古田組・細田高広

海のむこう、広告のむこう。 〜 細田高広篇

もう本当にカンヌって何だっけ、
かもしれませんね。

こうなったら来年のカンヌまでやって
リアルタイムのフリをしたいです。

今回は少し趣向を変えまして。

前回、ホテルでばったり出くわした
ヤングカンヌ代表の古田組・細田さん。
日本代表。
ジャパン。
そんな貴重な話を聞かないなんて。
ということで、
その激戦の模様をつづっていただきました。
どうぞ、お楽しみください。

〜・〜・〜

カンヌのホテルで小山さんに出くわしたとき、
僕が「うわっ。何でここに!」と大げさに驚いてるのに、
小山さんたら「あ、ども。」と軽く会釈するだけ。
まるで渋谷あたりですれ違ったかのよう。
あまりの自然さに「まだ夢でも見てるのかな」と混乱したほどです。

それにしても、あのときの僕の姿と言ったら。
寝癖そのままの爆発ヘアーに、ださいパジャマ、
ひしゃげたメガネに、むくんだ顔。
あぁ、お恥ずかしい。

でも無理もないのです。
あの時は、コンペに負けた悔しさで
およそ1日半「ふて寝」した直後だったのですから。

そう。今回僕はカンヌでヤング・ライオンという若手(28歳以下)の
コンペに参加していました。
ヤング・ライオンにはフィルム、プレス、サイバー、メディアの
4部門があり、僕が出場したのはメディア部門。
雑誌とか、テレビCMとか、屋外広告とか、ウェブとか
メディアを自由に組み合わせてひとつのキャンペーンを提案します。

スケジュールは以下の通り。3日間にわたります。

1日目 16:00 オリエン(課題発表)
2日目 08:00−20:00 (制作作業)
3日目 プレゼン 各チーム5分 スライド10枚

今年のクライアントは、WFP(国連世界食料計画)。
世界の発展途上国の小学校に給食を送る活動を行っている団体です。
お題は、「先進国の子どもたちに活動の意義を伝え、自分ごと化させ、
寄付をさせるためのコミュニケーションを考えよ」というもの。
想定予算はおよそ5000万円。

25カ国の代表が一部屋に集まって話を聞くのですが、
みんな28歳以下に全然見えません。
「あの男強そう」とか「ケンカしたら負けるよね」とか
もうひとりのパートナーと、意味も無くブルブル怯えていました。

オリエンが終わると、皆、一斉に作戦会議を始めます。
会場の中で考えると煮詰まりそうだったので、
僕たちは会場側のカフェに移動し、とりあえず
お互いのアイデアを練ることにしました。

カンヌの心地よい風が眠気を誘います。
なんと仕事に向かない幸福な気候なのでしょう。
それをエスプレッソと日本から持ってきた
粉末ユンケルでやっつけながら、およそ2時間後。
2人のアイデアを元に議論開始。
徐々に日が落ち始めた頃、ようやく提案の筋が見え始めます。

僕はコンセプトやメッセージやらを詰め、
パートナーはキャンペーン展開をするメディアを考え、
再び持ち寄って・・・と繰り返しているうちに
あっという間に夜が明けました。

さぁ、2日目はいよいよ制作作業です。

皆さんなら、どんなキャンペーンを考えますか?

【つづく】

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細田高広  09年7月12日放送

Cafe_de_Flore


カフェ・ド・フロールに集う人々① アポリネール

1911年のある日。
詩人のアポリネールは、パリのさびれたカフェに立ち寄った。
彼は安心して席が確保できることを気に入り、
カフェを自らの職場にしてしまう。

以来、食事の時間ともなると、
仕事仲間や友人をカフェに呼びよせては、
様々な議論を楽しんだ。

やがて集まってきたのは
ピカソ、キリコ、ダリ、アンドレ・ブルトン。
お酒と食事と議論を原料にして、
キュビズムやシュルレアリスムなどの
芸術運動は生まれた。

カフェ・ド・フロール、
アポリネールの見つけたさびれたカフェは、
一気に文化の中心地となった。

andre_breton


カフェ・ド・フロールに集う人々② アンドレ・ブルトン

1924年。詩人アンドレ・ブルトンは、
カフェ・ド・フロールに集う仲間達とシュル・レアリスム宣言を発表。
言葉の力で芸術運動を主導した。

ある日、街なかで浮浪者を見かけたブルトン。
「私は目が見えません」と書かれた紙を持っているが、
通行人は寄りつきもしない。
見かねたブルトンは、彼に近寄、あることをする。
するとどうだろう。すれ違う人々が次々とお金を恵み出したのだ。

実は彼、紙の言葉をこう書き換えていた。

春がもうすぐやってきます。僕には、何も見えないけれど。

言葉は、ときに魔法に変わる。

seine


カフェ・ド・フロールに集う人々③ ジュリエット・グレコ

シャンソンの定番、「枯葉」。
この曲を出世作としてスターになった
ジュリエット・グリコ。

その彼女と恋に落ちたのが、
JAZZの帝王マイルス・テイビス。
1949年二人は手を取り合ってセーヌ湖畔を歩き、
カフェ・ド・フロールでは
サルトルやボーヴォワールとも語り合ったという。
しかし、女神と帝王の恋は、二週間しか続かなかった。

帰国後、マイルスは「枯葉」をジャズで演奏する。
その演奏がきっかけで、「枯葉」はジャズの定番にのし上がったのだ。

あのとき、演奏するマイルスの脳裏では、
グレコが歌っていたに違いない。

Jean_Cocteau


カフェ・ド・フロールに集う人々④ ジャン・コクトー

パリにあるカフェ・ド・フロールの常連で
ピカソとも仲の良かったジャン・コクトー。
彼は20の顔を持つ芸術家と呼ばれた。

詩人として脚光を浴びたかと思えば、
絵を描き、小説を書き、オペラの台本を手がけ、
果ては映画にまで進出した。

ひとつの仕事が終わると、私は逃げ出す。
経験や習慣なんて、まっぴらだ。

何かに慣れることは、自分を硬直化させることだから。
昨日と同じ自分を、コクトーは許せなかった。

私は、いつでも未熟でいたい。

そう。経験に頼ってばかりでは、僕たちは変われない。

gogh


カフェ・ド・フロールに集う人々⑤ カール・ラガーフェルド

パリコレの時期、夜中のカフェ・ド・フロールは
デザイナーたちの溜まり場になる。
カール・ラガーフェルドも、そこに顔を出すひとり。

フェンディ、シャネル、クロエなど
トップブランドのデザイナーをつとめながら
自身のブランドまで展開する男。

そんな彼が2000年に
100キロを越えていた体重を、
いっきょ42キロ減らして周囲を驚かせた。

なぜ、急にダイエットをしたのか。
理由は極めて単純だ。

かっこいい細身のスーツを、着たかったから。

彼は言う。

ファッションとは、いちばん健康的に
体重を落とせるモチベーションである。

Georges_Seurat


カフェ・ド・フロールに集う人々⑥ 山下哲也

曲芸師のように大胆にトレイを操る。

パリで1850年代に開業したカフェ・ド・フロール。
そこで働くギャルソンを評した、哲学者サルトルの言葉だ。

そのカフェで、今、日本人がひとり働いている。
名を、山下哲也という。

生粋のフランスしか雇ったことのないお店だ。
「なぜ日本人がいるのか」と言われることもある。

日本でカフェを開けば簡単なのに。
と言うと、山下は流暢なフランス語で応える。

「それじゃ、簡単すぎる。」

なるほど、彼は根っからの曲芸師なのだ。

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細田高広 09年6月28日放送

1.5

クリント・イーストウッド

若きクリント・イーストウッドに、
銃より口を多く使う、
おしゃべりなガンマンの
役がまわってきた。

脚本を読んだ彼は、
ガンマンが語り過ぎることに
どうも納得がいかず。
すぐさま監督に詰めよった。

見る側に考えさせるのが、A級映画。
すべて説明してしまうのは、B級だ。
観客を、みくびってはいけない。

そう言うと彼は自ら、
10ページ分のセリフを、
わずか1行に書き換えた。

マカロニウェスタンの名作、『荒野の用心棒』。
無口なガンマンは、こうして誕生した。





2

ジョン・ケージ A

作曲家ジョン・ケージ。
彼の代表作を、聞いてみよう。

何も聞えない?
いや。
あなたは確かに聞いている。

1940年代の末。
『無音』を聞くべくハーバード大学の
『無響室』へ入ったジョンは、そこでもなお、
血液や神経の音が聞えたことに驚く。

風が、心臓が、空調が、
全てが音を持つこの世界で、
完全な無音などありえない。

そう気付いた彼は「4分33秒」を作曲した。
沈黙でできた4分33秒の音楽。

さぁ、もう一度少し聞いてみよう。

あなたには、何が、聞こえましたか?

2.5

ジョン・ケージ B

その音楽は、
2001年9月5日ドイツで始まった。

無音パートが1年半続き、
2003年には最初のコードが鳴らされた。
2006年にコード変わり、
2008年に6番目の音が鳴り、
その音楽は、まだ続いているどころか
2639年まで終わらない。

600年以上かかる音楽を、
馬鹿馬鹿しく思うとき。

同時に、
分刻みで動く一日も同じくらい
馬鹿馬鹿しく思えてくる。

おそらくそれが、
作曲者ジョン・ケージの狙いなのだ。

“AS SLOW AS POSSIBLE”

その曲は、今日も、のんびり、続いている。

3

ジャンヌ・モロー

女優、ジャンヌ・モロー。

映画「突然炎のごとく」で
自由奔放な主人公を演じた彼女は
美しいだけではない
新しい女性像を表現した、と絶賛される。

公開後「主人公は私そのものです」
という内容の手紙が、
世界中から届いたほど。

そんな彼女が、
理想の男性像について、
こう語っている。

名声も知性もお金もみんな私がもっている。
だから男は美しいだけでいい。

現実の彼女は、
スクリーンの中より、革新的だった。


4

スパイク・ジョーンズ

ブランド会社の経営者。
TV番組のプロデューサー。
映像作家。俳優。
そして、映画監督。

これらの肩書きは、全て一人の男、
スパイク・ジョーンズのものである。

ジャンルの壁を軽々飛び越え
次々と新しい驚きを世に「発信」する彼。

その頭の中には、どれだけ緻密で戦略的な
思考回路が巡っているのだろう。

俳優マルコヴィッチは、こう証言する。

スパイクには、語彙が数えるほどしかない。
「それはいい!」「驚いた!」「クレイジーだね!」。
ほんと、なんでも面白がるんだ。

誰よりも発信する男は、
誰よりも受信する男でもあった。


5

セルジュ・ゲンスブール 

人生の成功は、どう定義すれば良いだろう。

セルジュ・ゲンスブールは、
自らのルックスにコンプレックスを抱えた、
実に気弱な男だった。

コンプレックスを燃料に、
曲を書き、歌をうたい、映画を撮り、
ポップスターになった。

気弱な自分を偽るように
テレビの前でお札を燃やし、
挑発的な態度をとることで、
若者たちの尊敬を勝ち取った。

だが結局、コンプレックスは、
最後まで拭えなかった。
そんな生き様を、彼は自らこう評している。

全てにおいて成功したが、人生には失敗した。

6

パブロ・ピカソ

本当の怒りとは、案外、静かなものだ。

1940年、
ドイツ軍がパリを占領した際、
多くのアトリエが、
ナチスの検閲を受けることになった。
農民などを描いた具象画以外は、
すべてが、退廃芸術と見なされたのだ。

とあるアトリエで。
ナチスの検閲官が、泣き叫ぶ女性や狂った馬の
描かれた壁画の写真を見つけた。

「これを描いたのはあなたですか?」
検閲官がアトリエにいた男に尋ねると、
男は静かに答えた。

いや、違う。きみたちだ。

男の名は、パブロ・ピカソ。
壁画のタイトルは、『ゲルニカ』といった。


7

ブライアン・イーノ 3.25秒の音楽

デビッドボウイやU2
のプロデューサーにして環境音楽の創始者、
ブライアン・イーノ。
彼の元に、ある日一風変わった作曲依頼が舞い込む。

人を鼓舞し、世界中の人に愛され、
明るく斬新で、感情を揺さぶられ、
情熱をかきたてられるような曲。
ただし、長さは3秒コンマ25

アイデアに悩むスランプ期にあったブライアンは、
「待ち望んでいた難題だ!」と快諾。

やがて生まれた音楽とは、

そう、あのWINDOWS 95の起動音。

パソコン時代を告げるファンファーレとして。
世界のデスクで奏でられた。

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細田高広 09年5月23日放送

41

オードリー・ヘプバーン

「美人をつくるアイメイク」
「愛されるリップのつくり方」

女性誌には、今日も
新しい美人のつくり方が並ぶけれど。
そのうちいくつが、一年後、残っていることだろう。

ひとつだけ。
時を越えて真実であり続けるだろう、
と思える言葉がある。
オードリー・ヘプバーン、
彼女が語った美しくなるための秘訣。

美しい唇のためには、美しい言葉を話せばいい。
美しい瞳のためには、他人の美点を探せばいい。

そう。

美しい人は、生き方が、美しい。






5

エイブラハム・リンカーン

1860年。大統領選まっただ中のアメリカ。
ひとりの候補者に、ある日、手紙が届く。

「あご髭を生やせば、立派に見えるから、当選できるわ。」

送り主は、わずか11歳の少女グレース・ペデル。
言われた通り、男が髭を伸ばすと、いっしょに人気も伸び始める。
こうして誕生したのが、リンカーン大統領だ。
彼は、暗殺されるまで、一度も髭を剃らなかったという。

40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て。

とはリンカーンが残した言葉だが、
それを教えたのは、わずか11歳の少女だったのだ。

8

ビョーク bjork

アイスランドの歌姫、ビョーク。
ステージ上の彼女を、
ある人は「妖精のようだ」と形容し、
ある人は「地上から数センチ浮いている」と表現する。

独特の澄んだ歌声に、
バンド、コーラス隊、オーケストラ、電子楽器、
様々な音が複雑に重なるライブ。
緻密な準備がありそうだが、彼女は否定する。

リハーサルは絶対にしないわ。
だって、セックスの前に
リハーサルなんかしないでしょ?

一度きりの本番で感じる、
インスピレーションだけを頼りに。
妖精は今日も、魔法に良く似た歌をうたう。

111

アニール・セルカン

想像してほしい。
あなたは一台のエレベーターに乗り込む。
動き出したエレベーターは、
高層ビルの高みを越え、雲を抜け、はるか、宇宙に出る。

夢の話ではない。
アニール・セルカン、その人にとってはあくまで現実の話。
宇宙物理学者の彼は、全長3万6000キロメートルもの
宇宙エレベーターを設計した。

本当に実現するの?
そう聞かれると、セルカンは即答する。

簡単だよ 世界の軍事費が一年分あれば 
いますぐつくれる。

戦争をやめて、宇宙へ行こう。

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古田組・細田高広

030828




09年5月参加決定

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