4月23日のAM1時(と、思いますが)
東京タワーから発信する最後の番組がVisionになりました。
そしてAM5時からは東京スカイツリーからの放送がスタートです。

東京タワーからの最後の放送とその電波が途切れる瞬間、
さらに東京スカイツリーから送信される番組が始まる瞬間を録音すべく
待機しているマニアのかたがたもおいでのようです。

チームVisionの皆さま
日曜の深夜、東京タワーから送信される最後の番組Visionを
お聴きになりませんか(玉子)

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蛭田瑞穂 12年4月21日放送


向田邦子のレシピ①

向田邦子は料理が好きだった。
「本当は板前さんになりたかった」と言う程の料理好きで、
執筆中気がつくと原稿用紙にお品書きを書いていることもあった。

「イワシの梅煮」
イワシは幅3センチぐらいの筒切りにする。
出し汁、酒、みりん、醤油を鍋で煮たてた後、
イワシとほぐした梅干しを入れる。
中火で10分煮たら、そのまま冷まして味をしみ込ませ、
器に盛ったらできあがり。


料理をつくっては人を招いた向田邦子。
その料理には温かなもてなしのこころが隠れている。




向田邦子のレシピ②

向田邦子は食べ歩くのが好きだった。
おいしい店を見つけると、その店の味を熱心に真似た。

自分の味にすると、次は独自のアレンジを加えた。
材料がなければ別のもので代用した。
意外な食材が組み合わさることで予想外のおいしさが生まれた。

「白身魚のマヨネーズ焼き」
塩コショウを振った白身魚をバターで焼き、火を通す。
シソの葉と玉ネギをみじん切りし、
あら切りしたリンゴと一緒にマヨネーズであえる。
白身魚にマヨネーズソースを塗って、オーブンで焼いてできあがり。


向田のつくる「白身魚のマヨネーズ焼き」も
グラタンをつくり変えたオリジナルレシピである。






向田邦子のレシピ③

向田邦子は海苔弁当が好きだった。
海外旅行から帰ってくると、
まっ先に食べたくなるのは決まって海苔弁当だった。

火鉢でぱりっと炙った海苔。
削るとぷうんと匂い立つかつお節。
薪でふっくら炊き上げた白いご飯。

良い材料を吟味してつくる海苔弁当は、
ほんとうのおいしさを知る、大人の贅沢な料理。

「向田流海苔弁当」
炊きたてのご飯を弁当箱の1/3ほどに詰める。
その上に醤油をまぶしたかつお節を敷き、
八つ切りした海苔をのせる。
それを3段重ね、最後に薄くご飯をのせる。
ふたをして5分ほど蒸らしてできあがり。


「最後の晩餐」に何を食べるかという友人たちとのおしゃべりで、
必ず話題にのぼったのも、ご飯と海苔とかつお節だったという。




向田邦子のレシピ④

向田邦子はスープが好きだった。
両腕を広げたほどもある大きな寸胴鍋を使って、
スープをコトコト煮込んでいた。

「ジャガ芋スープ」
ジャガ芋、ニンジン、玉ネギ、セロリをスープ鍋の中にすりおろす。
水、ローリエ、塩、ブイヨンを入れ、弱火で20分煮込む。
器に盛ったら、細かく切ったハムとパセリを散らし、
バターを落としてできあがり。


友人が病気と聞けば、小さな鍋で届けた向田邦子。
彼女のつくるスープはやさしい味がしたに違いない。




向田邦子のレシピ⑤

向田邦子は鶏肉が好きだった。
とくに鶏の酒蒸しはよくつくった。

どんな食材とも相性が良いため、鶏肉を好む料理人は多い。
ただ向田の場合、飼っていた猫の好物が鶏肉だったことも
多少の関係があるのかもしれない。
猫に買うついでに、もうちょっとという具合に。

「蒸し鶏とトマトの中華風」
胸肉に薄く塩を振り、酒を振りかけて蒸す。
冷めたら細く裂き、千切りのキュウリと混ぜたら
やや厚めのトマトの輪切りに乗せる。
出し汁、みりん、醤油でつくったつゆに酢とごま油を合わせ、
上からかけてできあがり。


向田邦子が溺愛した猫の名はマミオ。
向田がバンコクでひと目惚れし、帰国後飼い主に手紙を送り、
譲ってもらったというエピソードがある。




向田邦子のレシピ⑥

向田邦子は倹約が好きだった。
余った食材は捨てずに取っておき、次の料理に使いまわした。

食べものをたいせつにするというのは向田家の躾で、
小皿に残った醤油さえ、捨てるとずいぶん叱られたという。

梅干しの赤ジソやかつお節削りに残ったかつおの粉。
そんな食材とも呼べないような残りものを使って、器用に料理をこしらえた。

「梅ジソとかつお節の箸休め」
さっと水洗いした梅ジソをきつく絞って細かく刻む。
刻んだシソの葉にかつお節をまぶす。
最後に醤油で味を調えてできあがり。


食材を無駄にしない。それも料理の腕のひとつ。




向田邦子のレシピ⑦

向田邦子は旬の野菜が好きだった。
春、みずみずしい根三つ葉が青果店に並ぶと、
向田はうきうきしながらそれを買った。

「三つ葉のきんぴら」
三つ葉をざく切りし、サラダ油を熱したフライパンで炒める。
余計な水分を捨て、醤油をまわし入れて味をつける。
仕上げにゴマ油をたらし、器に盛る。
最後に白ゴマをかけてできあがり。


向田邦子の台所にはいつも旬の香りが溢れていた。




向田邦子のレシピ⑧

向田邦子は味つけご飯が好きだった。
とりわけ好んだのは小料理屋を営む妹がつくるニンジンご飯。
ニンジンと油揚げをたっぷり炊き込むニンジンご飯を
「食べ過ぎると眠くなっていけない」と言いながらおかわりしていた。

向田自身がよくつくったのはシソの葉を混ぜ込む青ジソごはんや
山ほどクレソンを入れた炒飯だった。

「クレソン炒飯」
冷やご飯をバターで炒め、パラパラになったら
塩、コショウ、酒で味を調える。
細かく刻んだクレソンを加えてひと混ぜして
お好みで醤油をたらしてできあがり。


一種類の具のみをつかって、おいしい料理をつくる。
その潔さがなんとも向田邦子らしい。

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