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藤本組・藤本宗将

永久眞規 17年2月11日放送

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ぬいぐるみの話 A.A.ミルン

1926年、スコットランド人のA.A.ミルンが発表した
“Winnie-the-Pooh”は、
愛する息子クリストファー・ロビンに贈った物語。

物語の主役Poohをはじめ、他の仲間たちもみんな
息子が大切にしていたぬいぐるみだ。
自分のぬいぐるみたちが活躍する物語に、
幼いクリストファーは胸を躍らせたことだろう。

しかしこの素敵な贈り物が。
やがて親子の間に亀裂を生むことになった。

クリストファーは大人になっても
つねに“物語の中のクリストファー・ロビン”と比べられ、
その陰に苦しめられたのだ。

「物語のクリストファーは父の夢の中の理想のボク。
 しかし、誰もが彼をボクだと思うんだ。」


彼は次第に、作者である父親をひどく憎むようになっていく。

この優しくあたたかい物語がもつ、
もうひとつの悲しい物語だ。



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藤本宗将 17年2月11日放送

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ぬいぐるみの話 マーガレット・シュタイフ

1847年、ドイツのある小さな町に、
マルガレーテという女の子が生まれた。
1歳半のとき病気で両足と右手が不自由となり、
一生を車椅子で過ごすことになった彼女。
その人生を変えたのは、
洋裁という仕事との出会いだった。

左手だけで扱えるようにミシンを逆向きで使うなど
工夫しながら技術を身につけ、
30歳の時には家族の助けもあって洋裁店をひらく。

あるとき、甥や姪たちのために彼女がつくった
フェルト製のぬいぐるみが大評判に。
そこから会社はどんどん大きくなっていく。

彼女の会社の代表作となったクマのぬいぐるみは、
いまでも「テディベア」と呼ばれ愛されている。

そのクマは、19世紀という時代にあって
障害をものともせず、
自立した女性がいたことの証なのだ。



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福宿桃香 17年2月11日放送

170211-03 steeljam
ぬいぐるみの話 マイケル・ボンド

今から60年前のクリスマスイブのこと。
マイケル・ボンドはお店で売れ残っていた
クマのぬいぐるみを可哀想に思い、
妻へのプレゼントとして買って帰ることにした。

ぬいぐるみにパディントンと名付けると、
ボンドの頭の中に自然と物語が浮かんだ。
拾われるのを待っていたクマ、夫婦との出会い…
思うままに筆をすすめ、10日で本を書き上げた。

こうして生まれた童話『くまのパディントン』。
今日までに26作のパディントンシリーズを執筆したボンドは
インタビューにこう答えている。

 これはクマのぬいぐるみの持つ力。
 一緒にいるとぬいぐるみがちゃんと生きていて、
 動いたり喋ったりしているような気がしてくるんだ。
 僕はただそれを書くだけ。もし今のが本当だとしたら、って。


ぬいぐるみを愛する者にしか書けないストーリーが、
今日も世界中の人々を魅了する。



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村山覚 17年2月11日放送

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ぬいぐるみの話 ジム・ヘンソン

カエルのカーミット。
世界で一番有名なカエルのキャラクター。

テレビにデビューしたのは1955年。
後に『セサミ・ストリート』で一世を風靡する
ジム・ヘンソンが生み出した、世界初のマペットだ。

ある日、カーミットはオックスフォード大学に
招待された。アインシュタインやマザー・テレサ、
歴代の大統領など多くの著名人が立った演壇で、
彼はいつも通りに大きな口を開けて語った。

 兄弟もたくさんいたし、
 両親は私を大学に進学させられなかったんだ。
 他のカエルみたいに生物学部に入って
 解剖学を専攻することもできたけど……
 まぁ向いてなかったんだろうね。


もし彼が大学に進んでいたら、
ぬいぐるみの歴史が大きく変わっていただろう。



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村山覚 17年2月11日放送

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ぬいぐるみの話 ジム・ヘンソン

世界中から今も愛されている番組『セサミ・ストリート』。
登場するマペットたちの生みの親として知られるのが
ジム・ヘンソンだ。

今から60年以上前、操り人形のマリオネットと、
パペットを組み合わせて「マペット」という言葉を
使いはじめたのも彼である。

ジムは亡くなる前に、2つの遺言をのこした。
1つは、自分のお葬式で黒い喪服を着ないでほしい。
そして、ジャズバンドを入れてほしい。

追悼式当日。ニューヨークの大聖堂にカラフルな
キャラクターたちが集まった。エルモ、ビッグバード、
クッキーモンスター…。そして、番組では一切顔を
見せない人形師たちが、泣いたり、笑ったりしながら、
たくさんの歌を捧げた。

その日、ジムの手紙も読み上げられた。

「みんなと愛し合い、許し合って、いい人生にしよう」
「生きている間にこんな手紙を書いているのは妙な感じがするけど…
 死んじゃった後に書くのは簡単じゃないからね」


いつも愛とユーモアに満ちたジム・ヘンソンが生み出した
マペットたちは、これからもずっと生き続ける。



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藤本宗将 17年1月21日放送

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紫式部と風邪とニンニク

『源氏物語』第二帖「帚木」の冒頭に、
「雨夜の品定め」というくだりがある。

光源氏の部屋に集まった男性たちが
それぞれの女性論を語るのだが、
そのうちのひとりである藤式部丞の体験談に
風邪をひいた女性とのエピソードが出てくる。
その女性は、会いに来た彼にこう伝える。

 月ごろ、風病重きに堪へかねて、極熱の草薬を服して、
 いと臭きによりなむ、え対面賜はらぬ。


風邪で薬草を飲んでいてそのにおいが大変に臭いので
面会は遠慮させてください、ということだ。
この薬草とは、ニンニクのこと。
ニンニクの効能が古くから知られていたことがわかる。

それにしても
匂いが気になって男性の前に出られないとは、
作者である紫式部にも
そういう経験があったのだろうか。


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藤本宗将 17年1月21日放送

170121-02
能登屋甚三郎と風邪と葛根湯

風邪といえば、葛根湯。
2000年前に生まれたこの漢方薬は、
現在に至るまで多くの人々を助けてきた。

江戸時代末期の金沢で暮らしていた
町人・能登屋甚三郎の日記にも、
風邪で葛根湯を飲んだ記述が残っている。

 風邪気味だったのを我慢していたところ、
 寒さのせいか風邪がひどくなってしまった。
 そこで葛根湯を三回飲み、
 さらに二番煎じも飲んで今晩は汗をかいた。


さらに翌日には、こうある。

 夜に汗をかいたおかげで、
 風邪は昨日よりだいぶ良くなってきた。
 今晩も昨晩と同じく葛根湯を三回飲んで汗をかいた。


ちなみに日記によれば、
こうして風邪をひいているあいだにも
甚三郎は勤めに出ていたらしい。

風邪でも仕事を休めない。
そんな日本人の悪しき習慣は、
いつになったら治るのだろう。


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藤本宗将 17年1月21日放送

170121-03
福沢諭吉と風邪とフランネル

明治3年に大きな病を患った福沢諭吉。
なんとか全快したものの
風邪をひきやすくなったりして、
体力の衰えに悩んでいた。

そんなとき友人の外国人医師から、
「肌着をすべてフランネルにすれば風邪をひかなくなる。」

と教えられた。

さっそくシャツもモモヒキもフランネルでこしらえ、
足袋の裏にまでフランネルを付けさせて
全身暖かくしてみたものの、いっこうに効果がない。
やはりすぐに風邪をひいてしまい、すぐ熱が出る。

そこで彼は180度考えを改める。
かつて田舎で暮らしていた頃の質素な生活に戻したのだ。
あえてストーブも焚かず、木綿の着物を着て、
薪割りなどの運動をして汗をかくように心がけた。
すると次第に身体が丈夫になり、
風邪をひくこともなくなったという。

福沢は、自伝の中でこう言っている

 「こちらから媚びるから、病は段々つけあがる。」


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藤本宗将 17年1月21日放送

170121-04
お染と風邪とお札

江戸時代には、風邪が大流行すると
そのたびに名前がつけられていた。
稲葉風邪、お駒風邪、谷風邪、お七風邪、といった具合だ。

当時の人たちはもちろん知る由も無いが、
それらの風邪は感染力の強さからみて
インフルエンザだったと考えられている。

その後も名づけの習慣は続き、
明治23年から24年にかけて流行した風邪は「お染風邪」と呼ばれた。
お染とは浄瑠璃や歌舞伎で有名な物語のヒロインで、
許婚がありながら久松という男とたちまち恋に落ち、熱を上げてしまう。
そんな役どころのイメージから風邪の名前にされたのだろう。

お染風邪が流行してからというもの、
人々は家の玄関や軒下に「久松るす」という
風邪除けのお札を貼ったという。
あなたの好きな久松さんは留守でいませんよ、
だからお染さんは入って来ないで、という意味だ。

インフルエンザウイルスさえまだ発見されておらず、
効果的な対策もない時代。
多くの死者を出したインフルエンザの猛威を前にして、
人々はお札にでも頼るしかなかったのだろう。

マスクなどの予防手段が日本で普及するのは、
大正時代の「スペイン風邪」からである。


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藤本宗将 17年1月21日放送

170121-05 hirotomo t
竹鶴政孝と風邪とリンゴジュース

日本におけるウイスキーの父、竹鶴政孝。
彼が北海道・余市で興したニッカウヰスキーは、
はじめ「大日本果汁株式会社」という名前だった。

ウイスキーづくりには長い年月がかかる。
その間のつなぎとしてリンゴジュースを販売し、
経営を支えようとしたのだ。

しかし高価な果汁100%リンゴジュースは
当時あまり売れなかった。
そこで彼はリンゴジュースの
高い栄養価を前面に押し出して宣伝。
風邪をひいたときの民間療法として、
ようやくリンゴジュースは普及していった。

当時、宣伝の一環として
ニッカから発行された一冊の本がある。
医師がリンゴの効能について記したものなのだが、
随所にジュースの広告が入っている。

商品を売るために健康本を出版する。
宣伝マンとしての竹鶴もなかなかのものだ。


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