藤本組・藤本宗将

福宿桃香 16年12月10日放送

161210-03

1860年3月3日の雪

1860年3月3日。
季節外れの大雪に見舞われたその日、
井伊直弼は、水戸浪士らによって暗殺された。

彼の護衛は五十名を超え、普段であれば負けるはずもない戦い。
ところが雪に備えた重装備であったため
すぐに刀を抜くことができず、わずか十数名の敵によって、
井伊直弼は首を落とされてしまったのである。

知らせを聞いて駆け付けた武士は、そのときの光景をこう語った。

「雪は桜の花を散らしたように血染となっていました。」

桜田門外の変ー。
もしも雪が降っていなければ、歴史は変わっていたかもしれない。

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村山覚 16年12月10日放送

161210-04

1998年1月8日の雪

その日は雪が降っていた。
1998年1月8日。全国高校サッカー決勝。

試合開始時の気温は0.8℃。湿度は94%。
一面まっ白に染まった国立競技場は
まともなプレーができる状態ではなかった。

前半終わって1-1。ハーフタイム中に
ゴール手前の雪がとりのぞかれた。
結果的に、そのことが試合の流れを変えた。

後半5分。東福岡高校の10番・本山が
ほんの少しだけ緑が見えるペナルティエリアに
ドリブルで切り込む。帝京のディフェンダーが
いなくなったスペースに9番・青柳が飛び込んで
逆転ゴール。

後に本山はこう語った。

「みんな覚えてくれている。
 雪があったおかげだと思います」

まっ白な雪は、
ドラマを色鮮やかにする舞台装置でもある。

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藤本宗将 16年12月10日放送

161210-05

1936年2月26日の雪

1936年2月26日。
雪の東京は、その日クーデターで血に染まった。
世に言う2・26事件。

作家の尾崎士郎はこの日のことを回想し、
こう書き残している。

「雨でなくてよかった。小春日和でなくてよかった。
 雨だったらどんなに陰惨な記憶を残したであろう。
 小春日和であったら私は生きることに望みをうしなったかも知れぬ。
 しかし、幸いにも雪の日であった。」

雪で覆ってしまいたいような日が、
歴史には存在する。

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藤本宗将 16年11月12日放送

161112-01

岩倉具視と洋服

明治4年。岩倉使節団が
まず到着したアメリカで注目の的になったのは、
髷と和服姿の岩倉具視だった。

熱烈な歓迎に上機嫌だった岩倉は、
真実を聞かされ愕然とする。
アメリカ人たちは、
未開の国の奇妙な風俗を見物するために
集まっていたのだ。

ついに岩倉は断髪。装いも洋服に改めた。
そのニュースが伝わると
日本でも洋服を着る習慣が広まることになった。

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永久眞規 16年11月12日放送

161112-02

陸奥亮子と洋服

陸奥宗光の妻、陸奥亮子は
もとは新橋の芸妓だった。

宗光に見初められ社交界に入った亮子は、
「鹿鳴館の華」と呼ばれる。
さらに夫が駐米公使になると、ともに渡米。
その美貌と聡明さで「ワシントン社交界の華」となった。

着慣れていた着物を脱いで洋服を着こなし、
世界の賞賛を集めた大和撫子。
彼女こそ、文明開化そのものだった。

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藤本宗将 16年11月12日放送

161112-03

広岡浅子と洋服

女性実業家の先駆けであり、
女子教育の発展にも尽力した広岡浅子。

新しいことをどんどん取り入れる合理的な彼女らしく
洋服をとても好んだといい、
現存する写真のほとんどは洋服姿で撮影されている。

ただ、「西洋のものはすべて正しい」
と言わんばかりの浅子に対して、
当時の大阪毎日新聞は
こんな皮肉たっぷりのコラムを載せている。

 浅子女史は洋服が好きだ。
 生まれ落ちるとき洋服を着ていなかったのが
 残念に思われるほど、洋服が好きだ。

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村山覚 16年11月12日放送

161112-04

小篠綾子と洋服

大阪・岸和田の呉服屋の長女として育った

小篠綾子は洋服が大好きだった。



ふとんの裏地を縫い合わせて自分のワンピースをつくった。

女学校をサボっては、町で唯一ミシンのある店に通いつめた。



そのことは父の耳にも入る。

呉服屋からしてみれば、洋服屋は商売仇。



「許して」「あかん!」「許して」「あかん!」



父の反対を押し切り、

ミシンや裁断の勉強をするために学校を中退。15歳だった。



およそ20年後。着心地がよくおしゃれな洋服が評判になった

コシノ洋装店に、ある注文が届く。自分が中退した母校から、

制服をつくってほしいという依頼だった。



洋服は時代とともに変わり続けるが、

ぴかぴかの服を着る喜びは、今も昔も変わらない。

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村山覚 16年11月12日放送

161112-05

福沢諭吉と洋服

今から144年前。福沢諭吉は大学内に
衣服仕立局という洋服屋をつくった。

当時、洋服は半年分の学費に相当する超高級品。
西洋を学ぶ若者たちのために
国産・低価格の服を仕立てて販売した。

 洋服の便利なるは今更いうに及ばず。

一万円札の肖像で和服のイメージが強い福沢先生。
学問だけじゃなく洋服もすゝめていたんですね。

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藤本宗将 16年10月8日放送

161008-01
BIANCHI
読書の話 二宮金次郎

日本でいちばん有名な読書家といえば誰だろう?

おそらくだが、それは
薪を背負いながら本を読むあの少年。
二宮金次郎ではないだろうか。

しかし実際の金次郎少年が
薪を背負って読書したという証拠はなく、
明治時代の伝記で定着したイメージらしい。

古代中国で薪を売りながら読書していた
朱買臣(しゅ ばいしん)の話をもとにしたとも、
イギリスの宗教書の挿絵に
影響されたともいわれている。

現実の金次郎がどうだったかはともかく、
勤勉な国民の理想像として
子どもたちに広められたのだ。

ところで最近見かけなくなった金次郎の銅像だが、
その理由は、あの姿が
「歩きスマホ」を想起させるからなんだとか。

真似しろとか、真似するなとか、
後世の人間たちは勝手なものである。

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藤本宗将 16年10月8日放送

161008-02
katerha
読書の話 ジャイアント馬場

身長209センチ・体重140キロ。
日本人離れした体格を力道山に認められ、
プロレス界を代表するスターとなった
ジャイアント馬場。

その大きな足で繰り出される「16文キック」は
あまりにも有名だが、
手の大きさも人並み外れていた。

こんなエピソードがある。

あるとき馬場がじっと手を見つめたまま
固まって動かないことがあった。
まわりが不審に思い、どうしたのかと尋ねると、
彼は文庫本を読んでいたのだった。
あまりに手が大きいので、本がまったく見えなかったのだ。

実は年間200冊以上を読破する読書家でもあった馬場。
いったんマットを離れれば
物静かでとても博識な人だったそうだが、
その心の大きさをつくったのは
読書というトレーニングだったのかもしれない。

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