八木田杏子 10年06月27日放送

ディアギレフの才能

1.ディアギレフの才能

才能がないと言われた人の、
才能を見つけだす方法がある。

ロシアの貴族の息子、
ディアギレフはそれを知っていた。


 何の才能にも恵まれなかった男。
 でも天職を見つけた。

多くの才能を集める仕事、
そして、その才能が活躍する場をつくる仕事。

ディアギレフの一生は、そのために捧げられた。

ピカソやコクトーなどの芸術家の協力を得て
芸術革命をおこすロシアバレエ団をつくった彼は、
世界初のプロデューサーかもしれない。

ディアギレフの意

2.ディアギレフの意

20世紀のはじめに、音楽、美術、文学
すべてに影響を与えたロシアバレエ団。

1921年に上演した「眠りの森の美女」は
端役のダンサーまで
金糸銀糸の刺繍に宝石を縫い付けた衣装を身につけた
超豪華版で
観客拍手はもらったものの
プロデューサーのディアギレフは、
多額の負債をかかえる。

ダンサーをホテルに泊めるために、
自分は使用人部屋で寝起きすることもあったディアギレフ。

パリの社交界では、ロシア貴族らしい振る舞いをして、
パトロンには弱音を吐かないディアギレフ。

一張羅だったビーバーの毛皮のコートが擦り切れても、
芸術への想いは擦り切れないディアギレフ。

世界中の才能が、
彼に惹きつけられたのも無理はない。

フォーキンの疑問

3.フォーキンの疑問

1898年にロシアの演劇学校を卒業したばかりのダンサー、
ミハイル・フォーキンは疑問を感じていた。

踊りのスタイルが、
なぜ曲のテーマや衣装と調和していないのだろう。
バレエの心理表現は、
なぜ、脈絡もない一定の型で表すのだろう。

誰かに答えを求めても
伝統に根ざした決まりごとに疑問を感じる人はいない。
自分の手で、答えを創るしかなかった。

1909年、フォーキンはロシアバレエ団に加わり
振り付け師としてあたらしいバレエに挑戦する。

レ・シルフィード、ダッタン人の踊り、火の鳥…
傑作が次々に生まれた。
中性的なニジンスキーの魅力と跳躍を活かした
『薔薇の精』を見た観客は息をのんだ。
同じくニジンスキーのペトルーシュカは
観客の魂を揺さぶったといまでも語り伝えられる。

この「ペトルーシュカ」でフォーキンは
はじめてのこころみをした。
主役たちの背後で踊る群舞と呼ばれるダンサーたちに
兵隊、警官、子守り、大道芸人などの役柄を与えたのだ。

新人のときに感じた疑問の答えを、
自分の手で創りだしたフォーキン。

バレエにおける民主主義は
フォーキンによってもたらされた。

ニジンスキーの跳躍

4.ニジンスキーの跳躍

クラシックバレエの天才ダンサー、
ニジンスキー。

彼の素顔は内気な青年だった。
おそらく「牧神の午後」と出会うまで
自分が振り付けや演出をすることになるとは
思ってもみなかったに違いない。

マラルメの詩とドビュッシーの曲
そしてニジンスキー振り付けの「牧神の午後」は
1912年、ロシアバレエ団によって上演される。

言葉の少ない青年が、心の内からたぐりよせる動きは、
バレエを壊しかねないものだったけれど
静まりかえった客席の何人かは
モダンバレエがいま生まれたことを知っていた。

ロシアバレエ団の春

5.ロシアバレエ団の春

「春の祭典」は
ロシアバレエ団が1913年にパリで上演した。

不可思議なリズムと、不協和音でつくられた音楽。
奇妙なポーズで、小刻みに飛び跳ねるダンス。

クラシックに慣れていた観客は、耳と目をうたがった。
これは芸術への冒涜ではないだろうか。
観客を侮辱しようとしているのだろうか。

観客は賛成派と反対派に別れて争った。
暴れる観客は警官が取り押さえたが
野次や足踏みや殴り合いの騒々しさで
舞台で踊るダンサーに音楽が聞こえないほどだったという。

今でも斬新に感じる『春の祭典』に、
100年前のパリは、パニックを起こし
翌朝の新聞には「春の虐殺」という見出しが載った。

けれども、
この事件はクラシックが窮屈になっていた芸術家たちにとって
いい刺激になったようだ。

ココ・シャネルも、そのひとり。

ロシアバレエ団の旗印に
ますます多くの芸術家が集うようになってきた。。

ストラヴィンスキーの騒音

6.ストラヴィンスキーの騒音

不協和音を好んで使う
27歳のストラヴィンスキーは、
才能がないと評されることがあった。

けれどもロシアバレエ団の支配人ディアギレフは
彼の才能を見抜き、「火の鳥」を依頼する。

ストラヴィンスキーが書き上げた曲は、
いかにもストラヴィンスキーらしい
独特のリズムと不協和音でできていたために
主役を務めるはずのバレリーナは、
「騒音みたい」と評して舞台を降りてしまった。

しかし、1910年『火の鳥』が上演されると、
観客は熱狂し、
前衛的な作品にもかかわらず人気演目になる。

新しい才能は、否定されるところからはじまるのかもしれない。

ピカソの恋

7.ピカソの恋

ピカソがデザインするバレエの衣装は、
人体の形や動きを無視した
キュビズム的造形物だったので
立っているだけでも大変なほどだった。

しかし、それが一変したのは
ピカソの恋だった。
そのお相手はロシアバレエ団のダンサー、オリガ。

リハーサルに通いつめて、
動くことでより美しく見える衣装を創りあげた。

1919年。
ピカソの恋から生まれた造形美は、
バレエの舞台から街へ広がり、
流行のファッションになった。



8.コクトーの再戦

社交界のプリンスだった、ジャン・コクトー。

ロシア・バレエ団を率いるディアギレフに、
こんな言葉をかけられる。


ジャン、僕を驚かせてごらん。

20代前半だったコクトーは、
インドをテーマにした
Le Dieu Bleu(青神)という台本を書いた。

しかし、『青神』は、
豪華な衣装とメンバーにもかかわらず、
10回に満たない上演で忘れ去られる。

その5年後。

コクトーは再び、舞台に戻ってくる。
いまこの時代に生きている人、音、動きを
バレエにした「パラード」

作曲にサティ、衣装にピカソを迎えて
1917年に上演されたパラードは
初日から激しい怒号につつまれた。

ついにコクトーはディアギレフをびっくりさせたのだ。

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