2019 年 7 月 のアーカイブ

山本貴宏 19年7月28日放送



キングオブポップ 出発点

1958年、アメリカはインディアナ州の工業団地。
そこで暮らす大家族の六男として、マイケルジャクソンは産まれた。

生後1歳半で、洗濯機の音に合わせて哺乳瓶を片手に踊っていた。と後に母親は語る。

デビュー後、当時まだ声変わりもしていなかったマイケルに
あるインタビュワーが少々意地悪な質問を投げかけた。
「声変わりしたらどうなるんだろうね?」

すると、11歳だった彼は臆することなく笑顔でこう答えた。

「it changes.(ただ変わるだけさ。)」

その言葉通り、彼は声変わりをしてもなお成功を重ね、世界中を魅了していった。

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山本貴宏 19年7月28日放送


Abi Skipp
キングオブポップの死

マイケルジャクソン。

人気が増すにつれて
根も葉もないニュースも増えていった。
その影響でしばらく活動を控えたのち、
2009年におよそ10年ぶりとなる「THIS IS IT」ツアーを発表する。

しかし、そのリハーサル期間中に自宅で息を引き取ってしまうのだ。

幻に終わった最後のツアーのリハーサル映像が、ドキュメンタリー映画として公開されたが
そこには、人間不信に陥っていた彼ではなく、
声も肉体も、50歳という年齢のハンディを感じさせない、輝く姿が映っていた。

彼が亡くなったのは、2009年6月25日。
先月で、10年になる。

人を信じていた彼を思い出しながら、
思い出の名曲を聞いてみてはいかがだろうか。

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山本貴宏 19年7月28日放送


Mexicaans fotomagazijn
キングオブポップ スリラー

マイケルジャクソン。

世界をアッと驚かす革新的な楽曲を次々と生み出してきた。
中でも「スリラー」は、ミュージックビデオとしては唯一アメリカ議会図書館に永久保存されるなど、多大な功績を残している。

人間の身体がここまで精密に動くのか。とまで思わせる彼のダンスや
音楽と芝居が共存する構成、そして伸びのある歌唱力に誰もがくぎ付けになった。

1980年代当時の音楽業界にとって
それがどれほどスリリングで、エキサイティングだったのか。

「全世界が圧倒されるエンターテイメント誕生。」
その瞬間をリアルに体験できた大人に嫉妬してしまう。
そんな若者がいても、不思議ではないだろう。

同アルバムは現在、「史上最も売れたアルバム」としてギネス記録に認定されている。

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山本貴宏 19年7月28日放送


house of bamboo
キングオブポップ ビリージーン

マイケルジャクソン。

ある日彼は、車の中で作曲をしていた。

あまりに無我夢中になってしまっていたマイケルは、
自転車に乗った通りすがりの子供が「車、燃えてるよ」と教えてくれたことで
乗っていたロールスロイスの下の部分が燃えていたことに気がついたという。

車が燃えていることにも気がつかないくらい、没頭して出来上がった曲。
それがご存知「ビリージーン」である。

「歌詞を書いている時から、これはヒットになると分かっていた。」とのちに彼は答える。

一つのこと以外考えない。
そんな時間や思考量が、素晴らしいものを生み出すのかもしれない。

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山本貴宏 19年7月28日放送


Threatened1
キングオブポップに愛された国

マイケルジャクソン。

彼は、自分の曲がどの国でどれだけ売れているかを正確に把握していたという。
日本の支持もまた、彼の耳に届いていたという。

2007年に来日したマイケルが帰国する前夜には、
日本人スタッフの関係者に力強くこんなことを話した。
「50歳になったら記念にツアーをやる、ロンドンで手ごたえを確かめて、その次に大好きな日本でやる」
これが、日本のファンに対するマイケルの最後の言葉になる。

世界中に影響を与えた偉大な彼もまた、多くのファンに支えられていた事実。
マイケルジャクソンと心から両想いだった日本という国が、ちょっぴり誇らしくなった。

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山本貴宏 19年7月28日放送



キングオブポップ ムーンウォーク

マイケルジャクソン。

彼の代表的なダンスである「ムーンウォーク」の原型は「バックスライド」という、
その場でくるくると回る動きだった。
初めてテレビで披露したのはシンガー兼ダンサーのジェフリー・ダニエル。

マイケルはジェフリーへ日本円で12万円相当のお金を支払ってバックスライドを習い、
ジェフリーが苦労した動きを5分でマスターしたと言われている。

その動きを「ムーンウォーク」と命名し、
前に歩いているようで後ろになめらかに進むようにアレンジし、自分の踊りに取り込んだ。

今でも「ムーンウォーク」を真似る人は後を絶えないが、
名前の付け方次第ではここまで広まらなかったかもしれない。

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山本貴宏 19年7月28日放送



ダンスのはなし ブレイクダンス

ブレイクダンス。

1970年代のニューヨークはギャング間の抗争が絶えなかったのだが、
あるDJによる提案で銃撃戦の代わりにブレイクダンスのバトルを用いたことが起源と言われている。

実はこのブレイクダンス、
2024年パリで開催されるオリンピック・パラリンピックの新種目として採用されている。

日本の実力は世界トップレベル。
2018年に行われたユース五輪では金メダル2つ、銅1つを獲得した。

金メダルを獲得した河合来夢(かわいらむ)は2024年に向けて早くも優勝宣言をしている。

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山本貴宏 19年7月28日放送



スニーカー

1916年、アメリカのKeds社はゴム底の靴販売を始めた。
それまでは靴といえばコツコツと音を立てる革靴が主流だった中で、
「より静かな靴」
ということをアピールするキャッチフレーズから生まれたのがスニーカーだ。
今では老若男女問わず人気のスニーカー。
その中でも真っ白なスニーカーが好まれるのは、
洋服や靴はなるべく新品のようなキレイさを保って身に着けることがクール。
としていたアメリカのヒップホップ文化に由来している。

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厚焼玉子 19年7月27日放送


かがみ~
戦場ヶ原の夏 アザミ

奥日光、戦場ヶ原。
標高1400メートルに位置するこの湿原は
夏の花がほぼ7月でピークを終える。

ノハナショウブ アカヌマフウロ ヤマオダマキ
イブキトラノオ、ウマノアシガタ…

7月の花々の隙間からノアザミの蕾がのぞいている。
ノアザミの赤紫の花は
戦場ヶ原の夏の終わりに咲く。

湿原の夏は駆け足で去って行く。

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厚焼玉子 19年7月27日放送


KYR(休会中)
戦場ヶ原の夏 赤トンボ

奥日光、戦場ヶ原。
ここは真夏でも25℃から気温が上がらないと
地元の人が言う。

人ももちろん夏休みの避暑にやってくるが
赤トンボの避暑地でもある。

赤トンボの代表、アキアカネは
6月に平地の田圃で羽化し
夏になると群れをなして奥日光にやってきて
涼しい夏を過ごすのだ。

9月、再び平地に降りたアキアカネは
10月に産卵をして短い一生を終える。

湿原の夏は赤トンボの一生に一度の夏だ。

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