古田組・細田高広

細田高広 10年10月31日放送



1. バド・パウエル

バド・パウエルが、
ジャズピアニストとして
人気になった頃。

彼のライブをある男がお忍びで訪れた。
ジャズ・ピアノの神様と言われていた
アート・テイタム。

一曲聞き終えるとテイタムは大きな声で
周囲の人にこう言ったという。


 彼は、左手の使い方を知らないね。

その声を聞いたパウエルは、曲目を変更。
テイタムの十八番を、
左手一本で弾いた。

ジャズマンが腕を競ったジャズ全盛期。
ニューヨークでは、夜ごとに音楽が進化した。



2.ジョン・コルトレーン

サックス奏者、
ジョン・コルトレーンのキャリアは
苦悩の日々から始まった。

無名時代に、
マイルス・デイビスに抜擢されてバンドに加入。
口の悪い批評家に「ヘッポコ奏者」と呼ばれ、
ブーイングも日常茶飯事だった。

そんな状況が、彼を猛烈な練習へと駆り立てた。
コルトレーンの家の前を通って、
サックスが聞こえない日はなかった、と友人たちは回想する。


 もし君が真剣なら、靴紐だって演奏できる。

コルトレーンが
そこまで言えるほど努力を積んだとき、
世間は彼を「天才」と呼んでいた。



3.ルイ・アームストロング

極貧の家に生まれた、ルイ・アームストロング。
10代の頃には発砲事件を起こし、少年院に送られる。
そこで指導員から教わったのが、コルネットだった。

そんなアームストロングが数十年後にスターになって、
故郷のカーニバルにやってくる。

大盛況のライブの最中、突如、ひとりの老人が
ステージを向かって歩き出した。
手には、タオルでくるんだ何かを抱えている。
老人に気付いたアームストロングは、
その場で泣き崩れたという。

タオルに包まれていたのは、
少年院で吹いたボロボロのコルネットだったのだ。

What a wonderful world.

多くのシンガーがカバーした名曲だが、
本当に歌いこなせるのはアームストロングだけだろう。



4.ソニー・ロリンズ

テナーサックスの巨人と称される、
ソニー・ロリンズ。
「サキソフォン・コロッサス」が絶賛されると、
スターダムを駆け上がった。

ところがその絶頂期に、
彼は突如引退を表明する。
引退後も橋の下で、
延々サックスを吹く姿は目撃されていた。
数年後、カムバックして発表した曲はその名も「橋」。

他にも2回活動休止期間があるロリンズだが、
未でも現役奏者でいる。

さすがはテナーサックスの巨人、
息つぎが上手い。



5.マイルス・デイビス

マイルス・デイビスは、
実にフェアな男だった。

黒人への差別には、
当然、正面から反抗した。


 あんたは白人であること以外に何をしたんだ?
 オレかい?
 音楽の歴史を5回か6回は変えたかな。

一方では
白人を嫌う黒人にも、
同じように厳しかった。

白人のビル・エヴァンスを
バンドに迎えたときには、
黒人仲間からの非難に憤った。


 あいつ以上のピアニストを連れてきたら、
 俺はそいつがどんな色をしてたってすぐに使ってやる。

そんな彼の元には、驚くほど多様な
アーティストが集まることになる。

マイルスの音楽が
世界中に影響を与えたのは、
ジャズを人類の協同作業にしたからだろう。



6.ハンク・ジョーンズ

評論家からも、同じピアニストからも
リスペクトされているハンク・ジョンーズ。
彼のピアノは実に雄弁だ。

ピアニストのブラッド・メルドーは、
彼のように自然体で歌うピアニストが
理想だと言っている。

そんな天性の才能を持ちながら、
ハンク・ジョーンズは実に努力家だった。

彼は言う。


 練習は、1日休めば自分に分かる。
 3日休めばカミさんが分かる、
 7日休めば仕事が無くなる。

怠け心が湧いて来たら、彼の言葉を思い出してみよう。



7.フランク・シナトラ

フランク・シナトラの好物は
テネシー・ウィスキーの
ジャック・ダニエルズだった。

「酒とバラの日々。」
「酒は涙か溜息か。」

歌にも込められた、酒への想い。

シナトラは、
周囲から飲みすぎを咎められると
こう答えたという。


 アルコールは
 人間にとって最悪の敵かもしれない。
 しかし聖書には敵を愛せよと書いてある。



8.チャーリー・パーカー

ジャズがまだ、ダンスミュージックだった時代。
チャーリー・パーカーは、
誰かのための音楽はつまらないと思った。

閉店後のライブハウスで、
仲間たちと繰り広げたジャムセッション。
観客はいない。踊れなくていい。
自分が酔える音楽かどうかだけ考える。

そうしてジャズの伝統を投げ捨てたら、
モダン・ジャズの創始者になっていた。


 自分の楽器をマスターしろ。
 そうしたら、そんなくそったれは全部忘れて、
 ただ演奏するんだ。

成長とは、学ぶことより、
それを捨てることかもしれない。

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細田高広 10年09月11日放送


ストラディバリウス

現代の技術をもってして、
何故300年も前のヴァイオリン、
ストラディバリウスを越えられないのか。

その秘密を解き明かそうと、
いくつもの科学者チームが分析をしてきた。

木材に秘密がある。ニスの塗り方が決め手だ。
いくつもの仮説は生まれた。
しかし、ストラディバリウスには近づけない。

ヴァイオリニスト
イツァーク・パールマンは言う。

ストラディバリウスは ”音”を持っています。
すでに音楽がそこにある。
自分は弓を楽器の弦にのせて動かすだけで、
音楽が流れ出てくるのです。

科学はまだ、感性を超えられない。


レス・ポール

3度のグラミー賞を
受賞した音楽家にして、
発明家の殿堂入りも果たした男。

レス・ポール。

彼が生まれなければ、
B.Bキングも、ジェフ・ベックも、
キース・リチャーズも生まれなかった。

彼のギターを愛する男を並べれば、
アメリカの
ポピュラー音楽史になってしまう。

94歳で無くなるまで、
毎週月曜日にイベントを開催し、
現役でギターを弾き続けたレス・ポール。

彼は、語る。

成功する秘訣は、
今より少しだけ上を目指すこと。
これを続けることだね。

天国でもきっと、
レス・ポールは鳴りやまない。


スティーブ・ヴァイ

 譜面はモナリザよりも美しい

と言ったのは、
ギタリストのスティーブ・ヴァイ。

フランク・ザッパから技術を学び、
バークレー音楽院で理論武装をした。

奇抜な衣装を身に纏い、
長髪をたなびかせるその姿。

3本のネックがついたギターから
繰り出される、
ギターの制約や定石を完全に無視した
フレーズの数々。

そんなスティーブ・ヴァイを
ファンたちは変態ギタリストと呼ぶ。

「上手」や「かっこいい」を追い求めても、
新しい音楽は生まれないから。

「変態」は、音楽家にとって
最大の誉め言葉かもしれない。


久保田五十一(いそかず)

バット職人、久保田五十一。

父親が51歳の時に生まれたから、
五十一と書いて、「いそかず」と読む。

51という数字の魔力だろうか。
彼は「51番」を背負うある男と
運命の出会いを果たす。

メジャーリーグのシアトルマリナーズで活躍する、
イチロー選手だ。

木を見極め、精巧な技術を駆使してバットを仕上げる。
イチロー選手は、そんな久保田がつくるバットしか使わない。

それでも久保田は、控えめに言う。

バッターと木が主役。私は脇役です。

10年連続200本安打への期待がかかる今年。
イチロー選手と久保田の記録は、
どこまで伸びるだろうか。

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細田高広 10年07月17日放送


イングマール・ベルイマン 映画監督

イーストウッド、80歳。
ウディ・アレン、74歳。

創造的な仕事は若い人の方が向いている。
そんな一般論も映画監督たちには
まるで当てはまらない。

スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマン。
彼もまた、重ねた年齢すら映画の燃料にする男だった。

70歳を越えて一度映画からは引退。
だが80歳半ばにカムバックして
再びメガホンを取った。

 老年は山登りに似ている。
登れば登るほど息切れするが、
 視野はますます広くなる。
 
彼の言葉を聞くと、
歳を重なるのがちょっと楽しみになる。


ケリー・ノーブル 歌手

独身女性が「負け犬」と呼ばれ、「婚活」を迫られる。
自由なはずの恋愛は、いつから
義務になってしまったのでしょう。

「負け犬」と揶揄された女性から、
圧倒的な支持を集めたアメリカのシンガー、
ケリー・ノーブル。

どうして、彼女の歌うラブ・ソングが海を越えて
日本女性の胸に響いたのか。
彼女のインタビューを聞いて、
少しだけ分かった気がします。

 負け犬?
彼女たちは負けたわけではないわ。
“間違った結婚”をしていないだけ。

ケリーが歌っているのは、
ラブ・ソングのフリをした、
女性「応援歌」だったのです。


ドリー・パートン 歌手

40年もの間、カントリー音楽界のトップに
君臨しているドリー・パートン。

ショービズの世界で成功を収めた彼女にも、
初めから華麗な衣装が
用意されていたわけではない。

幼少期の暮らしは貧しく、
ボロボロの布袋を縫い合せて作った
服を着ていた。

彼女は言う。

私の見方からすると、
虹が欲しけりゃ、
雨は我慢しなきゃいけない。

その晴れやかな歌声は、
長い雨に耐えて
手にしたものなのだ。


エルンスト・ルビッチ 映画監督

映画監督エルンスト・ルビッチは、
アメリカ人に恋を教えた男。

男女の複雑な心境を、
視線や小物で表現する彼の手法は、
“ルビッチ・タッチ”と名がついた。

だが彼の本領は、手法だけではない。
男と女への鋭い洞察こそ、
ルビッチの持ち味だ。

例えば、こういうセリフ。

 男は2人以上の女性を同時に愛し、
 消去法で1人に絞る。合理的ね。

何人の男女が、
スクリーンの前で冷や汗をかいたことか。
その伝統は今でも「ラブコメ」という
ジャンルに受け継がれている。

恋愛学の講義は、教室より、映画館がふさわしい。


イングリッド・バーグマン

女優イングリッド・バーグマン。
映画「カサブランカ」で脚光を浴びると、
「ガス灯」でアカデミー主演女優賞を獲得。

だが、そのキャリアの絶頂期に、
仕事も家庭も捨てイタリアへと発つ。
巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督の作品に心酔した、
というのが理由だった。
世論からは激しく非難され、ハリウッドから追放された。

だが、数年後。
バーグマンはケロッとアメリカに戻ると、
再びアカデミー賞に輝く。
その表情は、追放劇なんてなかったかのように
晴れ晴れとしていた。

バーグマンは言う。

幸せとは、健康で記憶力が悪いことよ。


ジュディ・ガーランド

映画「オズの魔法使い」のドロシー役で
スターになったジュディ・ガーランド。

その朗らかな歌や演技と裏腹に、
子役の頃から、
睡眠薬に頼る生活を送っていた。

大作に出演し有名になる一方、
過密スケジュールと薬物依存に悩まされ、
離婚と自殺未遂を繰り返した。

私は千の人々の喝采より、
愛する人からの一言、二言が欲しい。

映画スターに憧れる、
私たち普通の人に
映画スターは憧れたりする。


レイ・チャールズ

レイ・チャールズの「What’d I Say」(ホワッド・アイ・セイ )。
「ローリング・ストーン」誌が選ぶ、
もっとも重要な500曲の10位にランクされている。

この曲で印象的なのが、エレクトリック・ピアノだ。
当時ポピュラーソング界では
ほとんど使われていなかったこの楽器に、
レイ・チャールズは真っ先に飛びついた。
周りのミュージシャンたちは
「小っちゃいピアノを買った」とバカにしたらしい。

だが彼は、その小さなピアノを
効果的に使う方法を探り、「What’d I Say」をつくった。

  君たちは目が開いているのに、何も見えないんだな。

そう言いながら陽気に歌う
レイ・チャールズ。
その姿は、目を閉じていても見えてくる。

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細田高広 10年05月15日放送


つくる人の言葉1 ル・コルビュジェ

高層ビルが乱立した、1930年代のニューヨーク。
その風景は「空を切り裂くもの」
という意味でSkyscraperと名付けられた。
日本語でいう、摩天楼。

当時、高層ビル群を見た誰もが
「高すぎる」と口にした。
だが、ただひとり建築家ル・コルビュジェだけは
真逆のことを思っていた。

摩天楼は、小さすぎる。

空だけでなく、地上を観察したコルビュジェは
ビルの下に広がる交通渋滞や、
スラム街を見逃せなかった。

摩天楼をもっと高くすれば、
住む空間が広がり、公園ができ、
交通網が整理できる。そう考えたのだ。

彼の志と比べれば、たしかに摩天楼は小さすぎる。


着つくる人の言葉2.フランク・ミュラー

挑戦するのに、年齢なんて関係ない。


そう口にする人は多いけれど。
スイスの時計師フランク・ミュラーほど
説得力をもって語れる男を知らない。

彼は言う。

 挑戦するのに、年齢なんて関係ない。

 だいたい時間なんて、

 人間が勝手に作ったもの。

 私は時計師だからよくわかる。

時間を忘れよう。年齢を忘れよう。
ぜんぶ、人がでっちあげたものだから。

「高齢社会」なんていう呼び名が、
日本の元気を奪っているのかもしれない。


つくる人の言葉3  イサム・ノグチ

日米のハーフとして生まれた
イサム・ノグチは長く悩んでいた。
100%のアメリカ人ではない。
100%の日本人でもない。
自分が不完全な存在に思えてならない。

だからイサム・ノグチは、
国籍も国境も関係ない「芸術」の世界に
居場所を見つけようとした。
彼は自らの彫刻作品について、こう語っている。

 もし、誰かが文句を
 いったらこう言ってください。
 完璧なものは面白みに欠ける。

その言葉は、「自分自身」にも
向けられているようだ。


つくる人の言葉4 ヴィダル・サスーン

ヘアデザイナーという職業を確立し、
美容界を席巻したヴィダル・サスーン。
彼の人生も、初めから華やいでいたわけではない。

5歳の時に父が家を出て、一家は困窮する。
シャンプーボーイとして働き始めたとき、
ヴィダルはまだ14歳だった。

そんなヴィダルは、26歳で自分の店を持ち、
洗ったままで髪型が整う技術を発明。
さらにミニスカートの流行とともに
彼がデザインしたショートボブが世界的にブレイク。
いつしか女優やセレブから大評判になった。

人生年表だけ見ると、
あっと言う間に成功を収めたかのよう。

だが、ヴィダルは言う。

 「成功」が「努力」の前に来るのは、辞書だけさ。

さすがは美の専門家。
汗と努力の人生だって、
見とれるほど美しく見せてしまう。


つくる人の言葉5  ルイス・バラガン

建築界のノーベル賞と呼ばれるプリッカー賞。
その授賞式でルイス・バラガンは言った。

 建築家の使命は、
 静けさに満ちた住まいをつくることなのです。
 静けさは、苦悩や怖れを真の意味で癒します。

悩みや孤独は、
きっと誰もが抱えているもの。
解決できるのは、結局、自分ひとりしかいない。
だから、バラガンは悩みと向き合える
「静寂」を設計した。

東京で今、
設計されるべきものは
静けさなのかもしれない。


つくる人の言葉6  東孝光(あずま たかみつ)

建築家の仕事を思うとき、
いつも考えることがある。

地球の上にびっしり建築が並ぶ今、
新しい建築なんて
生み出せるのだろうか、と。

建築家、東孝光の言葉は
そんな問いは無意味だ
と教えてくれる。

 美しい空間は、人々の夢のなかに、
 いつでも存在する。
 建築家は、それを引き出し、見せてあげればよいのだ。

新しい建築の図面は、住む人の頭の中にある。


着つくる人の言葉7  ジミー大西

99%の努力。1%のひらめき。
エジソンが残した発明のレシピだ。

新しいアイデアを見つけたいなら、
ひたすら努力せよ。
エジソンは何て酷なことを言うのだろう。

しかし。お笑い芸人から
画家になったジミー大西は
この有名な言葉に新しい解釈をくれた。

 あれは誰かが英訳間違えてるんとちゃいますか?
 僕は99%の遊び心で1%のひらめきやと思いますよ。
 誰が99%も努力します? しませんよ。
 僕は楽しんだ思いますよ。

確かに。好きなものに夢中になるとき、
「努力している」なんて思わない。

大好きなものがある人は皆、
天才になるチャンスを持っている。

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細田高広 10年03月07日放送



マティス


 私が緑でえがくとき、
 それは草を意味しない。
 青く塗っても、
 空を意味するとは限らない。

色彩の魔術師と呼ばれた、
アンリ=マティス。

見える色を使わず、
見たい色を使った彼の絵画は、
まぶしいほどに鮮やかだ。

マティスの作品を見た医者は
本気で忠告したという。


 サングラスをかけた方がいい。

マティスの絵画に対する、
最高の批評だと思う。



ハンター・S・トンプソン

ジャーナリストは、客観的に語るべし。

ハンター・トンプソンは、
そんな常識をひっくり返した男。

犯罪集団への取材では、
1年にわたって共に行動。
犯罪にも加担し、
最後はボコボコに殴られて逃げ出してくる。

取材というより実体験をもとに書いた記事は、
主観と脚色だらけ。まるで小説だ。

だが、彼は言う。


 小説が、フィクションより真実を語ることがある。

当事者だけが分かる感情。
当事者だけが知る空気。

この世界には、「事実」だけ並べても伝えられない、
「真実」がある。



ミシェル・プラティニ

黒人はフランスで
サッカーをするな。

移民のサッカー選手が
活躍し始めたとき、
フランス国内で上がった声だ。

それを、ある選手の一言が黙らせる。


 サッカーに人種はない。
 下手な白人ほど黒人を差別する。

フランスのスター選手だった、
ミシェル・プラティニ。

彼が引退して、約10年後の1998年。
フランス代表はワールドカップで
初優勝を飾る。

喜び抱き合う選手たちの肌の色は、
実に多様だった。

アフリカ大陸初の
ワールドカップまで、
あと3ヶ月。

チームの絆が、
人種の壁を越える。
もうひとつの闘いに注目したい。



クインシー・ジョーンズ

スリラー。愛のコリーダ。
クインシー・ジョーンズの手がけた音楽は、
聴けばたちまち耳に残る。
だが、いつまでも飽きさせない。

曲づくりの秘訣について、彼は言う。


 女性と同じで、2、3日暮らしてみれば分かるんだ。

1日中聞いたとしても、
翌朝起きて聴きたくなれるかどうか。
もしダメなら、その曲とはきっぱり
別れるのだそうだ。

私生活では3度結婚し、
7人の子どもがいる、恋多き男。

クインシーの音楽の先生は、
恋愛だったのだ。



渋沢栄一

日本における資本主義の父、
渋沢栄一は言った。


 機械が運転しているとカスがたまるように、
 人間もよく働いていればカネがたまる。

人の役に立っていれば、お金はついてくる。
そう考えていた渋沢は、
500以上の会社を設立しながら、
多くの社会活動にも関わる。

日本赤十字社を設立し、
養育院の院長を務め、
関東大震災の際には復興の指揮をとった。

その生き方を見ると、気付かされる。
ビジネスと社会貢献はそもそも同じ意味。
人に役立つためのこと。

企業の「社会貢献活動」、
なんてわざわざ表明する風潮は、
どこかおかしいかもしれない。



ムンク

絵画「叫び」で有名な、ムンク。
彼は女性運が悪かった。

最後の彼女には
「結婚しなければ自殺してやる」
と銃を片手に脅される。
もみ合いの末、大切な指を一本失った。


 愛を炎に喩えるのは、正しい。
 炎と同じで
 山ほどの灰を残すだけだから。

恋愛に懲りたムンクは、事件以降、
女を「恐怖」や「死」のモチーフに選び
何枚もの絵画を描く。

ムンクの恋の燃えカスは、
灰なんかじゃない。
芸術だったのだ。



ジミ・ヘンドリクス

天才ギタリスト、
ジミ・ヘンドリクス。

もっと速く弾ける人も、
もっと正確に弾ける人もたくさんいる。
この場合の「天才」とは、
技術のことじゃない。


 ブルースは簡単に弾ける。だが、感じるのは難しい。

ジミヘンだけが感じていた
100%のブルース。
100%のグルーブ。

最先端の技術と機材を揃えた今でも、
未だ人類は追いつけない。

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細田高広  10年01月17日放送

ルソー

コーヒーに魅せられて ジャン=ジャック・ルソー

哲学者ジャン=ジャック・ルソーは、大の珈琲好きだった。

珈琲を切らしたときは窓を開けて
ご近所の家が珈琲豆を煎る香りを楽しんだという。

そんなルソーが、死ぬ間際に残した言葉。


 あぁ、これで珈琲カップを手にすることができなくなった。

珈琲との別れ。それは一番大切な、
考える時間との別れを意味していた。

珈琲は、人間の思考を助ける「思考品」なのだ。

服部良一

コーヒーに魅せられて 服部良一

大のビール党だった作曲家服部良一は、
ある日、大好きなビールを題材に曲をつくることを思い立つ。
タイトルは、「一杯のビールから」。

しかし、できあがった歌詞を手にして、服部は驚いた。
「一杯のコーヒーから」に、変わっていたからだ。
これは、作詞家の藤浦洸が、
ビールを飲まないコーヒー党だったことによる。

昭和14年。日本でコーヒーが曲のタイトルになった、
最初の事例と言われている。


 一杯のコーヒーから、小鳥さえずる春も来る。

さぁ、熱いコーヒーを入れて、春を待ちましょう。

T.S エリオット

コーヒーに魅せられて  T.S エリオット


 わたしは、私の人生を、コーヒースプーンで測ってきた。

人の孤独を描きたかった詩人エリオットは、
単調で鬱屈した日々を、コーヒー豆を掬う動作の繰り返しに喩えた。
ひとりで飲み続けるコーヒーは、
ただ、苦いだけのものかもしれない。

「かもめ食堂」という映画は、私たちに
コーヒーを美味しく飲む秘訣をアドバイスしてくれる。


 コーヒーは、他人に入れてもらった方が美味しいんだ

大切な人にコーヒーをいれてもらう幸福を知っていたら。
コーヒーを愛することが、
人と過ごす時間を愛することだと知っている人なら。
コーヒーは「孤独」の喩えにはなりえない。

コーヒースプーンで測る人生は、幸せだと思う。

ジェームス・マッキントッシュ

コーヒーに魅せられて ジェームス・マッキントッシュ

今日、1月17日はセンター試験。
受験の本番がいよいよ始まりました。

眠い目をこすりながら勉強中の受験生のみなさんに、
『名誉革命史』を書いた
イギリスの下院議員、ジェームス・マッキントッシュ
の言葉を送りたいと思います。


 人間の意思の力は、
 その人が飲んだコーヒーの量に比例する。

努力とコーヒーは、きっと皆さんを裏切りません。

ジム・ラヴェル

珈琲に魅せられて ジム・ラヴェル アポロ13号船長

「ヒューストン、問題が発生した。」

ジム・ラヴェル船長らを乗せたアポロ13号が、
トラブルに気付いたのは、
地球からおよそ321,860km離れた地点。
酸素タンクが突如、破裂したのだ。

少しでも電力を節約するために電気は切られ、
船内の気温は氷点下近くまで下がった。
恐怖と寒さに襲われた乗組員たちを、なんと言って励ますべきか。
ヒューストンは熱を込めて宇宙の仲間たちに伝えた。


 君たちは今、熱いコーヒーへの道を歩いているのだ。

そのメッセージは、カフェインより強く
疲弊した乗組員たちの目を覚ました。

無事に地球に戻ってから、彼らはきっと珈琲を飲んだのだろう。
宇宙一、美味しい珈琲を。

バルザック

コーヒーに魅せられて  バルザック

死ぬまでアイデアが尽きることが無かったという、
文豪バルザック。
彼の創作活動は、珈琲に支えられていた。

夜中に50杯以上の珈琲を飲んでは、
原稿を書き、推敲を繰り返したというのだ。


 コーヒーが腹中に入ると、即座に活気が出てくる。
 ちょうど戦場における軍隊のように
 いきいきとしたアイデアが生まれ、 
 記憶の中に眠っていたものが、
 つぎからつぎへとその姿をあらわしてくる。

この世界には、
珈琲がなければ生まれなかった
アイデアが、きっと山のようにある。

タレーラン

コーヒーに魅せられて  タレーラン

人は何故、珈琲を、
毎日飲んでも飽きないのだろうか。

皇帝ナポレオンに仕えた外交官、
タレーラン・ぺリゴールは、愛する珈琲をこう表現した。


 悪魔のように黒く、地獄のように熱く、
 天使のように純粋で、恋のように甘い。

悪魔と天使と地獄と恋が束になってかかれば
なるほど、飽きることはない。

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細田高広  09年11月8日放送

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The Rolling Stones 1

だれもが「まさか」と思った。

2004年、ザ・ローリング・ストーンズの
ミック・ジャガーがナイトの称号を与えられたのだ。
使い切れない大金と最高の名誉を手に入れて、
これ以上何を望めるだろう。

しかし、盟友キース・リチャーズは言う。

 幸せな人生とは言えないな。
 99パーセントの人間は憧れるだろうけど、
 あいつはミック・ジャガーであることに、
 満足していないんだ。

勲章で満たせる程度の渇きなら、
46年もストーンズを続けちゃいない。

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The Rolling Stones 2

バンドなんて、気晴らしさ。

イギリスの名門大学で
経済学を学ぶ息子がロックバンドを始めたとき、
両親はその言葉を信じた。
いずれは一流のビジネスマンになる。そう疑わなかった。

しかし彼は、気晴らしのはずだったバンドを
46年経った今も続けている。

ミック・ジャガー。

彼は経済学の知識を活かして
誰よりも早く印税を計算したし、
マネジャーが不穏な動きを見せようものなら、
帳簿を自ら調べ、横領らしきものは徹底的に洗い出した。

彼は、超一流のビジネスマンとなったのだ。
ロックスター、という名の。

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The Rolling Stones3

ローリングストーンズは、
人気よりも悪名が先行していた。
何よりも世間から反発があったのは、その長い髪。
当時、ストーンズを真似たヘアスタイルを理由に、
少年たちが相次いで停学処分になったほどだ。

実際に数多くのトラブルを起こしたストーンズ。
弁護士も、相当、手をやいたのであろう。
法廷で苦し紛れにこんな弁護をした。

 皇帝シーザーは、
 長髪であるにも関わらず、
 数々の功績をあげました。

そんなエピソードひとつひとつも、
さらなるバンドの向かい風になる。

 有名になるのはちっとも構わないんだ。
 でも、法廷ではそれが裏目にでる。

キースリチャーズは、実に悔しそうに言った。

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The Rolling Stones 4

囚人番号7855。

麻薬所持で服役中のキース・リチャーズは
さすがに落ち込んでいた。

ある日、
刑務所内の作業場へと向かう途中で、キースは
ラジオからストーンズの曲が流れてくるのを耳にする。

その瞬間、刑務所中の囚人の口から
建物を揺るがすような歓声が上がった。

絶望は、勇気に変わった。

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The Rolling Stones5

どこで間違って、
あんな薄汚れた奴らが
若者たちのヒーローになったのか。

イギリスを飛び出し、アメリカでも
人気に火のついたローリング・ストーンズを、
良く思わないメディアは多かった。

だいたい、肝心な演奏だって上手いとは
言えたものじゃない。

そんな批判に対して、ミック・ジャガーは言うのだ。

 俺たちは、ノイズを出してるだけだ。
 それを音楽と呼んでくれたら有り難いね。

内面を表現するためなら、楽譜なんて関係ない。
それが、ストーンズの信条。

実際、彼らが汗を流し音を出しさえすれば、
それが上手いか下手かを気にするものなんて、
一人もいなかった。

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The Rolling Stones6

就業時間が待ち遠しい。
ロックンローラーだって、
そう思うときはあるらしい。

 ロックンロールが全てなんて馬鹿げてるよ。
 誰だって仕事が全てだなんて思ってないだろう?

大金とセレブリティの称号を
手に入れたミックジャガーにとって、
音楽はあまりに商売になり過ぎた。

やっつけでこなしたライブやレコードは、
徐々に評価を失っていく。

 ロックンロールに未来はない。

そう語るとき、
ロックンロールとは、
自分のことを意味してた。

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The Rolling Stones 7

1989年、事実上の活動休止期間を終え、
ザ・ローリング・ストーンズが
再び始動し始めたとき、
メンバーは40代の半ばを迎えていた。

ミックはしわだらけになり、
キースは広がった額をバンダナで隠した。
それでも威勢だけは、20代のころのままだった。

ローリングストーンズは
長い長い全盛期を、今も確かに続けている。

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The Rolling Stones 8

「もう若くないから」という言葉を
口にしかけたとき、思い出す顔がある。

ザ・ローリング・ストーンズだ。

 俺たちは、間違った考えと闘ってるんだ。
 ロックンロールは、若造のやるものだと
 みんな思ってやがる。

彼にとって歳を重ねることは、失うことではない。
むしろ、全てを手にすることのよう。

長生きの秘訣は何ですか?
という記者の質問には、

 ストーンズのメンバーになることさ。

と答えて笑うキース・リチャーズ。

なるほど。
ヤンチャな顔は20代の頃と全く変わらない。

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細田高広  09年10月4日放送

斉藤茂吉


斉藤茂吉と鰻

歌人斉藤茂吉の好物は、うなぎだった。

皆でうなぎを食べる時、
弟子たちは気をつかって、
いちばん大きなものを茂吉の前に置く。

茂吉は真剣な眼差しで鰻の大小を比べ、
「そっちの方が大きい」とダダをこねては
何度も交換した。

鰻はあちこち移動し、結局、最初の並びに戻ったという。

 ゆふぐれし机のまへにひとり居りて、鰻を食ふは楽しかりけり。

食欲の秋は、創作の季節でもある。

梅田晴夫


梅田晴夫 料理と浮気

今、結婚する3組に1組が
離婚に至るという。

結婚の難しい時代と言われるが、
結婚を続けるのはさらに難しいようだ。

生涯に6度の結婚を経験した劇作家、梅田晴夫。
彼は離婚のプロとして、
夫婦円満の秘訣をこう説いている。

 料理のうまい女の亭主は、生涯浮気をしない。

毎日のご馳走が食べられなくなる。
そんなリスクを犯してまで、
他の女に手を出す男はいない。

なんでも美味しく感じる食欲の秋は、
夫婦円満の季節かもしれない。

コレット


コレット 料理は魔法

産地や、調理法や、歴史や。
薀蓄を知り、薀蓄を語り合うことで、
料理は一層味わい深いものになる。
私たちは料理を食べながら、知識を食べている。

その半面、度を過ぎた知ったかぶりや
知識のひけらかしには辟易してしまうもの。

もし、そんな人とレストランで
同席することになったとしたら。

グルメで知られるフランスの女流作家コレットは、
こう言ってたしなめる。

 魔法が使えないのなら、
 料理に余計な口を出すには及びませんよ。

料理は、ひとつの魔法だから。
客は黙って術にかけられればいいのだ。

料理を美味しくする秋。
魔法の季節の、到来です。

幸田露伴


幸田露伴とファストフード

幸田露伴は、生粋の食いしん坊だ。

人に会えば、挨拶代わりに
「なにかうまいものに出くわしたかね」
と聞いた。

牛タンの塩茹でを愛する美食家でありながら、
合理的な面も持っていた露伴は、
明治時代にあって、こんなことを書いている。

 清潔で、迅速で、上品で、少しの虚飾も無く
 単に食事を要領よく出す。
 こういう店を多くつくればいい。

まさに、現代のファストフードの予言である。

05-shimada


島崎藤村

しなびたりんご。
冷たくなった焼き味噌。
寂しい時雨の音を聞きながら飲む酒。

島崎藤村は、料理をまずそうに書く天才だった。

名をなして多額の印税を手に入れ、
ご馳走を食べていた彼が、何故、
まずそうなものをたくさん書いたのか。

料理の味は「いつ、どういう状況で食べるか」
に大きく左右される。
祝いの席で飲む酒はうまいが、
別れの席で飲む酒はわびしい。

藤村は、あえてまずい食を書くことで、
人の孤独や寂しさを書こうとした。

どんなご馳走だって、
ひとり思い悩んで食べたら、美味しくないもの。

さて、食欲の秋。
あなたは、誰と食べたいですか。

北大路魯山人


北大路魯山人と食器

プラスチックのパックをお皿代わりに
お惣菜や、サラダを食べる。
日本の家庭では、もう驚かない風景になりました。

 食器は料理の着物である。

と言ったのは北大路魯山人。
料理の風情を美しくあれと祈る。
それは、美人に良い衣装を着せてみたい心と同じだ、
と魯山人は説きます。

食器と料理を鑑賞するなんて、
他の国には、あまり見られない
食の楽しみ方だから。

たまには食器にも少しこだわって、
見た目から味わってみませんか。

食欲の秋も、芸術の秋も、一皿に。

タレーラン


タレーランの外交術

外交の天才、タレーラン。

40年にわたってフランス外交の中心に君臨した彼は、
今でも
「交渉の場で卓越した存在」
の代名詞になっているという。

そのタレーランが、
外交の秘訣についてこう語っている。

 外交官にとっての最高の助手とは、
 間違いなく彼の料理人である。

食欲の秋は、ビジネスチャンスだ。

サヴァラン


サヴァラン 美味礼賛

19世紀のはじめ、
料理を学問として研究した美食家、ブリア=サヴァラン。

 新しい星を発見するより、
 新しい料理を発見する方が幸せになれる。

そう信じて来る日も、来る日も、
食を考えているうちに、彼はふと気が付いた。

自分が、人間を研究しているということに。

著書、「美味礼賛」の冒頭で彼はこう言っている。

 ふだん何を食べているのか教えてごらん、
 どんな人だか当ててみせよう。

欲張りな人。品のいい人。
見栄っ張りな人。真面目な人。面倒くさがりな人。
食事には、その人の人となりが出てしまう。

食欲の秋。

鏡より、お皿を覗く方が、自分は見える。

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番組制作奮闘記-2 (番宣)


外灯に集まる虫たちのように(細田高広)

冷気と明かりに誘われて、
深夜のコンビニには
人が吸い込まれるように集まってきます。

仕事帰りの人も。出勤前の人も。
高給取りも。フリーターも。
おじいちゃんも。少年も。
芸能人や、社長さんだって。

普段、交差するはずの無い人も、
コンビにではすれ違う。

無表情の仮面の下に、
どんな感情を隠しているのか。

もし、心の声が聞こえる特殊能力に
目覚めたとしたら、
コンビニは是非行ってみたい場所ではないか。

そんな妄想話から、ラジオ番組の企画が生まれました。

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J-WAVE25 CVS MIDNIGHT 〜熱帯夜の物語〜

8月16日 25時~26時 

ナレーター
大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/
地曳豪 http://www.gojibiki.jp/index.html
三坂知絵子 http://www.studio-2-neo.com/

スタッフ
原案 古田彰一
構成・演出 森田仁人 厚焼玉子
スクリプト 細田高広 八木田杏子
AD 吉田 香(J-WAVE)
CP 久保野永靖(J-WAVE)

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どうぞ、眠りながら聞いてください。

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海のむこう、広告のむこう。~細田高広 後篇

エスプレッソとユンケルに染まる激闘の行く末は。
細田さん、後篇です。

~~~~~

だいぶ時間を空けてしまいましたが、ヤング・ライオン参戦記の続きです。

【2日目】
ヤングライオンブースと呼ばれる場所に行くと、
大きな部屋がパーティションで区切られていました。
日本の国旗のついた一角を発見して、いよいよ作業開始。
朝9時から、20時まで粘ります。

【3日目】
昨晩からプレゼンの練習と、質疑応答の想定問答を
繰り返しているので、ぜんぜん寝られていません。
プレゼン前の緊張で、朝ごはんが食べられてません。
ふらふらになりながら、プレゼン会場の前で待つこと10分。

目の前のドアが開き、日本チームが呼ばれました。
審査員は、クライアントと世界のエージェンシーの偉い人たち(確か5人)。

さぁプレゼンです。

ここで、お題の復習
クライアントは、WFP(国連世界食料計画)。
途上国の小学校に給食を送る活動を行っている団体です。
ターゲットは、先進国の子どもたち。

普通に「寄付しよう」なんて言っても子供たちは振り向くわけない。
だから僕たちは、先進国の子どもたちの関心がある
テーマと繋げる必要があると思いました。

で、浮かんできたのが先進国の子どもたちの「肥満」の問題。
先進国の肥満と、途上国の餓餓を結びつけられないか。
コンセプトは、「FLAT THE WORLD WEIGHT」(世界の体重を平準化せよ)。
こどもたちが痩せた分だけWFPに寄付されるという、
寄付の仕組みをつくりました。(詳細は割愛。)
キャンペーンは、太っちょたちが世界の子どもを救う
ヒーローストーリー仕立てです。

プレゼン中、コンセプトの部分に関しては、ものすごくいい反応でした。
「ほうほうほう」と身を乗り出して聞いてくれているのが分かりました。
一方で、終盤になるにつれて、審査員がちょっと難しい顔になったのにも気が付きます。

プレゼン後の質疑応答。

審査員A 「いいアイデアだと思う。ただ一点気になるんだ。 
この企画は、WFPという国連団体のトーン&マナーにあっているかな?」
僕 「今までのトンマナは真面目過て、子どもたちに興味をもたれないと思ったんです」
審査員A 「うーん・・・」
審査員B 「太っちょたちは、気分を悪くしないかい?」
僕 「いえ、むしろ彼らを勇気付ける活動にしたいと思います」

そして、その日の夕方に結果が発表され、見事「敗戦」が決まるのです。
グランプリはオーストラリアチームの「Abolish the penny」(ペニーをなくせ)。
世界の各国の最小単位のコインを絶滅させよう、というキャンペーンです。

明日すぐにできる実現性、コストパフォーマンス、提案性、
などが総合的に高評価だった模様。

ショックでした。
求められていたことは普段の仕事と変わらないというのに、
「カンヌだから」「コンペだから」と、プレゼン映えする大きなアイデアばかり
追いかけていたことに気付かされます。あぁ、僕らはなんと浮き足だっていたのでしょう

批評の対象としての「広告」ではなく、ビジネスツールとしての「広告」を評価する。
そんなカンヌ全体の流れが、ヤング部門にも押し寄せていたとも言えるかもしれません。

あれから一月たちますが、未だに思い出すと胸がヅキッと痛みます。
高校3年生の夏、剣道部の引退試合以来です。こんな気持ち。

あ、さらっと書くつもりが、
随分ダラダラと長くなってしまいました!
以上で、ヤングカンヌ参戦記、終わりです。

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