2012 年 2 月 のアーカイブ

小野麻利江 12年2月12日放送



おやこの話 母と描く花の絵

1日に1時間。
絵を描くために、
ベッドの上で、体を横にする。
それ以上つづけると、平衡感覚が保てず、
体に負担がかかってしまう。

星野富弘。
口に筆をくわえて、野の花の絵を描く。

中学校の体育教師になって、2ヶ月足らず。
クラブ活動の指導中に、頸髄を損傷。
首から下の運動機能を失った。

色をつくるのは、彼の母。
彼が発する小さなニュアンスの違いを聞き逃さず、
たんねんに、絵の具をまぜる。

母子で描いた、花の絵たち。
その中の1枚「なずな」には、
こんな言葉が添えられている。

神様がたった一度だけ
この腕を動かしてくださるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう

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大友美有紀 12年2月11日放送



大島育雄「自然と生きる美学」1

グリーンランドにある地球最北の村・シオラパルク。
そこに住む日本人がいる。大島育雄。

1972年、彼は極地最高峰への遠征の準備のため、
この村を訪れた。
到着した初めて夜、彼は村の歓待をうけた。
すべてイヌイットの料理だ。
胃袋が悲鳴をあげた。外に出て夜空を見上げた。

 星が冷たくきらめいていた。
 北斗七星の位置が高い。
 北極星は、ほぼ真上に近い。
 いま、これ以上北に人間は一人もいない。

大島はブルッと胴震いした。
最北の村との出会いだった。



大島育雄「自然と生きる美学」2

大島がシオラパルクを訪れた理由は、
かの冒険家・植村直己だった。

植村は犬ぞり訓練のために村に滞在していた。
大島は極地環境を体験するために植村の協力を仰いだ。
植村とともに村で暮らし、猟を体験し、
その魅力に取りつかれていった。

やがて植村直己は、村を離れ冒険と旅立ち、
さらにその先へと行ってしまった。
大島は、今なおシオラパルクで暮らしている。

 冒険に来て、また帰る。
 それは何か違うと感じた。
 すぐそこにある宝に目を向けず、
 通り過ぎていく気がしたんだよ。


ちづ
大島育雄「自然と生きる美学」3

いったん日本に帰った大島は
シオラパルクでの暮らしが忘れられなかった。
その生活は、人に命令されることもなければ、
命令することもない。

電気もなく娯楽も少ない。
けれど、それを超える狩猟の興奮がある。
また、狩猟を中心とした豊かな文化がある。
単純で豊富な生活。

 とてつもないスケールの自然のなかで猟をして、
 自分の手でとったその獲物を主食とし、衣類とする。
 生活の機構が単純で、自分の働きが
 そのまま生活に直結する。
 良くも悪くも、完全に自分が人生の主人公だ。



大島育雄「自然と生きる美学」4

大島は日本のテレビ局の取材班に同行する形で
シオラパルクに戻ってきた。
取材が終わったあとも、村に残った。
自分の好きなことを、とことんやってみようと
思ったからだ。

8月のある日、住んでいた小屋の外にラジオを持ち出し
無線連絡を聞いていた。
当時、村間の連絡は無線で行なわれていた。
「きのう、どこそこの村ではクジラがたくさん捕れた」という報告や
「誰々が病気だから、親族は行ってやったほうがいい」という個人向けの
連絡までもが放送される。

大島がのんびりラジオを聞いていると
大変な情報がとびこんできた。
「長老イニューツァッソワが、カナックの教会の牧師に
 8月某日に結婚式をしたいから
シオラパルクに来てほしいと要請している」というのだ。

そして、その結婚する2人は、大島とシオラパルク村の娘だった。

 人は驚くと仰天してしまうものだな。
 見上げる空の紺碧の中にチラチラと
 光のようなものが 踊っていたよ。
 でも、ためらいはなかった。
 このなりゆきに身をまかせることにしたんだ。



大島育雄「自然と生きる美学」5

大島とシオラパルクの娘・アンナは結婚して
1男4女をもうけた。

結婚して何年かした頃だった。
世界最北の村、しかも犬ぞりによる伝統的な狩猟で
暮らす村ということで、観光客も訪れようなった。
大島にガイドを頼んでくることもあった。
けれど大島はなるべくガイドを断りたかった。
それよりも好きな猟をしていたかった。

 私は猟が好きで猟師になった。
 金のために自分がやりたくもないことを
 やるのは、つまらない。
 金がなければ物質的な生活レベルを落とせばいいのだ。


Mike Chien
大島育雄「自然と生きる美学」6

大島が幼いこどもを連れて日本へ帰ったことがあった。
198年代時のことだ。彼の生家は東京郊外にあった。
それでも彼の目には、昔小魚をとって遊んだ用水路や川が
汚れてしまって無惨な印象だった。
ちょっとした浦島太郎の感覚だった。

 東京にいると何か世界が縮まってしまった錯覚があった。
 シオラパルクとは風景の尺度が違い過ぎるのだ。
 東京はあまりにも何もかもがひしめきあっているように見えた。



大島育雄「自然と生きる美学」7

今、大島は還暦を過ぎてなお、
グリーンランド、世界最北の村・シオラパルクに住んでいる、
長男と長女は猟師になり、一緒に村で暮らしている。

彼は「腕のいい猟師」として一目置かれる存在になった。
朝7時に起きて約2時間でウミガラスを百羽以上捕獲。
それも柄の長い網一本で、だ。
そのあとは、数日前にとったイッカクを解体、
アザラシ肉の薫製づくりなど一日中体を動かしている。

 猟は動物とのだまし合い。英語で猟をゲームと呼ぶけど、
 こんなに面白いゲームはないね。

自然の余剰分で命をつなぐ、
自給自足に近い生活を送っている。
狩猟は生態系の一部、とさえ誇っている。
そんな生活にも危機が訪れている。
海氷のとける時期と速度が早く、広くなっている。
氷が溶けてしまうと、猟はできない。

 若者には「文明」がひときわ、きらびやかな物に見える。
 自分たちの環境との、あまりの隔たり。
 しかし焦るな、と言いたい。
 とにかくここから始めるしかないのだ。
 焦らず、地に足をつけていかなければならない。

かつてシオラパルクに初めて電気入ったときの、大島の言葉だ。

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三國菜恵 12年2月5日放送

寿
野球をおもしろくした男たち/高畠導宏

落合博満選手、イチロー選手、小久保裕紀選手。
プロと呼ばれる人たちは
何か特別な才能に恵まれているように見える。

けれども、
彼らをずっと育ててきたバッティングコーチ
高畠導弘(たかばたけ みちひろ)は
「才能」というものについて、ただひと言、こんなふうにあらわした。

才能とは、決してあきらめないこと。



野球をおもしろくした男たち/ある少年

異なる野球リーグの人気選手同士が
一晩限りのドリームチームを結成するオールスター戦。

このイベントは
1933年、シカゴ万博のスポーツ記念行事としてはじまった。
そのきっかけは、ある一人の少年のこんな手紙だったとされている。

カール・ハッベルが投げて、ベーブ・ルースが打つ。
そんな夢のような試合が見たいのです。

この手紙に心を動かされた
当時の担当者アーチ・ウォード氏は、実現に向けて尽力。
結果、5万人もの観客を集める大イベントになった。

少年の素直な願望は、野球の世界に
新しいたのしみをもたらしたのだった。

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中村直史 12年2月5日放送



野球をおもしろくした男たち/福本豊

現役時代、名捕手として知られた野村克也は、
キャッチャーの技術を鍛えてくれた人、として
福本豊の名前を挙げる。

福本豊
通算盗塁数1065
最高シーズン盗塁数106
日本が世界に誇る盗塁王。

「福本は・・・」と野村は困ったように言う。
「走ると思えば走らないし、走らないと思えば走る」

福本豊の長所はまさにそこにあった。
つまり、次にどうくるか、「読めない」。

そして解説者になった今も、福本豊は、
持ち前の「読めなさ」で、プロ野球中継を盛り上げている。

盗塁のコツを聞かれて、
「まず塁に出なあかんなぁ」

さらには試合の解説中、アナウンサーにいまのピッチャーの心理は?と聞かれ、
「わからん」

キャッチャー泣かせだった男は、
いま、実況アナウンサーを泣かせている。


k_haruna
野球をおもしろくした男たち/赤星憲広

赤星憲広(あかほし のりひろ)
「赤い彗星」のニックネームで愛された
元・阪神タイガースのスピードスター。

得意としたのは盗塁。
あるとき「盗塁の秘訣」について質問された。

インタビュアーは赤星らしい独特の理論を期待したが、
意外な答えが返ってきた。
盗塁のコツは「勇気」。赤星は言った。

僕にとって盗塁の数は勇気の証です。

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三島邦彦 12年2月5日放送



野球をおもしろくした男たち/新庄剛志

プロ野球選手にとってグローブは大事な商売道具。
一流選手はオーダーメイドの一品を、職人と一緒に作り上げる。
しかし、激しい消耗のため、ほとんどの選手は毎年グローブを変えることになる。

1990年に阪神タイガース入団。
メジャーリーグを経て、2006年に日本ハムファイターズで引退を迎えた新庄剛志は、
その17年間のプロ野球生活を通じ、たった1つのグローブを使い続けた。

それは、18歳の時、プロ入りして初めての給料で買った7500円のグローブ。
壊れても、壊れても、何度も補修を重ねて使い続けた。

グローブの形が微妙に変わるからと、自分以外の誰もそのグローブに指を通すことを許さなかった。メジャーリーグ時代、チームメイトがそのグローブに触れてケンカになったこともあったという。

引退会見の場に現れた新庄はテーブルにそのグラブを置き、こう言った。

こいつがもうプレーできないといってました。

その華麗な守備でファンを魅了した野球人生は、
まさに、グローブと生きた日々だった。



野球をおもしろくした男たち/藤田元司

実力はあるのにピンチになると動揺し、自滅してしまう。
その気の小ささから「ノミの心臓」と呼ばれるピッチャーが
かつてジャイアンツにいた。

平成元年、藤田元司(ふじたもとし)監督が就任。
春先、藤田監督はその投手にやさしく声をかけた。

  おまえは気が小さいんじゃない、優しいんだ。
だからもっと自信を持てばいいんだ。

その投手の名前は、斎藤雅樹(さいとうまさき)。
この年、連続完投勝利の日本記録を樹立し、一躍巨人のエースの座へ。
欠点を長所に変えるひと言が、平成の大投手を生んだ。



野球をおもしろくした男たち/足立光宏

1976年11月2日。
後楽園球場では巨人対阪急の日本シリーズ第7戦が行われていた。
阪急ブレーブスの先発は、足立光宏(あだちみつひろ)。
巨人ファンの声援が轟くマウンドで静かにつぶやいた。

 騒げ・・もっと騒げ。

結果は足立の完投勝利。阪急が日本一を勝ち取った。

命までは取られはしない。
その冷静さが、勝利を呼んだ。

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三國菜恵 12年2月5日放送



野球をおもしろくした男たち/嶋田宗彦

和歌山県・箕島(みのしま)高校出身の野球選手、
嶋田宗彦(しまだ むねひこ)。

彼が出場した、1979年 夏の甲子園は
歴史にのこる名試合だったと言われている。

対戦相手は、石川県の名門・星稜(せいりょう)高校。
両者同点のまま迎えた、延長12回。
星稜高校が1点を追加、箕島高校は窮地においこまれる。

敗戦ムード一色の中、打順がまわってきた嶋田選手。
彼は、ベンチじゅうに聞こえる声でこう叫んだ。

「カントクーッ、ぼく、ホームラン、狙ってもええですかー!」

そのことばに、誰もがハッとおどろいた。
次の瞬間、チームメイト達が顔をあげると
レフトスタンドをめがけてホームランボールが飛んでいた。

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佐藤延夫 12年2月4日放送



松平康隆さんを偲ぶ1

優しい大人が増えている。

学校の先生も、
会社の上司も、
子どもを躾ける親までも。

その優しさは、相手を向上させることではなく、
自分が良く思われたいという思いが見え隠れする。

男子バレーボールの元日本代表監督、
松平康隆さんは、語る。

  大事なことをわからせるために、
  嫌われてもいいという覚悟がなければ
  監督だろうか親だろうが、まともにつとまりゃしない

昨年の大晦日、
厳しい大人がこの世を去った。



松平康隆さんを偲ぶ2

試合を楽しみたい、とコメントするスポーツ選手がいる。

プレッシャーと向き合わない方法なのか、
本気であるが故の照れ隠しなのか、
それとも、本当に楽しむつもりなのか。

男子バレーボールの元日本代表監督、
松平康隆さんは、語る。

  エンジョイしに行くのなら、
  オリンピックとは言わず、ピクニックと言え

こんなことばかり言うから嫌われるんだ、
と松平さんは笑う。


ちづ
松平康隆さんを偲ぶ3

たかがスポーツ、と言う人がいる。

そんな相手に対して、
男子バレーボールの元日本代表監督、
松平康隆さんは本気で抗議した。
ときには作家に、そしてときには政治家にも。

  人間が最も頑張れるのは深い感動の力によって、です。

考えてみれば、
人々が熱狂し、雄叫びをあげるのは
スポーツのワンシーンであることが多い。



松平康隆さんを偲ぶ4

1964年、東京オリンピック。
男子バレーボールは銅メダルを獲得したが、
世間は相手にしなかった。
東洋の魔女、女子バレーが金メダルを取ったからだ。

これを松平康隆さんは、銅メダルの屈辱と呼ぶ。

そして8年後のミュンヘンオリンピックで、
男子バレーボールは、初の金メダルに輝いた。

ウルトラ時間差。
Aクイック。
Bクイック。

現在のバレーボールで常識になった技は、
「小さなナポレオン」と呼ばれた松平さんが開発した。
この言葉を胸に抱きながら。

  常識の延長線上に世界一は絶対にない。
  非常識の延長線上にしか、世界一はない。



松平康隆さんを偲ぶ5

男子バレーボールの元日本代表監督、
松平康隆さんには、
目の不自由なお母さんがいた。
そして人生に必要な多くのことを教わった。

  負け犬になるな
  男は語尾をはっきりしろ
  卑怯なことはするな

松平康隆さんは、サインを求められると
必ず一筆、書き添える。

  負けてたまるか

母から貰った、ありのままの言葉。
その重さを忘れてはならない。


Mike Chien
松平康隆さんを偲ぶ6

それは東京オリンピックの一年前。
男子と女子のバレーボールチームは、
ヨーロッパ遠征に旅立った。

女子は22戦全勝。
かたや男子は22戦全敗。

当時、男子バレーのコーチだった
松平康隆さんは、この屈辱をバネにした。
だからこんな言葉が残された。

  金メダルを取るために、犯罪以外は何でもやった。



松平康隆さんを偲ぶ7

  報われることを期待して、努力してはいけない

男子バレーボールの元日本代表監督、松平康隆さんは、
選手たちに必ずこう言ったという。

それは冷たい言い草のように思えるが、
世の中は、現実は、確かに甘くない。
努力すれば誰でも金メダルが取れるわけではないのだから。

松平さんが言いたかったのは、
「為せばなる」ではなく、
「為そうとする気持ちが大切」ということ。

そして指導者に対しても、自説を語る。

  指導者とは、教える人間ではありません。
  もっとも心掛けなければならないのは、
  生み出すことのできる人間に育ててやることです。

自分の役割をしっかりと心得ている指導者は、
今の日本に、何人いるだろう。

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SBC ラジオCMコピーライターコンクール

去年、このコンテストでグランプリを取ったCMは
消費者のための広告賞でも最優秀賞を獲得しました。
プロアマ問わずチャンスです。
応募の締め切りは2月29日、詳細は下記URLからどうぞ。
http://sbc21.co.jp/radio/cm2012/index.html

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五島の焼き鯖寿司を食べてみた

五島の焼き鯖寿司が銀座のデパートの地下で売られていた。
1本買って帰って会社のみんなと食べた。

えらそうな包装紙にくるんであった。
鯖寿司は棒寿司で、要するに棒のようになっている。
それを切って売るか棒のまま切らずに売るか
客のリクエストに合わせて切ったり切らなかったりするのか
それは店の方針によると思うが
この焼き鯖寿司は切ってあって、さらに一切れづつラップしてあった。

さらに酢飯と鯖のあいだに椎茸と生姜が入っていた。

ちょいと固くなった鯖寿司を火鉢で焼いて…というのが
焼き鯖寿司と思っていたが、なかなかそうではなかった。
他の鯖寿司を調べても
生姜や青じそがはさんであるものが多い。
(シンプルなものもあった)

なるほど….

ところで、焼き鯖寿司には醤油も添えられていたが
どうもその醤油が甘いようだった(玉子)

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西尾まりちゃんの牛深通信はじまる

天草の地域活性化とPRをめざした映画「ワッゲンオッゲン」出演のために
1ヶ月の間、天草市牛深町の一軒家に移り住むことになった
女優の西尾まりちゃんのレポートがはじまっています。

上の写真は天草エアラインの飛行機。
座席数およそ40。


まりちゃんが住み着いた一軒家のちかくに売りに来る魚屋さんと八百屋さん。
魚はビニール袋一杯の鯵が500円、安い!

その一軒家の台所はこんな感じ。
コンロはカセットコンロでしたが、2月1日にガスコンロがつきました。

映画ワッゲンオッゲンのHPはこちら:http://amakusa-movie.com/

Tokyo Copywriters’ STreet「西尾まりの牛深通信」はこちら:
http://www.01-radio.com/tcs/archives/category/ushibuka

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