2012 年 3 月 のアーカイブ

名雪祐平 12年3月31日放送


marcmonaghan
例える女 アンジェラ・デービス

差別という壁を倒せ。

そのあとは、どうなる。

 壁が横に倒れると、
 それが橋となる。

大きなカーリーヘアの
アンジェラ・デービスは、
ポジティブにそう言い放った。

フランクフルとパリ大学で学んだ才女であり、
帰国後は黒人女性活動家として差別と
闘いつづけた。

カリフォルニア州立大学での教職追放や
冤罪による強制逮捕にもひるむことはなかった。

信念と行動が壁を倒し、
倒れた壁は
一気に未来への架け橋となる。

アンジェラの考えたのは、
双方向に往き来できる
新しい橋だったのかもしれない。


DavidMoran1988
例える女 向田邦子

直木賞作家の向田邦子が
エッセイ集『夜中の薔薇』に
書いた一節。

 自分に似合う、
 自分を引き立てる
 セーターや口紅を選ぶように、
 ことばも選んでみたらどうだろう。

 ことばのお洒落は、
 ファッションのように遠目で人を
 引きつけはしない。
 無料で手に入る最高のアクセサリーである。

こうしたことばをあざやかに記す向田は、
そのファッションもとても素敵な人だった。

飛行機事故の不慮の事故死から30年。

日本のファッションは、
ずっとお洒落になったかもしれない。
さて、ことばのほうは。

自分のことばは、輝いているだろうか。
最高のアクセサリー、だろうか。



例える女 エリザベス一世

16世紀半ば、か弱く小さな国家イギリスに
25歳の女王が即位した。

エリザベス一世。

当時のヨーロッパの国々は
イギリスの統治権を狙い、
各国の国王、皇太子はつぎつぎと
エリザベスに結婚を申し込んできた。

エリザベスは心得ていた。
彼らに結婚を期待させつつ、
したたかに外交に利用した。

そして財政を立て直し、戦争に勝利し、
世界貿易を手中におさめ、
イギリスを世界の大国に成長させた。

生涯独身を通し、
処女王 the Virgin Queen と言われた
エリザベスはこう言い切ったという。

 私はイギリスと結婚したのです。



例える女 マリー・ローランサン1

 退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。

 悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。

 不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。

 病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。

 捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。

 よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。

 追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。

 死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

これはフランスの女性画家
マリー・ローランサンの『鎮静剤』という詩。

かつて運命的な恋をした男が別の女性と結婚し、
その年のうちに急死しまったことを知り、
書き上げられた。

ローランサンは自分自身を
もっとも哀れな、忘れられた女に例える詩を書き、
思いを露出させることで
心を静める薬にしようとしたのだろうか。



例える女 マリー・ローランサン2

ある日、
フランスの女性画家、
マリー・ローランサンは悲しい知らせを受け取る。

届いたのは、かつての恋人アポリネールが
知らない女性と結婚し、
すぐ亡くなってしまったという知らせ。

傷ついたローランサンは、痛みを詩にした。
タイトルは『鎮静剤』
その最後の行はこう終わる。

 死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

自分こそ、その哀れな女だと。

けれど、ローランサンは
決して忘れられたわけではなかった。

なぜなら。
かつての恋人の枕元には
彼女の名作『アポリネールと友人達』が架けられ、
最期を看取ったのだから。



例える女 沢村貞子

私は、おまけ。

そう自分を例えたのは
名女優、沢村貞子。

 私は生まれながらの、
 「おまけ」の人生なのよ。
 歌舞伎者の家に生まれたから、
 女はおまけ。

そう謙遜する沢村だが、
小津安二郎監督や溝口健二監督などで
名脇役として評価され、
生涯100本以上の映画に出演した。

日本アカデミー賞会長特別賞を受賞。

主演女優賞はなかったが、
半世紀を超えて切りひらいた「おまけ」人生は
映画史に残る主役の一人である。


jinterwas
例える女 ジャンヌ・モロー

女優は、映画監督とつきあっていた。

その映画の脚本には
迫力あるベッドシーンがあった。

女優は考えた。
もし、自分がこのシーンを素晴らしく演じたら、
監督の彼は評価してくれるだろう。
けど、恋人の彼は離れていくだろう、と。

1958年のフランス映画『恋人たち』
そのベッドシーンは、
主演女優ジャンヌ・モローの名演技と、
監督ルイ・マルの見事な演出で、
映画ファンを圧倒するシーンになった。

そして、やはり、
二人は破局した。

その後も、彼女は
ヌーヴェルヴァーグの映画作品に次々と起用され、
その退廃的な独特の魅力をスクリーンに放った。

数々の恋愛も重ねた彼女ならではの
クールな比喩はこう。

 恋愛はポタージュのようなもの。
 初めの数口は熱すぎ、
 最後の数口は冷めすぎている。

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五島のはなし(171)

五島もめっきり春です。
食卓に「めかぶ」が出てくると春なのです。
やわらかく、ねばりけがあって、潮の香りがする。
今しか食べられない海の幸。
先週五島に帰省しこの「めかぶ」を食べたとき、思わず目を閉じましたね。むはー。うまい。

魚たちも水温が上がるとともに活発になってくるみたい。
あらかぶの子どもたちが積極的にエサを追いかけます。
釣り上げた途端、真っ黒の墨をおしりから出しました。

これ、海の中で、アオリイカの子どもを食べてるから。
それで、お腹の中にイカスミがたまっている。
実際、岸壁沿いには、子イカが何匹もゆらゆらとただよっていました。
おいしいイカを食べている魚なら、当然うまいはず。
でも小さいあらかぶや卵をもったあらかぶは海にかえします。

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岡安徹 12年3月25日放送


filtran
忘れてもいいこと/アインシュタイン

アルバート・アインシュタイン。
人類史上に名を残す科学者。

しかし驚くべきことに
アインシュタインは自宅の電話番号を記憶していなかったという。

「電話番号は覚えていないが、電話番号をメモしてあるノートは覚えている。」

必要なものだけを覚えておくために、
余計な物は覚えない。
だからこそ、大切な物が見つかりやすいのかもしれない。



忘れてもいいこと/アインシュタイン

大学での教鞭をとった経験もある、アインシュタイン。
そんなアインシュタインが、教育に関する
彼なりの理論を語った事がある。

学校で学んだことを、
一切忘れてしまった時になお残っているもの、
それこそ教育だ。

大切なことは、自然と残る。
それは、今を精一杯過ごせばよいのだよ、という
励ましに聞こえる。



忘れてもいいこと/アインシュタイン

高名な科学者となった後も、
一風変わった人物と言われることも多かったアインシュタイン。

例えば、靴下をはかないことや、年中同じ上着をきていること。
床屋に行かず、ボサボサの髪の毛でいることなど。

世間的に見れば常識と思えることを敢えてしなかった彼は、こんな
言葉を残している。

「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことだ」

常識とずれた行いも、アインシュタインによれば自然なこと。
靴下をはかなければ、破れた靴下を繕う妻の負担が減る。
一張羅でいれば洋服代がかからない。
髪を切る時間を、研究につかえる。

常識を忘れられる人は、
自分だけの新しいルールを見つけられた人なのかもしれない。

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渋谷三紀 12年3月25日放送



忘れられないこと/アンディ・ウォーホール

ポップアートの第一人者、アンディ・ウォーホール。
派手な色彩で同じ図版を大量に生産する技法で
スターのイメージや商品、ドル記号など、
アメリカ社会のシンボルを作品化した彼の作品は
難解なアートとは一線を画す新しい世界をつくりあげた。

彼はあるインタビューでこんな質問を受けた。

インテリジェンスとはなんでしょうか。

彼は迷わずこう答えた。

しょっちゅう意見を変えられることだね。

忘却という能力を身につければ、
ひとは過去に縛られずにすむ。
その身軽さで、彼はアートの常識を軽々と飛び越えた。


kiki
忘れられないこと/北原白秋

薔薇ノ木ニ

薔薇ノ花咲ク

ナニゴトノ不思議ナケレド

北原白秋の詩は
思い出させてくれる。

誰もが子供の頃に住んでいた、
不思議に満ちた世界を。

大人になって忘れてしまうのは
しかたないとしても、
忘れたことさえ忘れてしまうのは
さびしすぎる。

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宮田知明 12年3月25日放送


Strifu
忘れられない日/北野武

「まあまあじゃん」

映画・戦場のメリークリスマスの試写を終え、
お笑い芸人にしては、
それなりの演技をしたな、と思った、
北野武。

こっそり、映画館に観に行くと、
シリアスなシーンにもかかわらず
彼が出たとき、観客が急に笑ったのを見た。

「これ、どうにかしないと、映画なんてやってられない」

それ以降、彼は出演映画に、
俳優としてのこだわりを持つようになる。

北野武の俳優としての生き方を決めたのは、
そんな、なんでもないはずの一日。



忘れられない日/大山のぶ代

「先生、あのー、私、
 あれでいいんでしょうか?」

それは、藤子不二雄と大山のぶ代の初対面の日。
アニメ、ドラえもんの録音現場で、
出演者と藤子不二雄が挨拶をする時のことだった。

彼の持つ優しい雰囲気にほだされ、
とっさにでた一言であり、
そして、いちばん、気になっていたこと。

藤子は、一度彼女を見て、
そしてスクリーンのドラえもんに目を移し、
こう言った。

「ドラえもんって、ああいう声だったんですねえ。」

それは、大山の、
ドラえもんの声への迷いや、不安が消えた、大切な日。


じぇにゅ
忘れられない日/鈴木健

2007年10月4日、ヤクルトvs横浜。

それはヤクルトスワローズ、
鈴木健の引退試合。

8回裏、宮本の代打として
バッターボックスに立った鈴木の打席は、
リーグ優勝も決まった後の消化試合とは思えない
大きな盛り上がりを見せた。

粘りに粘り、ファールの山を築く鈴木。
1球1球にどよめく球場。
13球目、打球は、サードへの平凡なファールフライ。
しかしサード・村田は、追いつくも、ワザととらない。
スタジアムに、大きな拍手が沸き起こる。

そして15球目、センター前ヒット。
1塁ベース上で、涙する鈴木。

結果だけみれば、単なるシングルヒット。
でも、この1つの打席に、
苦労を積み、ひたむきに野球をやってきた鈴木への、
選手たちの想いがこもっていた。

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佐藤理人 12年3月24日放送


filtran
サム・ペキンパーという男

次々と仲間が銃弾に倒れゆく中、
なぜか主人公にだけは当たらない。

そんなハリウッドのご都合主義は、
この男には通用しない。
性別も、肌の色も、宗教も関係なく
銃弾の雨は全ての人に平等に降り注ぐ。

暴力描写のリアルさに徹底してこだわった
バイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパー。

俺は暴力の研究家だ。
なぜって、
人間の心の研究家だからな。

その残酷な作風から人は彼を

Bloody Sam(血まみれのサム)

と呼んだ。



サム・ペキンパーの「正義」

正義の反対は悪じゃない。
もうひとつの正義だ。

暴力に魅せられた男
サム・ペキンパーの映画に
勧善懲悪は存在しない。

主人公はいつもお尋ね者か犯罪者すれすれの、
陽の当らない場所で生きる男たち。
彼らが自らの正義のため暴力に訴える、
その瞬間をサムは生涯描き続けた。

しかし彼自身は意外なことに
絶対的な正義を重んじるはずの法律家一族に生まれた。

父、祖父、兄、叔父が弁護士または判事
という家庭だったため、
食事時の話題はいつも裁判のことばかり。

世の中には単純な真実など存在しない。

大人たちの話を聞きながら幼いサムは、
人を裁く難しさ、判決の曖昧さ、
何より人間の不完全さを常に意識しながら育った。


jrmyst
サム・ペキンパーの「スローモーション」

極度の危険に直面すると、人は一瞬を永遠に感じることがある。

バイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパー。
高校卒業後、海兵隊に入隊した彼は第二次世界大戦で中国に渡る。
ある日、目の前で一人の荷役夫が狙撃兵に撃ち殺された。

人生で最も長く感じた瞬間だった

と語るこの体験が、彼の最高傑作と言われる「ワイルドバンチ」を生んだ。

たった四人で二百人を超すメキシコ政府軍に挑むラスト。
映画史に残るこの大銃撃シーンは、
スピードの異なる6台のカメラを使い11日間ぶっ通しで撮影された。
カット数は、実に当時最多の3624カットを記録。

時にゆっくり、時にスピーディに。
スローモーションに膨大なカットを組み合わせた緩急溢れる映像に、
観客の目はスクリーンに文字通り釘付けになった。

セリフは一切なく、聴こえるのはマシンガンとライフルの轟音のみ。
銃弾に肉を切り裂かれ、容赦なく崩れ落ちる人、人、人。
敵も味方も、女性も子供も老人もない。
凄惨でありつつどこか美しいその映像は

死のバレエ

と呼ばれた。
たった4分ほどのそのシーンは、まるで永遠に続くかのようだった。

ダイナミックに時間を操るこの独特の撮影技法は
彼のトレードマークとなっただけでなく、
その後のアクション映画における新境地を切り拓いた。


SESC São Paulo
サム・ペキンパーの「スタッフ」

CGもワイヤーアクションもない時代。
知恵と執念でアクション映画の新しい地平を切り拓いた男、
サム・ペキンパー。

予算もスケジュールも構わず作品を追求する
完璧主義の矛先は、スタッフにも向けられた。
その映画に関わる全員に

映画を生きる

ことを求め、電気工であっても脚本を読み理解するよう命じた。
気に食わないスタッフは次々とクビにする一方、
自分が認めた人間には無条件に愛情を注いだ。

映画「ケーブル・ホーグのバラード」はペキンパー自身

自分のベスト・フィルムだ

と納得する出来栄えだったが、
その傍若無人な振る舞いがマスコミから批判を浴びてしまう。

窮地に立たされたペキンパーを守るため、
スタッフは新聞に彼を擁護する広告を載せたという。


Jean-Pierre Lavoie
サム・ペキンパーの「アメリカ」

滅びゆく西部の男たちを哀切のこもった目で描き

最後の西部劇監督

と呼ばれた男、サム・ペキンパー。

彼の映画はヨーロッパや日本では人気があったものの、
本国アメリカではいま一つだった。

西部劇という題材が古臭かったわけではない。
彼の描く暴力がハリウッド映画にありがちな
偽物ではなかったからだ。

彼は暴力のもつ醜さや汚さを赤裸々に描いた。
華麗な拳銃さばきも超人的なアクションもない。
ヒーローも悪人もおらず、
死が女性も子供も特別扱いしない世界。

人間は動物になりえる。悪は存在する。
そして世界におけるアメリカの地位は、
その悪の存在に負うところが大きい。

ペキンパーが描いたものは、
当時アメリカ軍が世界で行っていたことそのものであった。



サム・ペキンパーの「ヒット」

たとえ主人公が悪人でも、キャラクターが魅力的なら観客は声援を送る。

しかし他人の命を顧みず、目的のために手段を選ばない価値観に、
70年代のハリウッドはいい顔をしなかった。
「明日に向かって撃て」「俺たちに明日はない」
犯人には常に無残なアンハッピーエンドが用意されていた。

「ゲッタウェイ」

バイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパーは、
犯罪小説の巨匠ジム・トンプソンの原作を西部劇の現代版として制作。
ギャング映画にも関わらずハッピーエンドを用意した。

主演、スティーブ・マックイーン。
当時世界最高のスターがそんな反社会的な役を演じることも話題となった。

リアリティにこだわるペキンパーらしく、
ストーリー順に撮影するという効率の悪い方法を敢えて選択。
オープニングのシーンでは、本物の刑務所を使用する熱の入れようだった。

しかしヒットさせたい映画会社は、最終編集権をマックイーンに委ねる。
音楽もイメージに合わないとして、
急遽クインシー・ジョーンズに替えられてしまった。
完成版を見たペキンパーは

これは俺の映画じゃない!

と叫んだ。
だが「ゲッタウェイ」は世界中で大ヒットを記録。
ペキンパーの最も有名な作品となった。
おかげで彼は初めて映画会社からボーナスをもらうことができた。

もらった金はすべてスタッフに分け前として配ったという。


SESC São Paulo
サム・ペキンパーの「DNA」

ペキンパーは同じ映画を14本も撮った

と言われるほど自らの人生観を
スクリーンに色濃く叩きつけた映画監督サム・ペキンパー。

バイオレンス映画の原点にして頂点
と言える作品を生み出す一方、
プロデューサーや出演者と衝突を繰り返し、
扱いづらい監督として冷遇され続けた。

ストレスと孤独を酒と麻薬で紛らわしたツケは、
確実に彼の内蔵を蝕んでいた。

遺作「バイオレントサタデー」は、
肺の感染症と闘いながら酸素マスクを付けて撮影された。

1984年12月28日。
映画の完成後、最後の西部劇監督は心不全でこの世を去った。

彼の革命的な映像表現は、
クエンティン・タランティーノたちが作る
現代のアクション映画に今も色濃く生きつづけている。

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藤本宗将 5月から参戦

藤本宗将(写真左)が2012年5月から参戦します。

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石橋涼子 12年3月18日放送


kontenten
動物と人 猫と寺田寅彦

寺田寅彦はあらゆるものに興味を持ち
こんぺいとうや蚊取り線香、ガラスの割れ目まで
研究した学者だが、実は猫が苦手だった。

40代のころ、屋根裏のネズミ退治のために
渋々、苦手な猫を飼うことにした。

とたんに寺田は猫に夢中になった。
しかしその研究成果はというと、

猫ののどをかいてやると、ゴロゴロと鳴る。
しょっちゅう居眠りをする。

その報告を聞いた家族はおおいに笑ったという。


しんしん
動物と人 猫と三島由紀夫

三島由紀夫が猫好きだったことは
意外と知られていない。

幼い頃から猫をかわいがっていたのだが、
妻が大の猫嫌いで飼うことが許されなかったのだ。

作家仲間の林芙美子に宛てた手紙には
いかに自分が猫好きかを綴っている。

あの小賢しいすねた顔つき、きれいな歯並び、冷たい媚び、
なんともいえず私は好きです。

だなんて、まるで惚気のよう。

三島が猫に会うのは妻が寝静まった深夜だ。
書斎の窓を猫が叩くのが合図。
机の引き出しに隠しておいた煮干し片手に
毎晩逢い引きをしていたのだという。

その愛し方は、なんだかとても三島らしい。

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小野麻利江 12年3月18日放送


Ted Abbott
動物と人 チンパンジーとジェーン・グドール

1960年。26歳のジェーン・グドールは、
類人猿のフィールド調査のため、
タンザニア・ゴンベのジャングルで、
野生のチンパンジーの群れの中に入り
共同生活をはじめた。

徐々に群れのそばまで近づけるようになり、
一頭一頭の顔と特長をつかんだジェーンは、
彼らに名前をつけていく。

だがそれは、当時の動物行動学の世界では、
厳しく禁じられていた。
「個性」や「感情」は人間特有のものと考えられ、
調査対象は客観的に、「番号」で呼ばれていた。

しかし、学位も経験も持たないジェーンは
そんなルールにとらわれなかった。

わたしは子どものころから動物に名前をつけ、
名前で呼んできた。

動物について多くを学んだのは大学ではなく、
犬のラスティをはじめ、代々飼っていた猫たちや
モルモット、ゴールデンハムスターたちからだった。

その後ジェーンは、一匹のチンパンジーが
小枝をつかってシロアリを釣りあげる様子を目撃。
「チンパンジーも道具を使いこなす」という発見は、
ヒトとチンパンジーの境界線にまつわる
通説を、くつがえした。

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茂木彩海 12年3月18日放送


nicoventurelli
動物と人 金魚と深堀隆介

アーティスト、深堀隆介には
「金魚救いの日」という記念日がある。

12年前のその日。

スランプと戦っていた彼は
いっそのこと、もう何もかもやめてしまおうかと思っていた。

ごろんと寝転がったその目線の先にあったのは、
7年前の夏祭りですくった金魚が泳ぐ水槽。
そういえば最近めっきり世話をしていない。

水槽のふたを開いて、
おそるおそる上から覗き込むようにして見る。

その瞬間、直感した。

この子が、きっと僕を救ってくれる

濁った水の中で怪しく光る、美しく毒のある赤い肌。

横から見ると魚のかたちに変わりないのに、
上から見ると水面との屈折で、ぺたんと平面に見える。
平面と立体の間で自由に泳ぐ姿は、何とも魅力的だった。

すくった金魚に救われた男は、
それからずっと金魚を描き続けている。


kevin dooley
動物と人 ミミズとダーウィン

この生き物以上に、
地球にとって大事な役割を果たし続けてきた動物はいない。

チャールズ・ダーウィンにそう言わしめた動物。

ミミズ。

彼らは、人間が鍬を持つよりずっと前から大地を耕し続けてきた。

ミミズのおかげで、植物が育ち、
その植物を食べる昆虫があつまる。
そして、その昆虫を食べる鳥があつまり、
その鳥を食べる人間も集まる。

私たちの生活は、ミミズ中心に回っている。

そう思うと、思わず地面に向かって、
ひとこと感謝したくなる。

すごいぞ、ミミズ。ありがとう、ミミズ。

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