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2010 年 8 月 のアーカイブ

五島のはなし(112)

いままでルアーをあまり信じてませんでした。
ルアーとは、魚釣りに使う、たいていは魚の形を模した、擬似的なエサです。
小魚のように見せかけ、
ふだん小魚をエサとしている大きめの魚を釣るわけです。

子どものころから本当のエサを使った
釣りに親しんできた僕としては、
ルアーなんかでめったに釣れるものではない、と思っていたし
なんかこう都会のファッション的行為に思えたりもして敬遠してたわけです。

それがいろんないきさつで興味を持ち始め、
今回、五島の帰省中にいろいろ試してみることにした。

(あーほんとすみません、釣りの話ばっかりで)
(でもほら釣りの話って、釣りの話をメタファーにした人生の話だったりしますし)
(・・・正直、これは違いますけど)

で、前回の僕の兄が大きなイカを
見せびらかしてる写真をとった場所
(ちなみにマブシという場所です。兄と僕の釣りの聖地というか、ホームグラウンドというか、そういう場所です。)
で、あらかじめネットで入手していた「キビナゴ・バイブレーション」というルアーを投げてみた。

するとどうです、いきなりガツンとあたりが来て
マダイが釣れたですよ!

うひょー。
やっぱ五島すごい!
こんなにあっさり釣れるとは!

その後も、カマスだとかエソだとかハタが釣れて
もうほんと海辺にいるのが楽しくてしょうがなくって
で、調子に乗りすぎて、海に転落し、ケータイをダメにしてしまった。

(あ、そーだ、ケータイのデータをすべて失ったので、
ぼくのケータイのアドレスとか電話番号を知ってる人、僕に一度連絡ください!
いままでの番号とアドレスで通じますから!おねがいします!)

あ、それで、最初に釣ったマダイの口の中には
マダイの口の中で一生を過ごす「タイノエ」という
生きものがツガイでいたのだけど、
このタイノエもまるまる太っていて、
五島の海の豊饒さを感じさせた。

ちなみに、タイノエってこんな生きもの↓

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(たぶん)オオモンハタ。美味であった!



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蛭田瑞穂 10年08月29日放送



イングリッド・バーグマンを偲んで①
「アルフレッド・ヒッチコック」



アルフレッド・ヒッチコックは
『山羊座のもとに』という映画で
カメラの長回しを多用する撮影手法を試みた。

すると、主演のイングリッド・バーグマンが彼に詰め寄った。
「どうしてそんな面倒な撮影をしなければならないの?」

口論の嫌いなヒッチコックは最初黙って聞いていた。
しかし「なぜ?」「どうして?」という
彼女の度重なる追及に辟易し、しまいにはこう言い放った。


 イングリッド、たかが映画じゃないか。


サスペンスの神様ヒッチコックに
「たかが映画」と言わせたイングリッド・バーグマン。

その女優魂には畏れ入るしかない。





イングリッド・バーグマンを偲んで②
「エレットラとイザベラ」



2007年、コスメティクスブランドのランコムは、
ブランドの美の象徴であるミューズに、
イタリア人モデルのエレットラ・ロッセリーニを選んだ。

エレットラ・ロッセリーニの母親は、
イザベラ・ロッセリーニ。
映画『ブルーベルベット』の主演女優として知られる彼女は、
やはりランコムのミューズを長い間務めた。

そして、イザベラ・ロッセリーニの母親が、
イングリッド・バーグマン。

イングリッドの残した美の遺産は、
こうして脈々と受け継がれている。





イングリッド・バーグマンを偲んで③
「ティ・アーモ」



1948年、イングリッド・バーグマンは
ブロードウェイの小さな映画館で、
イタリアの巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督の
『戦火のかなた』という映画を観た。

衝撃的だった。

ロマンス映画にばかり出演してきたイングリッドにとって、
戦争の悲劇を克明に描いた『戦火のかなた』こそ
本物の芸術だと思えた。

この監督の作品に出たい。
その一心でイングリッドはロッセリーニに向けて手紙を書く。


 もしスウェーデン人の女優が必要でしたら、
 わたしは「ティ・アーモ」しかイタリア語は知りませんが、
 喜んでイタリアへ行って、
 あなたといっしょに映画を作るつもりです。


イングリッドがロッセリーニに対して抱いた気持ちは
最初、純粋に尊敬の念だった。
しかし、それがいつしか愛へと変わる。
そしてついには仕事も家庭も捨て、
ロッセリーニのもとへ走ることになる。

「ティ・アーモ」。
彼女が唯一知っていたイタリア語は、
奇しくも「あなたを愛しています」という言葉だった。





イングリッド・バーグマンを偲んで④
「君の瞳に乾杯」



「君の瞳に乾杯」。

映画『カサブランカ』でハンフリー・ボガードが
イングリッド・バーグマンに囁く有名なセリフ。

もとの英語は“Here’s looking at you, kid.”、
直訳すると「君を見つめることに乾杯」という意味になる。

このセリフを「君の瞳に乾杯」と訳したのは、
昭和の名翻訳家、高瀬鎮夫。

彼は原文にはない「瞳」という言葉を加えて、あえて意訳をした。
そうすることで、このセリフの持つ甘美で切ないニュアンスを
日本人にも伝わるようにしたのだ。

『ゴッドファーザー』や『サタデーナイト・フィーバー』など、
数々の字幕制作に携わり、洒落た翻訳で知られた高瀬鎮夫。

映画『ある愛の詩』の名セリフ、
「愛とは決して後悔しないこと」も彼によるものである。









イングリッド・バーグマンを偲んで⑤
「後悔」



1957年1月19日。
ニューヨークのアイドルワイルド空港に降り立った
イングリッド・バーグマンを待ち受けていたのは、
大勢の新聞記者とカメラのフラッシュだった。

映画監督ロベルト・ロッセリーニとの
不倫スキャンダルによって、
イングリッドは長らくハリウッドを追われていた。

その彼女が、ロッセリーニとの破局の末、
再びアメリカに戻ってきたのだ。

記者から辛辣な質問が飛ぶ。
「ミス・バーグマン、
あなたは自分の行動を後悔してないのですか?」

その質問に対して、
イングリッドは微笑みを浮かべてこう答えた。


 いいえ。
 わたしが後悔しているのは、
 しなかったことに対してであって、
 したことを後悔してはいません。


スキャンダルを乗り越え、
のちにオスカーも獲得したイングリッド・バーグマン。
彼女は美しいだけでなく、強い女性だった。





イングリッド・バーグマンを偲んで⑥
「As Time Goes By」



その日、ロンドンの
聖マルタン・イン・ザ・フィールズ教会には
亡くなったイングリッド・バーグマンにお別れを言うために、
200人の人々が集まった。

追悼の言葉と歌が捧げられると、
教会の片隅からバイオリンの音色が聴こえてきた。

それは彼女の代表作『カサブランカ』のテーマ曲
“As Time Goes By”だった。

知性的な美貌と、オスカー主演女優賞に2度も輝く演技力で、
世界中の映画ファンを魅了したイングリッド・バーグマン。

彼女は1982年の今日、67年の生涯に幕を閉じた。

この世から去った後も、
イングリッドは人々の思い出の中で輝き続ける。
“As Time Goes By”
どんなに時が流れても。





イングリッド・バーグマンを偲んで⑦
「薔薇の名前」



2000年に開催された第16回世界バラ会議で、
「イングリッド・バーグマン」という品種が
史上10番目の「バラの殿堂」に選ばれた。

その薔薇の名はもちろん
女優のイングリッド・バーグマンに由来する。

深紅の花びらが醸し出す高い気品と燃えるような情熱。
それは彼女の魅力そのもの。

かつて銀幕の花として、多くの人々を魅了した
イングリッド・バーグマン。
彼女はいま薔薇となって人々を魅了し続ける。





イングリッド・バーグマンを偲んで⑧
「カサブランカ」



映画史上最高の脚本は何か?

アメリカ脚本家協会によれば、
それは『カサブランカ』である。

2006年、アメリカ脚本家協会は
「史上最高の映画脚本ベスト101」の第1位に、
『カサブランカ』を選出する。

この脚本を執筆したのは、ジュリアス・エプスタイン、
フィリップ・エプスタイン、ハワード・コッチの3人の脚本家。


 「ゆうべはどこにいたの?」
 「そんなに昔のことは憶えてないね」
 「今夜は会えるの?」
 「そんなに先のことはわからない」


イングリッド・バーグマンと
ハンフリー・ボガードが交わす男と女の粋な会話。
1943年のアカデミー脚本賞も受賞した『カサブランカ』には
珠玉のセリフが溢れている。


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五島のはなし(111)

お盆休みの1週間、五島で魚釣りをする。
このことを、僕の兄は「命の洗濯」と呼んでいる。
都会で1年間ためた命の汚れは、
なかなかひどいものなのか、
とりつかれたように毎日海に向かう。

今年、命の洗濯はエギングで行う、と兄は決めていた。
エギングとは、アオリイカ(五島ではミズイカと呼ぶ)を、
エギと呼ばれる専用のルアーで釣ることだ。
ちなみにエギは漢字で餌木と書く。

兄はいままでやったことのなかった(僕もやったことなかったが)この
エギングなる釣り方を、五島に帰省する前に必死に勉強し、
こまめに釣り具屋に通って道具を揃え、
五島での本番に臨んだ。

一年間のうっぷんを五島での釣りではらそうとする、
そのけなげな姿を五島の釣りの神様はずっと見てたのでしょう。
兄はよく釣りました。釣りまくった、と言っても過言ではないほど。
ベストシーズンではない五島のアオリイカを。

釣った感触を何度も何度も思い出しながら、
(職場の同僚にちゃっかり自慢話もしながら)
兄はまた1年、都会暮らしをがんばることでしょう。

うれしくてたまらないくせに、大人の事情で口元を結ぶ兄。

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小宮由美子 10年08月28日放送



妻たち〜 山口(安田)静江

詩人・山之口獏の生活は貧しかった。

戦後、貧乏を語る専門家のようにマスコミにひっぱりだされたことも
手伝って、生活の苦労は一躍有名になってしまう。

妻である静江は、新聞記者やアナウンサーから
不躾な質問を浴びせられた。

「逃げ出したいと思われたことは何度かあったでしょうね?」

それに対して、
静江は詩人の妻としての矜持に溢れた返答をしている。

「貧乏はしましたけれど、
 わたくしたちの生活にすさんだものはありませんでした。
 ともかく詩がありましたから…」








妻たち 〜中川暢子

似た者夫婦という言葉があるが、
正反対の夫婦もある。

中川一政は、
女房となった暢子を画家らしい視点から観察した。

「どうも自分の女房は人が好きらしい。
 私の家へ客が来る。客がくれば食事をする。
 面倒くさいだろうと思うのだが、長年の間、
 そういうことで嫌な顔をしたことが一度もなかった」


麦や胡瓜は食べるが、その生態には興味がない。
鳥や樹木を愛でるが、その名前にも興味がない。
黙々と知識を得るより、人とのかかわりによって生き生きとする妻。

「私は考えた。私の女房は人生派である。
 私は自然派であると。
 その極端が夫婦になったのだと」


「さみしい家庭」に育ち、人を怖れていたと語る一政。
暢子への視線には、自分にないものを持つ妻への
信頼と憧れとを感じることができる。





妻たち〜節子・クロソフスカ・ド・ローラ

「夫婦の愛というのは、それぞれの夫婦によって
 築いていくものが違います」


この一文からはじまる「愛について」という随筆の書き手、
節子・クロソフスカ・ド・ローラ。

2001年にこの世を去った画家・バルテュスと
彼女の場合、それは<仕事>だった。

「私はバルテュスという人間と、彼が作る作品を愛しました。
 美しい作品を生むためには何でも受け入れることができる、という
 気持ちがあったことが、長く続く基盤になったのです」


最期の別れのとき、
節子は昏睡状態にある夫・バルテュスの耳元にそっとささやいた。

「今まで何から何まで本当にありがとうございました」
「再婚はいたしませんよ」


そう付け加えると、バルテュスの口元が、微笑んだという。





妻たち〜 西武子

西武子は、夫を、硫黄島の戦いで亡くした。

夫の名は、バロン西こと、西竹一。
男爵家に生まれ、莫大な財力と華やかな容姿、
人を魅了してやまない独特の魅力に恵まれた男。
その竹一に嫁いだのが、名家に生まれ、美貌の人だった武子。
のちに竹一はロサンゼルスオリンピックの馬術競技で金メダルを獲得し
さらに輝かしい栄華に包まれるも、太平洋戦争、勃発。
二人もまた、時代の渦にのみこまれていく。

生前の栄光と、過酷な戦場であった硫黄島での戦死という
壮絶なコントラストによって、死後も注目を集める竹一。
周囲が特別な視線を遺族に浴びせ続ける中で、
女手ひとつ、のこされた一男二女を育てあげた武子は、
後年、次のような文章を残している。

「戦後、花やをやり、デパートでもんぺをはいて、
 売り場に立ったこともあります。もとの知人が私を見て、
 『気の毒で声をかけられなかった』と、あとで聞きましたが、
 残念でした。私にとっては当たり前のことでしたのに」


西武子は、昭和53年に亡くなった。73歳だった。
年を重ねたときの彼女は落ち着いた気品があり、
若いときよりさらに美しかったという。





妻たち〜 吉野きみ子

戦「おまえなんか、酒田へ帰れ!」
と、押し入れからトランクを引っぱり出す夫・弘(ひろし)。
「ええ、帰ります!」と、トランクに物を詰め始める妻・きみ子。
「まあ、まあ」と、そこに同居の父が割って入って事なきを得る。

吉野家で繰り返された、夫婦喧嘩の一場面。
互いに気持ちをわかっていながら、時に烈しくぶつかり合う。
ぶつかりながら、長い年月をかけて信頼を築く。
そんな、妻・きみ子との夫婦生活の中から、詩は生まれた。

 二人が睦まじくいるためには
 愚かでいるほうがいい
 立派すぎないほうがいい
 立派すぎることは
 長持ちしないことだと気付いているほうがいい…


結婚式で、新しい門出を迎えたふたりに贈られることの多い『祝婚歌』。
夫である、詩人の吉野弘の作による。





妻たち 〜グラフ

「あなたの直感を信じればいいのよ」
「僕の直感は、僕のことを信じていないんだ」


夫婦そろって、世界no.1プロ・テニスプレーヤーで
あったことで知られる、アンドレ・アガシとグラフの会話。

ふたりの考え方は、まったく違う。
「そこが、結婚生活がうまくいっている秘訣なんだ」とアガシは言う。

彼が長年に渡ってテニス界のトップに君臨し続けることが
できたのは、同業者であり、考え方の違う、この妻の存在が
大きかったといわれている。





妻たち 〜檀ヨソ子

「あるとき、檀のことをどのくらいわかっていたと思うかと質問された。
 それに対して、私は傲慢にも、檀の気持ちのかなりの部分は
 わかっていたと思うと答えてしまった。たぶん10のうち7か8は、と。
 だが、本当は何もわかっていなかった」


檀ヨソ子が、夫である作家・檀一雄の代表作『火宅の人』を通読したのは、
檀の17回忌を過ぎた後だった。
愛人との暮らしを綴った私小説ともいえるその内容は、
妻であるヨソ子にとっては堪え難いものだった。

ヨソ子はその苦悩を、インタビューを受けるかたちで、
『檀』という一冊の本に記す。
過ぎ去った日々の記憶に傷つき、
夫の死後に知る、夫婦の距離に茫然とするヨソ子の心情が
率直に書かれた本の中には、
だが時に、夫と妻の間だけで交わされた、甘い思い出が滲む。

一年に渡るインタビューによって書かれたというその本は、
ヨソ子のこんな言葉によって締めくくられている。

「あなたにとって私とは何だったのか。
 私にとってあなたはすべてであったけれど。
 だが、それも、答えは必要としない」

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五島のはなし(110)

そーいえば、もうすぐ公開の映画「悪人」。

主演:つまぶきさとし、と、あとだれだっけど忘れしたあの演技が上手な女優!

のロケ地は五島・福江島です。

大瀬崎灯台近辺です。

見てください。

「悪人」と聞いたら、五島を思い出してください。

五島=悪人 です。

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Tokyo Copywriters’ Street の Twitter

Tokyo Copywriters’ Street のTwitterをはじめました。
http://twitter.com/team_tcs

がっ、まだよくわからず、たぶんいっぱい失礼をしているような…
なにしろ昨日からですし
使わないと覚えないし、使うと失礼なことをやらかしそうで
ううむ………(玉子)

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五島のはなし(109)

帰省2日目、8月8日にとうとう見たよー。
ベベンコビッチ・オーケストラのライブ。
ベベンコビッチ・オーケストラは、五島人が五島弁で歌うバンドで、
ベベンコビッチというのは、牛の子どもを意味する「ベベンコ」から
来ているはずだが、同時にこのバンドのボーカル/ギターの
人の名前(愛称?)でもあり、その人はたまたま僕の兄の同級生である。

で、五島に帰ってみたら
このベベンコビッチ・オーケストラがたいへん有名で、
うちの叔母も「よかよね、ベベンコビッチ。わたしは、あの、『頓泊心中』ちゅう曲が好きよ」
なんて言っている。

で、帰省した早々、頓泊(とんとまり)ビーチにて、
ベベンコビッチ・オーケストラのライブがあるというので行ってみた。

本当はここに彼らのナイスなライブ風景が
載るはずだったんだけど、
写真を収めたケータイを海に落として見せられない。残念。
でも下の下の下あたりの記事に
厚焼玉子さんが、ベベンコビッチの映像を
貼り付けてくれてたので、それを見てみるとどんな人たちかがわかる。

で、ライブ。
しょっぱなの曲は、以前から僕の好きな「アジゴばつろで」でした。
何が好きかって、曲のタイトルからしてセンス抜群です。
「アジの子を釣りに行こうよ」
という意味のタイトルの何がセンス抜群なのか
伝えるのは非常にくるしいのですが、
この一言には、五島の夏の夕方の平和な雰囲気を伝える情緒がある。
そうだ、わかったぞ、情緒だ。

ただたんに地元の言葉で歌ってるのがおもしろい、
っていうのとはちょっと違うんですよね。
あー、今年紅白に出てくんないかなー、ベベンコビッチ・オーケストラ。

あ、それで、冒頭の叔母が言っていた「頓泊心中」も聞きました。
ハッピーな歌ばかり歌うベベンコビッチが
心中とは物騒な、って思っていたら
恋した二人が頓泊ビーチで心中しようとしたけど、
遠浅すぎて行けども行けども水は膝までぜんぜん死ねない。
みたいなナイスな歌。
あー、うちの叔母はこれが好きだったんだな。

ライブはほんわかとゆるく、
べべコンビッチさんとうちの兄が何十年ぶりかの再会をしたり、
ちょうど誕生日だった甥っ子はベベンコビッチ・オーケストラに
ハッピーバースデーを歌ってもらったり、
僕は僕でずいぶん会ってなかった義父と会って話したり、
そしたら義父のとなりにたまたま座ってたのが
20年くらい会ってなかった同級生でびっくりしたりした。

(五島の良さを伝えるための『五島のはなし』のはずなんだけど、
 ただの日記になりつつある。ゆるしてくらさい。)


*ベベンコビッチさんのブログから写真を盗んできました(玉子)


詳細はこちらのブログにあります。
http://blog.goo.ne.jp/bebencobicci/e/db4041ea2d37633370a5774af92f3842
写真集はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/bebencobicci/e/50f72de8d5522ad56ef106b2445d01f5


下のyoutubeはいつかのライブ


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石橋涼子 10年08月22日放送



1.夏の風物詩 人魂 葛飾北斎


浮世絵画家 葛飾北斎先生が
90歳で亡くなったときの辞世の句がある。


 ひとだまで 行く気散じや 夏の原


浮世のしがらみから自由になって
ふわりふわりと夏の原っぱを飛びまわれば
さぞ気持ちのいいことだろう。

北斎先生にかかったら
死ぬこともこんなに涼しい。





2.夏の風物詩 日本初のビヤガーデン


日本のビールの父と呼ばれているのは、
ウィリアム・コープランドというビール好きのアメリカ人。
当時の日本ではおいしいビールが飲めないという不満から
明治2年、自ら醸造所をつくったのだった。

彼のつくったビールは、
日本人にもビアザケと呼ばれ愛されたが
15年後、資金難から醸造所は人手に渡ってしまった。

しかしそこはビールを愛するコープランド。
今度は、自宅の庭を開放して
できたてのビールを客にふるまうことにした。
これが、日本初のビヤガーデン。

彼が日本の夏にもたらしたものは大きい。
ビヤガーデンで飲む一杯を想像するだけで
夏の暑さも疲れもゆるむというものです。









3.夏の風物詩 ウナギの滋養


土用の丑の日にウナギを食べよう
と言い始めたのは平賀源内という説も
文人の大田南畝(なんぼ)という説もあるが、
万葉の時代からウナギは夏の滋養食だった。

「万葉集」で、大伴家持はこんな歌を詠んでいる。


 石麻呂に われ物申す 夏やせに
 よしというものぞ 鰻(むなぎ)とりめせ


夏バテの友人を心配してか、からかってか、
ともあれ鰻を食べるよう薦めている。

おいしいものを食べるための理由は
いくつあってもいい。





4.夏の風物詩 風鈴 黒澤明


映画監督、黒澤明は音に対しても強いこだわりを持っていた。

すべての音は、人の持つ記憶につながっている。
そう考える黒澤監督は、
特に、季節感の音と、情感の音にこだわりを持っていたという。

映画「赤ひげ」のワンシーンでは、
ある男が、生き別れの女房と
浅草のほおずき市で再会する。
ふたりが互いの存在に気づいた瞬間、強い風が吹く。
ほおずきの籠に吊り下げられた風鈴が一斉に鳴り響く。

赤ひげの時代に、ほおずき市に風鈴は飾られていなかった。
スタッフにそう告げられた監督の答えはというと。


違ってもいい。
最高の風鈴を持ってこい。


こうして日本中から選ばれた風鈴の音色は、
通常のものよりも余韻が2倍も長く
映画の中のふたりの再会のはかない結末を惜しんでいる。

黒澤監督は、こう語る。


 映画音楽というのは、画に足したのではだめた。
 掛け算にならないとだめなんだ


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熊埜御堂由香 10年08月22日放送



5.夏の風物詩 花火師 高杉一美


昭和5年の春、16歳の少年がある職業に夢をかけた。
花火師、高杉一美
親方からやっと認められはじめた7年目のとき。
盧溝橋事件が勃発し、
やがて世界は太平洋戦争へ突入した。

火薬の知識が買われた高杉はダイナマイトの製造に関わるようになる。
工場にある火薬を見ると想像力が騒ぎだす。
これをつかえば大輪の花々を夜空に咲かせる尺玉がいくらでもつくれるのに・・・

ある日、火薬庫へ向かおうとしていると、
すさまじい爆発音とともに倉庫の屋根がふっとんだ。
中にいた女性の工員はみんな亡くなり
あと1歩のところで高杉は命を拾った。

花火師、高杉一美は
戦後、次々とコンクールで賞をとる花火を生み出していった。

高杉は花火にこんな願いを込めていた。


 生きていることがうれしくてたまらないような、
 そんな花火であってほしい。






6.夏の風物詩 衣がえ


 灰皿も硝子にかへて衣更へ


日本の少女小説の祖とも言われる
吉屋信子が詠んだ句だ。
女性らしい、彼女らしい、
細やかな夏の楽しみ方が
伝わってくる。

真っ白なワンピースを着たくなる。
髪をアップにしたくなる。
方法はひとそれぞれ。

夏が終わる前に、
もっと、もっと夏を感じよう。





7.夏の風物詩 お盆を想う唄



 盆だ盆だと待つのが盆よ。盆がすぎれば夢のよう。


岩手県の遠野市に伝わる一口唄だ。
村のだれが唄いはじめたのか、わからないが
こんなふうに、
日本中がお盆を楽しみにしている時代があった。

8月は日本人が故郷に帰る季節。
帰省ラッシュに文句をいいながら、
それでもやっぱり
帰りたくなる場所がある。





8.夏の風物詩 まんまる西瓜


作家、結城信一が1967年に発表したエッセイ、西瓜幻想。
結城は、電気冷蔵庫におしこまれた現代の西瓜に同情をよせ、
こう書いた。


 土から生まれた西瓜にとっては、
 井戸の中にいれてもらって、
 ごろんごろんと
 浮かびながら
 ひとを待っているのが
 いちばん楽しい時なのだ。


そういえば、最後に、
まんまるの大きな西瓜に、わくわくして、
包丁をざくりと入れたのはいつだったっけ。
スーパーで切って売られている赤い水瓜を手に取ると
家族の多かった子供時代を思い出す。

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坂本仁 10年08月21日放送



マルコ・ポーロ

飛行機もクルマも存在しない、
まだ世界最速の陸上の移動手段が馬だった時代。
17歳のマルコ・ポーロはヴェネチアを出発し
中東から中央アジアへ、
そして現在の北京にあたる元の首都まで旅をした。

それから17年間、
マルコ・ポーロは元の国の外交官として
アジアの各地を旅してまわった。
その壮大な冒険を口述したのが、
「東方見聞録」である。

「東方見聞録」の内容は
あまりに想像を絶するものだったために
はじめは誰も信用しなかった。

けれども、
マルコ・ポーロが記したアジアの富や物産は
人々の冒険心を刺激して
やがては大航海時代の目標につながっていく。

コロンブスも東方見聞録を愛読書としていたという。








山田康雄

日本を代表する声優、山田康雄。
洋画では、
クリントイーストウッドやジャン・ポール・ベルモンドの吹き替えとして知られ、
アニメではルパン三世の声優として長い間多くの人に愛された。

そんな山田康雄には、
新人声優たちを指導する際の口癖があった。

声優を目指すな。
役者を目指せ。
演技は全身でするものだ。

彼は現実の世界で、知識と経験という宝を若い声優たちに与えつづけた人だった。





ロベルト・バッジョ

イタリアを代表するサッカー選手、ロベルト・バッジョ。
現役を退いてなお、
世界中にファンを持つ彼が、以前、
ドーピングについて語ったことがある。

僕の知っているドーピングはただひとつ、
努力だけだ。

絶対に負けたくないという強い気持ちがあれば
そのために
「努力」という方法を選ぶこともできる。

ファタジスタと賞されたロベルト・バッジョ華麗なプレーも
日々の練習に支えられていたのだから。





ライト兄弟

1903年12月17日。
その飛行機は浮き上がったかと思うと、
今度は地面に向かって急降下した。

世界ではじめて人類が飛行機で飛んだのは、
わずか12秒だった。

しかしそれは、
人類が長い間抱いていた夢を叶えた12秒であり
空気よりも重い機械を使って空を飛んだ世界最初の成功例でもあった。

ライト家の三男、ウィルバー・ライト。
四男オーヴィル・ライト。
人類初の動力飛行という偉業を成し遂げたライト兄弟は、
大空を飛ぶためにすべてを捧げた。

オーヴィル・ライトは
こんな言葉も残している。

「飛行の興奮はあまりに強烈で喜びが大き過ぎるので
 スポーツとは認められない」





松本英彦

戦後の日本のジャズ界をリードした世界的テナーサックス奏者、松本英彦。
眠そうに目を閉じながら、
とろけるような音色を奏でることから、
スリーピー松本と呼ばれた。

2000年にこの世を去った松本英彦は、
現在、京都にあるお墓に眠っている。

そのお墓には、
スイッチを押すと彼の演奏が流れるという、
ユニークな仕掛けがある。

紫綬褒章、勲四等旭日小綬賞を受賞したジャズマンは
目を閉じてもなお
訪れる人と共にスウィングしている。





ヘミングウェイ

一日のうち、何かを待っている時間は意外と多い。
そして、私たちは一日何度も苛立ちを感じている。

けれど、
「武器よさらば」、「老人と海」などで知られるノーベル賞作家、
アーネストヘミングウェイの言葉は、
そんな苛立ちをゆとりへと変えてくれる。

魚が釣れない時は、
魚が考える時間をくれたと思えばいい。

なかなか来ないエレベーターだって、
いつも遅刻してくる友人だって、
そして渋滞だって、
考える時間をくれているのだ、
そう思えれば、きっと毎日は楽しくなる。





リュミエール兄弟

1895年、パリのグランカフェで
ある人はコーヒーをこぼし、
ある人は外に向かって逃げ出し、
ある人は腰を抜かした。

人々が目にしたのは、世界初の映画上映。
リュミエール兄弟の作品のひとつ、
「シオタ駅への列車の到着」だった。

駅のホームに蒸気機関車がやってくる情景を
ワンカットで映した単純なショートムービー。
しかし、スクリーンで映像を見たことがない人々を
驚かすには十分だった。
その場にいたすべての人が、
本物の蒸気機関車がカフェに突っ込んできたと思ったという。

映画をつくった人はたくさんいる。
けれど映画というジャンルをつくった人は、
リュミエール兄弟以外にはいない。

映画というエンターテインメントの世界を切り拓いたリュミエール兄弟。

その名にあるリュミエールという言葉が、
フランス語で「光」を意味することは、
偶然にしてはできすぎているのかもしれない。

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