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2011 年 9 月 のアーカイブ

名雪祐平 11年9月25日放送


山と死 ジョージ・マロニー 1

なぜ、あなたはエベレストを目指すのか?

そこに山があるからだ。

この有名な言葉は、
1923年、ニューヨーク・タイム紙の記者の問いかけに、
イギリス人登山家ジョージ・マロニーが
こたえたものとされている。

そのわずか1年後、
彼はエベレストの頂上付近で消息を絶ち、
二度と帰らなかった。

果たして彼は、
頂上にたどりついたのかどうか。
登山史上最大のミステリーは、
いまも結論が出ていない。




山と死 ジョージ・マロニー 2

登山家ジョージ・マロニーが
残した言葉。

そこに山があるからだ。

この言葉には、
もうひとつ別の意味がひそんでいないだろうか。

そこに死があるからだ。

命を賭けるほどの魔力をもつ山が、
登山者を引き寄せていく。

エベレストで遭難した
ジョージ・マロニーの遺体が発見されたのは、
行方不明になってから実に75年後のことだった。

その姿は、まるで山肌に取り憑いたような
うつぶせの状態だったという。




山と死 エドモンド・ヒラリー

地球上に、3つの点がある。

北極点、南極点、
もうひとつは、標高の最高地点である
エベレスト山頂。

20世紀初頭、
北極点と南極点到達の競争に敗れた
イギリスは、国の威信を
エベレスト征服にかけようとした。

1921年に第一次エベレスト遠征隊を派遣してから、
いくつもの遭難事故や、戦争をはさみ、
とうとうその時が来るまで、32年間かかった。

1953年5月29日午前11時30分、
イギリス隊のエドモンド・ヒラリー、
そしてチベット人シェルパ、テンジン・ノルゲイが
人類初のエベレスト登頂に無事成功。

のちに、ヒラリーはこんな言葉を残している。

もし山に登っても、
下山中に命を落としたら何もならない。
登頂とは、登って
また生きて帰ってくることまでをふくむのだ。






山と死 加藤文太郎

大正・昭和期の革命的登山家、
加藤文太郎。

それまで非常識とされた単独行によって、
登攀記録を次々と打ち立て、
「不死身の加藤」として名をはせた。

しかし1936年、槍ヶ岳での猛吹雪によって
わずか30歳で、その命は燃え尽きた。

孤立することを常に不安を感じながら、
しかし、究極的にはいつも孤立することを選んだ、
と評された加藤。

その劇的な生涯は、
新田次郎著『孤高の人』のモデルとなり、
いまも読み継がれている。




山と死 トッド・スキナー

その登山家が書いたのは、
一流といえるビジネス書だった。

著者は、
26カ国で300本以上の初ルートを開拓した
伝説のフリークライマー、トッド・スキナー。

究極の山から得た教訓が並ぶ。たとえば。

 怖くないのだとしたら、
 選んだ山が楽すぎるのだろう。

 山を低くするのは無理なのだから、
 あなたは自分を高めなければならない。

 あなたの経歴など山の知ったことではない。

著書『頂上の彼方』は、
アメリカのビジネスマンに根強い人気となった。

しかし、当の本人に悲劇は起こる。

クライミング中、
身体を確保するハーネスというベルトが
劣化のため破断し、
150m以上落下してしまったのだ。

神がかった業績を持つトッド・スキナーさえ、
滑落死するとは・・・。

彼が書いた教訓のひとつひとつが、
より強い意味を帯びてくる。




山と死 杉本光作

明治生まれの登山家で、
谷川岳の登山道を開拓した杉本光作。

当時は、軽量化された化学繊維や素材もなく、
登山の装備は、非常に重いものだった。

ある日、谷川岳に向かうとき、
杉本は仲間にこう言った。

 梅干の種は抜いてきたか。

必要ないものは徹底的に削いで、削いで、
命がけで山に向かう覚悟。

装備が軽量化されたいまでも、
学ぶことが多い言葉ではないだろうか。




山と死 富山県警 山岳警備隊

3000m級の北アルプスを抱える
富山県警 山岳警備隊。

1965年結成。

延べ救助者数3000名。

殉職者数2名。

日本最高峰の救助隊のひとつである
彼らの言葉がある。

 苦しくても、苦しくない。
 
人命救助という厳しい使命と、
崇高な精神性をもつ
この言葉が胸につきささる。




山と死 ラインホルト・メスナー

世界の8000m峰14座。
そのすべてを無酸素で完全制覇した
イタリアの登山家、ラインホルト・メスナー。

偉業のあとに書き上げた本のタイトルは、
『生きた、還った』

『登った』と、業績を誇るニュアンスではなかった。

目の前で弟が雪崩にのみこまれ、死なせた過酷な経験や、
崖を墜落した時の自らの臨死体験もあり、
メスナーはこう語っている。

 人間は実は2つの違う次元を生きています。

 私は「死」こそ生を充実させる最も重要な
 要素だと考えています。

山、死、そして生きることに直面した男の
掛け値なしの言葉。

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小宮由美子 11年9月24日放送


テニスから生まれたストーリー1 伊達公子

プロテニスプレーヤーとして
再びコートに立ち、世界へ挑み続けている伊達公子。
その理由のひとつは、「テニス界への感謝」。
2つ目は、「世界のトップで戦える日本人プレーヤーに
早く育ってもらいたい」という願い。
そして3つ目は、「チャレンジすることが好き」だから。
 
「現役時代は無我夢中で
自分自身のことだけで必死でした」
と告白する伊達。
でも、今の彼女のイメージの中には、彼女以外の、
若手選手や、子どもたちや、世界中のたくさんの存在がある。
 
「過去の世界ランキング4位までいった伊達公子としてではなく、
 新たなる挑戦(者)としてコートに立ちたい」
 
そんな伊達公子の姿に励まされるのは、
テニス好きだけではないはずだ。




テニスから生まれたストーリー2  クリス・エバート

「チャンピオンなら、心の底から
チャンピオンじゃなきゃだめなのよ」

 
70年、80年代を代表するテニス・プレーヤー。
ナブラチロワとの名勝負で、女子テニスの人気を盛り上げた
クリス・エバートの言葉。
 
世界最高のコーチを雇ったり、最高の道具を揃えたり、
試合に出るというだけなら誰にでもできる。
でも、心がチャンピオンにふさわしくなければ、
チャンピオンにはなれない。
 
テニスの四大大会で通算18勝を上げた彼女は、
同時にこうも言っている。
 
「反対に、何ひとつ持たない代わりに
 その気持ちと根性だけでやり抜く自信があるなら、
 チャンピオンになれるわよ」







テニスから生まれたストーリー3 ロジャー・フェデラー

1996年9月。
ひとりのスポーツジャーナリストが、
生涯忘れることのできない出会いを経験した。
観客もいない、ボールパーソンもいない。
場末のコートで盛り上がることもなく始まった試合で
彼の目を釘付けにしたのは、15歳の少年。
 
完璧すぎるほどのボールコントロール。
すさまじい集中力。
何より注意を引いたのが、少年の狂気のような叫び声。
試合中に、大声で絶え間なく独り言をつぶやき、
自分自身に向かって、激しい罵りの言葉を繰り返す。
 
ジャーナリストの身体に衝撃が走った。
「才能の原石を見つけた」と思った、と後に語っている。
 
エキセントリックな15歳の少年の名は
ロジャー・フェデラー。
 
今や、ポーカーフェイスともとれる涼しい表情と
スマートで華麗なプレースタイルが印象深いフェデラーだが、
その内面には、気性烈しく、勝利への執念に満ちた
野性的なあの少年が、かくれている。




テニスから生まれたストーリー4 ラファエル・ナダル

テニス・プレーヤー、ラファエル・ナダル。
彼のまわりには、どこに行っても人が集まる。
たくさんの視線が、彼の一挙手一投足に注がれる。
 
だから、ファンは知っている。
試合中に、長めの髪を耳にかけるしぐさ。
ミネラルウォーターのペットボトルを、神経質に並べる動作。
そして、コート上で、頻繁に下着を直す癖。
 
指摘されて、ナダルは言った。
「あの癖は直らないね。見てる人をイライラさせそうで
申し訳ないけど無理だよ、癖なんだから」
 
観客を熱狂させ、圧倒するスター選手の、人間味を感じる一面。
これからも世界中の多くのファンが、魅力あふれる彼の姿を追い続ける。




テニスから生まれるストーリー5 ジュスティーヌ・エナン

「結婚は全仏(大会の)優勝なんかよりずっと素晴らしい。
グランドスラム優勝は、ほんの一瞬の喜び。でも結婚式の日は
これからの私の人生の中で永遠に最高の日であり続けるわ」

 
ベルギーのプロテニスプレーヤー、ジュスティーヌ・エナンは
ストレスの大きいプロテニスプレーヤーの生活の中での
家族のありがたさをこう語った。
支えてくれる人がいるなら、
勝ち負けなんて、大して重要なことじゃない、と。
 
そんな満ち足りた新婚生活を送りながら、
2003年の全豪オープン、全仏オープン、そして
全米オープン優勝を果たしたエナン。
 
これ以上の幸せの両立、イメージできるだろうか。




テニスから生まれるストーリー6 ビヨン・ボルグ

「僕の最強のポイントは、しつこいところ」
 
男子テニスの元世界王者、ビヨン・ボルグはそう言った。
 
試合では絶対にあきらめない。
どんなに負けが見えていても、最後のボールまで戦い抜く。
その結果、不利な状況から逆転勝ちしたゲームが山ほどあった。
 
ボルグの「しつこさ」は、
全仏オープンでの4連覇を含む6勝、ウィンブルドン5連覇など
テニス史に黄金時代を築いた。
 
強い者ほど、あきらめが悪い。




テニスから生まれたストーリー7 マルティナ・ヒンギス

天才少女とうたわれて、あまりにも早く世界の頂点を極めた
テニス・プレーヤー、マルティナ・ヒンギス。
 
彼女は現役時代、大会で優勝した3日後には
ハードなトレーニングを再開していた。
それも、軽い内容ではなく、ハードなメニューを。
攻撃的に、情熱の炎を焚きつけるように、
右に、左に、ボールを追いかけ、力いっぱい打ち返す。
そのうちに、雑念のようなものはスッと消えてなくなった。
 
当時、なぜそんなに練習が好きなのか、
と問われたヒンギスの答え。
「2日もテニスをしていないと、
身体が寂しさを覚えてしまうのよ」

 
プレーヤーにしか知り得ない孤独がある。
プレーヤーにしか知り得ない喜びも、またある。

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五島のはなし(158)



カメラを向けたら寄ってきた。
五島・島山島のシカ。
シカって3メートルくらいの位置から見るのが
いちばんかわいいんじゃないかと思います。
つぶらなひとみとか、きゃしゃな足の折れ曲がり具合とか、首の傾げ具合が
ちょうどいい感じで全部目に入る。

ところで気づいたのですが、シカは、
「かわいさをアピールする」ということを意識的にやってると思います。

私、野生の動物ですから、もちろん本能で生きてますというふりをしながらも
身振りそぶりでかわいさをちらちらアピールします。
ぜったい意識的にやってます。

上の写真のときも、一頭がもう一頭に首をかたむけるんですが
それが「まわりの動物から見るとかわいい」ということを意識してるんです。
そして、パッと目線を送ってくるわけです。
「シャッターチャンスだぞ」って。

ぜひ五島の島山島に来て、観察してみてください。

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ACCラジオ部門に出品するCDの焼きかた

ACCのエントリーが9月1日からはじまりました。
出品用のCDの焼きかたを復習したいと思います。

まず、iTunesの環境設定をひらいて「詳細」を開きます。
そして「読み込み」の「読み込み方法」を
「AIFFエンコーダ」にします。

それから「設定」を「カスタム」にします。
「カスタム」が開いたら
「サンプルレート」を「44.100KHz」に
「サンプルサイズ」を「16ビット」に
「チャンネル」を「ステレオ」に。

すると、スタジオで焼いたCDとほぼ同じ音質で読み込みます。
あとは「作成」を「オーディオCD」に設定して焼くだけです。
シリーズの場合は作品と作品の間の空白が1秒必要ですが
それもiTuneで焼くときに指定できます。

mp3やAACで焼かないように気をつけてください。

それから、自分でCDを焼いた場合
音声クレジットが入れられない、とか
クレジットと作品の間の3秒の空白がつくれない、
などの悩みが発生します。

これはもうしかたのないことなので
クレジットなしで出品してください。
ただし、CDのジャケットをつくってください。
ジャケットにクレジットを正しく文字で書いてください。
作品の順番も間違えないように。
それができていれば大丈夫です。

2011 ACC CMフェスティバルhttp://www.acc-cm.or.jp/festival/2011fes/

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五島のはなし(157)

グラスボートって聞いたことあります?
船の底がガラス張りになっていて、海底が観察できる船。

そんなの水中メガネつけて海で泳いだほうが
よっぽど自由に、そしてきれいに見られるじゃん。
と思って、いままで乗ったことなかったのですが
乗ってみると、いやいやこれが、なかなかどうして。

五島の福江港から出航したグラスボートは
しばらく海を走り、近くの無人島へと近づきます。



この無人島のまわりで海の中をのぞきます。
この日はあいにく天気が悪く
数日降り続いた雨のために海がにごっていました。
それでもテーブルサンゴやたくさんの魚が見られて
しぜんと興奮してしまいます。



甲板に上がれば、海上から見る島々の景色が良くてこれはこれで見もの。
五島にお立ちよりの際は、ひとつの候補として入れといていいと思います。



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岡安徹 11年9月18日放送


ある食通の美学/北大路魯山人

料亭で、椀の汁を1口すすり、
「うま過ぎる」といって、顔をしかめている
男が居る。食通、北大路魯山人である。

誰が食しても「さすが」とうなる料亭自慢の逸品。
しかしあろうことか魯山人はお湯をドボドボ注ぎ
味を薄く変えてしまった。

一同、唖然。
一人魯山人だけ「これでよし」との顔。

しかしてその後、真意は明らかとなる。

目一杯うまさを突き詰めてしまうと、食事全体では
舌がもたれ、うまかったという気持ちが残らない。
だからこそ。

人生、食事のできる量は決まっている。
だからこそ一食一食にとことんこだわる。
美学を貫き通す偉人の振るまい。






ある批評家の美学/北大路魯山人

いいものを身辺におけ。
さもなくば人物はできあがらない。
そう言うのは美術家であり美食家でもある
北大路魯山人。

その批評は時の文化人にも及ぶ。

夏目漱石の書斎をみれば、
火鉢、机、硯、文房具の類をして低級と評し、

芥川龍之介の持ち物は、ただ一点
骨董の織部を所有すること褒めた。

樋口一葉の程度の良い机は女性らしいと
やや満足げだが、

大町桂月にいたっては下宿同然、論外と切り捨てた。

では当の本人、魯山人の身の周りに
あったのは何なのか。

例えば庭前に半分埋めて金魚鉢としている鉢がある。
よく見れば、明の時代の赤絵水禽文の大鉢。
その値段を評価すれば数千万円ともなるらしい。

人に意見するならば、まず自らが行う。
その姿勢の中にも魯山人の美学があった。




ある研究者の美学/ドクター中松

発明家、ドクター中松は
食に並々ならぬこだわりを持っていた。

しかしそのこだわりとは、
味ではなく栄養に関する考察。

34年にわたり自分の食事全てを記録し、
身体の具合をメモしていった。

そしてついに発見されたのが「3日後理論」。

食したものの影響が3日後身体に表れることを
身をもって発見したのだ。

人生全てが、実験と発見。
それこそ発明家の美学と言える。

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渋谷三紀 11年9月18日放送


ある脚本家の美学/向田邦子

脚本家、向田邦子の家では、
遠足の弁当には海苔巻き、と決まっていた。

朝になり、母が海苔巻きを切り分け始めると、
邦子は途端に落ち着きをなくす。
海苔巻きの切れ端が、大好物だったのだ。

かまぼこも、伊達巻も、羊羹も、
邦子はとにかく、切れ端が好き。

切れ端好きの理由を、
彼女はこんな言葉で語っている。

なんだか貧乏たらしくて
しんみりして、うしろめたくていい。

不ぞろいで、不恰好で、いとおしい。
切れ端も、にんげんも、
邦子の目には、そう映っていたのかもしれない。




あるキャラクターの美学/キティちゃん

右耳に赤いリボンの白いネコ。
日本を代表する人気キャラクター、
キティちゃん。

電車で、会社で、学校で、
毎日どこかしらで、
私たちはキティちゃんに出会う。

さらに旅先の土産物屋には、
マリモキティになまはげキティにシーサーキティと、
想像をこえたさまざまな全国ご当地キティ。

世界的に有名な宝石ブランドからは、
100万円以上もする高級クリスタルキティ。

お菓子メーカーの広告では、人間になったキティ。

活躍はとどまることを知らない。

しかし、どんな風に姿を変えても
キティはキティとわかるのが、強いキャラクターの証。

ブレない自分があれば、
どんな変化にも「ハロー」と言えるのかなあ、
キティちゃん。

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宮田知明 11年9月18日放送


あるスポーツ選手の美学/三浦知良

日本では、引き際のいさぎよさを
よく「美しい」とされる。

その考え方の逆、
つまり「やめない」ことに美しさを見出す人、
キングカズこと、三浦和良。

余力を残して辞めていく選手は多い中で、
44歳になってもカズは全くそのそぶりを見せない。

4年前、テレビ番組で、
「いつまでやるのか」という質問に対して、
彼はこう答えている。

できたら還暦までやりたいんだけどね。

3月29日のチャリティーマッチでのゴールを見せられると、
あのときの言葉は、あながち冗談でもないかもしれない。




ある毒舌家の美学/有吉弘行

毒舌にも、美学がある。

平成の毒舌王、有吉弘行曰く、
「悪口はいいけど、陰口はダメ」。
その真意とは。

僕は絶対に本人のいないところで悪口は言いません。
陰口をたたけば周りの人から
「こいつは俺の事もどこかで悪く言ってる」と
思われて自分の評判が下がる。陰口は自分に返ってくる。

これは、毒舌キャラとして芸能界でやっていくための、
彼独特の美学なのかもしれない。

でも、
むしろ毒舌でも何でもない普通の人にとって、
この考え方に学ぶところは多い。




あるジャーナリストの美学/池上彰


いい質問ですね!でおなじみの
ジャーナリスト・池上彰。

分かりやすい説明に定評のある彼にも、
一つの美学がある。
それは、説明するときに、
「自分の個人的な意見は差し挟まない」ということ。

NHKを辞めてすぐの頃、民放の番組の
コメンテーターとして出演したとき、よく言われた言葉。
「あなたの意見を聞かせてください。」

視聴者からすると何でもない質問だが、
池上には違和感があった。

それは、32年間のジャーナリストとしての生活で、
「自分の意見は一切出すな」
「客観報道に徹しろ」と教えられてきたから。

誰かのバイアスのかかった意見よりも、
公平な視点での説明の方が人は納得しやすい。

そう思ってテレビを見ると、コメンテーターの
自分勝手な意見が、なんと多いことか。

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蛭田瑞穂 11年9月17日放送


世界最高のレストラン「エル・ブジ」①

バルセロナから車で約2時間、海辺の町ロザス。
その町のはずれにひっそりとたたずむ別荘風の建物。
それが、世界でいちばん予約が取れないレストラン「エル・ブジ」。

オープンは1964年。
開店最初はリゾート地にある、ごく普通のレストランだった。

1981年、元音楽プロデューサーのジュリ・ソレールが店を買い取り、
オーナーになると「エル・ブジ」の運命は大きく変わり始める。

2年後、その運命に引き寄せられるかのように、
ひとりの若者が「エル・ブジ」に入店する。
彼の名はフェラン・アドリア。

この若者が、やがて料理界に革命を起こすことになるのだが、
この時はまだ、見習いの皿洗いに過ぎなかった。






世界最高のレストラン「エル・ブジ」②

バルセロナ郊外にある、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。

料理長のフェラン・アドリアが
店に雇われたのは1983年、弱冠21歳の時。

ただの見習いの料理人だったが、
オーナーのジュリ・ソレールによって才能を見いだされると、
わずか3年で料理長へと抜擢された。

目利きのオーナーと天才シェフがつくる料理は、
まずバルセロナで評判になった。

そして、1990年にミシュランで初めて星を獲得すると、
92年に2つ星、97年には3つ星を獲得。

「エル・ブリ」の名声は世界中に轟いた。


世界最高のレストラン「エル・ブジ」③

バルセロナ郊外にある、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。

ここでは通常、コースの最初に供される、パンとバターがない。
他のレストランと同じことをしない、というのが
料理長フェラン・アドリアの哲学である。

彼は言う。

お客様はここへ感動を食べにやってくる。
だから僕はお客さまが一度も口にしたことがない料理をつくりたい。
エル・ブジで食事をするというのは、
ひとつのゲームに参加するようなものなのです。


その言葉の通り、食前酒から食後のお菓子に至るまで、
「エル・ブジ」の料理は予期せぬ展開の連続である。


世界最高のレストラン「エル・ブジ」④

バルセロナ郊外にある、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。
この店に「手長海老をローズマリーの香りとともに」という名前の
オリジナル料理がある。

皿には手長海老が2匹載っている。おいしそうな蒸し煮だ。
しかし、すぐにナイスとフォークを手にとってはいけない。
最初に皿に添えられたローズマリーの小枝を鼻に近づけて深呼吸する。
その後に海老を食すのが、この料理の正しい食べ方。

ローズマリーの香りと海老の旨味を想像力で結びつけて食べる、
というわけである。

鰻の蒲焼を焼く煙をおかずに、ごはんを食べるという落語の小噺があるが、
そんな冗談のようなことを実際にやってしまうのが、
エル・ブジの料理長、フェラン・アドリアの創造性である。


世界最高のレストラン「エル・ブジ」⑤

バルセロナ郊外にある、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。
料理長フェラン・アドリアは和食からも多くの影響を受けたという。

彼の創作料理に、「玉ねぎの天麩羅 醤油のヌーベ」というメニューがある。

ヌーベとはスペイン語で「雲」。
醤油に水とゼラチンを加えて、きめ細かい泡ができるまで攪拌し、
ふんわりと雲のようになった醤油を天麩羅につけて食べる。

玉ねぎの甘みとサクサクの衣、そして醤油味の泡が口の中で混然一体となり、
体験したことのない味わいが堪能できる。

長い間醤油を使ってきた日本人でも思いつかない斬新な醤油の使い方。
天才フェラン・アドリアの手にかかると、天麩羅もかくのごとく変貌する。


世界最高のレストラン「エル・ブジ」⑥

バルセロナ郊外にある、レストラン「エル・ブジ」。

その独創的な料理により「世界でいちばん予約の取れない店」という
名声をほしいままにしたが、今年の7月30日、惜しまれつつ閉店した。

料理長フェラン・アドリアの、これ以上の料理の創造が困難になった、
というのが閉店の理由として伝えられている。

これまでも「エル・ブジ」の営業期間は一年の半分だけで、
残りは研究期間に当てられていた。

フェラン・アドリアの独創的な料理を生み出すには
それだけの時間が必要だったのである。


世界最高のレストラン「エル・ブジ」⑦

今年の7月30日をもって閉店した、
世界でいちばん予約の取れないレストラン「エル・ブジ」。

閉店を前に、特別に開かれたディナーには、
有名女優やデザイナーなど、華やかなゲストが招かれ、
料理長フェラン・アドリアによる渾身の料理がふるまわれた。

「エル・ブジ」閉店後は料理研究の財団を設立し、
ハーバード大学で教鞭もとることになっているフェラン・アドリア。

彼は語る。

大学も出ず、皿洗いから料理人になった僕が、
名門大学で教えるなんて想像するだけでおもしろいでしょう?
人生は考えられないことの連続なんですよ。

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古居利康 11年9月11日放送


テン・イヤーズ・アフター ①ジョージ・ウォーカー・ブッシュ

2001年9月11日。
ブッシュ大統領の緊急声明より、抜粋。

「国民の皆さん。
本日、わたしたちの日常生活において、
ほかならぬわたしたちの自由が、
テロリストの攻撃を受けました。

旅客機の中で、オフィスの中で、
ビジネスマン、軍や政府の公務員たち、
母親たち、父親たち、そして、友人たち、
わたしたちの隣人が犠牲者となりました。

何千もの命が、卑劣極まる残虐行為によって
突然終止符を打ったのです。

いままでアメリカは敵を粉砕してきました。
そして、今回もわたしたちはそれを実行します。」




テン・イヤーズ・アフター ②リック・リスコラ

ワールドトレードセンターの中に
オフィスを構えていたモルガンスタンレーの
警備主任、リック・リスコラは、
1993年に起きた、ワールドトレードセンター
爆破事件の教訓を忘れなかった。
不意打ちの避難訓練を頻繁におこない、
しばしば社員に煙たがられ、変人扱いされた。

2001年9月11日、
リスコラの恐れは現実となったが、
かれの冷静な避難誘導によって、
モルガンスタンレーの社員2700人のうち、
2687人は、無事だった。

その日、かれは妻に電話をかけている。
「どうか泣かないでほしい。
もし、ぼくの身に何か起こったら、
きみがぼくの人生のすべてだった、
ということを覚えていてほしい」

そう言い残して、かれは
まだビルの中にいる社員を救出するために
炎と瓦礫の中にとって返し、二度と帰らなかった。




テン・イヤーズ・アフター ③ノーマン・メイラー

権力のありかたを、
生涯、厳しく問いつづけた
小説家、ノーマン・メイラーは、
2001年9月13日、
タイムズ誌にこう語っている。

「アメリカは攻撃の精密さに
恐怖を覚えた。これがアメリカのような
若い国につきもののパラノイアに
火をつけるだろう。」

「なぜ、アメリカは、
このようなテロがおこなわれるほど
人々に憎まれているのか、理解しなければ
ならない。世界の多くの国々、
とりわけ発展途上国では、アメリカは
文化的な抑圧者であり、
美的な侵略者と見られている。
世界で最も貧しく、ちっぽけな国の
首都の空港の周囲に、
高層のホテルや建物が並ぶまで、
高層建築を増やしたがる。」

「アメリカが押しつけている
アメリカ風の生活スタイルや、
巨大な利益を上げつづける生活スタイルは、
世界の大部分の国には、必ずしも
ふさわしいものではない。
そこを理解しないと、アメリカは、
世界で最も憎まれる国になるだろう。」






テン・イヤーズ・アフター ④エドワード・サイード

キリスト教徒のパレスチナ人として
エルサレムで生まれた文学者、
エドワード・サイードは、2002年9月、
9.11以降の対テロ戦争は世界を安全に導いたか、
という質問にこう答えている。

「より危険になったと私は感じる。
突発的なものであれ、国家によるものであれ、
以前より暴力に支配され、
人々は安全でないと感じている。
それはテロのせいではなく、
米国が交戦状態にあるからだろう。
テロという抽象的な悪との戦いは、
終わることも勝利することもありえない。」




テン・イヤーズ・アフター ⑤カート・ヴォネガット

小説家、カート・ヴォネガットは、
2005年に出版された最後の著作、
『国のない男』のなかでこう書いている。

「マーク・トウェインとエイブラハム・リンカンは
いまどこにいるのだろう。
いまこそ必要なときだというのに。
ふたりとも、中部アメリカの出身だった。
ふたりのおかげでアメリカ人は己の愚かさを
笑うことができるようになったし、
本当に大切で、本当に道徳的なジョークのよさが
わかるようになったのだ。今日、ふたりがいたら、
いったい何を語るだろうか。」

そして、1848年、まだ大統領になる前の
リンカンの演説を引用する。

「糾弾を免れるために、彼は、国民の目を
華々しい戦いの輝ける栄光に向けておいた。
あの魅力的な虹は血の雨のなかのみかかる、
と知っていながら、破壊へと人を招き寄せる
ヘビの目をぎらつかせて、
彼は戦争へと突入していったのだ。」

「彼」とは、当時の合衆国大統領、
ジェイムス・ポークのことだ。
かれがはじめた戦争、
アメリカがカリフォルニアやテキサスを
手に入れた対メキシコ戦争を、
リンカンはアメリカの恥だと考えていた。




テン・イヤーズ・アフター ⑥大江健三郎

エドワード・サイードの友人、
大江健三郎は、2003年9月11日、
新聞にメッセージを寄せている。

「暴力をしずめるためには、
暴力ではなく言葉こそが力をもつと、
いま本当に必要な心のノートを書くなら、
私は広島と長崎からの言葉が
伝えられねばならぬと思います。」

「二年前の『9.11』に私らをとらえた沈黙、
考える言葉に向けてそれぞれにした手探り。
そこに立ち返ってみなければなりません。
あの時、世界じゅうの人間の心が
一致したとすれば、暴力をしずめる言葉を
作り出すことこそ文化だったという、
苦しい反省ではなかったでしょうか?」




テン・イヤーズ・アフター ⑦村上春樹

『9.11』後の世界について、
村上春樹はこう語っている。

「今の世界というのは、
実は本当の世界ではないんじゃないかという、
一種の喪失感。
…リアリティーの欠損なんですね。…
もし9.11が起こっていなかったら、
今あるものとはまったく違う世界が
進行しているはずですよね。
おそらく、もう少しましな、正気な世界が。」




テン・イヤーズ・アフター ⑧バラク・フセイン・オバマ


2011年5月2日。
オバマ大統領の緊急声明より、抜粋。

「こんばんは。
今夜、わたしはアメリカの人たちと世界に、
作戦実施のご報告ができます。
アメリカは、何千人もの罪なき人々や子供たちの
殺害に責任のあるアルカイダ指導者、
オサマ・ビンラディンを殺害しました。

アメリカ人に対する史上最悪の攻撃によって、
まぶしい9月の日が闇に落とされたのは、
10年近く前のことでした。

2001年9月11日のあの日、悲しみの中で
わたしたちアメリカ人は団結しました。

わたしたちは一致団結して、自分たちの国を守り、
この残酷な攻撃をおこなった者たちに
正義の裁きを下すのだと決意を固めました。

そして、愛する人を喪った家族の皆さんに、
こう言うことができます。

正義は、遂行されました。」

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