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2010 年 11 月 のアーカイブ

名雪祐平 10年11月28日放送



星野哲郎


11月15日、
作詞家・星野哲郎が亡くなった。
85歳だった。

告別式で、
歌手の水前寺清子は、
生前に星野から託された
未発表の詩を読み上げた。

詩の冒頭は、こう始まる。


 あけみちゃんてば あけみちゃん
 再婚しようよ 天国で


それは16年前に先に亡くなった
妻へ伝える、
情感あふれる詩だった。





アーネスト・シャクルトン1


20世紀の初め。
ロンドンの新聞に載った広告が
話題をさらった。


 探検隊員求む。至難の旅。
 わずかな報酬。極寒。暗黒の長い月日。
 絶えざる危険。生命の保証無し。
 ただし、成功の暁には名誉と賞賛を得る。


これは、探検家アーネスト・シャクルトンが掲げた
南極探検隊員の募集広告。

この文を読んで、
心を熱くした者だけが
苦難を乗り越えられる資格をもつ。

この広告で、
シャクルトンの卓越したリーダーシップが
すでに発揮されていたのだった。





アーネスト・シャクルトン2


アーネスト・シャクルトン隊長は、
隊員27人を率いて
南極横断の探検に出発した。

そこは一夜にして
数十キロの海が氷るような極寒地。

南極を目前に巨大な氷に阻まれ、
船が座礁してしまった。

ついに沈没した船から脱出し、白い地獄を彷徨う。
それから20カ月も氷の上を漂流し、
耐え続けることになろうとは…。

絶望的な危機に、
隊長は考えた。

全隊員に生きる希望を与え続けよう。
希望とは仕事だった。

毎日時間割で仕事を担当させ、
使命と責任、緊張を維持した。


 人は命令では動かない。
 人は階級では動かない。


机上のリーダー論では命を守れない。
生きるんだ。

そしてシャクルトン隊長は、
素晴らしいリーダーシップで
一人も犠牲者を出すことなく、全員生還させたのだ。





ロッシーニ


tournedos rossini
牛ヒレ肉のロッシーニ風

この“ロッシーニ”とは
イタリア最高の作曲家ともいわれる
ロッシーニのこと。

フォアグラやトリュフを使ったレシピを考え、
料理に自分の名がつくほどの
美食家であった。

ある日、知人の家でご馳走になった後、
「また食べにいらして」と言われて、こう返した。

今でもいいのですが…。

古今東西、食いしん坊はどこか憎めない。









ラブレター1 カフカ


過去にもらった、
あのラブレターは、
いまどこにあるだろう。

作家カフカは、
恋人ができると情熱的に、
短期間に何百通も手紙を送った。

恋人たちは、まだ無名だったカフカからの
手紙を捨てずに、
別れてもずっともっていた。

きっと、カフカの手紙には言葉に命があった。
捨てられない。大切に残したい。
そんな魅力でいっぱいだったに違いない。

カフカの死後、多数の手紙は、
受け取った恋人の名前がつく本となった。
『フェリーツェへの手紙』は700ページ、
『ミレナへの手紙』は400ページを超えた。

逆にカフカ自身は、恋が終わると
女性から受け取った手紙は処分していたという。

だから、まさか自分が書いたラブレターが
世の中に公開されるとは。

天国で顔を赤くしたかもしれない。





三船敏郎


映画俳優、三船敏郎は、
『スター・ウォーズ』と
『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』
の出演依頼を2度とも断った。

いろいろな理由があったにしろ、
『七人の侍』の菊千代そっくりと言われる
一本気な性格が、どこかで影響してしまったのか。

それにしても…

仮面をかぶらないダースベイダー、
三船がライトセーバーを振り回す姿。

ぜひ観たかったもの。

映画ファンとして、
ほんとうに惜しいエピソード。





江戸川乱歩


平井太郎は、
貿易会社で働き始めたが
1年しか続かなかった。

それから、いろいろな仕事に手を出した。
古本屋、新聞記者、ポマード工場の支配人。
チャルメラを吹いて夜泣きそばを
売り歩いたこともあった。

そして、何度目かの失業のとき、
賞金目当てで小説を書き始める。

2週間で書き上げた処女作『二銭銅貨』は
見事雑誌に掲載されたのだった。

こうして平井太郎は、江戸川乱歩になった。

就職できても、
天職にめぐりあうまで
シューカツは続くのかもしれない。
乱歩のように。





ラブレター2 短い告白


一枚の便せんに
太宰治が書いた、
たった4文字のラブレター。

「こひしい」

はるか遠く、
南極越冬隊の夫にあてた妻からの、
たった3文字のモールス信号。

「あなた」

日本中で
送受信されているかもしれない、
たった2文字のメール。

「すき」

たったそれだけの、
すばらしい言葉。

さて、1文字だったら…
と考えながら、
夜は深まって。


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蛭田瑞穂 10年11月27日放送



ミステリーの夜①エドガー・アラン・ポー

アメリカ人作家エドガー・アラン・ポーが
1841年に発表した小説『モルグ街の殺人』。
これが史上初の推理小説と言われる。

今日、推理小説で使われるさまざまなトリックは、
そのほとんどがポーによって発明されたと言ってもいい。

密室殺人、暗号のトリック、
探偵自身が犯人だったというドンデン返し。

探偵の活躍を探偵自身ではなく、
友人役が語るというシャーロック・ホームズでお馴染みの手法も
ポーが最初に使った。

エドガー・アラン・ポー。
彼こそが推理小説の父である。








ミステリーの夜②ヴァン・ダイン

ミステリーの巨匠ヴァン・ダインがつくった、
推理小説を書く上で作者が守らなければならない20のルール。
通称「ヴァン・ダインの二十則」。

たとえば、
「事件の謎を解く手がかりは、
すべて明確に記述されていなくてはならない」。

あるいは、
「探偵は論理的な推理によって
 犯人を決定しなければならない」。

それからこんなことも。
「占いや心霊術、読唇術などで
 犯罪の真相を告げてはならない」。


推理小説とはいわば、作者と読者の謎解きゲーム。
ゲームをおもしろくするには厳格なルールがなければならない。





ミステリーの夜③コナン・ドイル

1882年、スコットランドの若い医者が
眼科を専門とする診療所を開いた。
しかし、客足はさっぱりだった。

暇をもてあました彼は、
小遣い稼ぎのために小説を書き始める。
探偵が主人公の推理小説だった。

小説を書き上げると原稿をいくつかの出版社に送った。
しかし、出版社からはことごとく掲載を拒否され、
数カ月後にようやく採用されたものの、
原稿料はたった25ポンドだった。

その小説が『緋色の研究』。
アーサー・コナン・ドイルのデビュー作にして、
探偵シャーロック・ホームズを生み出した作品である。

まったく、人生には何が起きるかわからない。





ミステリーの夜④シャーロック・ホームズ

かの名探偵シャーロック・ホームズは一度殺害されたことがある。
犯人は誰あろう、作者のコナン・ドイルである。

ホームズの一連の作品によって
人気作家となったコナン・ドイルだが、
彼が本来書きたかったのは推理小説ではなかった。

そこで、ドイルはシリーズに終止符を打つべく、
『最後の事件』という小説を執筆し、
水煙を上げる滝壺の中にホームズを突き落とした。

ところが、事の顛末はドイルの目論見どおりに進まなかった。

シャーロック・ホームズの死に納得のいかない読者から、
抗議の手紙が出版社に殺到する。
その声におされてドイルはホームズの復活を決心するのである。

作者に殺され、読者に命を救われる。
名探偵の人生はじつに波乱に満ちている。





ミステリーの夜⑤フィリップ・マーロウ

作家レイモンド・チャンドラーが生みだした探偵、
フィリップ・マーロウ。

古今東西、さまざまな探偵がいるけれど、
彼ほど魅力にあふれる探偵はいないだろう。

貧しいけれど、誇り高い。
男らしく正義感が強いが、
女性らしい繊細さも持ち合わせている。

そんな彼だけに、粋なセリフがよく似合う。


「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」

「タフでなければ生きて行けない。
 優しくなければ生きている資格がない」


フィリップ・マーロウ。
その名はハードボイルドの代名詞。





ミステリーの夜⑥刑事コロンボ

くたびれた背広に、着古したレインコート。
櫛の通っていないボサボサの髪の毛。
いつも安物の葉巻を持ち歩き、
ところかまわず吹かそうとする。
口癖は「うちのカミさんがねぇ」。

テレビドラマから生まれ、
俳優ピーター・フォークが演じた刑事コロンボ。
風貌は冴えないが、
鋭い推理で知能犯の犯行を暴き、人気を博した。


 あのー、ちょっといいですか?


コロンボにそう声をかけられたが最後、
犯人はもう落ちるしかない。





ミステリーの夜⑦ヒッチコック

サスペンスの神様、アルフレッド・ヒッチコックは、
「サスペンス」と「スリル」と「ショック」の違いについて、
こう説明している。


乗るべき汽車の時刻に間に合うかどうかと必死に駅に駆けつける。
これがサスペンス。

ホームに駆け上がり、発車間際の列車のステップにしがみつく。
これぞスリル。

座席に落ち着き、ふと考えなおしてみると、
自分が乗るはずの列車じゃなかった、と悟るその一瞬がショック。


夜の長いこれからの季節。
ヒッチコックの映画を観て、ドキドキしてみませんか?

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なるほど…



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梅男くん



黒くて長い毛の猫がときどき庭に来るので
黒毛長丸と呼んでいたところ、迷子札に「梅男」と書いてあった。
区民農園の向こうのアパートに住むOLの飼い猫というのも判明した。

飼い猫とわかれば餌はあげない。
飼い主が何を食べさせているかわからないからだ。
たとえばドライフードで飼っている猫に缶詰をあげて
うっかりそれが気に入ってしまうと飼い主が困るからだ。

ところが、梅男くんは盗み食いをする。
うちで世話をしている迷い猫ハエタローが残したひと口を
知らない間に食っている。
わあぁ、いかんいかん。
取り上げるとうらめしそうな顔で見上げている。
猫に怨まれるのはどうも居心地が悪い。

しかも梅男くんは窓の外に30分くらい平気で座り込む。
なかなかあきらめない。
猫はどうしてそんなに暇なのだろう(玉子)

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薄景子 10年11月21日放送



あの人の暮らし チャールズ・M・シュルツ


世界中で愛されているスヌーピーの生みの親、
チャールズ・モンロー・シュルツ。
彼の作品に、幸せとは何かを綴った絵本がある。


 しあわせは落ち葉の山。
 しあわせは自分のベッドで眠ること。


30にわたる幸せの定義は、
何気ない毎日の中の、ささやかなことばかり。

小さな幸せは、
気づいてあげると
かけがえのないものになってくれる。





あの人の暮らし 松浦弥太郎1


今日のランチはどこへ行く?
将来はどっちの道に進む?
人生は選択の連続といってもいい。

大切なのは、そのときどき、
自分の判断を信じられるか。

暮らしの手帖の編集長、松浦弥太郎さんは
日々、選ぶ訓練を続けているという。

電車に乗れば、あたりを見回して考える。


 この車両で一人友だちをつくるとしたら誰がいいだろう?


あのおばあさんの話をじっくりききたい。
この男性とは映画の趣味があいそうだ。

毎日、選ぶ訓練をかさねると、
直感力と想像力がきたえられ、
数ある中から、コレというお宝が
瞬時に見つけられるという。

さっそく、野菜売り場で考える。
今晩は、舞茸をてんぷらにするのと
大根をおでんにするのは、
果たしてどっちが幸せだろう。

選ぶ訓練は、
暮らしを楽しくする訓練でもある。





あの人の暮らし 松浦弥太郎2


雑誌編集長であり、
古本屋を営む松浦弥太郎さん。
彼のエッセイを読んで、
ハッとしたことがある。


 いつくしむ方法は、1日1回、さわること。


松浦さんはお店の商品や椅子の脚に
毎日一度さわるという。
家でも、さわれる量以上の服や本は
できるだけもたない。

たしかに、何年も着ていないスーツには生気がない。
人の行かない別荘はすぐに悪くなる
という話もよく耳にする。

ものに命を吹き込むのは人。
ていねいに暮らす人は、
もちすぎない豊かさを知っている。

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熊埜御堂由香 10年11月21日放送



あの人の暮らし 佐野洋子とシズコ


絵本「100万回生きたねこ」で
知られる作家、佐野洋子は、
母親、シズコとの親子関係に悩み続けた。
高校の担任に、母は長女との関係をこう言った。


 女同士ということで嫉妬、かもしれません。


洋子は自分にどこか近い父にだけ、なついた。
終戦後、シズコは未亡人になるが、
めそめそせず、いつもばっちり化粧していた。
そんな母を、下品だ、と洋子は思っていた。

シズコが80歳近くになる頃、洋子と二人で暮らし始める。
シズコには痴呆の症状がではじめていた。
自身も60代にさしかかり、苦しかった。洋子は、
結局、母を施設に預ける決意をする。

子どもの頃は、手をつなぐことさえ、嫌悪し合ったのに。
洋子は、施設でシズコの体をさすり、
1つの布団へ一緒に入り話をした。
それは母と娘の暮らしの、最後の形だった。

シズコさんは、洋子さんに、無邪気に言った。


 私とあなたの間には、いることも、いらないこともあったわねぇ。










あの人の暮らし 佐野洋子


作家、佐野洋子。
今月5日、72歳で、静かに息をひきとった。

彼女は言った。


 余命2年と云われたら
 人生が急に充実して来た。
 毎日が楽しくて仕方ない。


余命2年をゆうに超えて、
洋子さんは、暮らした。生きた。



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石橋涼子 10年11月21日放送



あの人の暮らし 永田昌民


住宅建築家の永田昌民(まさひと)には、
ひとつだけ、
どんな建て主にも必ず提案することがある。


 落葉樹を一本、植えませんか?


それは家の設計とはまったく関係ない提案だけれど。
窓から外を眺めるとき、
コンビニに出かけるとき、
疲れて家に帰ってくるとき、
落葉樹は、毎日ちがう表情を見せてくれる。

永田は、建築ではなく、暮らしの提案をしているのだ。


 落葉樹を一本、植えませんか?






あの人の暮らし 立原道造


 僕は室内にゐて、
 栗の木でつくつた凭れの高い椅子に坐つて
 うつらうつらと眠っている。
 夕ぐれが来るまで、一日、なにもしないで。


詩人であり建築家であった立原道造。
彼が考える理想の暮らしは、
手のひらにおさまりそうな小さなものだ。
自分のために設計した理想の家は、
フロもキッチンもない、たった5坪の家だった。

しかし、彼がそこで暮らすことは叶わなかった。
立原道造の人生は、わずか24年で幕を閉じた。

彼の家は、今、とある湖のほとりに建っている。
訪れる人はそこで、詩人が夢見た暮らしを味わい、
また自らの暮らしに戻ってゆく。





あの人の暮らし 阿部なを


素朴で丁寧なおばあちゃんの味で愛された
料理研究家の阿部なをは、
48歳で料理の道に入った。

戦中・戦後を体験した彼女の原点は
「粗末な材料のめいっぱいの味」
を引き出してあげることだ。

だから、得意な料理も、
メニューの中心になる豪華な一品より、
暮らしの食卓に欠かせない小鉢もの。

ある日、
阿部なをが営む料理屋にきたお客さんが、
料理は芸術だ、とアツく語り始めた。
彼女は、ふんわり笑って


 芸術を365日食べたらお腹を壊すわよ


と言ったという。


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小山佳奈 10年11月20日放送



安部公房

1968年、
川端康成が日本人で初めて
ノーベル文学賞を受賞したその年。

パリのサンジェルマンデプレの一角に、
世界中の前衛作家の顔写真が張り巡らされる。

その中に、ただ一人、
日本人の顔があった。

安部公房。

奇想天外で難解なストーリーにも関わらず、
今なお世界中に熱狂的なファンを持つ。

安部公房はにこりともせずに言う。

「俺は世界的な前衛だからね」





安部公房

医学部出身の作家は案外多いが、
安部公房も、その一人。

しかしそもそも兵役逃れのために
医学部を選んだ彼にとって
医者になるための勉強なんかより
リルケやニーツェの方が
100倍重要だった。

何度も落第しようやく迎えた卒業試験では
妊娠期間を二年と答え教授を絶句させる。

「僕は医者になりません」

たぶん東大医学部史上初めてであろう
誓いを立ててようやく卒業を許された。

私たちは二重に感謝しなくてはならない。

一つは彼の文学を享受できたということ。
一つは彼の治療を受けずにすんだこと。








安部公房

たいていの作家は
売れない時代の苦労話の
一つや二つは持っているが、
安部公房の場合、ちょっと想像を絶する。

血を売ってパンを買う。
住んでいたバラックは隙間だらけで、
冬には粉雪が布団に降り積もる。

挙句の果てに
芥川賞で賞牌の時計をもらうやいなや
すぐさま質屋に走った。

売れてからは高級外車に乗り、
高級ホテルを定宿とした。

それもまた、いい話。





安部公房

文学界の鬼才、安部公房も、
焦っていた

それなりに本は出しているが
それなりにしか売れない。
27歳で芥川賞を取った彼も、
いつの間にか36歳になっていた。

急きたてられるように
軽井沢に別荘を借りる。

しかしその別荘は、
別荘とは名ばかりの
ただの牧場の休憩小屋。

電気もない。水道もない。
もちろんテレビもラジオも新聞もない。
外の世界から完全に遮断された世界。

そんな
極限から生まれたのが
「砂の女」だった。

焦ることも時には大切。
焦らなければ先は見えない。





安部公房

安部公房は、人に厳しい。

井上靖、井伏鱒二
巨匠と呼ばれる作家も彼の手にかかると
「まがいもの」と呼ばれてしまう。

初めて三島由起夫に会ったときも
「こういう小説は可能性がない」と
取りつく島もない。

しかしその後二人は
たびたび飲み屋に繰り出しては
文学について語り合うようになる。

「僕にとって三島由紀夫は得がたい相手だった。
 社交や妥協がいらない人物だった。」

安部公房は、人に厳しい。
その分、人への愛も深い。





ビートルズ

「いまの僕たちはキリストより人気がある。」

当時人気の絶頂だった
ジョン・レノンが雑誌の取材で言い放った言葉は
ローマ法王と世界中のクリスチャンの怒りを買った。

それから44年たった今年。
ローマ法王はジョンとビートルズを許すことを発表した。

「彼らの歌を聞いていると
昔のすべてのことが遠く無意味に思えてくる」

それが、音楽の力だ。





ビートルズ

ポール・マッカートニーは言う。
「結婚生活はやっぱりロマンティックでいいものだね。」

ジョン・レノンは言う。
「結婚など時代遅れの形式だと思う。」

ジョージ・ハリスンは言う。
「僕たちは成功にも名誉にも惑わされない。」

ジョン・レノンは言う。
「人間は誰でも一生をかけて大成功を夢見てるのさ。」

ビートルズはどこまでもバラバラだった。
それでも彼らは音楽でつながっていた。

ジョン・レノンは言う。
「話し合いはコミュニケーションの最も遅い手段だ。
音楽の方がずっといい。」

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薄景子さんの「落書き部屋」

薄組組長である薄景子さんは
子供時代に「落書き部屋」を持っていたらしい。

落書きをしてもいい壁がある部屋。
落書きでいっぱいになると
お父さんが新しいペンキを塗ってくれて
また壁は新しいキャンバスになる。
そんな落書き部屋を持つ子供がうらやましい。

つまり、Tokyo Copywriters’ Street の薄さんの原稿は
半分実話なのだ。



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中村直史 10年11月14日放送



人と石/早田くん


1979年のことだった。
夏休みの自由研究のため、
熊本県御船(ミフネ)町にやってきた
小学一年生の早田くん。

目的は、貝の化石を見つけることだった。

でも、見つけた化石は
貝にしては少し大きく、
貝とは違うギザギザがあり、
貝には見られない尖り方をしていた。

長い長い時を経て、
小学一年生の小さな手にたどりついたモノ。
それは、日本初、肉食恐竜の歯の化石。

早田くんの自由研究は、
世紀の大発見になった。









人と石/メアリー・アニング


その少女は、
地球に何十億年もの歴史があることなど知らなかった。

生物が絶滅するものだ、ということも、
かつて恐竜と呼ばれる生き物が
地球上にいたことも、知らなかった。
無理もない。世界中のほぼだれも、そんなことは知らなかったのだ。

少女は、ただ家計を助けるために、
動物の姿が刻み込まれた石を探し、観光客に売っていた。

いまから150年以上も前、
イギリスの港町にいた化石掘りの少女、メアリー・アニング。

「へえ、イギリスにワニがいるんだ・・・」

そうメアリーに思わせていた、
石の中の6メートルもの長さの生き物は、
イクチオサウルス。海の恐竜だった。

学校に通ったこともなかった
一人の少女は、それからも、
数々の発見で世界を驚かすこととなる。


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