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2011 年 4 月 のアーカイブ

名雪祐平 11年5月1日放送



シャガール 1

ピカソは、こう言った。

 私は探すのではない。
 見つけるのだ。

それに対して、シャガールは言った。

 この私、私は待つのだ。

いったい、何を。
それは愛の表現だったのかもしれない。

ロシア革命に失望し、
移住したパリではナチス侵攻があり、
亡命したアメリカで最愛の妻を
亡くした、シャガール。

画家は歴史の中を生き、
その時代に描いた愛を
いま私たちは
受け取っているのかもしれない。





シャガール 2

ロシア生まれの画家、
シャガールは22歳の時、
14歳のベラに出会い、恋に堕ちる。

労働者階級出身のシャガール。
一方、裕福な宝石商の娘で、
才色兼備のベラ。

家柄の差もあり、ベラの両親をはじめ、
結婚には猛烈な反対をされてしまう。

けっきょく、出会いから6年の歳月がかかり、
二人は結ばれた。

シャガールは、二人をモデルに
いくつもの絵を描いた。

空を飛ぶ花婿花嫁。

舞い上がる絶頂の気持ちが
キャンバスからあふれそう。







シャガール 3

ロシアの貧しい事務員の息子として
生まれた、マルク・シャガール。

父と同じような職業につくこと。
それが当時の階級社会の
習わしだった。

 ママ、ぼく、画家になりたいんだ。

息子の希望に、母はこう言った。

 ママはあなたに才能があると
 信じているわ。
 でも、もしかすると、
 事務員という職業があなたには
 合っているかもしれないと
 思うのよ。

才能を認めてもなお、
母親は、平凡で幸せな人生を望んでしまう。

それでも息子はあきらめず、
母親を説得し、絵の塾に通わせてもらうことで、
事務員への運命を避けることが
できたのだった。





シャガール 4


シャガールは、
76歳の時にパリ・オペラ座の
天井絵の依頼を受けた。

納得いくまで何度もやり直したという。
うまく描けないといって、
声をあげて泣くほど鬼気せまる姿があった。

何歳になっても、大御所になっても、
既存の方法への敵意を常に持ち続けた。

“敵意”というほどの強烈なエネルギー。
だからこそ生まれた傑作の数々。

 まず感動することだ。
 感動がないなら、やめたほうがよい。

97歳で亡くなるまで、
その姿勢を貫いた天才だった。





サガン 1

その小説は、
こんな書き出しではじまる。

 ものうさと甘さがつきまとって
 離れないこの見知らぬ感情に、
 悲しみという重々しい、
 りっぱな名をつけようか、私は迷う。

作者はパリの18歳の女子大生、
フランソワーズ・サガン。
処女作『悲しみよ こんにちは』である。

1952年の初版は、わずか三千部。
それから部数を伸ばしたのは、
皮肉にも、その新しい文体に猛反対した
批評家たちのせいだった。

批評が、分別くさい大人の意見であればあるほど、
「小娘の小説」と反対すればするほど、
逆にサガンの新しさ、瑞々しさを証明することになり、
人々は興味津々になった。

それは、サガン自身が
時代の主人公になっていくという、
ストーリーの書き出しでもあった。





サガン 2

フランソワーズ・サガンの
『悲しみよ こんにちは』は、
フランスで100万部、
それから25カ国以上に翻訳され、
500万部の大ベストセラーになった。

時代の寵児となった18歳に、
大人の質問は退屈だった。
大金持ちになった感想とか、
ワンパターンにおちいった質問ばかり。

サガンはこんな言葉を返した。

 お金は持っている側だけでなく、
 持っていない人をも支配してしまいます。

お見事。





サガン 3

フランソワーズ・サガンは、
まるで自分の小説の登場人物のようだった。

22歳の時、
愛車アストン・マーチンで転落事故。
「サガン即死」というニュースが
流れるほどの瀕死の重傷を負う。

23歳の時、20歳年上の男と結婚。
ルーレットで8に賭けて
800万フランを当て、別荘を購入。

酒、麻薬、ギャンブル、クルマ、
そして男にのめり込んだ。

肉体的にも精神的にも、
過剰なものがあると休まる。

と語ったサガン。

それは深い孤独を埋めるための
過剰だったのだろうか。





サガン 4

科学的に、考えよう。
合理的に、考えよう。

でも、いつのまにか
人の心がないがしろになっていないだろうか。

フランソワーズ・サガンは警告する。

 思いやりのない頭の良さというのは
 なんとも危険な兵器よ。

合理的に考えた時の、
選ばれる何かと、
切り捨てられる何か。

その両者の間を
私たちはどれだけ思いやり、
埋めることができるだろうか。

この、不安定な時代にこそ。

文学的に、考えよう。

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八木田杏子 11年4月30日放送



スティーブ・ジョブズのフォント

人生の役に立たなそうなもの。
それでも、強く興味を惹かれるもの。

それが、未来をつくる
きっかけになることがある。

スティーブ・ジョブズが
ふと興味を惹かれた大学の授業は、
カリグラフィーだった。

そこで彼はフォントのつくり方を、学問として学んだ。

言葉を美しく見せるための書体について習い、
文字と文字のスペースを整えることを覚えた。

スティーブ・ジョブズは、その緻密さに魅せられた。

それから10年経って、
マッキントッシュ・コンピューターをつくるときまで、
フォントの知識が役立つときがくるとは思っていなかった。

Macのフォントは美しい。
それは緻密な計算から生まれている。





自閉症の作家 東田直樹

自分はどうして、人と違うのだろう。
どうしたら、分かってもらえるのだろう。

そう思うところから、
文学は生まれるのかもしれない。

自閉症の高校生、
東田直樹は作家でもある。

自閉症の人はカレンダーが好きな人が多いと
語るときに彼は、こんな言い方をする。

数字はそれ自体が、一つのことしか表しません。
見ていて安心します。

なぜ、そんなにうれしいのかが、
普通の人から見ると、
とても奇妙に思えるかもしれません。

東田直樹は、
人と違う自分を押し殺すことも、
押しつけることもせず
そっと生きている。





田坂広志

おなじ仕事をしているのに、
辛そうな人と、幸せそうな人がいる。

その違いを田坂広志は、寓話で語る。

ある町の建設現場で働く、二人の石切り職人に、
旅人が聞きました。

あなたは、何をしているのですか。

ひとりは、
石を切るために悪戦苦闘していると答えた。
もうひとりは、
素晴らしい教会を造っていると答えた。

目の前の作業を見ているか、
その先の未来を見ているか。

目線がすこし上がると、
仕事の充実感が変わると田坂は語る。

あなたは、何をしているのですか。

一週間たっぷり休んだ後に
そう聞かれたら、
いつもと違う答えが浮かぶかもしれません。







遠山正道 「Soup Stock Tokyo」

新しいアイデアは、なかなか理解されない。

きょとんとする人たちを、味方にするために。

スープ専門店「Soup Stock Tokyo」を
世に送りだした遠山正道は、緻密な企画書を書いた。

戦略や数字ではなく、
頭のなかにあるイメージをふくらませて
ショートストーリーのように綴ったのだ。

秘書室に勤める田中は、
最近駒沢通りに出来たSoup Stockの
具だくさんスープと焼き立てパンが大のお気に入りで、
午前中はどのメニューにしようかと気もそぞろだ。

誰が、どんな顔をして、どう行動が変わるのか。
遠山のイメージを細部まで丁寧に描いた
22ページの企画書には、リアリティがあった。

めざす未来がくっきりすると、
きょとんとする人にもわかりやすくなる。

1997年に遠山が綴った企画書どおりに
Soup Stock Tokyoは誕生し、
今では都内のあらゆる場所で
お店を見かけるようになった。

子どものように夢を思いつき、
大人としてイメージを緻密に描く。

楽しい妄想を膨らませると、
夢を叶える味方がふえてゆく。





山本周五郎

あの人はどうしようもないと、皆が口をそろえて言う。

そんな人間が変わるために、
必要なものはひとつだけだと、
山本周五郎は考えていた。

それを、小説「山椿」で
堕落した男を立ち直らせた主人公に、
語らせている。

信じただけだよ。

信じられるくらい
人間を力づけるものはないからね、
彼は自分で立ち直ったんだよ。

信じてくれる人がいるだけで、
人は変わることができる。

少なくとも山本周五郎は、そう信じている。





谷川俊太郎のグルメ

大人になると苦みや渋みが、美味しく感じる。

舌で感じる味覚だけでなく、
心の感覚もそんな風に変わっていくのかもしれない。

詩人の谷川俊太郎は、
「苦しみのグルメ」になることを勧めている。

苦みや渋みや刺すような辛さに
かすかな甘みがまじっている
その複雑な味を知ると、
喜びの味も深まるからね。

人生の苦みや渋みも
美味しく味わえる大人になりたい。





小川糸 「食堂かたつむり」


好きな仕事をする人は、強くなる。

小川糸の小説、
「食堂かたつむり」の主人公は、
料理をつくることで人生を変えてゆく。

恋人に裏切られたショックで、
言語障害になった彼女は、
田舎町にもどって小さな食堂をひらいた。

言葉を話せなくなった彼女にできる、唯一のこと。
生きることにうんざりしながらも、諦められないこと。

それは、自分の店を持って、料理をつくること。

お客様は、一日ひと組だけ。
その人の身体と心にしみる料理を考えて、
お皿にもりつけていく。

そして、前菜を口にするお客さまを、
おそるおそるカーテンの隙間から覗き見る。

メインディッシュを残さず食べてもらえると、
こみあげてくる幸せが涙になってこぼれないように、
こらえながらアイスクリームをつくる。

やがて彼女は、
苦手だった母親のためにも、腕をふるうようになる。

言葉にできない想いを料理にこめて、
人とつながりなおしていく。

好きなことを突きつめて、人に喜んでもらえる幸せ。
その味わいが、人を強くする。

それは、言葉を書く仕事をすることで、
小川糸が感じていることかもしれない。

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ちょっと不愉快になりましょうか


リンゴは東北ならば内陸部でもっぱら生産されておりまして
いまは被災地へも運ばれて
野菜不足の避難所生活の役に立っているわけですが
ヘラルド・トリビューンという国際的な英字新聞(本部はパリ)に
上記のような漫画が掲載されました。

子供でもわかる英語です。
あなたは日本から来たの?と白雪姫がたずねています。
放射能問題の風刺です。

いま放射能が問題になっている地区から避難している子供たちが
学校で差別されていることが問題になっているようですが
世界から見ると日本全体が放射能問題地域なのです。

たまには不愉快になりましょう。
そして、その不愉快を他人に与えないように
気をつけたいと思います(玉子)


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小山佳奈 11年4月24日放送



西岡常一 法隆寺

昭和9年。
老朽化が進む法隆寺の修繕が、
国家プロジェクトとして決まった。
失敗したら1300年の歴史が失われる。
その棟梁に選ばれたのは
27才の宮大工、
西岡常一であった。

常一はこの抜擢に緊張するどころか
心を踊らせる。

「飛鳥から今までの建築様式をすべて
 見られるチャンスだ」

法隆寺には
その時代ごとに修理を担当した
途方もない数の宮大工たちの魂が
込められている。

この大仕事を軽やかにやってのけた常一は、
その後、困難な寺院の修繕を数々成功させ
「最後の宮大工」と言われるようになる。





西岡常一 道具

昭和の日本の寺院建築を支えた
宮大工、西岡常一。

法隆寺には鬼がいる、と恐れられた彼は
道具に関しても徹底したこだわりを持っていた。

彼はノコギリを使わない。
やりがんなやちょうなといった、
そのお寺が建てられた当時と同じ
道具を使う。

「飛鳥の人たちはよく木を知っている。
 1300年前の飛鳥の大工の技術に
 私らは追いつけてないんです。」

鬼というあだ名に反して
微笑みはやさしい。

「みんな新しいことが
 正しいことだと信じていますが、
 古いことでもいいものはいいんです。」





西岡常一 木

昭和の日本の寺院建築を支え
最後の宮大工とよばれた、
西岡常一。

彼はつねに木と向かい合う。

くせのある木を進んで使う。
むやみに穴を開けない。
鉄の鉄を打ち込むなんて
もってのほか。

1300年前に建てられた
法隆寺に使われている木は
瓦を取ると何日かかけて
元の長さに戻っていくという。
それは木が、まだ生きているという、証拠。

「木を生かすには
 自然を生かさねばならず
 自然を生かすには
 自然の中で生きようとする人間の心が
 なくてはならない。」

彼が見ていたのはいつも
1300年先。





西岡常一 土

法隆寺をはじめ数々の寺院を修繕し、
最後の宮大工といわれた、
西岡常一。

宮大工の家系に生まれた彼は
小さな頃から英才教育を受けて育つ。

特に祖父は熱心で
小学校に上がる前から
常一に仕事を教え込み
宿題などするな、その時間があれば
鉋をかけろと教え込んだ。

そんな常一が高校に上がる際のこと。
彼は何の迷いもなく工業高校を選んだ。
それに対して、祖父の常吉は
なぜか大工仕事とは関係のない
農業高校をすすめる。

土などいじくっている暇はないという常一に
祖父は烈火のごとく、怒る。

「宮大工とは木だ。
 木を育てるのは土だ。
 土の気持ちがわからなくてどうする。」

そして彼は農業高校に進み
一から土と向かい合う。

よく言われることではあるけれど、
まわり道はまわり道ではない。







西岡常一

法隆寺の修繕を一手に引き受け
昭和最高の宮大工といわれた、
西岡常一。

彼はつねに困窮していた。

法隆寺の棟梁といっても
頻繁に仕事があるわけではない。
わずかばかりの田畑を耕し
それでも足りないときは
その田畑を売って家族を養った。

しかし彼はどんなに貧しくても
ふつうの住居の建築には手を出さなかった。

「宮大工は仏さんに入ってもらうから、 
 造ってなんぼというわけには
 いきませんのや。
 心に欲があってはならんのです。」

頑固すぎるほど頑固な姿勢が
西岡常一という男だ。





西岡常一

数々の寺院をよみがえらせ
日本最後の宮大工とよばれた西岡常一には
一人だけ弟子がいた。

師匠はとにかく何も教えてくれない。
鉋のかけ方も鉋くずを渡すだけ、
道具の手入れも毎日磨く背中を見せるだけ。

そうして育ったたった一人の弟子、
小川三夫さんはいま
斑鳩に宮大工の養成所をつくり
後継者を育てている。
そのやり方は師匠と同じ。
ただひたすら背中を見せ続ける。

「教えないから
 育つんですよ。」

斑鳩工舎とよばれるその学校から
巣立った若者たちは宮大工として
全国でその腕をふるっている。

常一のこころはいまも
生きている。





甲本ヒロト

「まあるい地球は誰のもの?
砕け散る波は誰のもの?
吹きつける風は誰のもの?
美しい朝は誰のもの?
 
チェルノブイリには Ah
チェルノブイリには Ah
チェルノブイリには行きたくねぇ」

1988年に発売された
ブルーハーツの「チェルノブイリ」。
所属していたレコード会社が許可せず
自主制作となったこの歌。

甲本ヒロトは
武道館の1万人の熱狂の前で
静かにこう言った。

「この意味をわからないひとは、
 自分で調べてほしい。
 そして、
 自分の意見を
持ってほしい。」

23年前のある夏の話。





とある科学者たちの話


アメリカとソ連が
宇宙ロケット開発に
しのぎを削っていた頃。

宇宙飛行士にかかる加速重力を
少しでも緩和するために
NASAがあるシートを開発した。

このシートの評判は上々。
何かほかの物に応用できないかと考えた
スウェーデンの科学者たちがいた。
しかしコストと複雑な工程が
容易にそれを許さない。

科学者たちは
それでもあきらめきれなかった。
試行錯誤を繰り返し、
20年以上の歳月をかけて
ようやく商品は完成した。

それが、
テンピュールという枕。

人がよく眠るために
自分の睡眠時間を削らなければならなかった

科学者たちに敬意をこめて。

おやすみなさい。
明日もいい日でありますように。

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小宮由美子 11年4月23日放送



イタリアの横顔① カメラマン

ローマのカメマン、リーノ・バリッラーリ。
人は彼を、<キング・オブ・パパラッツィ>と呼ぶ。

ゴシップ写真を専門とする職業柄、カメラを向けたスターたちから
暴力を受け救急車で担ぎこまれること160回。
憤ったスターたちにしょっちゅう壊されるから、カメラの機材はいつも新品。
そんなリーノが、これまでに世界に放ったスクープは数知れず。
身体を張った仕事ぶりはリーノ自身の存在を伝説化した。

取材相手から毛嫌いされるのが常だが、それだけでもないらしい。
パパラッツィは、イタリアのマスコミ界では真の意味でのフリーランスだ
命令されるボスなど必要ない、自分の勘だけを
頼りに生きる、孤独を愛する一匹オオカミ

そう賛辞を贈ったイタリア映画の巨匠フェデリコ・フェリーニも
リーノが友情を育んだスターのひとり。

パパラッツィという仕事は、体を張った危険な仕事。
しかし生まれ変わってもまたぜひパパラッツィでありたい

そう語るリーノの伝説は、今日も続く。





イタリアの横顔② 靴磨き

ローマにある<ロザリーナの店>といえば、
美貌の女性、ロザリーナ・ダッラーゴの靴磨き専門店のこと。

もともと尋常ではない靴マニアだったという彼女は、
ある日、自分の靴を磨いてくれる名人を探しているうちに
自分がその名人になればいいのだ、と思いつく。そして
数か月後には、銀行から100万ほどの借金をして店を開けた。
靴に対する愛情に溢れた彼女の仕事は、
その美しい容姿と人柄も相まってたちまち話題になり、
高級ブティックが軒を並べる目抜き通りのそばにある<ロザリーナの店>
には、有名無名の人々が、ひきもきらずに訪れる。
最初は母親の仕事を恥ずかしがり、学校で親の職業を聞かれ
「靴関係です」と答えていたという子供たちも、
今は誇りに思ってくれている、とロザリーナは語る。
屈辱的な仕事などこの世の中にはなく、どんな仕事でも誇り高く
一生懸命やり遂げれば必ず成功する、ということもよく理解したようです








イタリアの横顔③ 泥棒

家の前に停めておいた車を盗まれ、悲嘆に暮れている人のところに
翌日、無事に車が戻ってきた。中にあった手紙には、
やむを得ぬ事情でお車をお借りしたこと、お許しください。
 お詫びのしるしに
」と、話題のオペラのチケットが2枚添えられていた。
なかなか洒落た泥棒じゃないか」と喜んで出かけ、
帰ってきたら、家の中は空っぽ。何から何まで運び出された後だった――。
これは、イタリアであったという本当の話。
作家・井上ひさしも、イタリアの泥棒に一杯食わされたひとり。
 ミラノ空港で、隙をついて盗まれた鞄に入っていたのは、
帰りの航空券に筋子のおにぎり、
古書などを買うためにせっせと貯めてきた現金や、大切なノート…。

……鞄を盗られてしまった
日本に電話をかけると、イタリア暮らしの長かった井上の妻は笑い出した。
イタリアを甘くみたわね
イタリアは職人の国よ。だから泥棒だって職人なんです
 妻は続けて、夫にこう助言した。
これからは緊張した表情で行動することね。
引き締まった顔の持主は決して狙われないというから






イタリアの横顔④ピアニスト

シチリアの最も由緒あるホテル、<サン・ドメニコ・パレス>。
そのピアノバーの専属ピアニスト、キコ・シモーネが愛されたのは、
彼の奏でる素晴らしい音色のせいだけではなかった。
  アメリカに夢中になった青年時代。彼が見たイタリアのギャングスター。
  ライフワークでもあったマラソンへの挑戦。そして出会った女性たち…。
銀髪に大きな眼鏡、スマートで優雅なこの紳士の身の上話は、
どんな小説よりも面白かったという。

非常に多忙でも、ホテルでの演奏は欠かすことがなかった。
これは、生涯現役でピアノを弾き続けた彼の、91歳のときの言葉。

これまで4度の結婚をしましたが、どうも5度目を
年内にすることになりそうな話もありまして…

(忙しくて)どうしても演奏できないときは、82歳になる妹が代役で
弾き語りしてくれるのです。私より、ずっと上手いんですよ






イタリアの横顔⑤ 生ハム職人

イタリアのベルルスコーニ首相は、1シーズンにたった4本。
ベネトンのルチアーノ社長は、2年も前から予約して、ようやく2本。
サッカー・イングランド代表監督ファビオ・カペッロでも、
1本買えるか、買えないか――。
これは、北イタリアの小さな町に住む、
ロレンツォ・ドスヴァルドが作る生ハムのこと。
<幻のハム><イタリアにおける文句なしの最高品>と絶賛され、
順番待ちのリストは長くなる一方だが、売りに出される生ハムの数は
年間たった1500本。どんな有名人であろうとも、
自分の順番が来るのをじっと待つしかない。お金を積んでもダメ。
生産規模を拡大することを、ドスヴァルドは頑なに拒む。
現状で満足です。少量生産だがイタリアで最高品質の、
無敵の生ハムを作れるほうが、ずっと誇り高いことだと思います

楽しく質の高い仕事をすることが、彼の幸せ。
そして、同じくらい大切なのが、妻や子どもたちと楽しい時間を過ごすこと。
大金を手にするのと、家族といい関係を保つのとどちらかを選べと
言われたら、当然迷わず、私は家族を選びますね

ドスヴァルドは、無敵の父でもある。





イタリアの横顔⑥市民

イタリア・ボローニャの市長選挙を前に、候補者定めの市民集会に
参加した作家・井上ひさしは度肝を抜かれた。
檀上の候補者に次々と質問を突き付ける市民は、まるで刑事。
汗をかきながら必死に答える候補者は、容疑者。
壮絶きわまりない討論が繰り広げられる会場は、取調室のようだったから。
このような市民集会を選挙まで重ねて、市民は候補者の質を見極める。
候補者は鍛えられ、市長にふさわしくなっていく。
「市民の皆さんは、彼を候補者として認めたのでしょうか」
井上がたずねると、イタリア人通訳はこう答えた。
「彼は、客席を一度も笑わせることができなかったでしょう。
まだまだ鍛える必要がありそうね」





イタリアの横顔⑦ ボローニャ人

1945年4月。
ボローニャの人々はナチスドイツをはじめとする占領軍に対して、
何度もデモをおこない、ストライキをうち、やがて彼らと戦って、
自力で街を解放した。
赤煉瓦でできた美食の町として知られ、イタリア人も憧れる
現在のボローニャは、たくさんの犠牲によって守られた。

「守るべきものとは」「空疎な言葉や抽象概念ではなく、
具体的な人間や、目に見える景色のことです。
どこの国の人間でも、人間や景色のためには立ち上がるはずです」
「こうしたことはみな、ボローニャの街並みから教わっているように思います」
ボローニャへの愛にあふれた紀行文の中に
作家・井上ひさしが残した言葉が、いまとくべつ、胸をうつ。

「日常を守れ」

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これ、見ておきましょう

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坂本和加 11年4月17日放送



国語辞典と大槻 文彦 ①

日本語の五十音表記が
「いろはにほへと」から、
「あいうえお」に統一されたのは
いろは歌が「旧仮名遣い」だったことが大きい。
 
その「あいうえお順」の
普及に大きく貢献したのは
明治時代に初出版された国語の辞書だろう。
 
編纂は大槻文彦。
普通語にこだわり、
日本で初の国語辞書をつくった。
 
すばらしいのは、その名前。
ことばの海と書いて、「言海」という。
なんて辞書にふさわしく、
センスあるネーミングだろう。
 
しかし、もっと驚くのは、当時、
大槻が文部省の、いち公務員であったこと。





国語辞典と大槻 文彦②

日本で最初の国語辞書は、
大槻文彦によって作られた。
 
明治37年に出版された
この国語辞書の縮刷版は、
4年で180回も増版を繰り返すほどの
大ベストセラーとなった。
そして、大辞林、広辞苑などの、
国語辞書の土台にもなった。
 
たとえば「猫」について調べてみれば、こうだ。
 
人家ニ飼フ小サキ獣、人ノ知ル所ナリ。 温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕レバ飼ウ。然レドモ、窃盗ノ性アリ。 形、虎ニ似テ二尺に足ラズ。性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル。ソノ瞳、朝ハ円ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガリテ、暁ハ再ビ玉ノ如シ。
 
 
なるほど、ベストセラーになった理由が、よくわかる。





国語辞典と大槻 文彦③

国語辞書についている前書きで、
たぶん日本一、興味深くて面白いのは
「言海」という日本で最初の国語辞典だ。
 
そこには、
「空白となりて、
老人の歯のぬけたらむような所がある」ことや、
ことばの意味を整理しながら
「ひとり笑へることありき」だったこと、
由来に悩み抜いたことばのことなど、
いくつも、いくつも記されている。
 
序文の著者は、大槻文彦博士。
思わずクスリと笑ってしまうのは、
大槻博士のことばへの愛が、溢れているから。
ことばの海と書く「言海」で、
大槻博士はすばらしい旅をしたのだろう。
 
敷島や やまと言葉の海にして
拾ひし玉は みがかれにけり
 
後書きにある、和歌である。





国語辞典と大槻 文彦④


日本で最初の国語辞典、
『言海』をつくった大槻文彦には、
如電という、学者の兄がいた。

何事にも積極的な兄と、
こつこつと着実に歩を進めるタイプの弟。
この兄弟の、まったく異なった気質を
その父は、ふたりがまだ幼い頃に言い当てている。

兄、如電は、碩学でありながら
世間一般からは、変わり者として
知られていたようだが、
弟、文彦が『言海』の改訂版
『大言海』の発刊を待たずに亡くなると、
兄は、その遺志をついだ。

辞書にまつわる、ちょっといい話。





大漢和辞典と諸橋 轍次①

図書館で大漢和辞典を、
手にしたことがあるだろうか。

初版から約50年。
世界最大のこの漢和辞典は、
全15巻、1冊1キロ以上。
うち1巻は、この辞書を引くためにある。
 
収容漢字数のスケールが
伝わるだろうか。
この壮大な辞書編纂の中心人物は、
諸橋轍次博士。
 
大正時代、留学先の中国で
辞典もなく、博士はたいへん苦労した。
 
ないからつくる。必要だからつくる。
自分はその器ではないとしても
進んでその任に当たってみよう。
 
世紀の大事業も、
そのきっかけは、いたってシンプル。





大漢和辞典と諸橋 轍次②

1960年に刊行された
大漢和辞典の初版は、13巻。
その編纂の中心となった、
諸橋徹次博士は完成前から
後継者による改訂を願っていた。
 
オックスフォードをはじめ
名だたる辞典はみな、
後人によって完成されるもの。
 
その修訂版編集も長きにわたり
博士の死後ようやく、平成の世に出版され、
大漢和辞典は全15巻となった。
 
特筆すべきニュースは、その際、
漢字の本家である中国政府から
500セットもの発注を受けたこと。





大漢和辞典と諸橋 轍次③

漢字の祖国、中国にもまだない
漢和辞典を一からつくる。
 
気の遠くなるような
作業だったに違いない。
大漢和辞典の産みの親ともいわれる
諸橋轍次博士は、それを
35年の歳月をかけ、やってのけた。
 
博士は、
座右の銘を聞かれると、
四字熟語でいつもこう答える。
 
「行不由径」(こうふゆけい)
 
その意味は、近道をせず、大道を堂々と進め。
 
なんでも「検索」が当たり前の世のなか、
辞書を引き学ぶことは、やはり大道である。





大漢和辞典と諸橋 轍次④


全15巻からなる、世界最大の
大漢和辞典が、大修館書店から出版されている。
 
たいていの図書館にある
この辞典を手にしたら、
ぜひ序文を読んでほしい。

この序文は、編纂の中心人物
当時78才の諸橋徹次博士によって書かれた。
発刊までの35年という月日の中、
空襲で、完成を目前にした
版や資料の大部分が
焼けてしまったこと、
途中でほぼ失明の状態にあったこと。
それでも、幾多の人の支えがあり
ようやく刊行の運びとなったこと。
 
この壮絶なドラマは、
ほんとうにあった話。

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三國菜恵 11年4月16日放送



チャップリンとあの人/チャップリンのこどもたち

こどもにとって、
父親の仕事は気になるもの。

チャップリンのこどもたちも、
パパの映画に興味があった。

そんなことを知ってか、
チャップリンは自分の映画の上映会を
よく開いてくれたという。
それも、本人による解説つきで。

「さあきました。ちっぽけ放浪者です」
「さてまいりましたが、足に包帯をしたでっかい野郎といっしょです」

それは、映画の説明と言うより、独演会。
こどもたちはみんな、声をあげて笑った。

上映会が終わると、チャップリンはこうたずねる。

ほんとうにおもしろかったかい?
子供たちを喜ばすことが世界中で一番むずかしいんだよ。

チャップリンにとって我が子は、
いちばん反応が気になるお客さんだった。





チャップリンとあの人/高野虎市

チャップリンが
いちばん信頼していたといわれる付き人は、実は日本人。
名前は、高野虎市(こうの・とらいち)さん。

彼の気遣いは、とてもきめこまやか。

たとえば、チャップリンのポケットに
いつも50ドルを入れておく。

それは、
ボーイさんにチップをあげ忘れることがないように
という配慮から。

気まぐれなチャップリンは、
お金を持たないまま
つい外出してしまう癖があった。

なので、
チャップリンがけちだといわれているのは
まったくの誤解なのですと、高野さんは語る。

いいところも、だめなところも。
ちゃんと「わかって」くれてる人だったから
チャップリンは秘書に選んだのかもしれない。

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三島邦彦 11年4月16日放送



チャップリンとあの人/放浪紳士チャーリー

「チャップリン」と聞いた時に浮かぶあの顔。

真っ白な顔に口ひげを生やし、だぶだぶズボンに小さな上着、
大きな靴をはいてステッキを持つあの姿。
その名も、放浪紳士チャーリー。
自らが映画の中につくりあげた
このキャラクターをチャップリンはこう説明する。

 小さな口ひげは虚栄心。
だぶだぶなズボンは、人間の不器用さ。
大きなドタ靴は貧困の象徴。
 窮屈な上着は貧しくても、品よく見せたいという
必死のプライドを表してるんです。

人がいちばん笑うものは、人間らしさ。
いちばん泣くのも、人間らしさ。
チャップリンはそのことを誰よりも知っていた。





チャップリンとあの人/ ヒトラー

同じ年の同じ月に生まれた二人は、どこか顔も似ていた。
チャップリンとヒトラー。
誰よりも人間を愛し、映画を通じて世界にその愛を伝えていたチャップリンと、
誰よりも人間を憎み、暴力を通じて世界にその力を誇示したヒトラー。
チャップリンにとってヒトラーは、どうしても無視ができない存在だった。

1939年、ヒトラーのポーランド侵攻のニュースを聞いたチャップリンは、
妻であり女優のポーレット・ゴダードを主人公にした映画を撮る計画を中止し、
『独裁者』という作品を制作する。
ヒトラーを批判し、馬鹿にするには言葉が必要だと考えたチャップリンは、
かたくなに守り続けてきたサイレントを捨て、
初めて台詞を映画に取り入れた。
そうして、暴力を否定し人間の愛を訴える、
映画史に残る6分間のスピーチが生まれた。
  
他人の幸福を念願としてこそ生きるべきである。
 お互いににくみあったりしてはならない。
世界には全人類を養う富がある。人生は自由で楽しいはずである。 





チャップリンとあの人/ジャン=リュック・ゴダール

その作品の難解さでいつも世界を戸惑わせるフランスの映画監督、
ジャン=リュック・ゴダール。
映画研究家でもある彼は、チャップリンをこう評した。

 彼はあらゆる賛辞を超えたところにいる。それは、最も偉大な映画作家だからだ。

子どもにも、大人にも、ゴダールにも。
チャップリンは、笑われ、愛され、尊敬された。

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三國菜恵 11年4月16日放送



チャップリンとあの人/スイスの新聞社の人

チャップリン80歳の誕生日のとき、
彼の家には報道陣があふれた。
けど、チャップリンは沈黙をつらぬくばかり。

そんなようすを見た、スイスの新聞社は
こんな文章を掲載した。

チャップリンが沈黙を守るのは仕方がない。
八十一本の彼の映画のうち
七十六本はサイレントなのだから。

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