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坂本和加

坂本和加 11年8月27日放送


おばけ① 上田秋成

残暑のきびしい
晩夏にほしくなる、怪談話。
けれど、眠れなくなりそうな話
では困る方に「雨月物語」はどうだろう。

上田秋成によって
江戸時代末期に書かれた
9編からなる怪談話は、
文学作品としてもすばらしく、
現代語訳なら、私たちにも読みやすくありがたい。

上田秋成の描く幽霊は恐ろしい。
我欲に執着し苦悩する、その有様が
まるで人間の本質を
さらけ出すようだからであろう。

幽霊もまた、人間から生まれたもの。
作者、上田秋成は、医者でもあったが、
狐狸や幽霊のたぐいを、かたく信じていたという。






おばけ② 三遊亭圓朝

日本の幽霊は「足がない」。
そのセオリーをくつがえしたのは
牡丹灯籠のお露さんと言われている。
提灯片手に「カランコロン」と
下駄をならしてやってくる。

創作は落語中興の祖、三遊亭圓朝。
この有名な怪談話は
落語が広く いまに伝えた。
圓朝の落語は、現代落語のように
オチのある滑稽話ではなく、
語りの芸でぐいぐい観衆を引き込み
つづき聴きたさに 寄席へ
客を通わせる落語だった。

圓朝と深く親交のあった山岡鐵舟は
「お前の話は、活きておらん!」といい
若かりし圓朝を叱り育てたというが、
圓朝の弟子たちは
「師匠の落語は死人の話ですから」
と言ったとか、言わなかったとか。

お後がよろしいようで。




おばけ③ オバケのQ太郎

オバケのくせに
ちっともこわくない。
ドジで大食いで、犬が苦手で、
日本中の子どもたちに愛された
人間みたいなオバケ、
それがオバケのQ太郎。

藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、
ふたりの天才漫画家による
さいごの合作作品は
1965年にテレビアニメがはじまるやいなや
30%を超える視聴率を記録。
「オバQブーム」は社会的現象にまでなった。

しかし、コミックは長らく絶版が続いた。
復刊は、ほぼ20年ぶり、おととしのことだ。

ああ、よかった。子どもたちが、
オバケのQ太郎を知らずに大人になることも、
このまま忘れ去られていくこともなくなった。

いちばんほっとしているのは、
オバケのQ太郎 本人かもしれません。




おばけ④ 柳田国男

都会からすこし離れ、田舎をいけば
どこでも見かける小さな「ほこら」。
あの中には、
いったい何が入っているんだろう。
怖い、けれど、見たい・・・。

『遠野物語』の著者であり、
日本の民俗学の礎を築いた柳田国男は
幼年の頃、その「ほこら」を恐る恐る覗き
神秘体験をしたのだそうだ。

人間の根っこにある
「怖いもの見たさ、知りたさ」は、
柳田国男の民俗研究を前へ前へと進めた。
妖怪を「信仰が失われ、落ちぶれた神々」と
定義し、各地の民話と共に数多くの妖怪を紹介した。

けれど、ミステリアスだと思いませんか?

テレビもラジオもない時代から
天狗も座敷童もカッパも、
全国各地で言い伝えられていて、
その風貌からいたずらまで、
まったく一致するのだということ。




おばけ⑤ 水木しげる

数々の愛すべき妖怪漫画を
執筆してきた漫画家、水木しげる先生が、
また新しい肩書きを持った。

「お化け大学校 総長」。

通称「化け大」。
そのキャンパスは京都にあり、
OBに、鬼太郎やねずみ男、
教授陣には妖怪学の権威、
荒俣宏氏、京極夏彦氏といった
豪華な顔ぶれがならぶ。

お化け大学は、学校なので入学希望者を募っている。
けれど「ゲゲゲの鬼太郎の歌」にあったとおり、
「試験もなんにもない」から、誰でも入学可能。

他人との比較ではない、あくまでも
自分の楽しさが大事。

水木しげる総長のお言葉である。




おばけ⑥ 六条御息所

お化けは信じませんか?
では、生き霊はどうですか?

日本人にとって長らく
生き霊はもっとも畏怖すべき対象だった。

たとえば、紫式部による古典の傑作、
「源氏物語」の登場人物である 六条御息所。

能の謡曲としても人気演目で、
最近では作家 林真理子さんによる
書き下ろしも出版された。

ところで、
古語では、生き霊が歩き回ることを
「あくがる」という。
それが転じて「あこがれる」となったそうだ。

あこがれるほどの激しい思い、には
注意が必要ということかもしれない。




おばけ⑦ 円山応挙

江戸時代に活躍した絵師
円山応挙の作品に
「お雪の幻」という幽霊画がある。
日本の幽霊に足がないのは
この画がはじまりといわれるくらい有名な一枚だが
応挙は、どうやら
幽霊を描いたわけではないのだそうだ。

画のモデルは
病気がちだった妻、お雪。
その死後に、応挙は愛しい妻を、描いた。
写生は応挙の得意とするところだったから、
病に伏した妻が、乱れ髪で厠に立つ姿を
見たままに描いた。
暗がりで見えない足元はそのままに。

いつしかその画は、女の幽霊と
言われるようになったけれど、
愛情をもって描かれていることがよくわかる。

恐ろしいと思ってみれば、怖いものだ。

幽霊の正体見たり、枯れ尾花。

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坂本和加 11年5月7日放送



野尻抱影

ひとには、誰にでも、
「忘れられない星空」が
あるのだと思います。

野尻抱影にとって、
それは24才で観た、ハレー彗星。
それから、南アルプスの、
手に取どきそうな星空。

輝く星に傾倒し生涯を捧げた
天文民俗学者、野尻抱影は、
星の和名の収集家としても知られた。

けれどなんといっても、
彼の業績は「プルート」の
和名を名付けたことだろう。

プルート、冥王星は、
現在、アジア諸国でも、
その名で呼ばれている。







後白河上皇

教科書に載っているような
童謡も、流行歌も、
「七五調」がしっくり来るのは、
やはり日本人だからであろう。

平安時代に生まれた
七五調のリズムは、
「今様(いまよう)」と呼ばれる歌曲だった。
この平安時代のJ-POPを、
ときに喉を痛めるほど
愛したのが後白河上皇。

遊びをせんとや生まれけむ

後白河上皇が編纂した
「梁塵秘抄」の有名な一節。

この「梁塵秘抄」もまた、
遊びから生まれたものであることは
言うまでもありません。




萩本欽一

どんなにつらいことがあっても、
ひとは笑うことができる。

けれど、笑わせることを
日夜考えている人にとっては、
実に大変なこと。

それは、ふつうじゃないことを
考えること。でもウソじゃないこと。

「欽ちゃん」の愛称で
日本中で慕われる萩本欽一さんは、
お客さんの中に
ふつうに入っていって、
知らない間に虚構の世界に
連れていく。それがプロだと言う。

笑っていると元気が出ます。

どんなときも、
笑うことを忘れずに。




ジャーナリスト 武田徹

わたしたちは、知りたがる。
今、ここではないどこかで
起きていることを。

ジャーナリストの
武田徹さんは、
ナマであることは
必ずしも「現場に近い」
ことではないと言う。

もしかしたら
ナマの情報のように見えている
だけなのかもしれないと、
付けくわえる。

たいせつなのは、
核心から、離れないこと。

ときにインターネットは
たくさんの情報を連れてきすぎるから。
私たちは、情報を発信することも
できるのだから。





糸井重里

あなたがまだ若くて、
個性のあるひとに
なりたいのなら。

ほぼ日の主宰、
コピーライターとしても知られる
糸井重里さんは
こんなふうに言っている。

個性は、つまりは、悲しみの傷跡。

すごくつらいことが
そのひとの「譲れない個性」になっていく。

たとえば、
天然の餌を追いかけている
魚や動物たちがおいしいのは、
命をつなぐために必死で餌をさがすから。

人間もまたしかり、なのだそうです。




寺田寅彦

大きな震災が起こると、
昔の日本人は
「世直し」と互いに言い合い
立ち直ってきたのだそうだ。

物理学者でもあり、
地震研究でも知られる
寺田寅彦は、
予測できない震災の危うさを
我々は炬燵を抱いて、氷の上に
座っているようなものだ、と例えた。

そして、寺田寅彦自身も
関東大震災を経験し、その甚大な被害を
自分の責任であるかのように言ったそうだ。

「天災は忘れた頃にやってくる」という警句は、
寺田の言葉だといわれているが
「防災」という言葉もまた彼の命名であるらしい。

彼はこのような言葉とともに優れた弟子も残した。
昭和10年に刊行された「防災科学」は
風、水、雪による災害から地震や凶作までを網羅するが、
その執筆者の多くは寺田寅彦の愛弟子であり
それぞれの分野の第一人者だった。




石黒由美子

叶えたい現実があるのなら、
それを夢に終わらせない方法がある。
それが、夢ノート。

考案者は石黒由美子さん。
北京五輪ではシンクロの選手だった。

石黒さんは、
幼少のときの大事故で
たくさんの後遺症を遺しながらも
小学生でシンクロをはじめた。
夢ノートは、そのときはじめた。

付け方は簡単。
まず、できるだけ具体的で
すこしがんばれば叶う目標を書くこと。
叶ったら「ありがとうございました」と
感謝を書き添えて消す。

そのくり返しで、
たくさんの夢を叶えてきた
彼女のノートには、いま、
「夢は叶えるためにある」と綴られている。

あなたの叶えたい夢はなんですか?

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坂本和加 11年4月17日放送



国語辞典と大槻 文彦 ①

日本語の五十音表記が
「いろはにほへと」から、
「あいうえお」に統一されたのは
いろは歌が「旧仮名遣い」だったことが大きい。
 
その「あいうえお順」の
普及に大きく貢献したのは
明治時代に初出版された国語の辞書だろう。
 
編纂は大槻文彦。
普通語にこだわり、
日本で初の国語辞書をつくった。
 
すばらしいのは、その名前。
ことばの海と書いて、「言海」という。
なんて辞書にふさわしく、
センスあるネーミングだろう。
 
しかし、もっと驚くのは、当時、
大槻が文部省の、いち公務員であったこと。





国語辞典と大槻 文彦②

日本で最初の国語辞書は、
大槻文彦によって作られた。
 
明治37年に出版された
この国語辞書の縮刷版は、
4年で180回も増版を繰り返すほどの
大ベストセラーとなった。
そして、大辞林、広辞苑などの、
国語辞書の土台にもなった。
 
たとえば「猫」について調べてみれば、こうだ。
 
人家ニ飼フ小サキ獣、人ノ知ル所ナリ。 温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕レバ飼ウ。然レドモ、窃盗ノ性アリ。 形、虎ニ似テ二尺に足ラズ。性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル。ソノ瞳、朝ハ円ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガリテ、暁ハ再ビ玉ノ如シ。
 
 
なるほど、ベストセラーになった理由が、よくわかる。





国語辞典と大槻 文彦③

国語辞書についている前書きで、
たぶん日本一、興味深くて面白いのは
「言海」という日本で最初の国語辞典だ。
 
そこには、
「空白となりて、
老人の歯のぬけたらむような所がある」ことや、
ことばの意味を整理しながら
「ひとり笑へることありき」だったこと、
由来に悩み抜いたことばのことなど、
いくつも、いくつも記されている。
 
序文の著者は、大槻文彦博士。
思わずクスリと笑ってしまうのは、
大槻博士のことばへの愛が、溢れているから。
ことばの海と書く「言海」で、
大槻博士はすばらしい旅をしたのだろう。
 
敷島や やまと言葉の海にして
拾ひし玉は みがかれにけり
 
後書きにある、和歌である。





国語辞典と大槻 文彦④


日本で最初の国語辞典、
『言海』をつくった大槻文彦には、
如電という、学者の兄がいた。

何事にも積極的な兄と、
こつこつと着実に歩を進めるタイプの弟。
この兄弟の、まったく異なった気質を
その父は、ふたりがまだ幼い頃に言い当てている。

兄、如電は、碩学でありながら
世間一般からは、変わり者として
知られていたようだが、
弟、文彦が『言海』の改訂版
『大言海』の発刊を待たずに亡くなると、
兄は、その遺志をついだ。

辞書にまつわる、ちょっといい話。





大漢和辞典と諸橋 轍次①

図書館で大漢和辞典を、
手にしたことがあるだろうか。

初版から約50年。
世界最大のこの漢和辞典は、
全15巻、1冊1キロ以上。
うち1巻は、この辞書を引くためにある。
 
収容漢字数のスケールが
伝わるだろうか。
この壮大な辞書編纂の中心人物は、
諸橋轍次博士。
 
大正時代、留学先の中国で
辞典もなく、博士はたいへん苦労した。
 
ないからつくる。必要だからつくる。
自分はその器ではないとしても
進んでその任に当たってみよう。
 
世紀の大事業も、
そのきっかけは、いたってシンプル。





大漢和辞典と諸橋 轍次②

1960年に刊行された
大漢和辞典の初版は、13巻。
その編纂の中心となった、
諸橋徹次博士は完成前から
後継者による改訂を願っていた。
 
オックスフォードをはじめ
名だたる辞典はみな、
後人によって完成されるもの。
 
その修訂版編集も長きにわたり
博士の死後ようやく、平成の世に出版され、
大漢和辞典は全15巻となった。
 
特筆すべきニュースは、その際、
漢字の本家である中国政府から
500セットもの発注を受けたこと。





大漢和辞典と諸橋 轍次③

漢字の祖国、中国にもまだない
漢和辞典を一からつくる。
 
気の遠くなるような
作業だったに違いない。
大漢和辞典の産みの親ともいわれる
諸橋轍次博士は、それを
35年の歳月をかけ、やってのけた。
 
博士は、
座右の銘を聞かれると、
四字熟語でいつもこう答える。
 
「行不由径」(こうふゆけい)
 
その意味は、近道をせず、大道を堂々と進め。
 
なんでも「検索」が当たり前の世のなか、
辞書を引き学ぶことは、やはり大道である。





大漢和辞典と諸橋 轍次④


全15巻からなる、世界最大の
大漢和辞典が、大修館書店から出版されている。
 
たいていの図書館にある
この辞典を手にしたら、
ぜひ序文を読んでほしい。

この序文は、編纂の中心人物
当時78才の諸橋徹次博士によって書かれた。
発刊までの35年という月日の中、
空襲で、完成を目前にした
版や資料の大部分が
焼けてしまったこと、
途中でほぼ失明の状態にあったこと。
それでも、幾多の人の支えがあり
ようやく刊行の運びとなったこと。
 
この壮絶なドラマは、
ほんとうにあった話。

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坂本和加 11年01月08日放送



南方熊楠とチョボ六

粘菌研究の一人者、南方熊楠。
50年間毎日続けた日記には、
ときどき猫も登場する。

熊楠は、大の猫好き。
漫画家 水木しげるが、
「熊」でなく、「猫楠」という
伝記を描いたほど。

留学先では、冬の寒さを
猫を抱いてしのぎ、
帰国後は、猫が妻との縁を
とりもつようなこともあった。

けれど猫の名前は、みなチョボ六。

研究用の粘菌が
チョボ六たちによって
なめくじから
守られたこともあったという。

後に、本人曰わく。

ちょっとしたつづきものより、
予の伝の方が面白かろうと思うが、如何。





リンカーンと猫

アメリカの奴隷解放の父とされる
アブラハム・リンカーンには、
猫好きならではのエピソードがある。

南北戦争時代、
軍の本部に迷い込んだ
3匹の子猫を偶然みつけて、
「猫くん、君たちは猫でよかった」と話しかけ、
その後も母猫のいない
その子猫たちを見かけるたび足を止め、
戦争で息子を失った母親もいるんだから、
君たちも元気を出さなければと
声をかけていたらしい。

ユーモアと深い慈悲と情愛にあふれた
リンカーンは、ホワイトハウスで
4匹の猫と暮らした。

大統領官邸で、
はじめて猫を飼った大統領でもある。





養老孟司とまる

解剖学者、養老孟司先生は、
6才になるオスの
スコティッシュフォールドを
飼っている。名前は、まる。
体重は、まるまると、7キロ。
まるは、鎌倉にある養老先生のお宅で、
猫の営業部長をやっているらしい。

天気のいい日は、縁側にデデンと座って、
ひなたぼっこや毛繕いをする。
それを養老先生が、にこにこと見ている。
そんな、まるの本が、もう2冊も出た。
帯のコピーは、養老先生が書いた。

まるを見ていると、働く気が失せる。

なるほど。それでまるが、営業部長なんですね。





熊谷守一と猫

画家でもある作家、赤瀬川源平は
熊谷守一の描いた猫をみたとたん
「猫だ!」と思った。そして、
たいへんなひとがいたものだ。
この画は、神秘に近いと絶賛する。

熊谷守一は、
どんなに貧しくても、
画を描いて金にかえる
ということができない画家だった。

それゆえ
遺した作品は多くはない。
しかし、描きたい想いに忠実だからこそ
画にはにじみ出るような迫力があり、
見る者の琴線に触れるのだろう。

生きものは、ひとと違ってウソがない。

そういって、
とりたてて猫を愛した清貧の画家は、
96才まで生きた。





谷崎潤一郎と西洋猫

猫好きは、マゾヒスティック。

そんなイメージをつくったのは、
もしかしたら
谷崎潤一郎かもしれない。

西洋猫をこよなく愛した谷崎は、
わがままで気品があり
媚びることも緩急自在で、
動物の中でいちばん美しいと
猫を絶賛する。

猫を題材にした作品も遺したが、
猫が登場せずとも、
美少女や妖婦に翻弄され隷属する男など
その作風を、
猫と谷崎の関係に見立てると
なるほど腑に落ちる。

さて。では、あなたは。
猫派ですか? 犬派ですか?







大島弓子とチビ猫

世に発表されたときは、
少女漫画として。けれど、
その作品のクオリティの高さから、
男性が読んでも恥ずかしくない少女漫画に
なったものに「綿の国星」がある。

「綿の国星」は
漫画家、大島弓子の代表作で
擬人化された子猫が世の中を学んでいく物語。

30年以上前に発表されたものなのに、
世代を超えたファンがいる。
それはきっと、
美しさやはかなさといっしょに、
世界のほんとうが、宿っているから。

「綿の国星」こそ
クールジャパンではないか。





稲垣足穂とカア

 特に猫好きじゃあないんだ。
 けれど昔、子猫を死なせてしまったから。

作家、稲垣足穂は
猫を可愛がる、その理由を
生前そんなふうに言っている。

銭湯にいけば、
なまり節を買ってくる。
書き物の上に猫が座れば、どくまで待つ。
12月半ばに、猫一匹救うために
古井戸に飛び込んだこともあるという。

トラ猫のカアは、
ずいぶん永く、足穂と暮らした。
名作も生まれた。

黒猫のしっぽを切った話

ある晩黒猫をつかまえて
鋏でしっぽを切ると
パチン!
と黄色い煙になってしまった
頭の上でキャッ!
という声がした
窓をあけると、
尾のないホーキ星が
逃げていくのが見えた

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坂本和加 10年12月25日放送



モーリス・ユトリロ(1883.12.26生まれ)

画家、モーリス・ユトリロ。
その人気とは裏腹に、
ユトリロの生涯は、
なんと不幸だったのだろうと
ひとは、思うことだろう。

母に愛されず、
10代でアルコール依存症になり、
治療のために始めた絵画が、うけた。
その後、ユトリロは
母に言われるがまま
軟禁状態で画を描くことになる。

クリスマスの画も描いている。
きっと、母親に乞われるままに。

けれどユトリロは
母が、世界のすべてだった。

「シュザンヌ・ヴァラドンと呼ぶわが母は、
 気高く、美しく、善良な女である」

幸福か不幸か。それは他人が決めることではない。








クララ・バートン(1821.12.25生まれ)

アメリカでは
戦場の天使と呼ばれた
クララ・バートン。
その肖像はみな、
シンプルな黒いワンピース。
彼女に、一度でも
華やかなクリスマスが
あったのだろうか。

そう思わせるほどクララは、
その生涯を「人を救うこと」に費やした。

30代で南北戦争に赴き
負傷者救済の経験から後、
アメリカ赤十字の創始者となる。

引退後は、応急手当協会を設立。
自宅を改装してまで
応急処置法と救急箱の普及進めた。
90歳で亡くなるまで。

クリスマスに生まれた
彼女の職業は、慈善事業家。
生き方そのものが、
サンタクロースだった。





アイザック・ニュートン(1642.12.25生まれ)

忘年会にクリスマス、
12月は、なにかとお酒を
飲む機会が多いけれど、
「12時までには寝た方がいい」
と、客観的に自己分析し実行していた
18世紀の自然科学者がいる。

アイザック・ニュートンが、そのひとだ。

それは、12時以降に起きていると
一日中研究をしていた日よりずっと
翌日の疲れが残っていると、
ある日気づいたため。

朝は、紅茶の代わりに
オレンジの皮を煮出した湯に
お砂糖を入れたものを飲むことが
ニュートンのもうひとつの健康法で、
実際、彼は、85歳まで生きた。

きょうは、クリスマス。
ニュートンの誕生日でもある日です。





カール・ユーハイム(1886.12.25生まれ)

クリスマスの
ドイツ菓子といえば、
シュトレン。けれど
日本人にもっと馴染みのある
ドイツ菓子は、バームクーヘンだろう。

それを日本に広めたのは、
ドイツ生まれの菓子職人
カール・ユーハイム。
洋菓子メーカー、ユーハイムの創業者。

戦前にやってきたバームクーヘンが
日本で長く愛されつづけたのは、
あの切り株の年輪のような見た目に
縁起を担いだからに違いない。

けれど残念ながら、
本国ドイツには、そういった
縁起のいい「いわれ」はない。


平和を作り出す人たちは、幸いである。


神戸にあるユーハイムの墓石には、
日本語で、そう書かれている。





クリスマス生まれ

とある占いによると、
12月25日に生まれたひとは、
さっぱりとオープンな性格で、
責任感も強く、直感力があり、
ひとづきあいが得意なひとだそうです。
向いている職業に、医者や公務員、
研究職など。恋愛は、調和や平和を
強く求める傾向にあるのだとか…。

同じ日に生まれた偉人には、
乃木希典、植木等、
コンラッド・ヒルトン、
ハンフリー・ボガードなどがいます。


きょう、12月25日に生まれた方、
おめでとうございます。

そして、メリークリスマス。





コンラッド・ヒルトン(1887.12.25生まれ)

海外のヒルトンホテルの客室には必ず、
聖書と一緒に「be my guest」という
一冊の本が置いてあるのだそうだ。

それは、ホテル王、
コンラッド・ヒルトンの自伝。
ビジネスマン必読の書、
ということになっているらしい。

ところで、この本、
日本でも翻訳され
書店で手に入るのだが、
そのタイトルは、
『ホテル王の告白』。

商売がうまいとは、このことか。

きょうは、クリスマス。
東京のヒルトンは、
ほぼ満室だそうですよ。





金子光晴(1895.12.25生まれ)

若かりし頃は反戦の、
晩年では、家族愛の詩人。
金子光晴は、
クリスマスギフトに
ぴったりな詩集を出している。

題名は「若葉のうた」。
生まれたばかりの孫娘、
若葉ちゃんのために、
72歳の金子が書き下ろした。

そこには、
まるで恋する若者のような、
みずみずしく繊細なことばがある。
けれどそれは、
長く言葉と格闘しつづけた
老齢の詩人だからこそ
出会えたことば。

クリスマスにことばを贈るなら。

あなたは、家族に
どんなことばを贈りますか?

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坂本和加 10年11月13日放送



写真家 荒木 経惟

20代までは、
親からもらった顔。
30代以降は、
してきたことが顔にでる。
そう聞いたことがある。

50年以上にわたり
今も精力的に活動を続ける
写真家、アラーキーこと
荒木経惟は、ここ10年近く
日本人の顔シリーズと称する
膨大な数の作品を撮っている。

顔を変えるのは、
じつは風土や時代じゃない。
まわりのひとです。
愛するひと、愛してくれるひとがいるひとは
かならずいい顔をしている。

生きているひとの、
そこに表出しているものを
アタシは撮らされていると荒木経惟は言う。

荒木経惟の撮った写真には、愛がある。





事業家 リチャード・ブランソン

ヴァージングループの創始者、
リチャード・ブランソンは
16歳で「僕が校長なら
もっとうまい経営をする」。
そう言って学校を去った。

ヴァージンの起業はハタチのとき。

今でこそブランソンといえば
メディアを手玉に取るような
派手なパフォーマンスが
よく取りざたされるが、
それは宣伝効果をねらった戦略。

創業時は、来客があれば
わざとスタッフに
外から電話をかけさせ
活況を装ったこともあると言う。

成功のためなら、なんでもやる。
けれど、とにかく楽しんで、する。

楽しんでいるひとは、つよい。





ブックディレクター 幅允孝(はばよしたか)

時代が求めれば、
あたらしい職業も生まれる。
ブックディレクター、
幅允孝さんの仕事がそうだ。

依頼されて、
しかるべき場所に
「本棚」を作りに行く。
たとえば、カフェに。
病院のリハビリ施設に。

書店が品揃えなら、
幅さんのつくる本棚は、
そこに発見と一期一会がある。
好きな本を並べるだけでは
ただのおせっかいです。
そう言う幅さんの、徹底した
取材から生まれたセレクトが、
ひとと本の、新鮮な出会いを
つくっている。

世の中には、
星の数ほど本がある。
人生は、何冊出会えるかです。





クラフト・エヴィング商會×吉田篤弘と吉田浩美

クラフト・エヴィング商會の
創業は明治30年。
吉田篤弘さんと浩美さんは
現在その3代目なのだが、
扱う品物はすべて架空の世界にある。
たとえば、「堪忍袋の緒」に「舌鼓」。
それらを軽快な文章と
イラストで綴った書籍。
あるいは、先代の残した未来から届く
へんてこな古書を紹介する書籍。
それが、クラフト・エヴィング商會の商品だ。

吉田さんご夫妻は
空想をていねいにあたため、
たしかな構想にかえて、
それを仕事にしてしまった。
それも、とびきりおもしろく。

みんながそう簡単に
まねできない仕事なら
オンリーワンになれる。





だれかのなりたい職業×バービー

小学生にきいた2010年の
「大人になったらなりたい職業」の
1位は、男子が野球選手で、
女子は食べ物屋さん。
そう聞いて、ちょっと
ほっとした気分になる。

バービーの愛称で知られる
アメリカ生まれの17歳は、
ウェブ投票で、
ことし126番目の職業、
コンピューターエンジニアになった。

リカちゃんが永遠の
小学5年生であるのにくらべたら
ずいぶんアメリカ的。

でも、バービーがこれほどの
キャリアウーマンだったとは。
驚きです。





思想家×吉本隆明

たとえば、
いまの仕事が
自分に合っているのかと、
疑問に思うひとがいる。

戦後思想家の巨人、
吉本隆明さんに言わせれば、
なりたい職業と
他人から見た向き不向きは
違うものなのだそうだ。

ならば、どうしたらいいか。
吉本さんの答えは、
「両方やってみればいい」。
できれば、それが対になるように
表と裏の関係で修練すればいい。

吉本さんの言うことは、シンプル。
働くことを、こわがるな。








翻訳家 岸本佐知子


売れっ子翻訳家、
岸本佐知子さんは、
すこしあまのじゃくなひとだ。

敬愛する谷崎潤一郎の
小説を読み、最高に内容がない。
と、ほめちぎる。
内容がないのに最後まで読めて、
何度でも新鮮で発見と驚きがある。
そこが、スゴイと絶賛する。

もとより、彼女は
自由なものを書いていい場所で
なぜこんな普通の話を書くのか。
と、長らく思っていたらしい。

だからなのか。
彼女のエッセイは、抱腹絶倒の
妄想のオンパレード。もはや、
エンターテイメントといっていい。

近ごろ笑ってないあと思ったら。
岸本佐知子さんのエッセイを。
電車の中では、読めません。

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坂本和加 10年10月16日放送



「かける」× マーガレット・ハウエル

椅子は、かけるもの。
けれど、だれもかけていなくても
美しいと思わせる椅子がある。

ミッドセンチュリーの英国製。
その椅子を復刻し、
現代にプレゼンスしたのは、
ファッションデザイナーの
マーガレット・ハウエル。

アーコール社製の
その椅子には
著名なデザイナーの
華々しさはないけれど、
質のいい職人の作った
堅牢な機能美がある。

長く使えるもの。
多少ほころびても、
くたびれても、捨てられないもの。

「よいもの」であること。
それがマーガレット・ハウエルのデザインだ。

Good design is timeless.





「賭ける」× 寺山修司

ひとつの肩書きにはおさまらず、
まさに、職業「寺山修司」だった彼が、
大の競馬好きでもあったことは、
よく知られていること。

おもしろいのは、
寺山流馬券の買い方。
クセのある馬を気に入っては
手元の数字を組み合わせて
当てずっぽうに買う。
だから寺山は結局
いつもゼロに賭けた。

「儲かってますか」という質問には、
こんなふうに返したという。

では、あなたがこれまでに見た芝居で、
泣いたのと笑ったの、どちらが多いですか?

競馬ファンが握りしめているのは、
馬券なんかじゃない。
自分自身の過去と未来だ。





「かける」× 浜田真理子

ファン層は30代女性を中心。
そのライブには
著名なタレントや女優まで
足繁く通うという
シンガーソングライターがいる。
浜田真理子。

ちいさなジャズバーで
始まった彼女の音楽は、
いつしかせつない言葉たちを
味方につけた。

クチコミで広がった噂に、
メジャーデビューの声もかかった。
けれど彼女は、いまも松江で、
好きな音楽をして、
ふつうのひとと同じように暮らす。

東京に行かないのは、
東京でなくても、できるから。

本物というのは、やっぱりすごい。





「かける」× 小出義雄

育てた上げたマラソン選手は、
きっともう数え切れない。
有森裕子も、高橋尚子も
あの監督がいなければ、
メダルはなかったと口をそろえる。
それが、小出義雄監督だ。

小出監督は、
昨今のマラソンブームの立役者でもある。
都知事に東京マラソンを提言し、
ウェブでは市民ランナーを
指南する「小出道場」を運営する。

「一般のひとに、マラソンの楽しさを」。
金メダルのつぎに見た小出監督の夢は、
あっという間に叶った。
いまは2度目の金メダルの夢を見ている。

とにかく好きなんだな、かけっこが。

監督、つぎのオリンピックが、
今から楽しみです。





「夢にかける」× 野口聡一

宇宙飛行士、野口聡一さんは、
小学校1年生のとき文集に
「ロケットに乗りたい」と書いた。

初フライトは40才。
野口さんは30年以上も、
夢を追いかけつづけたことになる。

ただ毎日、ちいさな目標を
掲げてクリアする。
その積み重ねの延長に、
宇宙の夢も見えてきた。

100年後、宇宙飛行士は
めずらしくない職業になる。
僕は歴史に名を残すより、
宇宙への挑戦を続けた
名もなき宇宙飛行士のひとりでいい。

そうか、情熱が夢を追いかけているのだ。








「書ける」× 眞木準

たとえばあなたが、
うまいスピーチや
企画書の書けるひとを、目指すなら。
ことばを、豊かで美しく、
広がりと厚みのある
表現に変えてくれる
テクニックがある。

たとえば、
古今和歌集の時代から
いまも連綿と続く掛詞。

平成のレトリックなら、
広告のキャッチコピーに、
それが見つかる。

 ネクタイ労働は、甘くない。

コピーライター、眞木準。
クールでシャレた
コピーをつくる天才だった。





「手塩にかける」× 金子美登(かねこ よしのり)


いまでこそ有機野菜は、
安全でおいしい、
栄養価も高いと人気だが、
40年前は、そうではなかった。

お手本を里山の生態系に、
金子美登さんは
独自の有機農法を実践した。
利潤を追求するより、
「見事に循環している自然」
に含まれること。ひとも野菜も。

生産量が少ない
金子さんの野菜を
味わえるのは地元のひとだけ。

だから、いいのだ。

全国各地に、金子方式ができれば、
日本が抱えるさまざまな問題も
かわるだろうと
金子さんは思うから。

21世紀は耕す文化。
工業や製造業にはない感動が、
まだ農業にはあると、鈴木さんは言う。

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坂本和加 10年08月07日放送



職人たち
 印伝屋 十三代 上原勇七


伝統を守ることが大切と思うなら、
ひとに愛され、使われ続けなければならないと思う。


甲府で400年近くつづく印伝屋、
十四代 上原勇七(ゆうしち)の話をきいて、
不易流行ということばを思い出した。

不易流行を、やさしくいうなら
変わらずに、変わること。

東京・青山にある直営店の商品を手に取ると
しっかりとした鹿革にトンボ柄に、繭玉模様。
古典柄でありながら、21世紀の印伝は、
なんと新しくモダンで、しゃれて見えることだろう。

新作をひとつ、求めると、
「この商品の感想は、
10年たってからお聞かせください」

財布に小袋、ペンケース
店に並ぶ商品を買う人、使う人も
また、伝統の一端を担っている。





職人たち
 ラーメン職人 中村栄利


経験がなくても、
弟子入りしなくても、
ひとは、成功できる。

神奈川県大和市の郊外にある、
ラーメン「中村屋」のオーナー
中村栄利(なかむらしげとし)が、それを証明してくれている。

22歳ではじめた店は、
いまや最高7時間待ちの超人気店に。
研究への原動力は、
もっとうまいラーメンをつくりたい、ただそれだけ。

中村は、あるとき確信する。
「自分は、ひとより嗅覚が鋭い」

成功の理由は、それだけではないかもしれない。
けれど、自分の強みを知っているひとは、
成功するチャンスをつかむ資格が、きっとある。





職人たち
 左官職人 挾土秀平


人工的なコンクリは、土に戻らない。
なのに、寿命は短い。
土蔵は、二百年以上もあるというのに・・・。

コンクリでなく、土がやりたい。

左官職人、挾土秀平(はさど)は、
土壁に夢中になって、
気づけば日本一有名な左官屋になってしまった。

挾土にとっては、それが悩みだった。
有名になるほど、作るものが
作品になってしまう。
挾土は、職人でいたいのだ。

女性演出家、残間理恵子(ざんまりえこ)は
こうアドバイスした。

  職人か、作家か、決めるのは世の中。

挾土は、どろんこになって、
今日も土壁と格闘している。





職人たち
 仏師 松本明慶


その仏像はひと目見ただけでため息が出る。
やわらかな木肌、繊細な陰影。
慈愛という言葉を目の当たりにした感覚をおぼえる。

その仏像の作者は仏師、松本明慶(みょうけい)。

彼は、仏像を彫るのではなく「仏を呼ぶ」という。
それは木に宿っている仏さまを、取り出し
現世に迎えいれること。

自分は彫ることで、仏様に生かされている。
それが松本明慶の現在の境地。

松本明慶の師、宗慶は
鎌倉時代の名仏師、運慶・快慶から伝わる
800年の秘伝を明慶に伝えたが
同時にこんなことも言った。

  すこし天狗になりなさい。
  それがいちばん上手くいく。

難しいけれど、
なにごとも、良い案配、ということ。





職人たち
 プロフィギュアスケーター 荒川静香


2006年、トリノ五輪の
金メダリスト荒川静香は、
5才でスケートをはじめた。

すぐに天才と呼ばれた彼女だが、
家はごくふつうの、サラリーマン家庭。
衣装の多くは、母の手作り。
子どもにスケートを続けさせることが
どれだけたいへんなことか、
彼女は、肌で知っている。

プロデビューとなった、
最初のアイスショーは
その収益の一部をチャリティにした。
もちろん、スケート界へ。

「金メダルのひと」より、
「イナバウワーのひと」でいたい。

荒川静香は、
大好きなスケートと、生きている。





職人たち
 宮大工 西岡常一



 もっと人間をよくしたい、
仕事をよくしたいと思うなら。
自己啓発やビジネス書なんかより
ずっとためになる、良書がある。

宮大工 西岡常一さんの残した
「木のいのち 木のこころ」。

西岡さんは、先祖代々、
法隆寺に使えてきた宮大工。
宮大工という仕事に誇りを持ち
使命感を持ってひとを育て、
技術を体で伝えてきたひとだ。
この本には、
西岡さんが宮大工の棟梁として
当たり前にしてきたことが、書いてある。
けれど、強く、深く、こころに届く
私たちの宝物になる言葉ばかり。

一三〇〇年前に建てられ
いまも建立時の美しさを保つ法隆寺。
西岡さんは、その法隆寺から学んだこと、
機械やネットや学校が
教えてくれないことを、
私たちに、伝えてくれている。





職人たち
 輪島漆工芸家 角偉三郎



輪島に生まれた漆工芸家、
角偉三郎(かど いざぶろう)は、
工芸界の革命児と呼ばれた。

角は、手袋をして触る美術品の漆工芸ではなく
いきた生活の中にある器を、生涯問い続けた。

近寄るだけでかぶれるという漆を
角は、素手でたっぷりとって椀に塗る。
その作品は、無骨で、力強く、体温がある。

  輪島にいて、輪島にない生き方をしたい。

魅力的な作品は、きっと
魅力的なひとからしか、生まれない。




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坂本和加 10年05月08日放送



着物と越原春子

かつてココ・シャネルが、
下着素材のジャージで
動きやすいドレスを作ったように。

いつの時代も、働く女性は、
ファッションを変え、
モードを生む。

越原春子もそのひとり。
大正時代、女学校設立のために
ひどく多忙な日々を送っていた越原は、
ある日、長すぎる帯を
ばっさりと切った。

正装ではなく普段使いの、短めの帯。
名古屋帯は、そうして生まれた。
この帯が、その後一般化したのは、
簡略化されても、その美しさが
損なわれていなかったからだろう。

美しく、ときに大胆に。
働く女性はいまも昔も、変わらない。





着物と宇野千代

着物で、でかけたい。
けれど着物って、面倒なルールが
きっとたくさんあるんでしょう? 
と言うひとがいる。

明治に生まれ、
前衛的なデザインや着こなしを
着物に提案しつづけた宇野千代は、
こんな風に言っている。

着るもののことで
いっぺん笑われたら、
あとは笑われた者の得。

昭和32年、宇野千代は、
アメリカで着物ショーを行った。
足元にヒール。モデルたちの
しなやかな身体のラインを
隠さず活かした着物姿の
なんと、斬新なことか。

着物はその人らしく楽しめばいい。
宇野千代は、いいお手本を
私たちに教えてくれている。





着物と水谷八重子

アンティーク着物が、
若い女性の間で人気だ。
なかでも、大正から昭和初期の、
銘仙と呼ばれる着物が。

はじめ、銘仙は、
例えるならジーンズのような
カジュアルな普段着だった。
それがアールヌーボーと融合し、
華やかな大正ロマンの代名詞になった。
大流行した銘仙の反物は、
1億反も売れた。

水谷八重子は
そんな時代に生きた女優。
駆け出しの頃は、
銘仙のイメージガールもやった。
けれど戦後、洋服の時代がやってきて、
気づけばあれほどあった着物は
箪笥からあとかたもなく消えていた。
水谷八重子は、
そのことを、こんなふうに回顧する。

 日本人特有の、あの細やかな
 つつましさをも、捨てた自分に気がついた。






着物とバルテュス

20世紀を代表するフランスの画家、
バルテュスは少年時代から
東洋的なものを
こころから愛した。

日本人形との出会いは、14才。
その息をのむ美しさに驚いた。
つぎの出会いは、59才。
こんどは本物の日本人形、
当時二十歳の学生だった節子を
見初め、妻にむかえた。

バルテュス自身もよく着物を着た。
日本人は、反物や帯に、
あらゆるものを文様化する。
バルテュスは、その鋭い感性を
高く評価していたのだ。

着物を着るひとが少なくなって久しい。
その感性が、いま鈍ってやしないか。

感性は身につけるもの。

バルテュスも言っている。
日本人には、着物がいちばん美しい。





着物と幸田文

着物は、風で、洗うもの。
だからこそ和服は
傷みにくく、昔から
世代を超えて
受け継ぐものだった。

東京下町生まれの作家、
幸田文もまた、
着物をよく愛した。
娘の青木玉は、
そのほとんどを継いだ。

文のいくつかの着物は、
ほどかれ、こんどは風でなく水に洗われて、
色を染め直され、生まれ変わった。

幸田文は、粋で個性的に
着物を着こなす洒落人だった。
だから玉には着こなせないと
思うものも多かった。

けれど、そこは親子。
文の着物は年を重ねた玉に、似合うようになる。
それも着物の、おもしろさ。





着物とよしだみほこ

ビルにはさまれた東京で。
「トントンからり」と聞こえてくる。

それは、
着物の反物の織り職人、
よしだみほこさんの
仕事部屋からやってきた音。

わたしのつくりたいものは
着る人のほしいものの、中にある。
だから、織るものに
なるべくわたしを入れたくない。

そう、きっぱりと言う
みほこさんから生まれた反物は、
やさしい、檸檬畑の風のよう。

きょうもまた、「トントンからり」。





着物と清少納言

じんざもみ、きくじん、
なつむしいろに、ひわいろ。

日本の色の表現は、
数百種と言われるけれど、
そのほとんどは、
平安の時代に生まれた。

清少納言は枕草子に、
着物の色あわせについて
宮中でのやりとりを
にぎやかに、書いている。
春先、紅梅の上着のインナーには、紫。
でももう、萌黄の季節かしら。と。

みな着物を来ていた時代に、
そのひとのセンスや品を
伝えるのは色だった。
ときには色で、こころを伝えた。

ひとのこころは、複雑なもの。
着物と共に生まれ、
伝えられてきた色を思うと、
その数の多さも、わかる気がする。




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坂本和加 10年04月10日放送

01-poincare
ポアンカレ予想と数学者① パパキリアコプーロス

数学の世界には、
魔物が住んでいる。
数学者、パパキリアコプーロスも
その魔物に人生を翻弄された。

パパは、最初に
ポアンカレ予想を解く。
みな、そう思っていた。
けれど、結局それは叶わなかった。

神経質で、
ひとと関わりを
持つことを嫌い、
結婚もせず、偏屈な変わり者。
墓さえどこにあるか、
わからないという。

パパの死後、
母国ギリシャの作家によって
一編の小説が生まれた。

パパをモデルにした、
ある数学者の、かなしい物語。

ギリシャでは、
ベストセラーになり、
映画化もされたという。

02-haku
ポアンカレ予想と数学者たち② ストーリングス博士

ポアンカレ予想は、
メルヴィルの『白鯨』に登場する
巨大鯨に似ている。

数学者たちは、
いつの時代も
まさに命がけで
世紀の難問と
対峙してきたのだ。

その難問は
2006年に解決済みだが、
ストーリングス博士は
未だに認めていない。
正しく言うなら、
信じられないのだ。

若かりし頃、博士は、
こんな論文を発表している。
タイトル
「ポアンカレ予想の証明に失敗する人」。

03-yon
ポアンカレ予想と数学者たち③ ハーケン博士

解けそうで、だけど、
どうしても解けないと
世界の数学者たちを
100年にわたり悩ませつづけた
ポアンカレ予想。

ハーケン博士も
そのひとりだったけれど、
途中から、180度、発想を変えた。
「ポアンカレ予想は、間違っている」。
その証明をしようとしたのだ。
格闘のつづく日々は、
正気を失いそうだったという。

けれど、三度(みたび)。
博士は発想の転換をする。
「こっちの難問なら、
午後を楽しく過ごせて、こんなにはかどる」。

ハーケン博士はそう言って、
別の、世紀の難問
「四色問題」を証明してしまった。

04-beauty
ポアンカレ予想と数学者たち④ サーストン博士

数学者たちは、
特別な世界で生きている。
そこで見つけた証明や定理を、
時に「エレガント」と賞賛する。

どう「エレガント」なのかは
凡人のわたしたちに、難しい。
たぶん聞いても、わからない。
そのくらい、数学は、
特別で特殊な別世界なのだ。

しかしサーストン博士は
数学で得た経験を
わかりやすくわたしたちに
伝えてくれる。

数学の本質は、世界をどういう視点で見るか。
物事を習うことは、物事を見ることです。

05-poincare
ポアンカレ予想と数学者たち⑤ アンリ・ポアンカレ

世界中の名だたる数学者たちが
その魅力にとりつかれ、
挑み続けたポアンカレ予想。
提唱者は、アンリ・ポアンカレ。
ニュートンやダヴィンチとならぶ、
19世紀の、知の巨人。

ポアンカレは、
じつに研究熱心な努力家だった。
ノートを持たない外出先で
思い浮かんだ数式を、
停車中の市電の車体に
書き込んでしまうくらいに。

そうでもなかったら、
世紀の難問は、
そう簡単には生まれない。

偶然は、それを受け入れる準備ができた
精神にのみ訪れる。

06-sanshiro
ポアンカレ予想と数学者たち⑥ グレゴリ・ペレリマン

むかし、東大の本郷キャンパスにある
三四郎池をなくそうという話があったとき、
猛反対をしたのは、
数学科の教員たちだったという。

数学者というのは、
「思索のための散歩」が好きなようで、
ポアンカレ予想を解いた天才数学者
ペレリマンも、ひどいときは40キロも
歩くことがあったらしい。

歩くことは、考えること。

最近、歩いていますか?

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