2009 年 6 月 のアーカイブ

マイケル嫌いだったけど・・・

「マイケル嫌いだったけど、これ読んで好きになったよ」
と友人が電話をしてきてくれました。

1980年生まれの私達は、
彼の音楽よりもゴシップのほうが、記憶に焼き付いています。
だから、金曜日の夜に、
「今からマイケルを書こうよ」と誘われたときは、ためらいました。

熱く語るディレクターの千葉さんに、
私がぶつけた言葉は、
「マイケルの少年愛は、どう思いますか?」

千葉さんの答えは、
「あれはホモセクシャルな愛ではなく、純粋な友情だよ。
マイケルが信じられるのは、動物と子供だけだったんだ」

それは、私には無い視点でした。
もし、「マイケルほどの天才なら、何しても許されるよ」
という答えだったら、書けなかったかもしれません。

私には真実は分からないけれど。
マイケルを信じる千葉さんを信じて、書こうと決めました。

マイケルを紐解いていくと、
彼の才能や完璧さ、苦しみや喜びが、どんどん見えてきて、
こんな人を、よく知らずに嫌ってしまうのは、
もったいないと思うようになりました。

明るくなる頃に書き上がった7本の原稿は、
一夜漬けの拙さがあったのですが、
古田さん、千葉さん、VieVieさんのおかげで、
マイケル追悼特集として完成しました。

私とおなじように、
あたらしいマイケルファンが誕生しますように。

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五島のはなし⑯

美しい五島の私。

・・・書いてみたらどんな気分になるだろうと思って
書きましたがどんな気分にもなりませんね。
「美しい」が「私」の修飾語ではないと
はっきりしたぐらいでしょうか。

今さらですが、自己紹介します。
ここで五島のはなしを書くにいたった波乱万丈の半生を書きます。
えー自分のこと語っちゃうの?って感じですよね。わかります、すごいわかります。
でも書きますすみません。

僕は五島の福江島で生まれました。
父と母の実家が300メートルくらいしか離れていないという
生粋の五島人です。高校まで島で過ごし、
島でずっと暮らしたいと思いつつも
大学の間だけでも都会暮らしを!と思って関東に出てきました。
関東=東京のような大都市。と思っていたら
僕が行った大学はとっても田舎で、
4年間過ごした後、「あれ、念願の都会暮らしまだしてないぞ」って気分になりました。
じゃあいっそ外国の都会に行ってみようかと
ロサンゼルスに留学したのですが、あそこもだだっ広いだけで、
4年間過ごした後、「結局、都会暮らしを達成してないぞ」って気分に。
こうなったら、あこがれの東京で就職しよう!
ということで、東京の広告代理店(響きが都会的!)に就職し、
日本の学校で専攻した地質学とも、アメリカの学校で専攻した文化人類学とも
まったく関係ないコピーライターになり、そして結局あまり都会でもない
横浜のとある町に住んでます(本能が真の都会暮らしを避けているのでしょうか)。

5年働いたら島に帰ろうと思ってたんですが、
なんも成し遂げないうちに帰るのもかっこ悪いですし、
そうこうしているうちに仕事がおもしろくなってしまい、
そうこうしているうちに尊敬するコピーライターである
厚焼玉子(変わった名前と思うかもしれませんが、ペンネームです)さんに
声をかけられ、J-WAVEの「Vision」に原稿を書いています。
社会人になって9年が経ちました。早い。です。

いつか島に帰って恩返しを、的な気持ちを持っているのですが、
なかなかふんぎりがつかないので、
ここで少しでも故郷の五島を盛り上げようというのがこの趣旨です。
・・・ああ、書いてみたら何の波乱万丈もなかった。

がんばれ、五島(そして俺)!

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カンヌふたつのグランプリ

Promo Lions Grand Prix
PRライオン2

Type of Entry:Product & Service
Category:Travel, Entertainment & Leisure
Title:YUBARI
Advertiser/Client:YUBARI RESORT
Product/Service:RESORT FACILITIES
Entrant Company:BEACON COMMUNICATIONS Tokyo, JAPAN
Sales Promotion/Advertising Agency:BEACON COMMUNICATIONS Tokyo, JAPAN

Masato Mitsudera Beacon CommunicationsCreative Director
Naoki Nishimura Beacon CommunicationsArt Director
Go Suzuki Beacon CommunicationsAccount Management
Hideyuki Soraoka Beacon CommunicationsAccount Management
Tomoko Shigetome Beacon CommunicationsAccount Management
Mika Archer Ms/LPR

Promo Lions Grand Prix
メディアグランプリ

Type of Entry:Product & Service
Category:Fast Moving Consumer Goods
Title:KIT KAT MAIL 2009
Advertiser/Client:NESTLÉ CONFECTIONERY
Product/Service:KIT KAT
Entrant Company:JWT JAPAN Tokyo, JAPAN
Advertising Agency:JWT JAPAN Tokyo, JAPAN

Eisaku Sekihashi JWT Japan Senior Creative Director
Kiyoshi Usami JWT Japan Senior Account Planning Director
Shizu Yamada JWT Japan Art Director
Midori Usui JWT Japan Copywriter
Yasuhiko Yuasa JWT Japan Account Director
Yuki Nakamura JWT Japan Account Executive
Naoya Takahashi JWT Japan Chief Producer
Maemi Kobayashi JWT Japan Producer
Prap JapanPR

*ざっと知りたいかたはこちらが便利かも
http://newsrandom.exblog.jp/10515133/

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細田高広 09年6月28日放送

1.5

クリント・イーストウッド

若きクリント・イーストウッドに、
銃より口を多く使う、
おしゃべりなガンマンの
役がまわってきた。

脚本を読んだ彼は、
ガンマンが語り過ぎることに
どうも納得がいかず。
すぐさま監督に詰めよった。

見る側に考えさせるのが、A級映画。
すべて説明してしまうのは、B級だ。
観客を、みくびってはいけない。

そう言うと彼は自ら、
10ページ分のセリフを、
わずか1行に書き換えた。

マカロニウェスタンの名作、『荒野の用心棒』。
無口なガンマンは、こうして誕生した。





2

ジョン・ケージ A

作曲家ジョン・ケージ。
彼の代表作を、聞いてみよう。

何も聞えない?
いや。
あなたは確かに聞いている。

1940年代の末。
『無音』を聞くべくハーバード大学の
『無響室』へ入ったジョンは、そこでもなお、
血液や神経の音が聞えたことに驚く。

風が、心臓が、空調が、
全てが音を持つこの世界で、
完全な無音などありえない。

そう気付いた彼は「4分33秒」を作曲した。
沈黙でできた4分33秒の音楽。

さぁ、もう一度少し聞いてみよう。

あなたには、何が、聞こえましたか?

2.5

ジョン・ケージ B

その音楽は、
2001年9月5日ドイツで始まった。

無音パートが1年半続き、
2003年には最初のコードが鳴らされた。
2006年にコード変わり、
2008年に6番目の音が鳴り、
その音楽は、まだ続いているどころか
2639年まで終わらない。

600年以上かかる音楽を、
馬鹿馬鹿しく思うとき。

同時に、
分刻みで動く一日も同じくらい
馬鹿馬鹿しく思えてくる。

おそらくそれが、
作曲者ジョン・ケージの狙いなのだ。

“AS SLOW AS POSSIBLE”

その曲は、今日も、のんびり、続いている。

3

ジャンヌ・モロー

女優、ジャンヌ・モロー。

映画「突然炎のごとく」で
自由奔放な主人公を演じた彼女は
美しいだけではない
新しい女性像を表現した、と絶賛される。

公開後「主人公は私そのものです」
という内容の手紙が、
世界中から届いたほど。

そんな彼女が、
理想の男性像について、
こう語っている。

名声も知性もお金もみんな私がもっている。
だから男は美しいだけでいい。

現実の彼女は、
スクリーンの中より、革新的だった。


4

スパイク・ジョーンズ

ブランド会社の経営者。
TV番組のプロデューサー。
映像作家。俳優。
そして、映画監督。

これらの肩書きは、全て一人の男、
スパイク・ジョーンズのものである。

ジャンルの壁を軽々飛び越え
次々と新しい驚きを世に「発信」する彼。

その頭の中には、どれだけ緻密で戦略的な
思考回路が巡っているのだろう。

俳優マルコヴィッチは、こう証言する。

スパイクには、語彙が数えるほどしかない。
「それはいい!」「驚いた!」「クレイジーだね!」。
ほんと、なんでも面白がるんだ。

誰よりも発信する男は、
誰よりも受信する男でもあった。


5

セルジュ・ゲンスブール 

人生の成功は、どう定義すれば良いだろう。

セルジュ・ゲンスブールは、
自らのルックスにコンプレックスを抱えた、
実に気弱な男だった。

コンプレックスを燃料に、
曲を書き、歌をうたい、映画を撮り、
ポップスターになった。

気弱な自分を偽るように
テレビの前でお札を燃やし、
挑発的な態度をとることで、
若者たちの尊敬を勝ち取った。

だが結局、コンプレックスは、
最後まで拭えなかった。
そんな生き様を、彼は自らこう評している。

全てにおいて成功したが、人生には失敗した。

6

パブロ・ピカソ

本当の怒りとは、案外、静かなものだ。

1940年、
ドイツ軍がパリを占領した際、
多くのアトリエが、
ナチスの検閲を受けることになった。
農民などを描いた具象画以外は、
すべてが、退廃芸術と見なされたのだ。

とあるアトリエで。
ナチスの検閲官が、泣き叫ぶ女性や狂った馬の
描かれた壁画の写真を見つけた。

「これを描いたのはあなたですか?」
検閲官がアトリエにいた男に尋ねると、
男は静かに答えた。

いや、違う。きみたちだ。

男の名は、パブロ・ピカソ。
壁画のタイトルは、『ゲルニカ』といった。


7

ブライアン・イーノ 3.25秒の音楽

デビッドボウイやU2
のプロデューサーにして環境音楽の創始者、
ブライアン・イーノ。
彼の元に、ある日一風変わった作曲依頼が舞い込む。

人を鼓舞し、世界中の人に愛され、
明るく斬新で、感情を揺さぶられ、
情熱をかきたてられるような曲。
ただし、長さは3秒コンマ25

アイデアに悩むスランプ期にあったブライアンは、
「待ち望んでいた難題だ!」と快諾。

やがて生まれた音楽とは、

そう、あのWINDOWS 95の起動音。

パソコン時代を告げるファンファーレとして。
世界のデスクで奏でられた。

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THRILLER

THRILLER

(場合が場合だけに悪趣味ですみません。
 バイオハザードにも見えますね)

Earth Song

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カンヌより。

「マイケルが死んだ」
というニュースはここカンヌでも衝撃で。
お店ではマイケルの歌やビデオが繰り返し流れ、
みな広告の話そっちのけで語らっています。
マイケルについて。
そしてマイケルと共にあった自分の青春について。
それらを話す時、みんな悲しいんだけど少し楽しそうなのは、
マイケルの曲が必ずその人の
ちょっと恥ずかしくて、でも、ちょっとまぶしかった記憶と共に
あるからなんでしょうか。

申し遅れましたが、
いまカンヌにいます、Team visionの小山です。
カンヌ滞在記を書かないか?
と言われてうっかりそのまま最終日を迎えてしまいました。
初回にして最終回。
かもしれない。
しかも全然レポートじゃない。
本当にすみません。

これからフィルムの表彰式。
そしてグランドフィナーレです。

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マイケル・ジャクソン放送中

Visionのトップページには
「八木田杏子 09年6月27日放送」として
マリリン・モンローの原稿が並んでますが。

今日、実際に放送されているのは、
八木田さんがリアルタイムで
書いた「マイケル・ジャクソン」です。

ぜひ聴いてください。

次のチャンスは22:54~
その次が23:54~

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八木田杏子 09年6月27日放送

1

マイケル・ジャクソンの才能

その歌声を聞いた誰もが、自分の耳を疑った。

大人には出せない、澄みきった声。
子供には持てない、確かな音程とリズム。

不可能を可能にしたのは、
わずか5歳のマイケル・ジャクソン。

歌うことが、好きで好きで、たまらない

その思いを抑えきれず、
はじけるような笑顔で、ステップを踏む。

少年の濁りのない声は、
大人の濁った心も、澄み渡らせていく。

5歳のマイケル・ジャクソン。

天使の歌声をもつ少年は、天使ではいられなくなる。



2

マイケル・ジャクソンの出現

楽しいから歌うのは、アマチュア。
辛くても歌うのが、プロフェッショナル。

11歳のマイケル・ジャクソンは、
もう、プロの顔になっていた。

ジャクソン5の一員としてメジャーデビューした途端、
全米ヒットチャートのNO1に躍り出た。

いちばん小さな少年が、リードボーカルだった。

11歳の少年のパフォーマンスに全米が沸いた。
いちばん真剣に歌っていた。
無心の笑顔で。

11歳のマイケル・ジャクソン。

それはもう、プロの顔だった。

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マイケル・ジャクソンの独立

人形のように愛らしい少年も、
人間の生々しさをもつ青年になる。

声変わりをしたマイケル・ジャクソンは、もう少年ではない。

音楽プロデューサーの
クインシー・ジョーンズと出会ったとき。

マイケルは尋ねた。

誰か僕に合うプロデューサーはいないかな

すると、クインシーはこう答えた。

私じゃ駄目かな

クインシーの手ほどきで、
マイケルは作詞・作曲を手がける。

20歳のマイケル・ジャクソン。

大物プロデューサーは、人形を人間に変えていく。

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マイケル・ジャクソンの拡大

見える壁は壊すことが出来るけれど
差別という見えない壁は、壊し方すらわからない。

当時、MTVでは黒人の作品は放送されなかった。
その壁に風穴をあけたのは、マイケル・ジャクソン。

1983年1月。

「Billie Jean」が、
MTVで繰り返し流される。

輝くようなマイケルがそこにいた。

そのときは批判的だった一部の人間も、
12月に「Thriller(スリラー)」が公開されると、口を閉ざした。

25歳のマイケル・ジャクソン。

彼はそのまま、頂点までのぼり詰めた。

どんな壁も、マイケルの音楽を閉じ込めておくことは出来なかった。

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マイケル・ジャクソンの白と黒

「白人も黒人も関係ない」
と、マイケル・ジャクソンは歌う。

白人と黒人の関係に、
誰よりも苦しんでいたから。

1991年に発売された「Black or White」。
違いを乗り越えようとする歌は、世界を動かした。

世界20カ国以上でナンバーワン。
全米チャートで、7週連続ナンバーワン。

それでも、マイケルは満たされない。
お金も地位も名誉も、すべてを手に入れたのに。

33歳のマイケル・ジャクソン。

白い肌になりたくて、なりたくて。
生まれたときとは違う姿に、なっていく。


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マイケル・ジャクソンの夢

天使の歌声を、お金に換えていく。
そんな大人たちに囲まれていたマイケル・ジャクソン。

期待に応える少年を演じながら、心の中に壁をつくった。
本当の自分を守るために。

カリフォルニア州サンタバーバラの「ネバーランド」。
そこは、マイケルの「砦」だった。

そこに素顔のマイケルがいた。
動物たちと戯れ、子供たちと遊ぶ。

マイケルの心の中は、「大人立ち入り禁止」だった。

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マイケル・ジャクソンの最期

天才といわれたエンターテイナーは、
自分の人生のラストを創りこめなかった。

ロンドンでのファイナル公演は、もうすぐだった。
マイケル・ジャクソンの人生の幕は、突然おろされた。

同時代を生きたマドンナはこう追悼した。

世界は偉大な人を失ったが、彼の音楽は永遠に生き続けます

映画監督のスティーブン・スピルバーグもこう語る。

マイケル・ジャクソンに匹敵する人はもう2度と現れないだろう。
彼の才能、驚き、ミステリーがマイケルを伝説にする

そして、最愛の音楽プロデューサー、
クインシー・ジョーンズはこうコメントした。

私は今日、弟をなくした。
私の心の一部も、彼と一緒になくなった


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五島のはなし⑮

昨日、J-WAVE開局が島の中学校で
話題になったと書きましたが、
それといっしょに思い出したのが
ラフォーレ原宿。なぜかは覚えてないですが
ラフォーレ原宿も話題になっていた。
「ねえ、知っとる?ラフォーレ原宿、ナウかよね~」
と、皆で話してたのだ。だれも東京行ったことないのに。

さらに高校のとき好きだった女の子は
「東京に行きたい」が口癖で、なんで行きたいのか聞くと
「竹下通りば歩いてみたかけん」と言っていた。

そんなどこぞのわけのわからん通りより、
目の前の男のことを好きになってくれ
という気分で、なんというか
今でも竹下通りには嫉妬に似た気持ちを覚える。

そういえば、最近五島の高校を卒業したいとこが、
ディベートの授業(いまどきの高校はそんな授業があるらしい)
で「住むなら五島派VS住むなら都会派」の議論を
やろうとしたら、ほぼ全員「都会に行きたい」と言って
ディベートにならなかったと言っていました。

がんばれ、五島!

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五島のはなし⑭

ほんと、いきなり思い出しました。
J-WAVEの開局の日のこと。
たぶん中3くらいだったです。
そのころは毎月「FMステーション」を読んでて、
わたせせいぞうさんイラストのカセットテープのラベルを集め、
せっせとラジオ番組を録音したり、レコードからカセットにダビングしたり
してました。聴いてたのはBOOWY、バービーボーイズ、サザン、ノーバディ、
TMネットワーク、ボンジョビ、a~haみたいな人たち
(書いてみるとすごく恥ずかしいのはなぜだろう)だったと思う。

で、J-WAVE。
なぜか島の中学(福江中学校)でも話題になってたんです。
クラスの中で、都会の事情に通じていたSさんという女子が
(そーいえばノーバディやボウイは彼女の影響ではなかったか)
「知っとる?〇月〇日J-WAVEの開局すっとよ」的なことを言ったのである。

Sさんが教えてくれたのか、情報誌で見たのか、
頭に「81.3」は刻みつけられてて、
開局の日、開局の時間に、ラジカセ(赤のAIWA、ダブルデッキだった)の
周波数を合わせて待ち構えていたが、うんともすんとも言わない。

そりゃーそーです。
J-WAVEの電波が九州のそのまた先の島まで届いてるわけがない。
でもそのころそんな親切な説明はどこにもなかった気がする。
しばらく後に「日本全国でJ-WAVEが聴けるわけではない」という
超基本的事実を知ったときの、なんというか、
残念さとみじめさと恥ずかしさを足してそのまま割らないみたいな感情は
いまでもけっこう覚えていて、それはもしかしたら、後々の
「いつか東京に行ってやる!」という気持ちのきっかけだったかも知れない。

おーい、20年前の俺!
なんか知らんけど、いま俺ちょっとJ-WAVEに関わっとるぞー!

と叫んでみたい気分。

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