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2012 年 2 月 のアーカイブ

名雪祐平 12年2月26日放送

Aidan Jones
笑って 1.山田洋次/車寅次郎

映画『男はつらいよ』第32作。
車寅次郎が、
医者とのやりとりを話すシーンがおかしい。

医者から、こう言われたという。
きみぃ、レントゲン撮る時は、笑う必要ない。

すると寅さん。

 いやだけどね、レントゲンだって、
 にっこり笑って写したほうがいいと思うの。
 だって明るく撮れるもの、そのほうが。

山田洋次監督が差し込む
何でもないようなエピソードが、
人情の機微にふれてくる。

フーテンの哲学者のような、寅さん。
いま、この世の中に、
あなたの言葉がほしいです。






笑って 2.アラン

 幸福だから笑うわけではない。
 笑うから幸福なのだ。

フランスの哲学者アランは『幸福論』で訴える。

 悲観主義は気分。
 楽観主義は意思。

悲観するのは簡単だ。
人間はともすれば、悲観に暮れてしまう。
そこを意志と勇気をもち、
楽観してみよう、と励ます。

それでもまだ
くよくよしたり、不安な人への
アドバイスも忘れない。

 過去と未来とは、
 それを考えるときしか存在しない。

たしかに。
さらに、それでもまだ、の人は
『幸福論』に何か書いてあるでしょう。




笑って 3.西原理恵子

彼女は、生い立ちに負けていた。

家族の不幸。自らの高校退学。
上京してからの
光熱費も払えない貧困。
漫画家デビューしても、
ギャンブル依存症となり、
すさんだどん底生活を送っていた
西原理恵子。

しかし、やがて夫となるカメラマン
鴨志田穣にアジアの紛争地帯に連れて行かれ、
想像を絶する貧困の世界を目にする。

西原が目のあたりにしたのは、
這うようなどん底生活でも
底抜けに陽気な人々の笑顔だった。

 どん底でこそ笑え。

たとえ生い立ちが不遇であっても、
何事も笑い飛ばしてしまえ。
この気づきが西原の人生の
大切な転機となった。

漫画の中で、伝えたいことを
うまく笑いに包むようにしていった。
それから西原は『毎日かあさん』など
いくつもシリーズをもつ
人気漫画家になっていった。




笑って 4.キース・リチャーズ

ローリング・ストーンズのギタリスト
キース・リチャーズ。

超一流のテクニックで、
数々の名演を残してきた。

スーパースターにのしあがった彼に、ある時、
どうしたら、あんた達みたいになれるかな。
と質問が飛んだ。

キースは、さらっと答えた。

 いっぺん、食えなくなってみな。

ハングリーさが成功への道という、
なんというシンプルな考え。
なんという笑えるほどの楽観。

しかし、まぎれもなく真実。




笑って 5.ジョージ・エリオット

19世紀英国を代表する女性作家
ジョージ・エリオット。

なぜ、ジョージという男性名で
デビューしたのか。

当時の英国の事情があり、
女性が本を出すことは難しい時代だったのだ。
そして、彼女の恋人には妻子がいたりと、
彼女自身も微妙な社会的立場にいた。

しかし、恋人の批評家
ジョージ・ヘンリー・ルイスへの敬意を込め、
「ジョージ」をペンネームにしたということである。

自分の立場とは裏腹に、
作風は徹底的に道徳的存在として
追求するものであった。
その作品群が次々と評価され、
彼女たちの関係も容認されていった。

彼女のこんな言葉が残っている。

 微笑めば友達ができる。
 しかめっ面をすればしわができる。

そう気を配りながら生きた
女のジョージと
男のジョージがいた。




笑って 6.赤木健介

青森県出身の歌人であり、詩人。
赤木健介

戦前には左翼運動に飛び込み、
投獄された経験もある。

世相も、自分の身も
不安であるはずの1942年の短歌集
『意慾』のなかの1つの歌が明るい。

 生きること、吹きつける雨に濡れること、
 みんな愉しい、生きてゆきたい。

まさに意欲である。希望である。
人間賛歌である。

この歌から、
明日を信じ、楽天的に生きることの
力強さが伝わってくるのだ。



Coal Miki
笑って 7.綾小路きみまろ

人気漫談家・綾小路きみまろが、
毒舌をつぎつぎ放つ。
ぐさぐさ、中高年の観客の胸に刺さる。

傷つくようなジョークなのに、
ファンは泣くほど笑いこける。

なんだか空気が温かいのは、
おたがいがいままでの苦労を分かちあえる、
そんな信頼関係があってこそ、
なのもしれない。

こんなフレーズも平気である。

 クヨクヨすることはないのです。
 人間の死亡率は100パーセントです。

泣いても笑っても、いつか死ぬのなら
笑って生きたいですね、
という希望をおみやげに
観客はいつもの家に帰っていく。




笑って 8.シャンフォール


16世紀から18世紀のフランスに、
モラリストと称される文学者がいた。

人間性や道徳を追求し、
言葉のフレーズに書き記した人たちのこと。

その一人、シャンフォールの言葉がある。

 毎日の中で、
 いちばんもったいないのは、
 笑わなかった日である。

今日という日も、
つまり、人生の一部であり、
笑えずに過ごしてしまったことは
人生の浪費ということでしょうか。

さて、シャンフォールから
質問が届いています。

今日は、
笑った日でしたか?

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小山佳奈 12年2月25日放送


スープのはなし 辰巳芳子

料理研究家の辰巳芳子さん。
彼女のつくるスープは
いのちのスープと呼ばれている。

きっかけは入院した父のために
毎日病室に届けた手作りのスープ。

病院のごはんは食べられなくても
スープだけは口にする父を見て思った。

「スープは、命の瀬戸際で
 こっちを向かせるためのもの」

人は、冬眠することも
光合成することもできない。
食べなければ、生きられない。

そんな当たり前のことを
辰巳さんのスープは
やさしく思い出させてくれる。

こんな寒い日には、スープの話でも。






スープのはなし 太宰治

「朝、食堂でスウプを一さじ、
 すっと吸ってお母さまが、
  『あ』
 と幽かな叫び声をお挙げになった。」

太宰治の「斜陽」、冒頭シーン。
滅びゆく没落貴族の哀しみへ
たった一文で読者を誘う太宰の文章力は見事だ。

破天荒な私生活ばかりに目がいくが
実は彼のすごさはその技術にある。

”いつも「おいしい料理」を読者に提供しようと
 気配りを忘れない作家だった”

とは、かの吉本隆明の言葉。

なるほど。




スープのはなし 石井好子

1950年。
戦後まもない日本から
身ひとつでパリにわたった
シャンソン歌手、石井好子。

彼女は一日も休むことなく
ステージに立ち続けた。

夜中の2時。
ようやく劇場を出ると
パリの夜風が頬を刺す。

そんな時、石井さんはいつも
仲間の歌い手たちとカフェにかけこみ
「グラティネ」を頼んだ。

グラティネとは、
オニオングラタンスープのこと。

ぐつぐつと音を立てて
テーブルに運ばれてくるグラティネを
ふうふう言いながら口に運ぶ。

その瞬間、異国に一人立ち向かう彼女は
どれだけあたためられたことだろう。

今日は玉葱を飴色になるまで
いためてみようか。




スープのはなし ゴッドファーザー

映画「ゴッドファーザー」で
襲われたドンの仕返しに
ファミリーが家に集まる場面。

腹心のクレメンザが
ドンの息子マイケルに
料理を教える。

ニンニク、オリーブオイル、トマトソース、
ミートボール、ソーセージ、赤ワイン。

「いつか20人分の飯を
 お前が作ることになるかもしれん」

それはファミリーに入ることを覚悟させ、
明日死ぬかもしれない闘いの日々を覚悟させるスープ。

そういえばトマトソースは
血の色に似ている。




スープのはなし メルヴィル

アメリカの冬は寒い。
あたたかいスープ、とりわけ
熱々のクラムチャウダーが欠かせない。

「小型だが多肉質のふとったハマグリに、
 くだいた堅パンと、塩豚の薄切りをまぜ、
 バターをたっぷりとかしこんでこくをつけ、
 塩と胡椒をしっかりきかせた逸品だった。」

アメリカ文学の巨匠メルヴィルが「白鯨」の中で書いた
主人公たちがクラムチャウダーをほおばるシーンだ。

言葉と食欲は
思ったよりもずっと近い。

おかげで今、小説の舞台となった街には
クラムチャウダーを食べに観光客が押し寄せている。




スープのはなし アンディ・ウォーホル

天才の答えは
いつでも単純。

キャンベルスープの缶を
完璧なアートに仕立て上げた
アンディ・ウォーホール。

数あるモチーフの中で
なぜスープを選んだのか、
彼はこう答えた。

「僕は自分が美しいと思うものを、
 いつも描いているだけだ。
 なぜスープをデザインしたかって?
 それは僕がスープを好きだからさ」

ほらね。

天才の答えは
いつでも単純。




スープのはなし スナフキンとトーベ・ヤンソン

ムーミン谷に住むさすらいの自由人、
スナフキン。

彼はいつもあり合わせのものを煮込んだ
粗末なスープを食べている。

「人間はものに執着しないことだ」

それはそのまま作者、
トーベ・ヤンソンの生き方だった。

無人島で恋人とたった二人で
暮らしていたヤンソン。
毎日の食事はそこでとれる最小限のもの。
今日はキャベツのスープ、明日は豆のスープ。

彼女にとってムーミン谷は
絵本の中の桃源郷ではない。

「長い旅行に必要なのは
 大きなカバンじゃなく
 口ずさめる一つの歌さ」

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五島のはなし(170)

冬の五島に行くと、けっこう寒いし、天気は悪いし、
あんまり活動的なことができないのであるけれども。
んでも、天気が悪いのもまたナイスな景色に変えてしまう高浜海水浴場。



と、そのお隣の、とんとまり海水浴場。



雲と霧と水とかとろけあって、見てる方もとろけちゃいそうでしたよ。

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古居利康 12年2月19日放送


雪の殿様・その1

いまから百八十年ほど前、
下総国 (しもふさのくに)・古河(こが)に、
「雪の殿様」と呼ばれた大名がいた。

19世紀はじめ、文化文政の時代。
古河藩七万五千石の藩主だった、土井利位(どい としつら)。

徳川譜代の名門に生まれた利位は、
オランダ渡りの顕微鏡を使って、
雪の結晶を観察し、
約20年間にわたって
克明なスケッチを残した。

そんな彼を、
ひとは「雪の殿様」と呼んだ。





雪の殿様・その2

下総国古河藩主、土井利位。
雪に魅せられた「雪の殿様」。

彼は雪の結晶を、
雪の華・雪華(せっか)」と名付け、
「雪華図説」という本を著した。

ひとつとして同じかたちのものは
ないけれど、
どれも六方対称のかたちになる。
そんな雪の結晶のふしぎな成り立ちを、
彼は解き明かそうとした。

大気中の水蒸気の流れ。
天空に雪の生ずるからくり。
そして、手に受ければたちまち
溶けてしまう六角形の結晶を
溶かすことなく採取する方法。

「雪華図説」は、単なる雪の結晶の
スケッチ集ではなかった。
それは、当時最新の格物窮理(かくぶつきゅうり)、
すなわち物理学の書物だった。




雪の殿様・その3

雪のふしぎに取り憑かれ、
雪のうつくしさの虜になった「雪の殿様」。
土井利位が書いた「雪華図説」は、
物好きな殿様の趣味の域をはるかに超える、
本格的な物理学の書であった。

なにゆえ、ひとりの殿様にそんな書物が書けたのか。
オランダ渡りの顕微鏡など、どこで手に入れたのか。

古河藩の家老に、鷹見泉石(たかみせんせき)という人物がいた。
泉石は、早い時期から海外事情に関心を寄せ、
地理・天文・暦学・物理の道に通じていた。
交友範囲もきわめて幅広く、
川路 聖謨(としあきら)、江川太郎左衛門ら幕府の要人、
渡辺崋山、桂川甫周(ほしゅう)といった蘭学者から、
地理学者・箕作(みつくり)省吾、砲術家・高嶋秋帆(しゅうはん)、
画家・司馬江漢に至るまで、
当代第一級の知識人との付き合いが深かった。

ヤン・ヘンドリック・ダップル、
というオランダ名までもっていた鷹見泉石は、
蘭学仲間から得た知識を、
主君・土井利位に伝授したのだろう。

蘭鏡(らんきょう)と呼ばれるオランダ製顕微鏡も、
泉石が独自のルートから手に入れたもの
だったのかもしれない。




雪の殿様・その4

徳川幕府が国を閉ざして、二百年余。
19世紀、帝国主義の時代を迎えた西洋列強は、
極東の小さな島国のドアをノックする。

1804年、ロシアのレザーノフが来航。
1808年、英国の軍艦フェートン号が入港。

唯一、世界に開かれた長崎の港が騒然とする。
幕府は対応に苦慮する。

下総国古河で雪の研究をしていた土井利位。
そのブレーンだった家老・鷹見泉石には、
時代に対する危機感があった。
蘭学を通して、地理・天文・物理を学ぶことは、
西洋の現在を知ることでもあった。




雪の殿様・その5

下総国古河藩主、土井利位は、
33歳で藩主となったのち、寺社奉行、大坂城代、
京都所司代など、幕府の要職を歴任。

大坂城代の任にあった天保8年、1837年、
土井利位は、大塩平八郎の乱に遭遇する。

1830年代、天保年間。
長年つづいた天候不順から日本全国が凶作となった。
米不足から飢饉が起こり、各地で一揆が頻発。
大坂では毎日150〜200人を越える餓死者が出たという。
暴騰する米の値段をいいことに、米を買い占める
豪商のふるまいに、民の怒りが爆発。
その先頭に立ったのが、大坂町奉行所の元与力、
大塩平八郎だった。

決行の日は、175年前の今日、2月19日。
豪商と奉行所を襲い、焼き打ちにする計画は、
密告によって頓挫。武装蜂起は鎮圧される。
大坂市中に身を隠した首謀者、大塩平八郎の所在が
大坂城代・土井利位のもとに通報される。
大塩捕縛に向かったのは、家老・鷹見泉石率いる
古河藩の一軍だった。

こののち、土井利位は、幕府老中に登りつめ、
水野忠邦と共に、「天保の改革」の中心人物となっていく。
日本で初めて雪の結晶を顕微鏡で見た「雪の殿様」は、
時代と政治のまっただ中にいた。




雪の殿様・その6

下総国古河、現在の茨城県古河市は、
決して雪深い土地ではない。

土井利位が生きた19世紀前半は、
いまよりもはるかに寒冷で、
世界的にも、洪積世氷期が終わって以降、
最も寒冷な時期にあたり、
小氷期と呼ばれている。

零下10℃以下でなければ観察は不可能、
と言われる雪の結晶のスケッチを、
土井利位は、古河でも、大坂でも、
京都でも欠かさずつづけている。
この頃の冬は、それくらい冷え込んでいた、
ということの、それは証拠である。

雪の結晶の観察を可能にした寒さは、
しかし、同時に、凶作をもたらす寒さでもあり、
人々を追いつめる大飢饉の元凶でもあった。




雪の殿様・その7

土井利位が著した「雪華図説」は、
いまで言う自費出版だったので、
庶民の目に触れることはなかった。

これを一躍有名にしたのが、
越後の商人、鈴木牧之(ぼくし)が書いた北越雪譜(ほくえつせっぷ)
という本だった。

雪深い越後の暮らし、産業、伝承に加え、
土井利位が描いた雪の結晶の絵が35点、
掲載された。

当時としては破格の700部が売れ、
土井利位は、「雪の殿様」と
呼ばれるようになった。




雪の殿様・その8

「雪の殿様」土井利位は、
みずからスケッチした雪の結晶を図案化し、
印籠や刀の鍔、着物の柄に散りばめた。

一方、「北越雪譜」に掲載された
35種類の雪の結晶図は、またたく間に
江戸の庶民を魅了し、やがて、テキスタイルの
ニューモードを生み出すことになる。

土井家の当主は、
代々、大炊頭(おおいのかみ)という官職名を名乗る。
土井利位が描いた雪の結晶図から生まれた
テキスタイルの文様は、
彼の官職名をとって、大炊模様(おおいもよう)と
呼ばれるようになる。

渓斎英泉(けいさい えいせん)の美人画、歌川国貞の役者絵など、
江戸後期の浮世絵に、「大炊模様」の着物柄が
数多く見られる。その流行ぶりは、
「雪の殿様」本人の想像を超えるものだった。

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八木田杏子 12年2月18日放送


ミシア・セールの芸術

19世紀のパリで
社交界のミューズとよばれていた、ミシア・セール。

ココ・シャネル、ロートレック、ディアギレフ。
当時、芸術を志す人々はミシアのサロンに集まり
作品を生み出していった。

ミシア自身も才能のあるピアニストといわれ
ドビュッシーやラヴェルと共演もしているが
彼女の名声はもっぱら
多くの芸術家のパトロンとしての活動にある。

ピアニストとしてのミシア・セールは
輝く星のひとつだったかもしれないが
パトロンとしてのミシアは
多くの星々を引きつけている渦の中心にいる。




ミシア・セールの女友達

パリの芸術家たちから、
社交界のミューズとよばれていた、ミシア・セール。

彼女の親友だった
ココ・シャネルはミシアをこう語る。

彼女はひとの悪口を言わずにおれないたちなのだ。
それでいて、誰かに何か言ったり、
他人に悪いことをしたりすると、
たちまちこわくなって、犠牲者のところへかけつける。
たっぷり愛情をそそいで、言い訳をする。

朝からミシアがやってくると、
ココ・シャネルはこう言って迎えたそうだ。

昨日、わたしのことを何て言ったのよ。

憎みつつ愛しつつ、ふたりの友情は生涯つづく。




ハーバード大学の教え

ハーバード大学の学生たちが詰めかけた
「人生を変える授業」。

講義をするタル・ベン・シャハーは、
「成功しているけれど、幸せではない人」を
たくさん観察してきた。

ポジティブ心理学の第一人者である彼が
最高学府の学生に教えたのは、
まず感謝すること。

ちょっとしたことでもいいので、
感謝できることを5つほど書く。

少なくとも週に一度、これをすることで
物事が好転すると彼は語る。

ありがとうを言いなさい…
最高学府の教えは、母の教えに似ていると思う。




ウォルト・ディズニーの憧れ

漫画家に憧れていた若かりし日の
ウォルト・ディズニー。

自分が描いた漫画のまわりに新聞記事を印刷して
新聞に掲載されたかのようなサンプルをつくっていた。

それでも新聞社から仕事をもらえなかったウォルトは、
カンザスシティ・スライド社で漫画を描く仕事に就いた。
会社はやがてスライドからフィルムによる広告に重点を移し
ウォルトは夢中になる。

フィルムの上でものを動かすトリック、
これがわたしをとらえて離さなかった。

まだ専門的な技術をもつ者が
ほとんどいなかったアニメーションに、
のめりこんだウォルト・ディズニー。
憧れていた新聞漫画を捨て
アニメーションに人生を賭ける。




ウォルト・ディズニーのガレージ

ウォルト・ディズニーの初めてのアニメーションスタジオは、
父親のガレージだった。
仕事から帰ると、すぐにスタジオにこもった。

そんな彼を見て、
いっしょに暮らしていた叔母のドロシーはこう語っている。

彼は子どもの時から、
いつもなにかに熱中していまいた。
その頃も休む間もなく忙しそうでしたが、
大したことをしているようには思えませんでした。

家族に理解されなくても、仕方がない。

ウォルトは、まだ存在していない職業、
アニメーターを目指していたのだから。




ロートレック

ロートレックが描く女性たちは、
すこし変な顔をしている。

ムーランルージュで歌い、踊る
女性たちが舞台で見せる笑顔ではなく、
ふと見せる素の表情を描こうとしたのだ。

舞台に立つ彼女たちの姿に、
楽屋で見せる顔を描く。

すると、一枚のポスターから、
踊り子の人柄や人間模様が見えてくる。

ムーランルージュをこよなく愛して、
足繁く通っていたロートレックだからできること。




モーツアルトの結婚

モーツアルトの初恋の相手は、
妻のコンスタンツェではなく、その姉のアロイジア。

人気ソプラノ歌手だった彼女の声を思い浮かべながら
作曲したアリアを捧げても、想いは叶わなかった。

その数年後、モーツアルトは、
初恋の女性の妹、コンスタンツェに目をとめる。
自分の父親と姉に反対されても、結婚にふみきった。

結婚して間もないころに作曲した「きらきら星変奏曲」の、
楽しそうに弾む音符たちが、彼の心情を語っている。

一途に想っても叶わぬ恋から、
すこし目をそらして出会った愛に、
モーツアルトは幸せを感じていた。

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小野麻利江 12年2月12日放送

dhistory
おやこの話 お父さんの日記

漫画家で作家の小林エリカは、
実家の本棚で、
父親が16歳の時の日記を見つけた。

戦後すぐの金沢。
なかなか勉強が進まず、
やきもきしている高校生。
友達の名前は旭(あきら)。
好きな女の子は内緒。


「父」でしかなかったその人は、
「小林司」という名を持つ、
ひとりの少年でもあった。

あなたのお父さんがどんな子どもだったか、
あなたは、知っていますか?

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石橋涼子 12年2月12日放送

ゆき
おやこの話 おぐにあやこ

新聞記者おぐにあやこは
32歳のとき子どもを産んだ。

思い通りに進まない育児生活のなか、
出産によって失った「自由」と
「キャリア」のことばかり考えてしまう自分に
いらだっていた。

このままじゃいけない。
おぐには考えた。

子どもがいるから何も自由にできないと思う自分から、
自由になろう。


そして彼女はなんと、バックパックをかついで
6か月の赤ちゃんと一緒にスペインへと旅立ったのだった。

子連れだから諦めることを数えるより、
子連れだから楽しめることを探す。
それは意外と難しいけれど、
想像以上に楽しいことだ。

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熊埜御堂由香 12年2月12日放送


大おやこの話 お父さんになるまで

結婚して10年。
気の合う妻と、気楽な生活を送っていた。
そんな時、子どもができて、こう思った。
もうすぐ父親になる。
すごく、怖い。


「クドカン」の愛称で人気の演出家、宮藤官九郎。
2005年に35歳で女の子の父親になった。
いまいち気持ちがついていかない中、
はじめたことがある。
自分から企画を持ち込み、
週刊誌で育児日記をはじめたのだ。

気がついたら毎日娘のおむつを替え、
お風呂に入れている自分がいた。
そして毎週コラムを書き続けた。

娘が3歳になる最終回で誓った。
これからも、怠けず、気張らず、普通の
お父さんであり続けようと思います。


その連載のタイトルは、
俺だって子供だ!
最初は、そう思っていたはずなのに。
連載の終わりには、
立派なお父さんがそこにいた。

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薄景子 12年2月12日放送


おやこの話 母がくれたもの

児童文学作家、松谷みよ子。
戦後の「働くお母さん」の先駆けとなり、
小さな子どもを保育園にあずけながら
数々の絵本や童話のロングセラーを生み出した。

そんな松谷を育てた母親は、
戦前・戦中という時代に、
こう言い切ったという。

うちのことは嫁に行けばできるようになるから今はせんでよろしい
だから本を読みなさい


母がくれた豊かな時間は、
彼女の絵本とともに、新しい世代へと受け継がれている。




おやこの話 やっちゃんの詩

おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい

この詩の作者は、やっちゃんこと山田康文くん。
重い脳性マヒだったやっちゃんは、
話すことも書くこともできなかったけれど。

養護学校の先生があげる言葉と
やっちゃんが表現したいことが一致したら、目をぎゅっと閉じ、
違っていれば舌をだすという方法で詩を完成させ、
その2ヵ月後、やっちゃんは15歳でこの世を去った。

やさしさこそが 大切で

悲しさこそが美しい

そんな 人の生き方を

教えてくれた おかあさん


自分を生み育ててくれた人に、あふれる想いを伝えたい。
時に、全身に汗をためながら言葉を選び、
生涯かけて、お母さんへの感謝を詩に託したやっちゃん。

生きることは、伝えること。
そう、やっちゃんに教えられる。

私はちゃんと、伝えられているだろうか。


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茂木彩海 12年2月12日放送

Jensk369
おやこの話 親子であること

ベルリン動物園のホッキョクグマ、クヌート。
母グマに育児放棄された小さな命は、
飼育員トーマス・デルフラインの献身的な愛で育てられた。

泥遊びは楽しいけれど、口に入れるとまずいこと。
水に身を任せれば、自然と泳げることを、ひとつひとつ教えた。

こらっ!
やるじゃないか。
大丈夫か。
重くなったね。
こっちにおいで。


投げかける言葉のひとつひとつは、あまりにも父親で、
誰がなんと言おうと、2人は親子だったに違いない。



5 ENGINE
おやこの話 宮部みゆきの言葉

ミステリー作家の女王、宮部みゆき。

たとえ子供向けの物語であろうとも
登場する子供を一人の人格としてとらえ、
現代をリアルに描くことを忘れない。

そんな宮部が小説の中に残した言葉。

親はなくても子は育つが、子供がいないと親は育たねぇ。

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