小林組・河田紗弥

河田紗弥 20年7月26日放送



耳で楽しむ夏の風物詩。 花火

夏の風物詩のひとつである、花火。

花火の原料となる火薬が発明されたのは、
今から2000年以上も前のこと。

中国で薬を発明したり、錬金術を研究したりしている研究者たちが、
偶然火薬を発明したことが始まりだったとされている。

ここで発明された火薬は、
世界中の戦いで使われることとなり、
日本でも戦国時代に鉄砲や打ち上げ式ののろしなどに
使われていた。

そんな火薬が、
花火として人々に観賞されるようになったのは、
江戸時代に入ってからのこと。

戦いがなくなったとき
人は火薬が作り出す美しさに気づいたのだろうか。

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河田紗弥 20年7月26日放送


MO
耳で楽しむ夏の風物詩。 花火

日本ではじめて花火を観賞したのは、
あの徳川家康だと言われている。

1613年に、駿府城で
吹き出し型の花火を見物したという文献が残っており、
これをきっかけにçの生産が開始されたという。

新しい文化に敏感だった江戸庶民。
もともとは
疫病退散や水神祭のイベントとして開催されていたが
次第にお祭りとしての人気も高まり、
いつしか江戸では花火が大流行。

ただ、江戸の木造家屋は火事に弱いため、
たびたび花火禁止令も出されていたそうだ。

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河田紗弥 20年7月26日放送



耳で楽しむ夏の風物詩。 花火

日本最古の花火大会でもある
隅田川花火大会が始まったのは1733年。

当時は、「両国川開き」と呼ばれていた。
このときに花火を打ち上げたのは、
日本最古の鍵屋という花火業者であった。

その約150年後、
鍵屋の番頭が独立して花火業者を始めたのが玉屋だ。

鍵屋と玉屋。
両国橋の上流を玉屋、下流を鍵屋が担当するなど、
ライバルとして、
この二つの花火業者は、さらに発展していった。

しかし玉屋はのちに火災を出してしまい、
これがきっかけで家名が断絶。

それでも「たまや〜」「かぎや〜」という声が
今でも花火大会では、どこからともなく聞こえてくる。

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河田紗弥 20年7月26日放送



耳で楽しむ夏の風物詩。 かき氷

かき氷の歴史は古く、平安時代、清少納言の「枕草子」に出てくる
「削り氷」が最初と言われている。

「削り氷に、甘葛(あまずら)入れて、
あたらしき鋺(かなまり)に入れたる。」
という文章がある。

冷蔵庫や製氷機のない時代、
夏の氷は非常に貴重なものだった。

冬の間に天然の氷を切り出して、
山の麓などに作った「氷室」という貯蔵施設に保存し、
夏に氷を切り出して、都に運ばせ、
宮中で暑気払いを行なっていた。

運ぶ間にも氷は溶け、御所に着く頃には、
氷は小さくなって、
その氷を小刀で削って食べることができたのは、
一部の貴族階級の人たちだけだったとか。

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河田紗弥 20年7月26日放送



耳で楽しむ夏の風物詩。 かき氷

横浜港が開港した江戸時代の末期、
アメリカのボストンから氷を輸入したアメリカ人がいた。

出発から半年以上もかけて、アフリカを経由して
横浜に到着した氷は、
みかん箱ほどの大きさで、3両、
現代の約22万円もしたと言われている。

この氷に着目したのが、中川嘉兵衛だ。

三河の国出身の彼は、
横浜で英国公使のもとでコックとして働いたのち、
東京で最初の牛肉店を開いたり、幅広く商売をしていた。

来日した宣教師に、
医療や食品の保存に氷が有益であると教わった彼は、
天然氷の製造・採取と販売の事業化を目指し、
各地で天然氷づくりを試みた。

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河田紗弥 20年7月26日放送



耳で楽しむ夏の風物詩。 かき氷

1862年の夏。
箱館や諏訪湖から氷を運び、
中川嘉兵衛は
横浜の馬車道通りに、
日本で最初のかき氷屋「氷水屋」をオープンさせた。

店を始めた当初は、
「腹に悪い」という噂のせいで、
なかなか売れなかった…。

しかし、ひとたび安全だとわかると、
夏の暑さもあって爆発的に人気になり、
1杯2文、現代の約30円で、
2時間並ばないと買えないほどの人気になった。

その後も、北海道の五稜郭に製氷場を設け
本格的に生産を始め、
のちに宮内庁御用達にもなった。

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河田紗弥 20年7月26日放送



耳で楽しむ夏の風物詩。 金魚すくい

日本にはじめて金魚がやってきたのは、
室町末期の大阪。

当時は高級品で、一部の貴族の間で、
“生きた芸術”として話題になっていた。

江戸中期になると、
藩士たちが副業として金魚養殖を始め、
大量生産されるようになり、金魚の価格が下がったことで、
江戸に金魚ブームが到来。

当時は、ガラスがなく、
陶器に入れて、上から見るのが主流のスタイルだったとか。

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河田紗弥 20年7月26日放送



耳で楽しむ夏の風物詩。 金魚すくい

夏の風物詩、金魚すくい。
その始まりは、江戸時代の後期ごろと言われている。

浮世絵などの版画に
金魚すくいを楽しんでいる子どもたちの様子が
描かれているからだ。

当時は、ポイではなく
すくい網を使って
制限時間内に、
どれだけ金魚を取ることができるかを楽しむものだった。

明治後期になると、
金魚を持ち帰ることができるようになり、
すくい網だと多くの金魚が持って行かれてしまうため、
現在のポイのようなものが誕生した。

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河田紗弥 20年2月15日放送



恋文のいろいろ。 〜歴史〜

ひらがなが誕生した平安時代。

女性も日常的に文字を記すようになると、
手紙が大ブームになった。

平安時代のラブレターで重要だったのが、
和歌のセンスはもちろん、
どのような紙に書き、結んで届けるかということ。

陸奥の国でつくられた陸奥紙(みちのくがみ)と呼ばれる紙が
貴族には人気であった。

それを木の小枝に結んで届けるのが一般的で、
白い紙を梅の花がついた折枝に結んだり、
青い紙を柳の折枝に結んだり、
色の取り合わせにも美意識を宿らせていたんだとか。

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河田紗弥 20年2月15日放送



恋文のいろいろ。 〜藤原実方〜

平安時代、20人以上の恋人がいたという
モテモテなプレイボーイ、藤原実方。

そのたくさんの恋人の中には、
あの清少納言もいたと言われている。

和歌の天才として知られる恋人に、
和歌にはかなりこだわりや向上心があったとされる藤原実方は
こんな歌を歌った。

 かくとだに えやは伊吹の さしも草
 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

息吹山のヨモギのように燃えている私の心を
貴女は知らないのでしょうね。

さて、彼が燃やしていたのは、恋心?
それとも、お互いが得意とする和歌への競争心?

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