2010 年 8 月 のアーカイブ

五島のはなし(108)

で、五島2日目。

この日、8月8日は
僕の兄とその息子(ちょうどこの日が10歳の誕生日だった!)の帰省を
迎えに行きました。二人は名古屋から新幹線で福岡まで来て、
そこからフェリー「太古」に乗って、9時間の船旅の末、五島にたどり着いた。

いいね、父と息子の2人旅。
夜行フェリーで、それぞれ別のベッドで寝たらしい。
息子が寂しがるかと思い、

父「こっちきて一緒に寝るか?」
息子「(ぶっきらぼうに)いや、いいわ」

なんて会話があったらしい。
いいね。
一瞬一瞬が人生だね。
そして父は夜明けに目を覚まし、
薄明かりに浮かび上がる五島の島々を甲板から眺めたとのこと。
(この景色は僕も何度か見たことがあって、ほんとにすばらしい。みんなにおすすめしたい。)

そのとき僕に送ってきたメールには、
「生きてる実感がする」だかなんだか、
かっこいいことが書いてあったのだけど、
ケータイを水没させてしまった今となってはわからない。

港に接岸するフェリー太古の写真、
すごくいいのが撮れてたんだけどなー・・・
ケータイを水没させてしまった今となってはお見せしようがない。

10歳になったばかりの甥っ子は、元気そうに船を降りてきて、
迎えに来たみんなから「誕生日おめでとう!」と言われていた。

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五島のはなし(107)

五島1日目。

今年の五島への帰省は
8月7日(土)から17日(火)でした。
長い間仕事を休むから帰省前はほんとパニックみたいになってて、
7日は出発直前に釣り道具をパッキングし、
下着やらなんやらをスーツケースにつめこみ、
なんとか飛行機に間にあったです。ふー。ほんとにあせった。

羽田から飛行機を乗り継ぎ
五島福江空港にたどり着いたのは夜の7時。
天気は抜群。
先に帰ってた子どもらと遊び、
実家でおいしい魚など食べ、
さあ、明日からたくさん遊ぶために早く寝るぞと思ったけど
まったく寝れない。

しょうがない、じゃあもうさっそく釣りに行くか!
と家を出たのは夜中の2時半。
ふだん横浜でさんざん夜釣りはやってるのですが、
都会と田舎ではこんなに「夜中」が違うものなのか!と思いしらされました。
なにしろ暗い!そして怖い!
明かりが圧倒的に少ないのです。
海岸へ向かう山道は、もうほんと「闇」でした。
引き返そうと思ったけど、道が狭くて車をUターンできない。
車を降りて空を見上げたら、星がすごい!
ばああああーっと星。島が星まみれ。
これ、ふつうなら感動するところだけど、
この星の多さも、なんだか闇の深さを教えてるようで、もうとにかく怖い。
なにか出る。魚以外のなにかがぜったい出る。
って思いながら、釣りしてました。

場所を移動したりしつつ、結局ほぼ何も釣れないまま夜明け。
ただ、明け方にやってきたおじさんが
となりで大きなマダイをつりあげた。
へー!こんな場所でこんな大きなマダイが釣れるんだ!

今回の帰省は、その後も毎日、
この「へー!こんな場所でこんな魚が!」
という驚きがあって、本当に楽しかった。

そんなこんな、ほぼ徹夜で、怖い!怖い!って叫びながら
五島の1日目終了でした。

1日目に行った場所:
●半泊(はんとまり)
福江の市街地から車で30分くらい。小さな入り江のある村。廃校で都会からの移住者たちが共同生活をしています。
●戸岐向(とぎむかい)
同じく市街地から20分。赤い戸岐大橋と、その下の流れのはやい潮が見どころです。

釣れた魚:
●カマス
歯が鋭いから、すぐに糸を切られちゃうんですよねー。

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五島のはなし(106)

はやいですね。
今年も気がついたら、
五島に帰って、お盆を過ごして、そしてまた東京にもどってきてました。

今年はこのブログで五島のいろんな景色を
見てもらおうと、
ケータイでパシャパシャ写真撮ってたんですよ。
(といいつつ、ほとんど釣った魚の写真だった気もする)

でも五島最終日の朝、
兄と魚釣りしてる時に、海に転落してしまったのです。
ポケットにそのケータイを入れたまま!

けがすることもなく、
釣り竿とリールを傷つけることもない
我ながらナイスな転落でしたが、
ケータイは死んでしまった・・・

しょうがないので、撮った写真を思い出しながら
五島のあれこれを書いていきます。

・・・あしたから。

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中村直史 10年08月15日放送



あの人の、8月15日。/島田覚夫

1945年8月15日、戦争は終わった。
けれど「戦争が終わった」と知るすべのない人たちにとって、
戦争は終わりようがなかった。

その日、ニューギニアの山奥で、
島田覚夫さんは
仲間の兵士とともに
敵の陣地に置き去りにされたままだった。
四方八方に敵の気配を感じながら、
武器も食料も底をつく中、彼らは
ひとつの、シンプルな大方針を立てる。


 生きられる限り、生き抜こう。

最初は、わずかに残された乾パンを、
それがつきると、蛙、蛇、鼠、とかげ、いもむし、あらゆるものを食べた。
飢えをしのぎなら、今度はジャングルを開拓し、畑をつくった。
無我夢中で毎日を生き、気がつけば10年が経っていた。
本人が、原始時代、石器時代、鉄器時代と呼ぶように、
工夫を重ね、生き延びた10年。

その回顧録を読むと、
不謹慎かもしれないが、
生き抜こうとする人間の力と知恵にわくわくさえしてしまう。

ようやく終戦を知ったのは、昭和30年3月のこと。
「実家に帰ったら、自分の遺影があったんですよ」
彼はそう言って、笑った。

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三國菜恵 10年08月15日放送



あの人の8月15日。/高見順

1945年8月15日
プロレタリア作家、高見順は
電車に乗っていた。

彼はそこで、
終戦を信じない日本兵たちの声を聞く。


 今は休戦のような声をしているが、敵をひきつけてガンと叩くに違いない。

高見は、ひそかやな溜息をついた。


 すべてだまし合いだ。
 政府は国民をだまし、国民はまた政府をだます。
 軍は政府をだまし、政府はまた軍をだます。

戦争がはぐくんだ
だましあいの心に気づき、彼はじっと眼を閉じた。



あの人の8月15日。/野坂昭如

1945年8月15日
あの「火垂るの墓」を書いた
野坂昭如は、14歳の少年だった。

玉音放送を聴いたとき、彼はこう思ったという。


 死ななくていい、生きて行ける、
 本当にホッとした。
 この軽い言葉がいちばんふさわしい。

誰もがみんな、
敗けたかなしみに打ちひしがれている訳ではなかったのだ。



あの人の8月15日。/永井荷風

昭和を代表する小説家、永井荷風は
1945年8月15日
玉音放送の直前まで、
谷崎潤一郎と過ごしていた。

二人は戦時中も
絶やすことなく日記を書き、
新たな原稿を書いては、互いに読み合っていた。

そんな荷風の8月15日の日記。
終戦の記録は、たった一行
枠の外にしるされているだけだった。


 正午戦争停止

その言葉のほかには
天気と、食べ物と、友人の話があるばかり。

普通の幸せがいちばんなんだ。
彼は戦火の中で、
そう思い続けていたのかもしれない。

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三島邦彦 10年08月15日放送



あの人の、8月15日。/吉田秀雄

1945年8月15日、正午。
とある広告会社のオフィスビル。
ラジオで終戦の報せを聞き、
落胆する社員の中で、一人の男が叫んだ。


 これからだ。

男の名前は吉田秀雄。
当時、その会社の常務だった。
後にラジオの民営化に尽力することとなる。
戦争のための宣伝から、経済のためのコマーシャルへ。

新しい時代に向け、
彼はまず、オフィスの掃除を始めた。



あの人の、8月15日。/下村宏

終わりを告げたのは、ラジオだった。

65年前の今日、
1945年8月15日正午
ラジオから流れる昭和天皇の声が、
日本国民に終戦を告げた。

いわゆる「玉音放送」。
この放送を実現させたひとりの男がいる。
当時の内閣国務大臣、下村宏。

新聞社に勤めていた頃から
講演のためラジオに度々出演していた下村は、
当時最大のマスメディアであった
ラジオの力を実感していた。

戦争が終わった。
その結末を国民に伝えるには、ラジオしかない。
そう思った下村は、天皇に進言し、許可を得る。

ポツダム宣言受諾後、すぐさま天皇の声を録音、
放送までの実務を取り仕切った。

史上最も国民に衝撃を与えたラジオ放送は、
こうして実現した。



あの人の、8月15日。/清川妙

作家の清川妙は、
山口市にある実家で、
終戦を告げるラジオを聞いた。

その日のことを、こう語っている。


 ああ戦争が終ったんだという気持ちだけでした。
 でもその晩はうれしかったですね。電気をあかあかと点けてもいいし、
 カーテンも開けてよくなりましたから。

戦争は、比喩ではなく、人々から光を奪っていた。

とても安堵できる状況ではなかったけれど、
ひとまず、明るい夜が戻って来た。



あの人の、8月15日。/羽田澄子

その日、中国の大連市にも玉音放送は流れた。

満州鉄道の中央試験所のラジオの前には、
後に映画監督になる、羽田澄子がいた。


 初めて戦争ってやめることができるのだ、
 やめるという選択肢があったのだと知りました。
 だって生まれたときから戦争していて、
 平和のためには戦わなくてはいけない、
 結論がでるまでずっと戦争をしているのだと思い込んでいたのです。

人間がはじめることは、人間が終わらせることができる。

そのことに、やっとみんなが、気がついた。

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小山佳奈 10年08月14日放送


アイザック・ニュートン

天才とは集中力だと思う。

かのニュートンも、
ひとたび研究に没頭すると
部屋に閉じこもったきり
食事もろくに取らなかったという。

秘書は自分の務めた5年間で
ニュートンが笑うのを
一度しか見たことがなかった。

その一回は
誰かがこう尋ねたときだった。

「ユークリッドの幾何学なんて
何の役に立つんだ。」

ニュートンは、何も言わずに
ニヤリとほくそ笑んだ。

いまでも数学は
この世界を書き記すたったひとつの方法である。


ウィリアム・ハミルトン

数学者とは執着だと思う。

アイルランドの生んだ天才数学者、
ウィリアム・ハミルトン。

彼はその生涯を、
数学と、ある一人の女性に捧げた。

19歳で恋に落ち、
彼女が他の男性に嫁いでもなお
手紙を送り、詩を贈った。

彼女が死の床についたとき
ハミルトンは30年ぶりに会いにいく。

「憶えているでしょうか
ずっと昔のあのできごとを。
忘れられない思い出が
今もあるかと知りたくて。」

ハミルトンはこの執着で数学に挑み
そして数学は彼を受け入れ、名声を与えた。


堀田瑞松

1885年8月14日、
日本で初めての特許が認められた。
第一号の商品は「サビ止め」。

富国強兵真っただ中、造船に励む日本。
しかし鉄で出来た船はすぐ船底が錆びてしまい
6ヶ月ごとに塗装をしなおさなければならない。
これは世界中の船に共通する悩みだった。

そんな中、
船底のサビを止める方法を思いついたのは
学者でも技術者でもなく
工芸家、堀田瑞松(ずいしょう)だった。

刀の鞘塗りの家に生まれ、
漆の扱いには慣れていた瑞松。
なんと、
漆に生姜と渋柿を混ぜるという
斬新な手法でサビ止めを作り上げた。

日本の伝統工芸を担う人は
実は最先端の科学者だったのだ。


山口冨士夫

ロックというものがまだ
危険な存在でしかなかった時代。
一つのバンドが
怠惰な時代の流れにくすぶる
若者の狂気を集めた。

村八分。

名前からして穏やかならないそのバンドは、
ストーンズ顔負けの轟音ギターと
京都弁まるだしの生々しい歌詞で
「伝説」の名を欲しいままにした。

ギターの山口冨士夫は言う。

「ロックは音楽じゃない
 ロックは生き方の話なんだ」

ロックフェスという名のお祭りが
夏を彩るようになって10年。

色とりどりのタオルを首に巻いた若者たちが
楽しそうに歌い、踊る。

どこまでも平和な近ごろのロックを
少しだけ物足りなく思うのは
青すぎる空のせいだけではないはずだ。


ジョン・S・ペンバートン

8月のコーラには
魔物が住んでいる。
子どもの頃は、そう信じていた。

コカ・コーラの創業者、
ジョン・S・ペンバートン。

彼がコカ・コーラを発明した時に
特許を取らなかったのは有名な話。

特許を取るためには材料と製法を
公開しなければならない。

そんな危険を冒さなくても
誰にもこの味は真似できないという
確信がペンバートンにはあった。

その通り。

120年たった今でも
その魔物は魔物のまま、
8月の少年少女の喉元を
つかんで離さない。


ジョージ・ソロス

“ウォール街の投機王。”
“ポンドの空売りでイングランド銀行を破産させた男。”

ハンガリーに生まれ、
その類まれな金融センスで
史上最高額の利益を叩きだしたジョージ・ソロスの言葉がある。

「仮説が利益を生む。
 しかし、仮説に欠点を認めると
私はほっとする」

なるほど。

人生は、大胆と無謀を
はきちがえちゃいけない。
常にリスクを意識すべし。


ビスマルク

この国のリーダーたちを見ると
強いリーダーというものを
考えてみたくもなる。

オットー・フォン・ビスマルク。

ドイツ帝国初代宰相。
またの名を「鉄血宰相」。
ニックネームがすでに強い。

卓越した外交手腕と冷静な判断力で
バラバラだったドイツをひとつにし
果てはヨーロッパをもまとめ上げた。

しかし死ぬ間際、最後に遺した言葉は
政治とは関係のない、妻への想いだった。

「愛するヨハナにまた会えますように」

本当のリーダーとは
こういう人なのかもしれない。

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厚焼玉子 10年08月08日放送



涼味 そうめん

暑い日の「素麺」という言葉の涼しさ。
あの白く冷たい麺に生姜のきいたつけ汁を出されたら
どんなに食欲のない日も思わず箸を取る。

日本の夏に素麺を考えた人はえらい。
でもいったい誰が?

素麺は奈良時代に中国から伝来したお菓子が起源という説がある。
けれども、9世紀になると
早くも岡山あたりで「麦切り」が作られ
宮中に献上されていたという記録が残っている。
この「麦切り」が素麺の、いわばご先祖さまらしい。

おいしい素麺で名高い岡山県鴨方町は、
いまでもキレイな水に蛍が飛び、空気はカラッと澄みわたっている。
この土地でこだわりの手延べ素麺をつくりつづけてきた
おくしま家(や)の奥島信行さんは、
2006年、小さくても人に役立つ発明や提案をした人がもらえる
東久邇宮記念賞を受賞した。



涼味 かき氷

夏はやっぱりかき氷。
ぶんぶんと音を立てて氷をまわしながら削る
あの機械の音でさえ暑いときはうれしいけれど
江戸時代の随筆家鈴木牧之(ぼくし)の北越雪譜には
もっと涼しいかき氷が出てきます。

夏、鳥の声が足元から聞こえるほどの山道を歩いて
汗だくになった鈴木牧之は
やっと腰をおろした茶店に天然の氷を見つけます。

山陰の谷から取ってきた氷を包丁でさらさらと削ったかき氷を
一杯めは、茶店のおじいさんがすすめるままにきな粉をかけて。
二杯めはきな粉をことわって
荷物のなかから砂糖を出してふりかけて食べた。

歯も浮くほどの冷たさに思わず暑さを忘れた、と
北越雪譜に書かれているかき氷、
天然の氷をさらさら削ったかき氷、
いっぺん食べてみたいです。



涼味 辛味大根

大根の辛味はイソチオシアネートという成分によるらしいが
それを通常の4倍も持つ大根がある。
親田辛味大根(おやだからみだいこん)という名の幻の大根だ。

親田辛味大根は、長野県下條村の特産品で
地元で「あまからぴん」と呼ばれる。
最初にほんのり甘く、次に強烈な辛さがやってくるからだ。

この「あまからぴん」を代々伝えてきたのは
下條村の佐々木圭さんの家で
江戸時代には尾張の殿さまに献上した記録も残っている。
危うく滅亡しかけたこともあったけれど
村の人たちの協力によって復活し
いまでは村全体の特産品になった。

信州長野といえば蕎麦どころだが
親田辛味大根は冷たい蕎麦との相性が抜群にいい。

暑い日に、ピリリと刺激的なおろし蕎麦。
佐々木さん、下條村の皆さん、ありがとう。



涼味 ラムネ

夏の風物詩といえば昔はラムネだった。
夏休みに連れて行ってもらった映画館のラムネ、
海の家のラムネ、
お祭りの、神社の夜店で売っていたラムネ。

あのカラコロ音を立てるビー玉入りのラムネの瓶は
誰がつくったのだろう。

ラムネ瓶はもともとイギリスで発明されたものだが
スクラップのガラスの中からそれを見つけた徳永玉吉が
見よう見まねで4年がかりで再現。
明治25年にやっと国産第一号のラムネ瓶が生まれることになった。

イギリスではもうラムネ瓶は残っていないけれど
徳永玉吉のおかげで
日本の夏は、いまでもラムネのビー玉が涼しい音を立てる。



涼味 ところてん


 清滝の水汲みよせて ところてん

芭蕉の夏の俳句は涼しい。

清滝は京都の嵯峨野の奥のもっと奥にある水の里で
清滝川に沿った渓谷には夏は蛍が飛び、カジカも鳴く。
谷の風は涼しく
昔から涼を求める人々が訪れる土地でもあった。

清滝の茶店で、
川の水を汲んで冷やしたところてんを
芭蕉は食べたに違いない。

ところてんの味を決めるのは
テングサとおいしい水。


 清滝の水汲みよせて ところてん

そんなところてんを食べてみたい。



涼味 かき氷の2

「けずった氷に甘いシロップをかけて
金(かね)のお椀に盛りつけたものは上品で美しい」と書いたのは清少納言。
平安時代のかき氷のようすがうかがえる。

その氷は冬の寒いさなかに切り出して
氷室と呼ばれる天然の冷蔵庫に保存しておいたもの。
身分のある人しか口にできない夏の贅沢品だったし
それ以前に神さまにお供えするものでもあった。

そのころ、都をとりまく北の山々には
計6カ所の氷室があって、
山ときくと遠そうだけれど
いちばん奥の氷室でも御所まで2時間ほどの距離。
しかも氷室から御所までは
重い氷を運ぶにはもってこいの下り坂。

ギラギラ暑い太陽に照らされて
溶けていく氷をなんとか無事に運ぶための知恵が
氷室の場所にもうかがえる。

むかし氷室があった土地には氷室、御室(おむろ)という町名が残り
氷室山や氷室池、氷室神社もある。

削った氷に甘いシロップ
冷たさをそのまま伝える金の器…
1000年の昔のかき氷は尊い。



涼味 冷やし中華

冷やし中華の発祥の地は仙台であるらしい。

昭和12年、中華料理店の人たちが集まって
観光客があつまる七夕祭りの新メニューを考えたとき
ざる蕎麦からヒントを得てつくりだしたのが冷やし中華だといわれる。

この開発の中心になった人物は
仙台龍亭(りゅうてい)の初代店主、四倉義雄さん。

当時の冷やし中華の具は
茹でたキャベツ、塩もみキュウリ、ニンジン、トマトにチャーシュー。
お値段の25銭はラーメン10銭に較べると高かったけれど
ハイカラな味としてもてはやされた。

そういえば、仙台の七夕祭りは今日が最終日。
冷やし中華の売れ行きはいかがでしょうか。



涼味 吉野葛

葛切り、葛餅、葛まんじゅう
和菓子の世界では夏の涼しさを葛で演出する。

そのなめらかな食感、透明感で
葛のなかでも白い宝石と称えられる貴重な吉野葛は
冬のいちばん寒い時期に生産のピークを迎える。

手がちぎれそうな冷たい地下水に晒してはまた晒して
精製した純白の澱粉を
身を切られるほどの寒風に干しあげる。

空気も水も冷たいほどいい。
冬は冷え込むほどいい。
人には厳しすぎる冬の寒さが、やがて夏の涼しさになる。

吉野葛の元祖、森野吉野葛本舗の19代当主
森野藤助さんのご先祖さまは南朝の遺臣で
その家は南朝破れてより吉野葛をつくりつづけているそうだ。



涼味 カレーライス

カレーライスは夏の味。
汗を拭き、冷たい水を飲みながら食べた後は
少し涼しくなった気がする。

日本の家庭でつくるカレーライスは
明治時代にイギリスから伝わったシチューを
日本海軍がアレンジしたものからはじまっており
1908年に発行された海軍割烹術参考書という
いわば海軍のレシピ集には
牛肉、人参、玉葱、馬鈴薯を材料とするカレーも載っている。

明治時代のカレー、海軍のカレー
日本のカレーのルーツはどんな味だろう。

気になる「海軍割烹術参考書」は
国文学者の前田雅之さんと写真家の猪本典子(いのもとのりこ)さんによって
3年前の夏、復刻場が出版された。

この本を買う人は
やはりカレー好きが多いらしい。



涼味 ヴィシソワーズ

夏の冷たいスープの代表、ヴィシソワーズ。
じゃがいもとネギと牛乳からつくるこのスープを考え出したのは
ニューヨークのホテル、ザ・リッツ・カールトンのシェフ
ルイ・ディア(Louis Diat)だった。

あたたかいスープを飲みたくなかった夏の日
お母さんは少年だったディアのポタージュに
冷たい牛乳を入れてくれた。
そんな思い出が、ヴィシソワーズには込められている。

ヴィシソワーズが
ザ・リッツ・カールトンのメニューに載ったのは1917年。
子供にスープを食べさせたい母の気持ちが
ホテルの洗練されたメニューになったのは
冷蔵庫の普及のたまものでもあった。

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坂本和加 10年08月07日放送


職人たち
 印伝屋 十三代 上原勇七

伝統を守ることが大切と思うなら、
ひとに愛され、使われ続けなければならないと思う。

甲府で400年近くつづく印伝屋、
十四代 上原勇七(ゆうしち)の話をきいて、
不易流行ということばを思い出した。

不易流行を、やさしくいうなら
変わらずに、変わること。

東京・青山にある直営店の商品を手に取ると
しっかりとした鹿革にトンボ柄に、繭玉模様。
古典柄でありながら、21世紀の印伝は、
なんと新しくモダンで、しゃれて見えることだろう。

新作をひとつ、求めると、
「この商品の感想は、
10年たってからお聞かせください」

財布に小袋、ペンケース
店に並ぶ商品を買う人、使う人も
また、伝統の一端を担っている。


職人たち
 ラーメン職人 中村栄利

経験がなくても、
弟子入りしなくても、
ひとは、成功できる。

神奈川県大和市の郊外にある、
ラーメン「中村屋」のオーナー
中村栄利(なかむらしげとし)が、それを証明してくれている。

22歳ではじめた店は、
いまや最高7時間待ちの超人気店に。
研究への原動力は、
もっとうまいラーメンをつくりたい、ただそれだけ。

中村は、あるとき確信する。
「自分は、ひとより嗅覚が鋭い」

成功の理由は、それだけではないかもしれない。
けれど、自分の強みを知っているひとは、
成功するチャンスをつかむ資格が、きっとある。


職人たち
 左官職人 挾土秀平

人工的なコンクリは、土に戻らない。
なのに、寿命は短い。
土蔵は、二百年以上もあるというのに・・・。

コンクリでなく、土がやりたい。

左官職人、挾土秀平(はさど)は、
土壁に夢中になって、
気づけば日本一有名な左官屋になってしまった。

挾土にとっては、それが悩みだった。
有名になるほど、作るものが
作品になってしまう。
挾土は、職人でいたいのだ。

女性演出家、残間理恵子(ざんまりえこ)は
こうアドバイスした。

  職人か、作家か、決めるのは世の中。

挾土は、どろんこになって、
今日も土壁と格闘している。


職人たち
 仏師 松本明慶

その仏像はひと目見ただけでため息が出る。
やわらかな木肌、繊細な陰影。
慈愛という言葉を目の当たりにした感覚をおぼえる。

その仏像の作者は仏師、松本明慶(みょうけい)。

彼は、仏像を彫るのではなく「仏を呼ぶ」という。
それは木に宿っている仏さまを、取り出し
現世に迎えいれること。

自分は彫ることで、仏様に生かされている。
それが松本明慶の現在の境地。

松本明慶の師、宗慶は
鎌倉時代の名仏師、運慶・快慶から伝わる
800年の秘伝を明慶に伝えたが
同時にこんなことも言った。

  すこし天狗になりなさい。
  それがいちばん上手くいく。

難しいけれど、
なにごとも、良い案配、ということ。


職人たち
 プロフィギュアスケーター 荒川静香

2006年、トリノ五輪の
金メダリスト荒川静香は、
5才でスケートをはじめた。

すぐに天才と呼ばれた彼女だが、
家はごくふつうの、サラリーマン家庭。
衣装の多くは、母の手作り。
子どもにスケートを続けさせることが
どれだけたいへんなことか、
彼女は、肌で知っている。

プロデビューとなった、
最初のアイスショーは
その収益の一部をチャリティにした。
もちろん、スケート界へ。

「金メダルのひと」より、
「イナバウワーのひと」でいたい。

荒川静香は、
大好きなスケートと、生きている。


職人たち
 宮大工 西岡常一

 もっと人間をよくしたい、
仕事をよくしたいと思うなら。
自己啓発やビジネス書なんかより
ずっとためになる、良書がある。

宮大工 西岡常一さんの残した
「木のいのち 木のこころ」。

西岡さんは、先祖代々、
法隆寺に使えてきた宮大工。
宮大工という仕事に誇りを持ち
使命感を持ってひとを育て、
技術を体で伝えてきたひとだ。
この本には、
西岡さんが宮大工の棟梁として
当たり前にしてきたことが、書いてある。
けれど、強く、深く、こころに届く
私たちの宝物になる言葉ばかり。

一三〇〇年前に建てられ
いまも建立時の美しさを保つ法隆寺。
西岡さんは、その法隆寺から学んだこと、
機械やネットや学校が
教えてくれないことを、
私たちに、伝えてくれている。


職人たち
 輪島漆工芸家 角偉三郎

輪島に生まれた漆工芸家、
角偉三郎(かど いざぶろう)は、
工芸界の革命児と呼ばれた。

角は、手袋をして触る美術品の漆工芸ではなく
いきた生活の中にある器を、生涯問い続けた。

近寄るだけでかぶれるという漆を
角は、素手でたっぷりとって椀に塗る。
その作品は、無骨で、力強く、体温がある。

  輪島にいて、輪島にない生き方をしたい。

魅力的な作品は、きっと
魅力的なひとからしか、生まれない。

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佐藤延夫 10年08月01日放送



「室生犀星と川」

石川県金沢市には、
市街地を挟むように、ふたつの大きな川が流れる。

地元で女川と言うのは浅野川で、
男川と呼ばれているのは、犀川。

その犀川のほとりに、ひとりの詩人がいた。


 うつくしき川は流れた
 そのほとりに我は住みぬ
 春は春、なつはなつの
 花つける堤に坐りて
 こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ

ふるさとを愛した詩人、室生犀星は
明治22年の今日、8月1日に生まれた。



「室生犀星と伊豆」

伊豆修善寺から少し南に下ると吉奈温泉があり、
さらに南下すれば、湯ケ島温泉に辿り着く。

どちらも明治、大正時代の文人が多く訪れている。
詩人、室生犀星の場合、
温泉旅館でじっくりと思索にふけるだけではない。
萩原朔太郎らと集まり、
どんな日々を過ごしていたのか。
この句を聞けば、だいたい想像がつく。


 萩原の朔太のいびき恐れつつ
 別室にねる夏の伊豆山

賑やかで静かな伊豆の山々が目に浮かぶ。



「室生犀星と母」

詩人、室生犀星の幼年期は、
まるで昼ドラのように悲劇的だ。

父は加賀藩の足軽で、母はその家の小間使い。
世間の風当たりが強い不義の子は、
生後7日で里子に出された。

貰われた先の養母は犀星を怒鳴り散らし、
召使いのように扱った。
そのときの記憶は、詩の中に現れる。


 なににこがれて書くうたぞ 一時にひらく うめすもも
 すももの蒼さ身にあびて 田舎暮らしのやすらかさ
 けふも母ぢゃに叱られて すもものしたに身をよせぬ

幼き日の、虐げられた思い出は
犀星の作品に大きな影響を与えたが、
晩年、こんな言葉も残していた。


 継母に私が仕へなかったら、
 私は何一つ教へられなかったであろう。
 私は彼女にはじめて感謝の言葉を捧げたいくらゐだ。

母という存在は、年齢を重ねるほど淡く、優しく深まっていく。



「室生犀星と魚」

静岡県、伊東の浄円寺には
境内に小さな池があり、奇妙な魚が棲みついていた。

当時の資料によれば、
蛇鰻、毒魚、迅奈良(じんなら)、横縞、湯鯉。
こんな面白い池を見て、
室生犀星が詩に残さないわけがない。


 伊豆伊東の温泉(いでゆ)に
 じんならと伝へる魚棲みけり
 けむり立つ湯のなかに
 己れ冷たき身を泳がし
 あさ日さす水面に出でて遊びけり

「じんなら魚」というのは、コトヒキのこと。
海の魚が棲む不思議な池は、残念ながらもう残っていない。



「室生犀星と虫」

殺していいのは、蝿と蚊だけ。

詩人、室生犀星は、
家族にこんなルールを作った。
蟻の行列を見つけたら踏まないように歩き、
夕立があると、洗濯物よりも先に
大切な虫かごを軒下へ避難させた。

それだけではない。
毎年、軽井沢へ避暑に行くときには
各地から、きりぎりすや草ひばりを取り寄せた。
初夏の軽井沢で、虫の声なんて聞こえないからだ。
二十個いつも近い虫かごを書斎の机に並べていた。

軽井沢を離れるとき、虫たちを野に返したが
お気に入りの数匹だけは、そっと持ち帰った。
いかにも彼らしい話だ。


 なにといふ虫かしらねど
 時計の玻璃(はり)のつめたきに這ひのぼり
 つうつうと啼く
 ものいへぬ むしけらものの悲しさに

彼が小さな虫にまで愛情を注いだのは、
あらゆる生き物の中に、
小さな悲哀を見つけたからなのだろう。



「室生犀星と花」


 庭に咲いているものは、土からの花を見て楽しむもの。

詩人、室生犀星は、庭に咲く花を愛した。
とりわけ、金沢から持ち帰ったという岡あやめ。
犀星は庭をこの花で一杯にしたかったようだ。
これは、ある日の日記から。


 あやめ、紫のえりを覗かす。明後日あたり開くべし。

 あやめ、けふはじめてひらく。

 あやめ百二十五輪、けふが花ざかりと言ふべきか。

あやめの一番蕾を見つけた家族には
チョコレートを褒美に出したというくらいだから、
その寵愛ぶりには、恐れ入る。



「室生犀星と鳥」

懸巣、小綬鶏、五位鷺、頬白、鵯、鴬。
(かけす、こじゅけい、ごいさぎ、ほおじろ、ひよどり、うぐいす)

詩人、室生犀星は
ある日、飼っていた鳥たちを一斉に空に放った。

それは、脳溢血で倒れた妻のとみ子が
一命をとりとめたあとのことだった。
その理由を、娘にこう告げている。


 とみ子の命はどうやらこれで大丈夫らしい。
 その身代わりに鳥たちを本来の生活に戻してあげるのだ。

いちばん大切な、ひとつの愛だけを守る。
これが詩人のルールなのかもしれない。



「室生犀星とふるさと」

詩人、室生犀星と言えば
あまりにもこの作品が有名だ。


 ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの

犀星が、最後にふるさとの地を踏んだのは、52歳のときだった。
73歳で亡くなるまで彼は、
金沢に流れる川、犀川の写真をいつも忍ばせていたという。


 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや

この夏、あなたは、ふるさとに帰りますか?
それとも遠くから、懐かしき風景を思いますか?

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