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2011 年 6 月 のアーカイブ

三陸の漁師さんに漁業用ロープが必要です(緊急)








三陸では漁業用ロープが圧倒的に足りなくて復興の壁になっています。
7月15日までに必要です。
フランスの支援者らがロープを新しくつくってでも送ると言ってくれているものの
空輸料金が2000万円を超えることがまた新たなる壁です。

どなたか漁業用ロープを国内で調達できる情報をお持ちではないでしょうか。
五島の皆さん、いかがでしょう。

連絡先 斉藤浩昭Twitterhttp://twitter.com/saitohiroaki



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名雪祐平 11年6月26日放送


北原白秋 1

二歳の男の子が
腸チフスにかかり、高熱にうなされた。

忙しい母の代わりに、
乳母がつきっきりで必死に看病した。

男の子の命は助かったけれど、
乳母が腸チフスに感染し、
亡くなった。

自分から出た、凄まじい熱で、
代理の母親を焼き殺してしまった。

いつか、
本当の母親にもそうしてしまうのか…。

母殺しの恐怖とコンプレックスを抱えた男の子、
北原隆吉は、やがて、
北原白秋となる。






北原白秋 2

文学に熱中する息子を
父親はけっして許さなかった。

酒造りの商売を継がせるために、
商業高校に進学させなくてはならない。

文学書を読むことを一切禁じてしまった。

それでも息子は、
石垣のすきまや砂の中に
本をかくして読んだ。

けれども、限界はくる。
父親に無断で卒業間近の中学を退学し、
福岡の柳川の家を出たのだった。

行き先は、東京。

北原白秋、十九歳の旅立ちだった。




北原白秋 3

二十二歳の北原白秋が、
師事する与謝野鉄幹、晶子夫婦を訪ねた。

便所を借りたとき、
信じられないものを見た。

自分たち若手の没原稿が、
落とし紙として箱に積まれていたのだ。

人が心血をそそいた原稿で、
あの夫婦は尻をぬぐっていたのか!

白秋は激しく怒った。

鉄幹に対しては、
ほかの疑惑もふくらんでいた。

若手が身を削って表現した中心部分が、
いつのまにか鉄幹に流用されているのではないか。

もう、冒涜されるのはたくさんだ。

白秋ら7人の若手は
鉄幹が主宰する文学雑誌から
一気に脱退したのだった。

世の中の、
師匠と呼ばれるみなさまへ。

こんな
紙のリサイクルと、表現のリサイクルは
最低です。

つつしみましょう。




北原白秋 4

 母の乳は枇杷より温く
 柚子より甘し

という出だしから、

 母はわが凡て

と結ぶ最終行まで。

北原白秋の詩『母』には、
母の愛を求める情熱が示される。

けれども、白秋には
トラウマがあった。

幼い日、自分の病気が伝染し、
愛する乳母を死なせてしまったトラウマ。

自分の情熱によって、
相手を破滅させてしまうのではないか。

白秋にとって、恋愛の相手もそうだった。




北原白秋 5

明治時代、東京・原宿に
松下俊子という人妻がいた。

その隣りに暮らしていた、
独身、北原白秋。

憧れの美しい人妻と、
新進気鋭のハンサムな詩人。

恋に堕ちないわけがない。

けれど俊子の夫から、姦通罪で告訴され、
逮捕されてしまう。

輝く文壇から、
暗い牢屋の中へ、まっさかさま。

あとで示談が成立し、
二人は正式に結婚することになるが、
事件後の白秋は半狂乱になり、死まで考えたという。

 雨は降る降る 城ヶ島の礒に

白秋作詞の『城ヶ島の雨』は、
俊子との新生活を
三浦半島の三崎でおくっていたころのもの。

雨のなかで、
失意と希望が混じり合う。

白秋の心情が浮かぶ。




北原白秋 6

 君と見て
 一期の別れする時も
 ダリアは紅し
 ダリアは紅し

不倫スキャンダルの直後、
北原白秋は歌集『桐の花』で
再び評価をえる。

けれど、正式に結ばれた
松下俊子との結婚は長く続かなかった。

自分の情熱は
相手を破滅させてしまうものなのか。

いや自分のほうも
相手に疲れ果てていたのだった。

それは、相手にさめる
という破滅の1種。

もう、ダリアは紅くない。




北原白秋 7

二度失敗した北原白秋の
三度目の正直。

その相手が、
佐藤菊子だった。

童謡『ゆりかごのうた』は、
二人の間に生まれてくる
わが子を思って
作ったとされる。

数々の童謡の傑作をのこした白秋。

菊子夫人の温かい人柄や
2人のこどもに恵まれたことが
動機ともいわれている。




北原白秋 8

青より白。
春より秋。

北原青春より、北原白秋。

白秋とは、
青春の逆の方位、逆の境地を
意味するといわれる。

ものすごく早熟な中学生は、
青春まっただ中で、
自分のペンネームとして
白秋とつけたのだった。

そして晩年に、
青春前の
童謡をたくさん書いた白秋。

五十七歳という若さで亡くなったが、
最期の言葉は、

「ああ素晴らしい」

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TOAST MEN










泡ものの酒として
「人生にできるだけ多くの乾杯を」望むのは思えば当然のことですが
その思えば当然のことにちゃんと気づいて
ここまでのCMにつくりあげる手腕がすごいな〜と思うので
ちょっと紹介してみます。
下が制作者のクレジットです(玉子)

Executive Creative Director: Yoshimitsu Sawamoto
Copywriter: Mayu Taguchi/Sohei Okano/Yuriko Taki
Planner: Mayu Taguchi/Sohei Okano/Yuriko Taki
Account Manager: Ikuko Wakiya/Yoshito Nakagawa
Production Company: DENTSU CREATIVE X Tokyo, JAPAN
Director: Jun Kawanishi
Producer: Tomonori Iida



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カンヌの状況はこちらで



気になるカンヌの入賞の様子ですが
こちら http://www.01-radio.com/tcs/news
またはこちら http://www.01-radio.com/news でご覧になれます。

本日(2011年6月24日)、
フィルム部門のショートリストが発表されました(玉子)


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佐藤理人 11年6月25日放送


タツィオ・ヌヴォラーリ① Who is Nuvolari?

ドリフト走行の発明者にして、
フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリに、

 「史上最高のレーシングドライバー」

と言わしめた男、タツィオ・ジョルジオ・ヌヴォラーリ。

彼は1892年イタリアのマントヴァで生まれた。
162cmと小柄ながらその勇猛果敢なレーススタイルから
人は彼を生まれ故郷にちなんで「天翔るマントヴァ人」、
または

「悪魔と契約した男」

と呼んだ。

ヌヴォラーリがフェラーリにもたらした32勝という勝ち星は、
いまだ誰にも破られていない。




タツィオ・ヌヴォラーリ② 1924年 エンツォとのドリフト

ヌヴォラーリのドライビングは独特だった。
頭をハンドルに近付け肘を動かしながら操縦する姿は、

 速いが品がない

と評された。そんな彼の天性をいち早く見抜いたのが、
フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリだ。

1924年のある日、
エンツォはヌヴォラーリに助手席に乗せるよう頼んだ。

ピンチは早くも最初のコーナーで訪れた。
速すぎて曲がれない。このままでは土手に落ちてしまう。
エンツォが最悪の事態を覚悟した瞬間、
テールがなめらかに滑り向きが変わり、車は再びまっすぐ走りだした。

今で言う「ドリフト走行」だが、
当時そんな走り方をするドライバーは誰もいなかった。

驚いたエンツォがヌヴォラーリを見ると、
その横顔は汗一つかいていなかったという。




タツィオ・ヌヴォラーリ③ 1930年 ミッレミリア

イタリア全土を1000マイルに渡って走破する伝説のレース「ミッレミリア」。

1930年、ヌヴォラーリはこのレースにアルファロメオチームとして参戦した。
しかしチームメイトには宿敵アキーレ・バルツィがいた。

資産家の息子、端正なルックス、几帳面で安定したドライビング。
自分とは全てが正反対なバルツィにヌヴォラーリはライバル心を燃やした。

レースは折り返し地点でバルツィがトップ。
チームの勝利を優先した監督はペースを抑え完走を目指すよう
ヌヴォラーリに指示を出す。
しかしそんな指示を素直に受け入れるヌヴォラーリではない。
タイムも完走も関係ない。彼の頭にはバルツィに勝つことしかなかった。

最終区、ついにバルツィを視界にとらえたヌヴォラーリは
スピードを上げ間隔を詰める。それに気づきペースを上げるバルツィ。
猛スピードで闇夜を切り裂いていく二台のヘッドライト。

その時突然、バックミラーからヌヴォラーリのヘッドライトが消えた。
戸惑うバルツィ。後ろを振り返っても何も見えず、
排気音も自分の車の音でかき消され聴こえない。
しめた、ヌヴォラーリのマシントラブルだ!
バルツィが油断してペースを落とした隙に、
その横をヘッドライトを消した車が鮮やかに走り抜けた。

バルツィが気づいた時にはすでに手遅れだった。
彼の眼に映るのは再びヘッドライトを灯して
道路を煌々と照らしてゴールするヌヴォラーリの後ろ姿だった。







タツィオ・ヌヴォラーリ④ 1935年 ドイツグランプリ

1935年ドイツグランプリ。
会場のニュルブルクリンクは40万人の観客で埋め尽くされていた。

世界で最も長く、最も過酷なこのサーキットで優勝することは、
すなわち自国の工業技術の優位を全世界に誇示することである。
そう考えたドイツは膨大な資金を投入、モンスターマシンを開発してきた。

対するイタリアチームは技術力では全く歯が立たず、
マシンの能力差は歴然で、ドイツ勢の優勝を疑う者は一人もいなかった。

レースは終止メルセデスベンツがリード。
それでもヌヴォラーリはアクセルを踏み続け、
神業のようなドリフトを駆使し、全身全霊でハンドルを握り続けた。

残り1周の時点でついに2位にまで浮上するも、
1位のメルセデスのブラウチスチとはまだ30秒もの差があった。

猛烈に追い上げるヌヴォラーリ。必死で逃げるブラウチスチ。
ところが最終コーナー直前、無理なペースアップが災いし、
ブラウチスチのタイヤが破裂。
コーナーから先に飛び出しフィニッシュラインを越えたのは、
ヌヴォラーリの深紅のアルファロメオだった。

マシンを降りたヌヴォラーリは、

 イタリア国旗を買って来い!

と叫んだ。自国の勝利を確信していたドイツは、
国旗はおろか、
イタリア国歌のレコードすら用意していなかったのだ。

その日流れたイタリア国歌は
自らの勝利を信じ続けたヌヴォラーリが持参した
レコードによるものだった。




タツィオ・ヌヴォラーリ⑤ 1936年 ヴァンダービルトカップ

アメリカ最古の国際レース「ヴァンダービルトカップ」。
この1936年の参戦にあたりヌヴォラーリは迷っていた。
最愛の息子ジョルジュが長期入院中だったのだ。
悩んだ末彼は

これまでに無い大きな 優勝カップを持って帰ってくるよ

と旅立った。

結果、彼は2位に大差をつけて優勝を果たす。
優勝カップは体が丸ごと入るほど大きかったと言う。

翌年再び参戦の依頼を受けたが、ジョルジュの病は更に重くなっていた。
しかし父親が誰よりもレースを愛していることを知っている息子は、

 勝ってきて

と懇願。その最後の頼みを叶えるため
ヌヴォラーリはニューヨーク行きの船に乗る。

渡米後のある晩、食事中に小さな紙が差し出された。
ジョルジュが息を引き取ったとの連絡だった。




タツィオ・ヌヴォラーリ⑥ 1950年 最後のレース

ある日イタリアの自動車ライター、
ジョヴァンニ・カネストリーニがヌヴォラーリにこんなことを尋ねた。

君はいつレースから引退するつもりなんだい?

するとヌヴォラーリは怒って答えた。

俺がレースをやめるよりも、君がレースの記事を書かなくなる方が先さ

事実、彼は現代でも信じられない年齢で現役を続けていた。
1948年には56歳でフェラーリチームに起用、
1950年にはシシリーで行われたヒルクライムレースでクラス優勝を飾る。

しかしこの時すでに病が彼の体を蝕んでいた。

 どんな車でも意のままに操った私が、自分の体をコントロールできないとはな

激しい咳の発作や吐血に襲われ、
このレースを最後にヌヴォラーリが二度とコースを走ることはなかった。




タツィオ・ヌヴォラーリ⑦ 1953年 ベッドの上で

不世出の天才レーサータツィオ・ヌヴォラーリは、
1953年8月11日、自宅のベッドの上で

 ユニフォーム姿で埋めてくれ

と妻に言い残し息を引き取った。

「TN」のイニシャルの入った黄色いシャツと淡い青色のズボン、
襟には縁起をかついでつけていた亀のブローチ。

その裏には友人の詩人ガブリエーレ・ダヌンツィオから贈られた

 忠実な機械の力を極限まで駆使し、
勝利への道に横たわる死の陰に最後までその生命を与えぬ者

というメッセージが彫られていた。
また墓碑には牧師が新約聖書から引用した

 天国にあっても汝は速く走らん

の文字が彫られた。
文字通り人生を駆け抜けたヌヴォラーリらしいひと言であった。

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小野麻利江 11年6月19日放送


1 友達について パリス・ヒルトン

洋服を選ぶときに、
ダサいのとオシャレなのを2つ選ぶの。
それで、友だちに聞くのよ。
「どっちがいい?」って。
それで、ダサいほうを選んだ人とは、
関係を絶つの。

つねに世界を騒がせるセレブ・
パリス・ヒルトンが、
ある時、そんなことを言ったという。

(自分のセンスを疑わない。)
彼女の生き方は、ここまでくると、潔い。





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薄 景子 11年6月19日放送


2 友達について 糸井重里

わざわざ口にはしないけれど、
記憶のどこかにしまってある。
そういうことを、糸井重里さんは
風がふくように、さらりとついてくる。

彼のつぶやき本から、
こんな言葉を見つけた。

冬の教室の、日だまりでのむだ話を、
いまの時代でも、
中学生や高校生たちはやっているのだろうか?

オレンジ色の光につつまれた放課後、
なんであんなに話すことがあったんだろうと
不思議なくらい、毎日だらだらしゃべっていた
あの頃がよみがえった。

糸井さんは言う。

大事なことは、ただひとつなのだ。
それは、「ともだちであること」だけなのだ。

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熊埜御堂由香 11年6月19日放送


3 友達について 山口瞳と向田邦子

1980年、直木賞、選考会。
はじめて選考委員になった、山口瞳は
先輩作家たちの前で思いきって、言った。

向田邦子はもう、51歳なんですよ。
そんなに長くは作家として
書き続けられないんですよ。

選考委員は一同、驚いた。
え?50代?もっと若く見えるぞ?

上手いけど、小味だ、
小説家としては、駆けだしだ、
という一部の反対がふっとゆらいで
向田は、直木賞を受賞した。

山口は受賞の記者会見で、
向田邦子さんは私より小説が上手です、
と笑いをとった。でも、本心だった。

その後も、彼女におせっかいなアドバイスを続けた。
例えばこんな風、「あ・うん?そんなのダメだ。
タイトルは一度でおぼえられる簡単なものにしろ」
そのたびに、向田は微笑みながら聞いていた。

向田邦子が、飛行機事故にあった通夜のあと
山口瞳は仲間と軍歌、「戦友」を歌った。
気づいたらひとりで、声をはりあげて歌っていた。
モノを書く、という戦いを生き抜く。
そういう覚悟でふたりは結ばれていたのだ。




4 友達について やなせたかし

アンパンマンの作者、
やなせたかしは言った。

ぼくらはしょせん
罪の子で
完全なひとはひとりもいない
もしいたとすれば友にしたくない

アンパンマンは、こげたマントで、
自分の顔を食べさせては、パワー不足で失速して、
なんだか、少しかっこわるい。
けれど、決してくじけない。
そうして、彼は
「子どもたちのヒ―ロ―」ではなくて、
ともだちになっていったんだ。

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石橋涼子 11年6月19日放送


5 友達について 金田一京助と石川啄木

言語学者・金田一京助と石川啄木は
10代の頃からともに文学の道を志した友人だった。
金田一が文学の道をあきらめたのは、
言語学に情熱が移った一方で、
啄木にかなわないと思ったためとも言われている。

なかなか売れない啄木のために
資金援助を続けた金田一だったが、
自分だってあまり裕福なわけではない。

あるときなどは、命の次に大切にしていた
愛蔵書をまるごと売り払って、啄木への援助金とした。
本当は、本への未練があったのだが、
その金で昼間から啄木といっしょにビールを飲み、
お互いの門出を陽気に祝ったのだという。

啄木は生来の我儘と浪費癖から、
多くの友人を失った。
金田一とももちろんケンカをした。
しかし啄木が亡くなる前に真っ先に枕元に呼んだのも、
真っ先に駆け付けてくれたのも、金田一京助だった。

金田一は、晩年、
啄木とのおかしな友情についてよく語った。
特に好んだのが、昼下がりにふたりで飲んだ
ビールの話しだったという。




6 友達について ジャイアン

お前のものは、俺のもの。
俺のものも、俺のもの。

この有名なセリフが生まれたときの話を
ご存知だろうか。

それは小学校の入学式の朝。
のび太がうっかり無くしてしまったランドセルを
ジャイアンは泥だらけになるのも構わず、
必死になって取り戻してくれた。
驚きと喜びで泣いてしまったのび太に
ジャイアンは照れ隠しであの名台詞を言ったのだった。

お前のものは、俺のもの。
俺のものも、俺のもの。だろ?

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薄 景子 11年6月19日放送


7 友達について ゲーテ

ドイツの文豪、ゲーテは言った。

空気と光と、そして友達の愛。
これだけが残っていれば、気を落とすことはない。

気づけばみんな、カタチがない。
気づけばみんな、お金で買えない。

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