2012 年 1 月 のアーカイブ

名雪祐平 12年1月29日放送



ぼくらはすこし死んでいる 1.レイモンド・チャンドラー

女から結婚を持ちかけられたが、
それを断ってしまった男。

その心境はどういうものか。

レイモンド・チャンドラーが書いた
小説『ロング・グッドバイ』の一場面。

私立探偵フィリップ・マーロウは、
女と別れた朝、
ベッドに残された1本の黒髪を見た。

その時、小説家は男にこんなセリフを吐かせる。

 さよならを言うのは、
 少しだけ死ぬことだ。

つらい別れにじっと耐え、
世界から切り取られたような男が
そこにいた。


Monosnaps
ぼくらはすこし死んでいる 2.ボブ・マーリー

ボブ・マーリー、
歌うことで国家を変えた男。

ジャマイカが混乱し、悲惨な時、
人々にこう訴えた。

 おまえの口からついてでる言葉が、
 おまえを生かすのだ。
 おまえの口からついてでる言葉が、
 おまえを殺すのだ。

レゲエの神様は教えてくれた。
自分の言葉が、自分に、世界に影響することを。

完全にポジティブになるまで
すこしのネガティブが、すこし殺していることを。

ほんとうに神様だったのかもしれない。
絶大な存在感で、世界を変えた。



ぼくらはすこし死んでいる 3.草野心平

草野心平は、蛙の詩人、である。

昭和3年の詩集『第百階級』は、
全篇、蛙がテーマ。

どうして蛙なのか。
心平によれば、

蛙は人類よりも古くから存在し、
総理大臣もいなくて全員庶民だから、となる。

『第百階級』には、ゲリゲという蛙が登場する。

蛇に呑み込まれたゲリゲが瀕死状態で叫ぶ。
それはこの世でもがく詩人、心平自身の分身。

ゲリゲは仲間に向かって
必死にこう伝えるのだ。

 死んだら死んだで生きてゆくのだ。

肉体は滅びても、魂は生き残る。

心平は命の限り、晩年まで書き続けた。
その魂は、作品というかたちで、
死んだら死んだで生きてゆくのだ。



ぼくらはすこし死んでいる 4.高村光太郎

死ぬことに想いをめぐらし、
死に近づく。
すると、生きる言葉が浮かび上がる。

自分の最期にどんな言葉を刻むか。
高村光太郎の『ある墓碑銘』という詩は
こう始まる。

 一生を棒に振りし男此処に眠る。
 彼は無価値に生きたり。

光太郎の自嘲的なこの言葉は、逆説であるらしい。

話すこと。歩くこと。詩を書くこと。
そういう腹の足しにもならない無駄こそ
全身全霊、命がけでやる、という強い誇りが、
言葉にあふれている。



ぼくらはすこし死んでいる 5.小熊秀雄

 女よ、
 真実よ、
 お前を先に突落して
 逃げかへるやうな
 私は薄情な男ではない
 人生とは
 その日、その日の、
 情死の連続のやうなものさ

これは、戦前のプロレタリア詩人
小熊秀雄の詩の一節である。

人生とは、それぞれの状況で選択を迫られる。
それは自分を限定し、
他の可能性を死なせていくことでもある。

人生はそのくり返し。情死の連続。
と、詩人は記した。

この世に、情死しない男など
いないのだ。



ぼくらはすこし死んでいる 6.岡倉天心

明治時代の思想家、岡倉天心は
こう書いた。

 堂々男子は死んでもよい。

死にもの狂いで新境地を開いていこうとする
渾身の男の言葉である。

現在の東京藝術大学の設立に奔走し、
日本美術院の創設者としても、
近代日本の美術界を築いてきた天心。

死を覚悟してはじめて、
人間の生命力は
ほとばしるのかもしれない。


tokushima2000
ぼくらはすこし死んでいる 7.松田優作

俳優松田優作が残した言葉がある。

 人間は二度死ぬ。
 肉体が滅びた時と、
 みんなに忘れられた時だ。

その意味で、伝説になった彼は
二度死んでいない。

しかし、いま生きている自分の場合は
どう考えたらいいだろう。

まわりから忘れられた時が死ならば、
毎日死んだり、毎日生き返ったり、
ずいぶん忙しそうだ。

せめて自分で自分のことは
忘れずに気をつけていたいもの。



ぼくらはすこし死んでいる 8.ジェームズ・ディーン

もし、エレガンスな死に方があるとしたら、
どういうものだろう。

ある時、ジェームズ・ディーンは
こう言葉にしてしまった。

 速く生き、若く死に、
 美しい死体になろう。

この言葉がまるで予言となり、
死神がすこしずつ忍び寄ってきたのだとしたら。

24歳での衝撃的な自動車事故死。
その死は、はたして、美しかったのだろうか。

時が過ぎ、美しい伝説のように語ることは、
生き残った者の勝手なのかもしれない。

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渋谷三紀 12年1月28日放送


A. Davey
つくる男/映画/三谷幸喜

三谷幸喜監督の撮影現場でのこと。

大工役に
たくさんの老人俳優をキャスティングしたところ、
どうも思うような絵が撮れない。

撮影前は元気なのに、
カメラの前に立つとパワーダウンして
話し方までゆっくりになってしまう。

思い悩むうち、三谷は気づく。
彼らは老人を演じているのだ。

ご老人役にはご老人俳優という作り手の意図。
そこに、演じるという演じ手のプロ意識が加わることで、
いかにもすぎる不自然な老人ができあがってしまうのだから、
なるほど、映画づくりはむずかしい。
三谷監督は俳優たちにこう声をかけた。

普通な感じで演じて下さい。
心配はいりません。
皆さん、普通のままでも十分お爺さんですから。


acaben
つくる男/ファッション/三宅一生

アップルの前CEOスティーブ・ジョブスのトレードマークとなった
黒いタートルネックは、三宅一生のデザイン。
すでに生産中止になった商品にもかかわらず
全く同じ色合い、肌合い、袖を捲り上げたときの感触のものを、
100枚以上つくらせて積んでおくほどの気に入りようだったという。
考えてみれば、

きれいで終わる服じゃなく
着たいと思う服を作ろう。
という三宅一生のデザイン哲学は、

どう見えるかでなく
どう機能するか。
というスティーブ・ジョブスの哲学とみごとに重なる。

シンプルな哲学でつくりあげた
シンプルなプロダクツは
人の身体にも心にもよく馴染むようだ。


hakkaku
つくる男/笑い/萩本欽一

天然ボケ。
いまでは普通に使われているその言葉を
初めてつかったのは、欽ちゃんこと萩本欽一。

当時明石家さんまの運転手をしていたジミー大西に、
「天然にボケてる人だ」と言ったことが始まりだとか。

悪意がなく、みんなを笑わせてくれるボケ役は、
周囲を和ませ、誰からも愛される。

ボケ役について欽ちゃんはこんなことも言っている。

自分の欠点を突かれてニコニコしていられる人は
いいボケができるよ。

それができたら、お笑いの世界じゃなくても、最強かもしれません。


hello_hiroki
つくる男/歌詞/松本隆

書いた曲は2000曲以上。
51曲のオリコン1位は日本一。
アイドルからロック、クラッシックまで
40年以上ヒットメーカーとして走りつづける作詞家松本隆。
現在も依頼がひっきりなしの松本は、
作詞についてこんなことを言っている。

「愛してる」と連呼されても信用できないでしょう。
どうしたら「愛してる」とか「好き」って言葉を使わずに
その気持ちを伝えられるか。
それがわかれば歌になります。

ともすれば、
イメージの広がりよりもわかりやすさがもてはやされる
現在の音楽シーン。
その中にあってなお
聴き手の想像力を信頼できるかどうかが
消費されない作詞家の条件かもしれない。


steevil
つくる男/エンターテイメント/ウォルト・ディズニー

決して忘れてはならない。
すべての始まりが一匹のネズミだったことを。

黒くて丸い耳に、大きな白い靴。
世界中で愛されているミッキーマウスの生みの親
ウォルト・ディズニーの言葉。

貧しかったウォルトは、
ガレージに古いカメラを据えてやっとの思いでつくった
アニメ『うさぎのオスワルド』の権利を配給会社に奪われてしまう。
うなだれて帰る汽車の中ふと浮かんだのが、ネズミのキャラクターだった。

「蒸気船ウィリー」でのデビュー後は、25年で100本以上
ミッキーシリーズの映画が制作され
ドナルド、プルート、グーフィーなど
多くの人気キャラクターがミッキーとの共演から巣立っていった。

ディズニーの成功は映画だけにとどまらなかった。
カルフォルニアを皮切りに世界中にディズニーランドを開園。
現実に夢の世界をつくりあげた。

夢が現実を変え、それがまた、世界に夢を与えつづける。
そのきっかけは複雑な理論でも難解な思想でもなく
たった一匹のネズミだった。


David_Reverchon
つくる男/詩/ジャン・コクトー

フランスの芸術家、ジャン・コクトー。
小説や演劇、舞踏、評論、デッサンと、その活躍は多岐にわたるが
すべての活動の根底には「詩」があり、
彼自身、「詩人」と呼ばれることを好んだ。

あるインタビューで
「あなたは死んだら、地獄と天国のどちらにいくと思いますか?」
と聞かれたコクトーは、こんな風に答えた。

どちらでも。そのどちらにも会いたい友人がいるのでね。

詩人、ジャン・コクトー。
「人生」という作品の根底にもやはり「詩」があった。


Edwin Leung
つくる/建築/アントニオ・ガウディ

サグラダファミリアにグエル公園、カサミラと、
スペインのバルセロナを歩けば目に飛び込んでくる独創的な建物の数々。
それらを手掛けたのが建築家アントニオ・ガウディ。

「鳥の翼は飛ぶためにあります」といった教師に、
「鶏の翼は走るためにありますよね」と反論した。
というエピソードからわかるように、
少年時代から鋭い観察眼で周囲をあっと言わせていたガウディは
こんなことを言っている。

人間がつくりだすものは、
すでに自然という偉大な書物に書かれている。

つくることは、見つけること。
創造の種は世界中にあふれていると
ガウディは教えてくれる。

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冬の猫は暖かい


冬の猫はあたたかい。
ホットカーペットであたたまっている。
湯たんぽにへばりついてあたたまっている。
電気座布団であたたまっている。

あたたまり過ぎて、ちょっと休憩でもするかというときに
飼い主のところに来るが
そういうときに触るとたいていもわっとあたたかい。

写真はホットカーペットであたたまっているハエタロー(玉子)

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三島邦彦 12年1月22日放送


Misogi
立川談志という男

落語家、立川談志は、
ファンからサインを頼まれるといつも、
その時頭に浮かぶ一言を添えていた。

酒場でサインを求められた時は、

 酔おうよ 世の中がきれいにみえてくる

おいしくない定食屋からサインを求められると、

 がまんして食え

その中で、何度も談志が書いた言葉、それは、

 幸せの基準を決めよ

そして、

 人生成り行き



立川談志という男

万雷の拍手。

向けられる先は、舞台の上で頭を下げる一人の男。落語家、立川談志。

深いお辞儀から顔を上げ、両手をふせて拍手をおさめる。
腕を組んで、何度もうなずき、口を開いた。

  また違った芝浜がやれました。
  よかったと思います。

2007年12月18日。東京、有楽町。
立川談志とっておきの十八番、人情噺「芝浜」を演じる恒例の落語会。
何度となくこの噺をやってきた談志師匠にとっても、この日の出来は格別だった。

一度下がった幕が再び上がり、談志がしみじみと語りはじめた。

 一期一会ですね。
 けど、こんなにできる芸人を
 そう早く殺しちゃもったいないような気もします。
 くどいようですが、一期一会、
 いい夜をありがとうございました。

後に、「神がかりの芝浜」と呼ばれるこの会。
落語の神にふれたせいか、いつになく謙虚な談志師匠。
一期一会の名演に、再び拍手がわき起こった。



立川談志という男

 学問は貧乏人の暇つぶしだ。

そんな、高座での奔放な発言も魅力だった、立川流家元、立川談志。
ある日の落語会で、こう語った。

  俺は正しい人間だと言える。
  なぜかというと、いつも間違ってねえかな、大丈夫かなと思ってる。
  これを正しい人間と言うんじゃないんですかね。

奔放の裏側にある謙虚さ。
これが立川流、嘘のない生き方。



立川談志という男

立川談志、35歳の時のこと。
参議院議員選挙に出馬し、周囲を驚かせた。
選挙当日の夜。
開票がはじまったが、
夜が更けても談志の名前は出てこない。
とうとう最後の当選者となった時、
立川談志の名前が呼ばれた。
リポーターからコメントを求められて一言。

 真打ちは最後に出てくるもんだ。

これぞ、落語家、立川談志の粋。



立川談志という男

落語の中には、色々な登場人物が出てくる。

あくびの作法を教える師匠。
生きているのに死んでいると思い込む人。
犬から人間に生まれ変わった人。
みかん欲しさに病気になる人。
狸に殿様、酔っぱらい。
立派な武士まで、実に様々。

落語家、立川談志は、
落語とは何かという問いを、こう結論づけた。

 落語とは、人間の業の肯定である。

業とは、人間の心の奥にある、どうしようもない部分のこと。

人間のありのままを受けとめる。
それが、落語であり、
それが、立川談志だった。

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中村直史 12年1月22日放送



立川談志という男

2007年1月。渋谷パルコ劇場。
落語をやり終えた立川志の輔は、
割れんばかりの拍手を受けながらも、いまだ緊張しているように見えた。

客席に師匠、立川談志が来ていた。
談志が弟子の落語を客席から見るのは極めてまれ。
しかも芸に厳しい談志。
客の前であろうと、何を言い出すかわからない。

「本日は客席に私の師匠、立川談志が来ております」
志の輔が紹介をした。

談志はすっと立ち上がると
ステージの志の輔に向かって、無言で親指を立てグーサインを出した。
深々とおじぎをする志の輔。
どれほどの賛辞か、本人が痛いほどわかっただろう。

立川談志は死んだ。
けれど、談志は生きている。
たとえば、志の輔の落語の中にも。



立川談志という男

精神に肉体が追いつかない。
病と老いに、談志はとまどった。
いらだち、眠れない日々がつづいた。

ヒツジを数えて寝ようとすると、無限に数えてしまう。
だから、キリのあるものにしようと思って
鈴木と名のつく人を挙げてみる。
すると記憶のひだの中から
有名人、無名人、過去の人、いまの人、いくらでも名前が浮かび上がる。
そしてまた眠れない。

ずば抜けた記憶力が
天才、立川談志の芸を支え、
同じくらい苦しめていたかもしれない。


Jaidn
立川談志という男

立川談志が落語に追い求めた「イリュージョン」を受け継いでいる。
そう評されたのが、弟子、立川志らく。

志らくは最後に談志を見舞った日、
心の中でお別れの言葉を言ったという。

 師匠、私がいるから、落語は大丈夫です。

立川流を名乗る者として、
それ以上の別れの言葉はなかった。

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五島のはなし(169)

ふつうの温泉では子どもが泳いだりすると
非常に嫌な顔されますが、
ここでは子どもが初対面のおじさんに
「よーし、おじさんのところまで泳いでくるんだ!こい!どーした!ほら!こい!」
と言われてました。

その昔、山下という名の少年が見つけたという荒川温泉。
「山下という名の少年が」っていうのがアバウトで五島っぽい。

五島には温泉もあるよー、というお知らせでした。
あ、ちなみに子どもたちが
ばっしゃんばっしゃんやっているようなお風呂ではありません。
たまたま子どもがいて、まわりに人が少なかったら
上記の様な光景になっただけでありまして、
五島の人というのはけっこう空気を読む人たちのなのです。
ゆっくり静かに湯につかることができます。

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佐藤理人 12年1月21日放送


rknickme
ジェームズ・ブラウンの『少年時代』

子ども時代の貧しさをバネに、成功をつかむスターは多い。
中でもこの男ほど「たたき上げ」と呼ぶのに
ふさわしい人物はいない。

掘立小屋で生まれ、母親はすぐに家出。
父親はいつも仕事でおらず、暮らしは食べるので精一杯。
唯一の友だちは父親が買ってくれたハーモニカだけ。
孤独のあまり、父親が聴いていたブルースを吹いたのが、

 ゴッドファーザー・オブ・ソウル

後に「ソウルの帝王」と呼ばれる
ジェームズ・ブラウンが音楽に目覚めた瞬間だった。

しかし幼いジェームズにとって、
ブルースは決して好きな音楽ではなかった。
一人ぼっちで夜を過ごす子どもにブルースは、
その名の通りあまりに悲しすぎる音楽だったのだ。



ジェームズ・ブラウンの『キング牧師』

ソウルの帝王、ジェームズ・ブラウン。
60年代、彼は公民権運動を支持し、
マーティン・ルーサー・キング牧師と親交を深めた。

1968年4月4日、キング牧師が暗殺され、
全米各地で暴動が起きると、
ジェームズはすぐに自分のラジオ局から、

 平静を保つことでキング牧師の名誉を称えよう

とメッセージを流し続けた。

翌日ボストンで予定されているコンサートもあえて敢行。
その模様をテレビで生中継して、人々を外出させないようにした。

キング牧師を称え、

暴力に訴えることは彼の魂を救うことにならない

と人々に自制を求めたこのコンサートは何度も再放送され、
結果ボストンでは一度も暴動が起きなかったという。


Heinrich Klaffs
ジェームズ・ブラウンの『仕事術』

 The hardest working man in showbusiness.

ショービジネス界一の働き者といえば、
ソウルの帝王、ジェームズ・ブラウンだ。

遅刻を認めず、演奏でミスをしたら罰金をとるなど、
最高のステージをつくるためにメンバーに妥協は一切許さなかった。
その容赦なさにメンバーとは常に諍いが絶えなかったという。

1970年のそんなある日、事件は起きた。
ギャラのアップを求めてメンバー全員がストライキを始めたのだ。

ライブ当日にも関わらず要求を撤回せず、
演奏準備を始めようとしないメンバーたち。
怒ったジェームズはその場で全員をクビにしてしまった。

しかしコンサートを中止するわけにはいかない。
無名の若手バンドを急きょ自家用ジェットで呼び寄せ、
どうにかコンサートは開催された。

そんな彼らとジェームズが初めて作った曲が、
ファンクの歴史的名曲「Sex Machine」になることは、
このとき誰も想像しなかったに違いない。

転んでもただでは起きないのが、帝王の帝王たるゆえんなのである。


Erik K Veland
ジェームズ・ブラウンの『東京』

2006年3月4日、東京国際フォーラム。
そのステージにジェームズ・ブラウンは立っていた。

ソウルの帝王と呼ばれた男もすでに73歳。
一年前には前立腺癌の手術をしたばかり。
正真正銘、病み上がりの老人だった。

癌を公表したときジェームズは、

 人生で多くのことを克服してきた。
癌も同様に乗りこえてみせる。

と語った。
そしてその言葉が嘘ではないことを彼は証明してみせた。

ミラーボール1個だけのシンプルなステージに、
ピンクの衣装を着て現れたジェームズ。
それから2時間。
彼は一度も止まることなく歌い、踊り、動きつづけた。
緻密で流れるようなそのステージを掌握しているのは、
まぎれもなく生きる伝説本人だった。


Heinrich Klaffs
ジェームズ・ブラウンの『命日』

 力がなければ自由は手に入らない。
 そして、自由がなければ創れない。

そう語ったソウルの帝王、ジェームズ・ブラウン。
貧困や差別と闘い、ライバルや時代の流れとも闘いながら、
自らの才能と努力で自由を掴んだ男。

マイケル・ジャクソンやプリンスに師と崇められる一方で、
度重なる暴力事件、麻薬所持、警官とのカーチェイスなどで
有罪判決を受けたことは数知れず。

そんな彼も、病魔には勝てなかった。

2006年12月25日、
才能と狂気が服を着て歩いている男、
ジェームズ・ブラウンは心不全で
その73年の破天荒な人生に幕を閉じた。

決して信心深かったとは思えない彼だが、
その命日は偶然にもキリストが生まれた日であった。


jbspec7
クリス・バングルの『Z8』

映画「007」シリーズでジェームズ・ボンドが乗る車、
通称「ボンドカー」はどれも超高級車でありながら、
いつも無残に大破する。

中でもシリーズ第19作
「ワールドイズノットイナフ」で使われたBMWのZ8は悲惨だった。
大型チェーンソーで真っ二つにされてしまうのだ。

そのZ8をデザインしたのが、
BMWのデザイン責任者を18年間務めたクリス・バングルだ。

その奇抜なデザインは大きな物議を醸し、
バングルはBMWを潰すために
メルセデスが差し向けた刺客ではないか、
と言いだす者さえ現れた。

しかし彼のデザインは爆発的な成功を収め、 
彼自身も世界3大カーデザイナーの一人
という最高の評価を手に入れる。

多くの批判にさらされながらも、
決して意見を曲げることのなかったバングル。
彼は自らのデザイン哲学をこう述べる。

いくらよく走るBMWでもその生涯の80%は停止している。
だから車は、そのものとして美しくなければならない。

そんな彼にとって「完璧」と思えた車が、
あの真っ二つにされたZ8であったのは何とも皮肉な話だ。


Jaidn
ブライアン・メイの『レッドスペシャル』

世界的ロックバンド、クイーン。

そのサウンドの特徴である
クラシックのようなギターオーケストレーションは、
実はたった1本の手作りギターでできていた。

 レッドスペシャル

という名のそのギターは、
ギタリストのブライアン・メイが
100年以上前の暖炉の木で作ったもの。

彼はそのギターを100回以上重ねて録音し、
あの荘厳な音を生み出した。

アルバムには

 No synths

シンセサイザーは使っていない
と誇らしげに書かれている。

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もらわれていった

我が家のお向かいさんの従姉妹の家で猫が生まれて
写真がまわってきた(上の写真左)
里親を募集中だという。
私のまわりはすでに猫飽和状態だった。
たいていの人が複数飼っている。
しかしインパクトのある顔をしていたので
もしやと思ってfacebook に出してみた。

「いいね」ボタンがいっぱい、コメントもかなり。
飼おうかなと悩む人1名、実物見ないでいいから飼う!という人1名。
飼う!と力強く宣言した人と話が進んだ。

そのうち、お向かいさんから相談のように
実は妹猫がいるという報告があった。
ええええ〜〜〜〜、びっくりしたが写真を見るとこれもかわいい。
ともかく再びfacebookに写真を載せた。

兄猫を飼うことになっていた人から
「兄妹一緒の方がいいですよね」とメールがきた。
それはもう相談というより飼うぞという意思表明だった。

里親になってくれた佐藤さんのfacebookに
毎日兄妹猫の写真がアップされる。
なぜか兄妹猫のfacebook もできた(ファンがつくったらしい)
名前はトラジ(兄)とハイジ(妹)よろしくお願いします。

しかし、他人のものになった猫はかわいく見えるな〜(玉子)

トラジ・ハイジ facebook:http://www.facebook.com/torajihaiji

飼い主佐藤さんのfacebook :http://www.facebook.com/tomoyastipo

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石橋涼子がACCクラフト賞

ただいま産休のさなかの薄組の石橋涼子ですが
さすがに受賞式には出てきました。
たまにメールなどくるとかなり親バカになりつつあることが伺えますが
そんなこととは思えないあでやかさでありました。

クラフト賞にはいろいろありますが
石橋がもらったのは下記のラジオCMのコピーに対する賞です。

パナソニック マッサージソファ/ネックリフレ/デイカロリー
お料理教室「煮込み」/「干物」/「スフレ」

とにかくよかったよかった、おめでとう(玉子)

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古居利康 12年1月15日放送


Festival Karsh Ottawa
グレン・グールドというピアニストが、いた。 ①

1964年以降に生まれたひとは、
グレン・グールドが
生でピアノを弾く姿を見たことがない。

なぜなら、1964年、このピアニストは、
コンサート活動のいっさいから
身を引いてしまったから。

かれは、1946年、まだ14歳のとき、
トロント交響楽団と共に舞台に立った。

クラシックの世界において、
早熟の天才は決してめずらしいものでは
ないけれど、しかし、かれの場合、
早くから芽生えた
コンサートに対する疑問が、
その後の生きかたを
きわめてユニークなものにした。


Piano Piano!
グレン・グールドというピアニストが、いた。 ②

32歳のとき、ライヴ演奏から
ドロップアウトしたグレン・グールドは、
50歳で亡くなるまで、
どんなに請われてもコンサートへの
出演を断わりつづける。

けれども、こんにち、
われわれは、スタジオにおかれた
一台のスタンウェイに向かうかれの姿を、
映像で見ることができる。

何本もドキュメンタリー映画ができるくらい、
グールドが残した映像は数多く存在する。

床上35.6cmという、異様に低い椅子。
猫背で前のめりになったグールドの
顔と手の距離がきわめて近い。
ピアノにすがりつくように構えた両肘は、
鍵盤よりも下に位置している。

その独特のフォームについて、
レナード・バーンスタインはこう言った。

「まるでかれ自身がピアノになろうと
 しているように見えた」


patte-folle
グレン・グールドというピアニストが、いた。 ③

1955年、
22歳のグレン・グールドは、
コロムビアレコードで
バッハの『ゴルトベルグ変奏曲』を録音する。
これがレコードデビューとなった。

よりによって、『ゴルトベルグ』か。
なんの山場もない、ややこしいだけの
アリアの変奏曲じゃないか。

プロデューサーは選曲に反対した。
ピアニストは、この曲にこだわった。

グールドは、6月にもかかわらず
マフラーを巻いてオーバーを着込み、
手袋をして録音スタジオにあらわれた。

いきなり洗面所にこもって、
両手を30分もお湯につけたまま出てこない。
ピアノの前に坐ったかと思えば
いきなり奇声を発したり、
スタジオの中をうろうろと歩き出して、
ぷいっと外へ出てしまう。

やがて首を激しく振りながら戻ってきて、
何の前触れも合図もなく演奏が始まる。
その手首が、飛び魚のように鍵盤上を
飛び跳ね、うつくしい音がやってきた。

録音室にいた誰もが唖然として、
音に酔いしれた。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ④

グレン・グールドは、
聴衆の存在は、音楽の邪魔である。
とまで言い切った。

そんなかれについて問われた、
ほかのピアニストたちは、
たいてい、やや当惑ぎみに小声で言い添える。

けれど、観客との一体感から生まれる歓びは
ピアニストにとってなにものにも代えがたい、と。

グレン・グールドは違った。
やりなおしのきかないライヴ演奏では、
理想の音楽がつくれない。
スタジオなら、納得いくまでテイクを録って、
最良の演奏が選べるではないか。

かれは、繰り返し、そう主張した。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑤

映画『羊たちの沈黙』に登場した殺人鬼、
ハンニバル・レクター博士が、
娘を誘拐された上院議員に情報を提供する
見返りに、ある音楽テープを要求する場面がある。

レクターが欲しがったのは、
グレン・グールドの『ゴルトベルグ変奏曲』。

ヨハン・セバスチャン・バッハが
2段鍵盤付きのチェンバロのためにつくった
『アリアと種々の変奏曲』。
不眠症に悩んでいたある貴族の依頼で作曲し、
バッハの愛弟子であるゴルトベルグが
演奏したため、『ゴルトベルグ変奏曲』という
通称で知られるこの曲。

おなじアリアが、30もの変奏で、
微妙に描き分けられる複雑さと長大さ。
ピアノではなく、チェンバロのための曲だった
こともあって、弾きこなすのは容易ではない。

あるピアニストは、こう言う。
誰もグレン・グールドのように
『ゴルトベルグ』を弾くことはできない。
せめて、指が6本ほしい、と。

ちなみに、映画では描写が避けられたが、
『羊たちの沈黙』の原作となったトマス・ハリスの
小説において、レクターは左手だけ、
指が6本あったとされている。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑥

グレン・グールドは、
夏目漱石の『草枕』の愛読者だった。
ラジオの番組で朗読までしているから、
相当な入れ込み方だ。

「四角な世界から常識と名のつく一角を
 摩滅して、三角のうちに住むのを
 芸術家と呼んでもよかろう」

といった部分に、グールドは深く共感していた。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
 意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引っ越したくなる。
 どこへ越しても住みにくいと悟った時、
 詩が生まれて、 画(え)が出来る」

冒頭の、あまりに有名なこの一節は、
グレン・グールドの生きかたそのものに
思えてくる。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑦

グレン・グールドの録音に
耳を澄ますと、うなり声が聞こえる。
うなり声というより、主旋律を歌う、
グレン・グールドの鼻歌だ。

グレン・グールドのスタジオ録音は、
聴衆のいないライヴ録音のようなものだ。
かれの息づかいが生々しく刻まれている。

CDジャケットの裏に、こう書いてある。
『グールド自身の歌声など、一部ノイズが
 ございます。どうかご了承ください』



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑧

グレン・グールドは、よくひととぶつかった。

レナード・バーンスタインとは、
ブラームスの協奏曲第一番の解釈をめぐって対立。
演奏会の冒頭で、バーンスタイン自身が、
じぶんはグールドの演奏に賛成しかねる、と
表明してから指揮をはじめる、異例の事態を招いた。

クリーブランド管弦楽団の指揮者、
ジョージ・セルは、リハーサルのとき、
30分間も椅子の高さを調整していたグールドに、
激怒。指揮棒を放り投げてしまう。

けれど、バーンスタインはその後、
「グールドより美しいものを見たことがない」
と、グールドの才能を認め、
セルも、「あいつは変人だが、天才だよ」と脱帽。

グレン・グールドとの
うつくしい共演盤を残したヴァイオリニスト、
ユーディ・メニューインは、こう言った。

「結局、かれは正しかった。」

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