内田百閒 貼り紙
「百鬼園随筆」や「阿房列車」など
軽妙な文章と独特の世界観で
昭和の文壇に一陣の風を起こした作家。
内田百閒。
あるとき弟子が自宅を訪ねると
門の前に「面会謝絶」という
貼り紙がしてある。
ご病気ですかと弟子が
色をなして上がり込むと
そこには涼しい顔の百閒。
「近頃はいい具合に
人がこなくなって
ありがたい。」
彼は天才的な随筆家であるとともに
天才的に偏屈なおじさんでもあった。
内田百閒 鉄道
天才的な随筆家であり
天才的に偏屈なおじさん
内田百閒。
鉄道マニアの先駆けでもあった彼は
ついに念願かなって
東京駅の一日駅長に任命される。
しかし一筋縄では
いかないのが百閒。
箱根行きの特急列車を見送るために
ホームで敬礼していた彼は
発車のベルが鳴り終わる寸前、
見送るべきその列車に
ひょいと乗りこんでしまう。
呆然とする駅員たちに向かって
展望車のデッキから手を振る百閒。
そのまま箱根まで
鉄道の旅を満喫。
それ以来、
百閒に駅長の話は
来なくなった。
内田百閒 VS漱石
作家、内田百閒は図太い。
尊敬する夏目漱石に作品を送ったところ
「まじめだけどおもしろくない」
というありがたくない手紙をもらう。
普通の人なら絶望して
筆を折ってしまうところ。
百閒はちがった。
漱石の家を訪ねた百閒は
わたし芸ができるんです、と
いきなり両耳を動かし始める。
困惑する漱石。
無言で両耳をひくひくさせ続ける百閒。
根負けした漱石は
弟子入りを許可する。
しかし百閒先生、
もう少しマシな芸は
なかったんですかね。
内田百閒 借金
作家、内田百閒は
借金をする。
貧しいからではない。
たいていが贅沢のために借金をする。
晩酌に珍味を並べたくて借金。
二等車に乗れば帰れるところ
わざわざ一等車に乗りたくて借金。
しかも金を借りに行くのに
ハイヤーを呼んで、また借金。
「お金のありがたみは
借金しなければわからない」
ここまで来れば
借金も哲学だ。
青年 内田百閒
憧れや、焦燥や、孤独や、絶望や。
文学を志す青年なら
誰しも持つそんな青さ。
18歳の内田百閒には
残念ながら微塵もない。
造り酒屋のひとりっ子で
存分に甘やかされて育った百閒。
東京の大学に行けることになっても
実家からちっとも出たくない。
二等車に乗るお金を
もらった手前しぶしぶ上京。
しかしごはんが合わないという理由で
3日で下宿を引っ越し。
あげくちょっと風邪を引いたからと
すぐに実家に帰る。
それでも
32歳でちゃんとデビューし
死ぬまで現役で活躍した。
人生80年。
焦るなんて、あぁ、ばかばかしい。
内田百閒 美食
天才的な随筆家であり
天才的に偏屈なおじさん、
内田百閒。
彼は食にもかなりの
こだわりがあった。
朝と昼はほとんど食べない。
すべては晩酌を思う存分味わうため。
先付けから香の物まで
その日に食べたいお品書きを
毎日、奥さんに書いて渡す。
時には「昨日の残りのポークカツレツ」
なんていう細かい指示まで。
偏屈な美食家の妻も
楽じゃない。
内田百閒 猫について
新聞広告の歴史上
おそらく最初で最後だろう。
尋ね猫の広告が出た。
広告主は作家、
内田百閒。
飼っていた猫が失踪し
そのショックから仕事も手につかず
夜も眠れなくなった百閒。
3度にわたり新聞広告を出し
外国人向けに英字広告までつくった。
それでも猫は戻らない。
手がかりに一喜一憂し
毎日泣いて暮らした。
普段はまわりの人をさんざんふりまわしている
内田百閒がこの猫にだけはふりまわされている姿は
気の毒だけど、ちょっとかわいい。
内田百閒 偏屈
偏屈というのは
決して褒め言葉ではないが
作家、内田百閒に限っていうと
つい嬉しくてそう呼んでしまう。
百閒が76歳の時の話。
一本の電話が
芸術院会員の内定を知らせる。
文学の世界でこれ以上ない名誉。
しかもかなりの年金も約束される。
しかし百閒は
あっさりと辞退。
気色ばむ選考委員に
こう答えた。
「イヤだからイヤだ。」
天才的な随筆家であり
愛すべき偏屈なおじさん、
内田百閒。
こんな暑い夜は
毒の効いた彼の文章が
読みたくなる。
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小山佳奈 11年7月24日放送
小山佳奈 11年6月11日放送
エディ・タウンゼント1
昭和の日本ボクシング界に
伝説のトレーナーがいた。
彼の名前は
エディ・タウンゼント。
40才を過ぎてから日本にやって来た彼は
片言の日本語で世界チャンピオンを
幾人も育てあげる。
彼はあっけないほどあっさりと
タオルを投げ入れることで
有名だった。
まだ闘えたのに、と詰め寄る
報道陣たちにエディはこう諭す。
「ボクシング辞めた後の方が長いの。
誰がそのボクサーの面倒を見てくれるの?
無事に家に帰してあげるのも私の仕事。」
一瞬の未練が
一生の後悔になる。
エディは人生を
よく知っている。
エディ・タウンゼント2
殴って強い方が勝つ。
ボクシングほど
シンプルで残酷なスポーツはない。
世界チャンピオンを幾人も育て上げた
伝説のトレーナー、エディ・タウンゼント。
彼は言う。
「勝った時には友達おおぜい出来るから
私はいなくてもいいの。
誰が負けたボクサー励ますの?
私は負けたボクサーの味方。」
ボクシングほど
シンプルで残酷なスポーツはない。
そして
愛のあるスポーツもない。
エディ・タウンゼント3
日本ボクシング界における
伝説のトレーナー、
エディ・タウンゼント。
初めて育てた世界チャンピオン、
藤猛との出会いは、ちょっとした奇跡だ。
職もなくお金もなくただ
家でごろごろしていた藤。
そんな藤が
たまたまテレビのボクシング中継で
声を枯らす白人のセコンドを見かける。
それは紛れもなく
近所でよく遊んでくれた
エディおじさんだった。
藤はすぐに
エディのもとを訪れ
弟子入りする。
たまには
暇も大事ということ。
エディ・タウンゼント4
日本ボクシング界における
伝説のトレーナー、
エディ・タウンゼント。
彼が育てた選手の中に
カシアス内藤というボクサーがいる。
「今まで見た選手の中で一番素質がある。
でも、最後に打つ勇気がない。」
そうエディが語るように
内藤はあまりある才能を持ちながら
最後のところで非情になりきれず
世界タイトルを逃し続けた。
しかし、いや、だからこそ
みんなに愛された。
彼は小説の主人公となり、映画のモデルとなり
歌謡曲にも歌われ、その歌は大ヒットする。
完璧じゃないから
余計にかわいい。
それはエディも同じだったようで
弟子の中でも内藤だけは我が子のように
「ジュン」とファーストネームで呼んでいた。
エディ・タウンゼント5
日本のボクシング界に
世界チャンピオンを幾人ももたらした
伝説のトレーナー、
エディ・タウンゼント。
彼の指導法はそれまでの
根性論一色だった
ボクシング界の常識を
くつがえす。
エディは決して手をあげない。
ほめてのばす。
「試合で殴られるのに
どうしてジムに帰ってきてまで
殴られなくちゃならないの」
常識をくつがえした
エディの方が
よほど常識的だった。

エディ・タウンゼント6
日本のボクシング界
伝説のトレーナー、
エディ・タウンゼント。
彼に育てられたボクサーの一人、
田辺清がエディと初めてジムで会ったときの話。
エディは入ってくるなり
田辺の肩をポンとはたく。
「ゴミがついてるよ」
見るとゴミなんてついていない。
田辺ははっとした。
それだけ自分のことを
注意深く見ていると
エディは言いたかったのだ。
信じられるかどうかは
出会った瞬間に決まる。
エディ・タウンゼント7
日本のボクシング界に
世界チャンピオンを幾人ももたらした
伝説のトレーナー、
エディ・タウンゼント。
彼の最後の
弟子だった井岡弘樹の
初防衛戦。
エディは癌におかされた体をおして
会場まで出向き、
エールを送った直後に昏睡。
井岡の勝利を知った5時間後に
息を引き取る。
出来すぎた話だ。
しかしその出来すぎた話に
人は心を動かす。
亡くなってから20年以上たった今。
井岡はこう言っている。
「生まれ変わっても
エディさんに教わりたい」
小山佳奈 11年5月21日放送
湯川秀樹の衝撃
1949年。
あるニュースに
日本中が狂喜した。
日本人の物理学者が初めて
ノーベル賞を受賞したという。
敗戦ですべてを失ったこの国に
彗星のごとく現れたニューヒーロー。
彼のもとに押し掛けた
信じられない数の報道陣の中から
一人の記者がたずねた。
「賞金で何を買いますか」
彼はにやりと笑ってこういった。
「まずは子どもにグローブでも
買うてやりましょうか」
湯川秀樹。
その軽妙な受け答えはまぎれもなく
ニューヒーローの誕生であった。
少年、湯川秀樹
物理学者、湯川秀樹の
少年時代はというと。
内気で無口で
友だちはほぼいない。
算数が得意で鉄棒が苦手。
納得がいかないと「言わん」と
押し黙ってしまうその頑固さから、
ついたあだ名は「イワンちゃん」。
ノーベル賞のような晴れ舞台など
クラスの誰も想像しなかった。
それから30年。
スウェーデンでの授賞式、
壇上に立ち流暢な英語でスピーチをする彼は
もう内気で無口な少年ではなかった。
ただどんなに結果が出なくても
あきらめなかった頑固さは
「イワンちゃん」のままだった。
湯川秀樹と家系
湯川秀樹が中学生の頃。
湯川の父は息子の進路について
悩んでいた。
一家は代々学者の家系。
子供たちも当然学者にするべく育ててきた。
しかしこの三男、秀樹に関しては、
成績もぱっとせず、記憶力もよくない。
いっそのこと専門学校にやり
手に職をつけさせた方が
子どものためなのではないか。
河原町通りを悶々と歩いていると
秀樹の中学校の校長にばったり出会う。
校長は即座に言った。
「あの少年ほどの才能は滅多にない。
わたしの養子にしたいくらいだ」
そしてめでたく秀樹は学者の道を歩む。
そのとき父が校長に会わなければ
危うく自動車工になっていたかもしれない。
湯川秀樹と奥さん
湯川秀樹の妻、スミさん。
彼女は研究室の誰もが手を焼く気難しい夫を
いとも簡単にあやつる術を身につけている。
研究が上手くいかず
いらいらして帰ってきた時には
だまって熱燗をさしだす。
かと思えば
「日本人はノーベル賞をとれないんですかね」
と無邪気に言ってみせ、夫の尻をたたく。
夫の力学はどの方程式より
単純で明快だということを
スミさんは知っている。
湯川秀樹とノルマ
ノーベル賞を受賞するほどの研究といえば
幾十年もの苦難を想像するが
湯川秀樹の場合はそうではなかった。
彼が何年もかかずらっていたテーマは
あまりに壮大で難解であったため
研究は遅々として進まず
担当教授から「論文はまだかね」と
催促される日々。
研究員という職業柄、
とにかく何か書かなければ
お給料がもらえない。
焦った湯川秀樹は
とりあえず別のテーマで一本書き
当座をしのごうと考えた。
それがまんまと
当たった。
だから人生はおもしろい。

湯川秀樹と学者
学者とはロマンチストな生き物である。
湯川秀樹はこう言う。
「わたしは学者として生きている限り、
見知らぬ土地の遍歴者であり、
荒野の開拓者でありたい。」
知識や才能はもちろんだが
夢を見続けられるかどうかが
もっとも大切。
学者とはロマンチストな生き物である。
湯川秀樹の研究所
1953年。
湯川秀樹のノーベル賞を記念して
京都大学に「基礎物理学研究所」が
つくられた。
もともと湯川のためだけの研究所だったが
せっかくなら若い研究者たちが集える場所にしたいと
湯川は考えた。
学外でも国外でも
湯川の考え方と反する者も
構わず受け入れる。
大腸菌を飼い始める者でさえ
にこにこと見守っていた。
「好きにやったらええ」
彼は本当に学問を愛していた。
学問を愛する人間を愛していた。
小山佳奈 11年4月24日放送

西岡常一 法隆寺
昭和9年。
老朽化が進む法隆寺の修繕が、
国家プロジェクトとして決まった。
失敗したら1300年の歴史が失われる。
その棟梁に選ばれたのは
27才の宮大工、
西岡常一であった。
常一はこの抜擢に緊張するどころか
心を踊らせる。
「飛鳥から今までの建築様式をすべて
見られるチャンスだ」
法隆寺には
その時代ごとに修理を担当した
途方もない数の宮大工たちの魂が
込められている。
この大仕事を軽やかにやってのけた常一は、
その後、困難な寺院の修繕を数々成功させ
「最後の宮大工」と言われるようになる。

西岡常一 道具
昭和の日本の寺院建築を支えた
宮大工、西岡常一。
法隆寺には鬼がいる、と恐れられた彼は
道具に関しても徹底したこだわりを持っていた。
彼はノコギリを使わない。
やりがんなやちょうなといった、
そのお寺が建てられた当時と同じ
道具を使う。
「飛鳥の人たちはよく木を知っている。
1300年前の飛鳥の大工の技術に
私らは追いつけてないんです。」
鬼というあだ名に反して
微笑みはやさしい。
「みんな新しいことが
正しいことだと信じていますが、
古いことでもいいものはいいんです。」

西岡常一 木
昭和の日本の寺院建築を支え
最後の宮大工とよばれた、
西岡常一。
彼はつねに木と向かい合う。
くせのある木を進んで使う。
むやみに穴を開けない。
鉄の鉄を打ち込むなんて
もってのほか。
1300年前に建てられた
法隆寺に使われている木は
瓦を取ると何日かかけて
元の長さに戻っていくという。
それは木が、まだ生きているという、証拠。
「木を生かすには
自然を生かさねばならず
自然を生かすには
自然の中で生きようとする人間の心が
なくてはならない。」
彼が見ていたのはいつも
1300年先。

西岡常一 土
法隆寺をはじめ数々の寺院を修繕し、
最後の宮大工といわれた、
西岡常一。
宮大工の家系に生まれた彼は
小さな頃から英才教育を受けて育つ。
特に祖父は熱心で
小学校に上がる前から
常一に仕事を教え込み
宿題などするな、その時間があれば
鉋をかけろと教え込んだ。
そんな常一が高校に上がる際のこと。
彼は何の迷いもなく工業高校を選んだ。
それに対して、祖父の常吉は
なぜか大工仕事とは関係のない
農業高校をすすめる。
土などいじくっている暇はないという常一に
祖父は烈火のごとく、怒る。
「宮大工とは木だ。
木を育てるのは土だ。
土の気持ちがわからなくてどうする。」
そして彼は農業高校に進み
一から土と向かい合う。
よく言われることではあるけれど、
まわり道はまわり道ではない。

西岡常一
法隆寺の修繕を一手に引き受け
昭和最高の宮大工といわれた、
西岡常一。
彼はつねに困窮していた。
法隆寺の棟梁といっても
頻繁に仕事があるわけではない。
わずかばかりの田畑を耕し
それでも足りないときは
その田畑を売って家族を養った。
しかし彼はどんなに貧しくても
ふつうの住居の建築には手を出さなかった。
「宮大工は仏さんに入ってもらうから、
造ってなんぼというわけには
いきませんのや。
心に欲があってはならんのです。」
頑固すぎるほど頑固な姿勢が
西岡常一という男だ。

西岡常一
数々の寺院をよみがえらせ
日本最後の宮大工とよばれた西岡常一には
一人だけ弟子がいた。
師匠はとにかく何も教えてくれない。
鉋のかけ方も鉋くずを渡すだけ、
道具の手入れも毎日磨く背中を見せるだけ。
そうして育ったたった一人の弟子、
小川三夫さんはいま
斑鳩に宮大工の養成所をつくり
後継者を育てている。
そのやり方は師匠と同じ。
ただひたすら背中を見せ続ける。
「教えないから
育つんですよ。」
斑鳩工舎とよばれるその学校から
巣立った若者たちは宮大工として
全国でその腕をふるっている。
常一のこころはいまも
生きている。

甲本ヒロト
「まあるい地球は誰のもの?
砕け散る波は誰のもの?
吹きつける風は誰のもの?
美しい朝は誰のもの?
チェルノブイリには Ah
チェルノブイリには Ah
チェルノブイリには行きたくねぇ」
1988年に発売された
ブルーハーツの「チェルノブイリ」。
所属していたレコード会社が許可せず
自主制作となったこの歌。
甲本ヒロトは
武道館の1万人の熱狂の前で
静かにこう言った。
「この意味をわからないひとは、
自分で調べてほしい。
そして、
自分の意見を
持ってほしい。」
23年前のある夏の話。

とある科学者たちの話
アメリカとソ連が
宇宙ロケット開発に
しのぎを削っていた頃。
宇宙飛行士にかかる加速重力を
少しでも緩和するために
NASAがあるシートを開発した。
このシートの評判は上々。
何かほかの物に応用できないかと考えた
スウェーデンの科学者たちがいた。
しかしコストと複雑な工程が
容易にそれを許さない。
科学者たちは
それでもあきらめきれなかった。
試行錯誤を繰り返し、
20年以上の歳月をかけて
ようやく商品は完成した。
それが、
テンピュールという枕。
人がよく眠るために
自分の睡眠時間を削らなければならなかった
科学者たちに敬意をこめて。
おやすみなさい。
明日もいい日でありますように。
小山佳奈 11年01月16日放送

カミュ
「今日、ママンが死んだ。」
有名な一節から始まるカミュの「異邦人」は
あるひとつの友情から生まれた。
カミュの友人、パスカル・ピア。
彼はこの原稿を一目でほれこみ
ありとあらゆる伝手を使って
出版社に売り込んだ。
フランスでダメなら
アメリカまで持っていった。
なぜこの無名な作家に
そこまで力を入れるのか。
ピアはこう答えた。
「僕は彼が大好きです」
その一言で、十分だった。

カミュ
貧しい家庭に育ち
将来は親戚の肉屋を継ぐはずだった
作家、アルベール・カミュ。
彼のただならぬ文才を見いだしたのは
小学校のジェルマン先生だった。
彼はカミュに文学の素晴らしさを教え、
根気づよく家族を説得し続けた。
それから30数年後の
ノーベル文学賞の受賞式で
壇上に立ったカミュのスピーチ。
「受賞の知らせを聞いて私は
母のこと、それから、
ジェルマン先生のことを思いました。
いまでも私は先生に感謝する
小さな生徒です。」
私たちも先生に感謝しなければならない。
今こうしてカミュの作品を読むことができるのだから。

カミュ
読み聞かせ、
という言葉がもてはやされているけれど。
20世紀初頭のアルジェリアの
貧しい家庭に生まれた少年には
読んでもらう本もなかった。
戦後史上最年少でノーベル賞を受賞した、
アルベール・カミュ。
彼の母は文字も読めず耳も聞こえない。
父は一歳のときに戦死していない。
身の周りには生活するのに最低限のものしかなく
本棚なんて学校に入るまで見たことがなかった。
それでもカミュは
作家になろうとし、成功をつかんだ。
「意志もまたひとつの孤独である」
カミュのこの言葉に漂う悲しみは
彼の描く人間の悲しみでもある。

カミュ
作家、アルベール・カミュは、
おそらく文学史上もっとも
自信のない作家だった。
44歳という若さでノーベル賞を取りながら
死ぬまで自分の才能に自信が持てなかったカミュ。
俳優に転向しようと考えたり、
スター女優を愛人にして
なんとか箔をつけようとしたり。
「もう書けなくなりました」と
友人に泣きながら手紙を送ったり。
「書けなければ、私はせいぜい面白い傍観者だったにすぎない。
書ければ、私は本当のクリエーターだったということだ。」
彼ほどの作家が自信を持てないとしたら
わたしたちはどうすればいいんだろう。

カミュ
作家、アルベール・カミュ。
彼はとにかく苦労人だ。
家が貧しかった彼は、
働きながら小説を書き続けた。
その職業も多岐にわたる。
自動車部品のセールスマンから
船舶仲買人、公務員、はては測候所員まで。
あるときの勤め先は、新聞社だった。
新聞社といっても
彼の担当は、割付けや校正といった
いわゆる技術職。
最後までその文才を職場の人に
見せることはなかった。
それから数年のち、
「異邦人」でカミュの名前が世間に知れ渡ったとき、
新聞社の人たちはみな腰を抜かした。
「あの影の薄い校正係が。」
人を驚かせることが
小説のあるひとつの役割だとしたら
カミュはまさにしてやったりだったろう。

カミュ
不条理をテーマにした「異邦人」で
戦後最年少でノーベル賞をとった
アルベール・カミュ。
彼はどんなにか才能はあったかもしれないが、
女性の眼から見ると問題は多い。
愛人が何人もいるのは当たり前。
ずっと好きだったフランシーヌが、
ようやくプロポーズを受けてくれたそばから
結婚なんて人生の終わりだと別の女性に泣きつく。
口癖は「君なしでは生きていけない」。
わかってはいるのに
好きにならずにいられない。
彼の気持ちは
彼の小説以上に
不条理だ。

カミュ
いまから51年前の1月。
作家、カミュは、
あっけなく死んだ。
友人が運転するクーペが
130キロで走行中にタイヤがパンクして
道路脇のプラタナスに激突。
助手席にいたと思われるカミュは即死だった。
死期を悟っていたのだろうか、
亡くなる直前
字の読めない母親に
手紙を送っている。
「あなたがその心と同じように
若く、美しくありますように。」
読めない手紙を
母親は死ぬまで
大切に持ち続けた。

カミュ
作家、アルベール・カミュが亡くなって
50年後の2009年。
フランスのサルコジ大統領が
カミュのお墓をパリのパンテオンに
移すと言い出した。
パンテオンといえば
国家の英雄が眠る場所。
これに、フランス国民は激怒。
死ぬまで反体制を貫いたカミュを
政府の人気取りのために利用するなんて。
国中が感情的になる中
スピーケルという一人の研究者が
こう言った。
「私が口をはさめることではありません。
けれども彼ならば
冷たい大理石よりも
あたたかな日差しに包まれた
故郷のラベンダー畑を好むでしょう。」
そしてカミュは無事
故郷のルールマランに
眠りつづけている。
小山佳奈 10年11月20日放送

安部公房
1968年、
川端康成が日本人で初めて
ノーベル文学賞を受賞したその年。
パリのサンジェルマンデプレの一角に、
世界中の前衛作家の顔写真が張り巡らされる。
その中に、ただ一人、
日本人の顔があった。
安部公房。
奇想天外で難解なストーリーにも関わらず、
今なお世界中に熱狂的なファンを持つ。
安部公房はにこりともせずに言う。
「俺は世界的な前衛だからね」

安部公房
医学部出身の作家は案外多いが、
安部公房も、その一人。
しかしそもそも兵役逃れのために
医学部を選んだ彼にとって
医者になるための勉強なんかより
リルケやニーツェの方が
100倍重要だった。
何度も落第しようやく迎えた卒業試験では
妊娠期間を二年と答え教授を絶句させる。
「僕は医者になりません」
たぶん東大医学部史上初めてであろう
誓いを立ててようやく卒業を許された。
私たちは二重に感謝しなくてはならない。
一つは彼の文学を享受できたということ。
一つは彼の治療を受けずにすんだこと。

安部公房
たいていの作家は
売れない時代の苦労話の
一つや二つは持っているが、
安部公房の場合、ちょっと想像を絶する。
血を売ってパンを買う。
住んでいたバラックは隙間だらけで、
冬には粉雪が布団に降り積もる。
挙句の果てに
芥川賞で賞牌の時計をもらうやいなや
すぐさま質屋に走った。
売れてからは高級外車に乗り、
高級ホテルを定宿とした。
それもまた、いい話。

安部公房
文学界の鬼才、安部公房も、
焦っていた
それなりに本は出しているが
それなりにしか売れない。
27歳で芥川賞を取った彼も、
いつの間にか36歳になっていた。
急きたてられるように
軽井沢に別荘を借りる。
しかしその別荘は、
別荘とは名ばかりの
ただの牧場の休憩小屋。
電気もない。水道もない。
もちろんテレビもラジオも新聞もない。
外の世界から完全に遮断された世界。
そんな
極限から生まれたのが
「砂の女」だった。
焦ることも時には大切。
焦らなければ先は見えない。

安部公房
安部公房は、人に厳しい。
井上靖、井伏鱒二
巨匠と呼ばれる作家も彼の手にかかると
「まがいもの」と呼ばれてしまう。
初めて三島由起夫に会ったときも
「こういう小説は可能性がない」と
取りつく島もない。
しかしその後二人は
たびたび飲み屋に繰り出しては
文学について語り合うようになる。
「僕にとって三島由紀夫は得がたい相手だった。
社交や妥協がいらない人物だった。」
安部公房は、人に厳しい。
その分、人への愛も深い。

ビートルズ
「いまの僕たちはキリストより人気がある。」
当時人気の絶頂だった
ジョン・レノンが雑誌の取材で言い放った言葉は
ローマ法王と世界中のクリスチャンの怒りを買った。
それから44年たった今年。
ローマ法王はジョンとビートルズを許すことを発表した。
「彼らの歌を聞いていると
昔のすべてのことが遠く無意味に思えてくる」
それが、音楽の力だ。

ビートルズ
ポール・マッカートニーは言う。
「結婚生活はやっぱりロマンティックでいいものだね。」
ジョン・レノンは言う。
「結婚など時代遅れの形式だと思う。」
ジョージ・ハリスンは言う。
「僕たちは成功にも名誉にも惑わされない。」
ジョン・レノンは言う。
「人間は誰でも一生をかけて大成功を夢見てるのさ。」
ビートルズはどこまでもバラバラだった。
それでも彼らは音楽でつながっていた。
ジョン・レノンは言う。
「話し合いはコミュニケーションの最も遅い手段だ。
音楽の方がずっといい。」
小山佳奈 10年10月24日放送
「ビート・ジェネレーションの肖像」
ジャック・ケルアック、
アレン・ギンズバーグ、
ウィリアム・バロウズ。
1944年.ニューヨーク118丁目のアパートメントに
集まった若者たちがいた。
彼らはみんな未来に対する前向きな姿勢を失っていた。
華やかなアールデコの時代から
ウォール街の大暴落、
それに続いて起こった世界恐慌。
大人たちによって引き起こされた転落は
社会に対する不信感となってあらわれたのだ。
彼らは社会ではなく自分自身に興味を持った。
後に彼らは
「ビート・ジェネレーション」と呼ばれ
世界中の若者たちに
熱狂的に迎えられる詩や小説をかきはじめる。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
「路上」というたった一冊の本で、
20世紀のアメリカの若者に神とあがめられた作家、
ジャック・ケルアック。
彼の夢はそもそもフットボールの選手だった。
しかし鳴り物入りで入ったコロンビア大学で、
コーチと大げんか。
鬱屈した想いでニューヨークを歩きまわると
そこは生まれ育った田舎町では見たことのない
まぶしさに溢れていた。
酒と、女と、ドラッグ、そして、
そのどれよりも刺激的な友人たち。
彼はあっさりドロップアウトし
狂ったように小説を書き始めた。
もしも彼がその時、コーチに気に入られていたら、
ヒッピーもロックも生まれていなかっただろう。
運命は、だいたい、ちょっとしたことで決まる。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
孤高の詩人、アレン・ギンズバーグ。
1950年代のアメリカを席巻した
ビート・ジェネレーションの中で
いち早く売れたのが彼だった。
彼は同性愛者で、
同じくビート世代の作家、
ケルアックに一目ぼれ。
自由なケルアックに振り回されながらも
彼を出版社にせっせと売り込み続け、
それがケルアックの成功につながる。
それは「ケルアック」という名の
ギンズバーグ最高の作品だった。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
作家、ウィリアム・バロウズ。
妻を間違えて射殺してしまったり、
幻のドラッグを求めてチベットまで旅をしたり
逸話には事欠かない戦後文学の奇才。
彼は博学だったし頭もよかったけれど、
作家になりたいなんて
これっぽっちも思っていなかった。
そんなバロウズの才能を
誰よりも惜しんでいたのは
親友のケルアックだった。
彼はバロウズが床に書き散らした文章を
拾い集めてタイピングしタイトルまでつけて
本に仕立て上げた。
友情。
陳腐な言葉だが、
誰かに対する使命感と翻訳すればうなづける。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
かのカート・コバーンが憧れ、
今なおアメリカの若者のカルト・ヒーローで
ありつづける男。
ニール・キャサディ。
彼自身が書いたものは一篇もない。
だが彼の無軌道な生き方に、
ビート・ジェネレーションの仲間たちは
憧れ、嫉妬した。
ガムのようにたやすく車を盗んだかと思えば
ショーペンハウアーを諳んじ女をくどくニール。
それは小説のヒーローとして申し分のない素材で
ケルアックは彼との旅を一冊の本に記した。
それが「路上」
無軌道なヒーローに世界中の若者は酔い
ケルアックはスター作家になった。
そんな成功とはまるで無関心に
ニールはあっけなく死んだ。
メキシコの道の上で裸で倒れていた。
まさに「路上/オン・ザ・ロード」
ニール・キャサディは自分自身が作品だったのだ。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
若さとは実験である。
作家、ジャック・ケルアックは、
タイプライターの紙を交換する手間が
どうにも許せなかった。
浮かんだ言葉がその瞬間に
逃げていくからだ。
かくして彼は、
トレーシングペーパーを何百枚もつなぎ
40メートルもの巻物を作った。
ケルアックは
わずか20日で17万5千字の小説を書き上げたけれど
そんな面倒くさい巻物を読む出版社はどこにもなかった。
2001年、その巻物にタイピングされた
「オン・ザ・ロード」の原稿には
240万ドルの値段がつけられている。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
作家にとって
世に出ないことは
存在しないも同然である。
作家、ジャック・ケルアックは
ほぼ10年間、
無名であった。
先の見えない毎日の中
彼がそれでも書き続けられたのは
友人たちのおかげだった。
ギンズバーグはダリや知識人と引き合わせ、
バロウズは乞食同然の彼に
執筆できる部屋とタイプライターを用意した。
ケルアックは
世界で一番幸せな無名作家だった。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
1967年、
ビートの作家、ジャック・ケルアックは
アルコールの過剰摂取で死んだ。
若者のカリスマとまつりあげられた彼も
晩年は忘れ去られた存在になっていた。
しかし葬式当日。
町の人は異様な光景を目にする。
何百人という若者が全米中から集まり
献花の列をなした。
それから半世紀。
ビートルズ、
ボブ・ディラン、
コッポラ。
みんなみんな、
ビートに憧れて育った。
ケルアックは言う。
「若者よ、狂え。」
Jack Kerouac by photographer Tom Palumbo from New York, NY, USA






















