門田組・伊藤健一郎

伊藤健一郎 18年1月27日放送

180127-01
Drew de F Fawkes
リンキン・パークの話(リンキンの音)

移民の国、アメリカで生まれたロックバンド、リンキン・パーク。
彼らの音は、ラウドロックやヒップホップなど、様々なルーツをもつ。

だからだろう。生み出したアルバムには、そのつど異なる人格が宿った。
賛否両論こそ繰り返されたが、結局、世界はリンキンの音を無視できなかった。

これは「good goodbye」の一節。

 暗闇に サヨナラを言わせてくれ 
 そして奴らに伝えてほしい
 俺はむしろ星が瞬く この場所にいる

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伊藤健一郎 18年1月27日放送

180127-02

リンキン・パークの話(ピザ屋の写真)

リンキン・パークのボーカル、チェスターが自殺して半年。
メンバーのマイクは、チェスターが加入した日のことを、SNS上で語った。

 97年か98年…
 僕らはUCLAの近くのピザ屋に行って、
 次に何をするのかを話し合ったんだ。
 その当時バンド名はXeroで、曲も6曲くらいしかなかったと思う。
 チェスターも、炎のタトゥを入れてなかったし、赤毛でもなかった。

投稿には、そのときピザ屋で撮った写真がそえられていた。
リンキン・パークという名前さえ持っていない頃、
いちばん隅ではにかむチェスターがいた。

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伊藤健一郎 18年1月27日放送

180127-03

リンキン・パークの話(復興ライブ)

2011年、8月31日。
リンキンパークは、シークレットライブを開いた。
参加条件は、東日本大震災への寄付金を500ドル以上集めること。

ボーカルのチェスターは、こう語った。

 せわしない日常を送っていたり、異なる境遇にいる人たちは、
 どうしても被災者の存在を忘れてしまう。
 でも、自然災害は立ち直るのに長い時間がかかるわけで、
 抱いた想いを風化させないために今回の企画を考えた。

日本のために、多くの人に呼びかけてくれたチェスターの死から、およそ半年。
彼の歌声は、この冷えきった世界で、今日も誰かを温めている。

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伊藤健一郎 18年1月27日放送

180127-04

リンキン・パークの話(死者のミュージックビデオ)

リンキン・パークの曲「not alone」。
そのミュージックビデオには、たくさんの死体が登場する。

すべて本物。2010年に起きたハイチ地震の惨状を
ありのままに伝えようと作られたからだ。

彼らは歌う。

 あなたは進む 過去を手放し 故郷を捨てて
 ゆけ 見ている人はいる あなたはひとりじゃない

情報は風化する。
けれど、彼らの曲が生きている限り、
あの日の真実が忘れ去られることはない。

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伊藤健一郎 18年1月27日放送

180127-05
Gansb
リンキン・パークの話(悪夢)

 オマエが 俺のことを 所有物のように扱おうとも
 オマエが俺とともに 戦ってくれていた頃を思うと
 よくここまで こじれたもんだと驚くよ

リンキン・パークのボーカル、チェスターは、
7歳から13歳まで、年上の友達から性的虐待を受けていた。

その悪夢は大人になってもつきまとい、
チェスターはドラッグに溺れることになる。

 必死にここまで頑張ってきた
 でも最後には そんなことどうでも良いんだ
 全てを失うには落ちるしかなかった

チェスターの自殺から半年。
悪夢と決別するために書いたとみられる「In The End」は、
Youtubeで4億7千万回以上も再生されている。

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チームVisionの伊藤健一郎が新人賞を受賞しました

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うれしそうですよね、伊藤健一郎くん。
伊藤くんは門田組です。
東海テレビの仕事でTCC新人賞を受賞しました。
なにしろ新人賞は一度しかもらえませんから、
うれしそうな顔も無理ないですが。

伊藤くんの作品はこちらからご覧いただけます。
https://youtu.be/RIgpykD-hrg

そして、同じ門田組の渋谷三紀さんは今年のTCC年鑑の編集員でした。
みなさん、がんばってますね (玉子)

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伊藤健一郎 17年9月16日放送

170916-01

臨終の話 チャールズ・チャップリン

チャールズ・チャップリン。
世の中を鋭く風刺しつつも
決してユーモアを忘れない彼は、
喜劇王と称された。

そんなチャップリンは1977年、クリスマスの朝に息を引きとった。
老衰による静かな死だった。

彼の訃報が日本に届いた、25日の夕刻。
東京有楽町のニュー東宝シネマ1では、
チャップリンの伝記映画「放浪紳士チャーリー」が上映中だった。

ラストシーンの途中、その死が場内マイクで伝えられると、
客席は一瞬静まり、やがて彼を称える万雷の拍手が起こった。

チャップリンらしい、見事な幕引きだった。

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伊藤健一郎 17年9月16日放送

170916-02

臨終の話 トーマス・エジソン

発明王、トーマス・エジソン。
彼は、1929年10月。白熱電灯発明50周年の祝典で、
フーバー大統領をはじめとする、多くの来賓から賛辞をおくられた。

けれど、エジソンは、彼らと満足に会話をすることができず、
短い感謝を述べると崩れるように椅子にすわった。
胃がんと糖尿病、さらに腎炎と高血圧を患い、ギリギリの状態だったのだ。

1931年10月18日、いよいよそのときが近づくと、
エジソンは昏睡状態から目を覚まし、妻のミーナにこう言った。
「いいお天気だね」まだ夜があけない暗い時間だった。

ミーナがエジソンに「苦しいですか」とたずねると、
彼は一言「いや、待っているだけだ」とこたえ、
ほどなくして、息を引きとった。

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伊藤健一郎 17年9月16日放送

170916-03

臨終の話 フランツ・カフカ

フランツ・カフカは、
労働局災害保険局で働きながら、小説を書いたという。

まじめで、自分にきびしいカフカは、
過労で体を壊すほど仕事にのめりこんだ。

彼は、34歳で、結核を発症する。
そして、壮絶な闘病生活をおくる中、41歳で生涯を終えた。

カフカの死後に発見された友人への手紙には、こう記されている。

「最後の願いだ。僕の遺稿のぜんぶ、日記、原稿、手紙のたぐいは、
 ひとつ残らず、なかみを読まずに焼き捨ててくれたまえ」

カフカの死顔は、彼の精神があらわれたように、
きつく、きびしく、近寄りがたかったという。

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伊藤健一郎 17年9月16日放送

170916-04

臨終の話 魯迅

中国近代文学の父、魯迅。
彼はあるとき、自叙伝を書くことをすすめられると、こう答えた。

 私の生涯には、とりたてるようなことは何もない。
 私の伝記程度なら、中国では四億も集まり、図書館を満たすことだろう。

伝記として残ることを拒んだ魯迅だが、遺書をしたためたことはある。
そこには、こう記されている。

 キリスト教徒は、臨終ですべてを許すそうだが、私には敵が多い。
 恨むなら恨め。こちらも誰ひとり許しはせぬ。

一刻者だった魯迅の葬儀には、六千人の学生や労働者が参集したという。

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