小林組・野村隆文

野村隆文 20年9月19日放送


ncole458
生きて帰ること

いまからちょうど50年前の、1970年のこと。

世界最高峰のエベレストに、
日本人で初めて登頂した男がいた。
彼の名は植村直己(なおみ)。
のちに、世界で初めて五大陸の最高峰に登頂し、
名実ともに日本の冒険家の象徴となった彼は、
こう語っている。

「冒険とは、生きて帰ることである」

この50年、あらゆる山や海は制覇され、
世界は急速に狭くなっている。
そんな今を生きる私たちにとっては、
どんな冒険がありえるのだろうか?

topへ

野村隆文 20年9月19日放送


pictinas
自然体

圧倒的な存在感と過酷さを持つ
世界最高峰の山・エベレストに、
女性最高齢で登頂した日本人がいる。

渡辺玉枝さん。2012年、73歳で登頂に成功。
実は彼女は、8000m級の山にも、
「チョット出かけてきます」の一言だけで出発するという。

富士山のふもとに生まれ、
毎日富士山に挨拶してきた彼女にとって、
山は日常の一部。
予測できない自然を相手にする秘訣は、
こちらが自然体でいることなのかもしれない。

topへ

野村隆文 20年9月19日放送



自由

地球の3分の1をも占める
雄大な太平洋を、
昨年、視覚障害者として世界で初めて
ヨットで横断した日本人がいる。

岩本光弘さん。
視力を失い、一度は人生に絶望した彼を救ったのが、
ヨットとの出会いだった。

彼は、太平洋をこう語る。
「ぶつかるものが何一つ無くて、ありがたい。
全盲の私に、操船できる自由を与えてくれているんですから」

どうにもならない無力感は、ときに
何でもできる自由に変わる。
それこそが、冒険の醍醐味の一つなのかもしれない。

topへ

野村隆文 20年9月19日放送



私には現実

初めて空を飛んだとき、
人類は大きな風船に乗っていた。
バーナーで空気をあたためることで上昇し、
風まかせで推進していく、
シンプルで原始的な移動手段、熱気球。

そんな熱気球の滞空時間と飛行距離で、
世界記録を樹立した日本人がいる。

彼の名は神田道夫。
公務員の仕事をしながら、無謀とも思える挑戦をつづけ、
最後は太平洋横断に挑戦し、そのまま帰らぬ人となった。

妻である美智子さんは、のちにこう語っている。

「気球は夢のものだけど、私にとっては現実ですよ。
残されちゃうんですから」

冒険には、無謀を伴う。
冒険家は、常に目標だけを見据えて突き進む。

しかしその傍らには、
静かに現実を見つめている人がいることを、
忘れないようにしたい。

topへ

野村隆文 20年9月19日放送


Yoshikazu TAKADA
最後の冒険家

「現代に冒険家はもう存在しない」
そう語るのは、写真家の石川直樹。
自身も登山家として、七大陸の最高峰を
世界最年少で登ったこともある。

彼は、こうも語る。
「日常における少しの飛躍、小さな挑戦、新たな一歩、
そのすべては冒険なのだ」

自分の足で極地へ赴き、
そこで暮らす人々の生活を丁寧に写真に収めていく。

それは、生きることそのものが冒険だということの、
彼なりの証明なのかもしれない。

さあ、今を生きる冒険をはじめよう。

topへ

野村隆文 20年5月24日放送



窓を開けよう 大きな窓

「窓が大きさを増すのは、文明の拡大を暗示する」。
チェコ出身で、日本にも多くの建築を残した
建築家アントニン・レーモンドはそう言った。

異なる民族が陸続きで存在したヨーロッパでは、
外敵から身を守るために、強固な壁をつくる必要があった。
時代が下り、恐るべき敵が少なくなるにつれ、
少しずつ窓は大きくなってきたという。

一方で、モダニズム建築の礎を築いたル・コルビュジエは
「ヨーロッパの建築の歴史は、窓との格闘の歴史である」
という言葉を残している。

ヨーロッパの住まいを象徴する、石造りや煉瓦造り。
丈夫で頼りがいのある印象を受けるが、
石や煉瓦を積上げて作った壁に大きな窓を開けるのは、
建築家にとって長い間、悩みの種だった。

風が暖かくなってきた、今日このごろ。
大きな窓が開けられるのは、
平和の象徴であり、
建築家たちの積年の夢でもあるのかもしれない。

さあ、窓を開けよう。

topへ

野村隆文 20年5月24日放送


Raymond.Ling.43
窓を開けよう 窓の由来

まど、という言葉を辞書で調べると、
いくつかの語源に行き当たる。

顔についている目の戸口と書いて、目戸(まと)。
人間にとって、目は外の世界を見て、
情報を受信するためのもの。
目が、身体の内側と外側をつなぐ穴だとすると、
窓は、家にとっての目だということだろうか。

または、間のとびらと書いて、間戸(まと)とも書く。
伝統的な日本家屋においては、周囲に壁はなく、
柱と柱の間に襖や障子を入れる。
シーンによって自由に仕切りをつくることもできるし、
夏には完全に開放して一続きの空間にすることもできた。

窓は、風と光を採り入れるだけのものではない。
間のとびらとして、内側と外側を曖昧につなぎながら、
目の戸口として、外の世界をスクリーンのように映してくれるものでもある。

出窓、飾り窓、天窓、フランス窓…
その人と、その場所の関係性の数だけ、
いろんな窓があるのかもしれない。

さて、いま目の前にある窓は、
あなたにとってどんな窓だろうか?

topへ

野村隆文 20年5月24日放送



窓を開けよう 世界一の窓

世界一有名な窓は?
と聞かれて、何を思い浮かべるだろうか。

ピラミッドには窓がない。
エッフェル塔や、タージマハルや、サグラダ・ファミリアは、
壮大な建築は思い浮かべど、窓の印象は薄いかもしれない。

あるいは、誰もが知っている窓は、
あなたの部屋の中にもある。

ウィンドウズ。
複数の窓=ウィンドウを開く操作方法から名付けられた、
世界のコンピュータの80%以上で使われているシステム。

そもそも英語のwindowは、「風の目」を意味する。
その昔、風を防ぐためにどれだけ壁を作ろうとも、
塞ぎきれない隙間から、風は入りこんできてしまった。
その小さな穴を「風の目」と比喩的に捉えたのが、窓のはじまりなのだ。

いまやコンピュータは、手のひらサイズになった。
どれだけ遠ざけようとも、私たちの生活のなかに、
インターネットの風はどんどん吹き込むようになってきている。

近い将来、あらゆるものが窓となる時代に、
人と窓との付き合い方は、どう変わっていくのだろうか?

topへ

野村隆文 20年5月24日放送


Ruth and Dave
窓を開けよう 窓税

イギリスの古い街を歩くと、
窓枠だけがあり、ガラスがふさがれている窓が見つかるかもしれない。
これは実は、1600年代の終わりから、実に150年以上にもわたり実施された、
「窓税」の名残。

当時、ガラスは非常に高価なもので、
裕福な家でなければガラスを窓に使うことができなかった。
逆に言えば、窓が多い家は裕福だろう、ということで、
住宅の窓の数に応じて課税されたのだ。

しかし、税を逃れようとして、
窓を埋めてしまう人々が続出。
そのため日光も射さず、風通りもない部屋が出来上がり、
健康を害する人々も後を絶たなかったとか。

この少し変わった税制は、
江戸時代の日本にもあった。

「間口税」と呼ばれ、家の間口の広さごとに税金がかかる仕組み。
京都では、節税のために町家の間口はどんどん狭くなり、
間口が狭く奥に細長い「うなぎの寝床」と呼ばれるまでに至ったとか。

大きな窓を自由に開けられることは、
いつの時代も当たり前のことではないのだ。

topへ

野村隆文 20年5月24日放送


Shinoda-tym
窓を開けよう 日本一の窓

日本一窓の多い部屋、は定かではないが、
日本一窓の多い茶室は、
江戸時代に建てられた京都の擁翠亭(ようすいてい)
だと言われている。

設計者は、3代将軍徳川家光の茶の湯の先生であった
小堀遠州(こぼりえんしゅう)。
その茶室は、なんと全部で13の窓を持ち、
「十三窓席」(じゅうさんそうせき)の異名がついている。

中に座ると、眼前には色鮮やかな緑の庭園が広がる。
茶室の閉鎖性と、茶屋のような開放感が同時に存在する、
ちょっと変わった茶室。

千利休が好む、「わび」「さび」を代表する内向きの趣に対し、
落ち着きのあるたたずまいの中にも華やかさを伝える
遠州の「きれいさび」という美意識が、
見事に体現されている。

彼は、窓を開け放つことで、
茶会は暗く閉ざされたものという価値観にも、
軽やかに風と光を採り入れたのだ。

topへ


login