藤本組・藤本宗将

藤本宗将 12年10月27日放送



起業家という生き方 田辺茂一(もいち)

田辺茂一は、備長炭を商う「紀伊國屋」の跡取りとして生まれた。

家業を継ぐのが当たり前の時代だったが、
本に魅せられた田辺は
炭を売る傍らで「紀伊國屋書店」を創業する。

長い戦争の時代に大きな被害を受けたが、
田辺は事業を諦めなかった。

戦後豊かな時代がやってくると、
劇場をつくり文化を発信した。

こうして日本一の書店をつくりあげた彼に、
あるインタビュアーが言った。

「炭屋の片隅で始めた本屋が日本一の本屋になるなんて、
 そんな時代というのはもう来ないんでしょうねえ」

田辺はこう応えた。

「何でも時代のせいにしてりゃあ、そりゃあ楽だわな」

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藤本宗将 12年10月27日放送


kevin dooley
起業家という生き方 カール・ツァイス

19世紀初頭、
ドイツに生まれたひとりの少年が
ガラス職人の弟子として
レンズの製造を手伝いはじめた。

高熱でガラスを溶かし、
固まったら根気よく手で磨きあげる。
寝る間も惜しむ師匠の姿に、彼は学ばなかった。

勘と経験に頼る限界を悟り、
大学の聴講生として
数学や物理学、鉱物学などを学んだのだ。

そして30歳のときに起業。
社名は、彼自身の名をとって、カール・ツァイスといった。

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藤本宗将 12年10月27日放送


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起業家という生き方 ニコラス・G・ハイエック

ニコラス・G・ハイエックが時計の製造に乗り出したのは、
スイスの時計産業が死にかけていたときだった。

コンサルタントであった彼は、
日本製の時計の台頭で危機に瀕したスイス企業を
引き継ぐかたちで新会社を起こしたのだ。

そして1983年。彼は新製品を送り出す。
それはスイス伝統の高級機械式時計とはまるで違ったものだった。
プラスチックのボディーに、部品は従来の半分しかない。

「スウォッチ」と名付けられたその時計は、
斬新なデザインで半年ごとに新作を発表。
1つのモデルは1シーズンかぎりの販売とされた。
ハイエックは時計を、ファッションに変えたのだ。

ビジネスに勝つ秘訣を、彼はこう述べている。

「時間を無駄にせずに、予定を立てて行動すること。
 ただし、予定表をすべて埋めてはいけない。
 それでは独創力が死んでしまう」

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阿部広太郎 12年8月12日放送



日本近代スポーツの父 F・W・ストレンジ 1

日本近代スポーツの父、
フレデリック・ウィリアム・ストレンジは、
日本にスポーツマンシップを広めた男でもある。

明治時代のボートの試合。
日本人選手は一位がゴールをすると、
その瞬間に漕ぐのをやめてしまう。

勝負を放棄するその「手抜き」を、
ストレンジは見過ごせなかった。

「スポーツで最も大切なことは、
 互いにベストを尽くして戦うこと」

彼は生涯をかけて、
日本人にスポーツマンシップを語り続けた。

その結果は、
オリンピックを見た方ならおわかりだろう。
いまや手を抜く選手など、ひとりもいない。

たくさんの感動を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。


L’s Mommy
日本近代スポーツの父 F・W・ストレンジ 2

日本近代スポーツの父、
フレデリック・ウィリアム・ストレンジ。
彼は明治6年、英語教師としてロンドンからやってきた。

「スポーツの魅力を日本の学生にも知ってほしい」
スポーツマンでもあったストレンジは、
放課後に学生たちをグラウンドへ誘いはじめる。

しかし、彼の思いは届かない。

「勉強を一日休むと、日本が一日遅れる」

近代国家を支えるべく一心不乱に勉強する学生たちには、
スポーツに目を向ける余裕などなかったのだ。

ストレンジは諦めず、
彼らを参加させるための一計を案じた。
それまで日本になかった「運動会」を開催したのだ。

もちろん当時の日本に、専用の器具などない。
ハイジャンプ用のポールには竹竿を。
ハードルには学校のベンチを。
スタートの合図に使われたのは、
折り畳んだ黒いこうもり傘だった。

お祭りの要素もある運動会は、学校中を巻き込んで大賑わい。
ここから運動会は、日本中に広まっていく。

いま、ストレンジの故郷ロンドンで
「世界の運動会」が行われている。
日本人の活躍を彼が見たら、なにを思うのだろう。

たくさんの興奮を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。



日本サッカーの父 デットマール・クラマー

日本サッカーの父、デットマール・クラマー。

1960年にドイツから来日し
代表コーチに就任したクラマーは、
リフティングも満足にできない選手たちに愕然とし、
発破をかけた。

「ドイツにはゲルマン魂がある。
 日本人にも素晴らしい大和魂がある。
 私に大和魂を見せてくれ」

その8年後のメキシコオリンピック。
日本代表は銅メダルを獲得する。

死力を尽くし、試合後に倒れこむ選手たち。
クラマーも泣いていた。
メダルが嬉しかったのではない。
約束を守りぬいた教え子たちの姿に、
涙をこらえきれなかったのである。

たくさんの大和魂を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。

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藤本宗将 12年8月12日放送



日本体操の父 坪井玄道

日本体操の父と呼ばれる、坪井玄道。
幕末の混乱期に農家の次男として生まれた彼は、
医学を志して江戸に出た。
そこで彼は熱心に英語を学ぶ。
時代の大きな変化の中で、
語学の大切さを敏感に感じ取っていたのだろう。

やがて明治に入ると、
彼の先見性が活かされることになった。
欧米文化を積極的に導入しようとする流れの中、
坪井は師範学校で通訳の職を得る。

そこである人物と出会い、
彼の人生は大きく変わっていった。
その相手とは、通訳を担当したアメリカ人体操教師リーランド。

体操の授業は、言葉だけでは伝えられない。
生徒の前でリーランドの通訳をしながら、
坪井は体操の技術も体得してしまう。
やがて体操の虜となった彼は、
帰国したリーランドの後継者となって体操教師の道を歩む。

欧米に比べて体格が劣る日本人の体力向上に、
きっと体操が役立つと考えたのだ。

しかし坪井は、その先まで予見できていただろうか。
自らの体操教育が、やがて体操王国日本の基礎を築くことを。
スポーツの歴史にも、筋書きのないドラマがある。

たくさんのドラマを、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。


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日本オリンピックの父 嘉納治五郎

日本におけるウエイトリフティング競技は、
ウィーンから持ち帰られた
ひと組のバーベルからはじまった。

持ち帰った男の名は、嘉納治五郎。
言わずと知れた柔道の創始者。

日本における柔道の父は、
ウエイトリフティングの父でもあったわけである。

彼は日本で初めての国際オリンピック委員として、
ウィーンでの国際会議に出席していたのだった。

柔道だけにこだわらず、
あらゆるスポーツに情熱を注いだ嘉納。
彼の柔軟な感覚によって
やがて多くのメダルが日本にもたらされた。

武道だけでなく、彼自身の生きる道そのものが
柔の道だったのだろう。

たくさんの栄光を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。

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村山覚 12年8月12日放送



日本レスリングの父 八田一朗 1

日本レスリング界の父、八田一朗は、元々柔道家だった。

柔道を普及するために訪れたアメリカで、
レスリング選手と他流試合をして、負けた。
そして、魅了された。

柔道の師である嘉納治五郎からは

 「レスリングを始めるのもよいが、50年かかるよ」

と言われた。

八田が日本初のレスリング部をつくったのが昭和6年。

その21年後、
戦後の日本に初めてもたらされた金メダルは、
水泳でも体操でもなく、
レスリング選手の太い首にかけられた。

その日、レスリングは日本のお家芸となった。

たくさんの奇跡を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。


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日本レスリングの父 八田一朗 2

 「批判記事でもいいから、レスリングの事を書いてくれ。」

レスリングの父、八田一朗は
マスコミの影響力を熟知していた。

柔道やプロレスと比べると、
アマチュアレスリングはマイナースポーツ。
そこで、八田は策を講じた。

負けたら全身の毛を剃る、動物園でライオンとにらめっこ、
寒中水泳、真夜中の練習…。
八田の奇抜な練習法は、マスコミに話題を提供しつづけた。

勿論、批判も多くあっただろう。

しかし、この冗談のような練習に取り組んだ選手たちは、
ちゃんと結果を出した。
日本から生まれた世界チャンピオンは、60年でおよそ50人。
八田が話題を提供しなくても、
マスコミがレスリングを放っておかなくなった。

有効ポイントを取られても、
最後に1秒フォールを取れば逆転できる。
レスリングらしい広報戦術である。

たくさんの話題を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。

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藤本組誕生

藤本宗将くんが自分の組を持つことになりました。
組員は阿部広太郎くんと村山覚くんです。
よろしくおねがいします。

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藤本宗将 12年6月10日放送


Judy **
歴史家の「時間」 アルレット・ファルジュ

現代に生きる者は、神の視点で過去を見る。
どんなできごとの結末も、すべて知っているからだ。

しかしそれはある種のハンディキャップだと、
歴史家アルレット・ファルジュは言う。

 「歴史家は常に、エンドタイトルが終わった後から
  逆向きに映画を見るしかない。
  しかし私は、何とかしてこの映画を
  最初から見ることができないものだろうかといつも考えている

結末を知らずに生きられるのは、しあわせなことかもしれない。

あなたは、どんな「いま」を生きますか。
きょうは、時の記念日。


Peter Alfred Hess
経営者の「時間」 P・F・ドラッカー

経営学者ドラッカーは、
著書『経営者の条件』のなかでこう書いている。

 「時間は、特異な資源である。
  借りたり、雇ったり、買ったりして増やすことができない
  時間は他のもので代替できない

そこで彼は、徹底した「時間管理」の必要性を説いた。
しかし彼が無駄な時間を削る目的は、
単なる合理化ではない。
本当に大切なことに時間を回すためだった。

それは、人と話すこと。

彼はこうも言っている。

 「肝心なことをわからせ、何かを変えたいのであれば1時間はかかる。
  何らかの人間関係を築くには、はるかに多くの時間を必要とする

もしあなたが経営者でなくとも、それはきっと同じはず。

たまには、誰かとゆっくり話す時間をつくってみませんか。
きょうは、時の記念日。


DeusXFlorida
政治家の「時間」 ジョン・F・ケネディ

 「この国は、この10年が終わるまでに
  人間を月に到達させ、なおかつ
  無事に帰還させることを約束すべきだ」

1961年、アメリカ合衆国大統領に就任したばかりの
ジョン・F・ケネディは、こう高らかに宣言した。

当時の宇宙開発競争は、明らかにアメリカが劣勢。
すでに有人宇宙飛行を成功させ
技術で先を行くソビエトを、本当に追い越せるのか。
そもそも、月面への到達など可能かどうかもわからない。
そんななかでの宣言だった。

いちど政治家が語れば、もはや単なる夢ではない。
10年という期限つきの「公約」だ。
にもかかわらずケネディは、月ヘの道を選んだ。
それが容易だからではなく、困難であるがゆえに。

そして1969年。あのスピーチから8年後。
アポロ11号は、月へ人類を送り届けることに成功した。

しかし国民との約束を果たしたケネディは、
大統領としてその瞬間に立ち会うことはできなかった。
1963年11月22日、テキサス州ダラスでその生涯を終えていたからだ。

あなたは、10年後の自分にどんな約束をしますか。
きょうは、時の記念日。



植物学者の「時間」 カール・リンネ

色とりどりの花を文字盤に配置した、花時計。

公園でよく見かけるこの時計を考案したのは、
スウェーデンの植物学者カール・リンネ。

もともとの花時計は飾りではなく、
花が開いたり閉じたりする様子で時刻がわかるものだった。

6時、オウゴン草。
7時、センジュギク。
8時、ヤナギタンポポ。

花のいのちがリズムとなって刻む時間。
30分以内の誤差があるというが、
世の中それくらいでいいんじゃないか、とも思ってしまう。

ときには、自然のリズムで過ごす時間も必要かもしれません。
きょうは、時の記念日。



アスリートの「時間」 古橋広之進

1948年のロンドンオリンピックに
参加を認められなかった敗戦国の日本。
日本水泳連盟がオリンピックの日程にあわせて
東京で開催した日本選手権で、
古橋広之進は驚異的なタイムをたたき出した。

  400メートル自由形 4分33秒4
 1500メートル自由形 18分37秒0

時差の関係で数時間後に行われた
オリンピックでの優勝タイムを、はるかに上回る世界記録。
しかし日本は国際水泳連盟から除名されていたため、
記録が公認されることはなかった。

タイムでは上回っていても、記録には残らない。
実際に金メダルを得たわけでもない。
そのむなしさをぬぐい去るように、古橋はその後33回も世界記録を更新する。

そして4年後のヘルシンキ。
ようやく参加が認められたオリンピックの舞台で
400メートル自由形に出場した古橋。
しかし全盛期を過ぎたトビウオは、8位に終わる。
コンマ1秒を争って数々の勝利をあげてきたアスリートも、
大きな時の流れには勝てなかったのだ。
時間は、勝負より残酷である。

あなたは、時間の流れとどう向きあいますか。
きょうは、時の記念日。


BarelyFitz
物理学者の「時間」 アインシュタイン

理論物理学における「時間」のとらえ方は、
これまでさまざまに変化してきた。

たとえば古典的なニュートン物理学においては、
時間は一定の速さで一直線上を流れる「絶対時間」。

これに対しアインシュタインの時間は相対的である。
相対性理論では光の速度が絶対的な基準となり、
時間と空間の方が変化する。

相対的な時間ということに、ピンとこないかもしれない。
アインシュタイン自身の解説は、こうである。

 「可愛い女の子と1時間一緒にいると、1分しか経っていないように思える。
  熱いストーブの上に1分座らせられたら、どんな1時間よりも長いはずだ。
  相対性とは、そういうことだよ

あなたが過ごしているこの時間が、短く感じられていますように。
きょうは、時の記念日。


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エンジニアの「時間」 本田宗一郎

せっかち。短気。
本田宗一郎を知るものは、決まって彼をそう評する。

なにかアイデアが閃くと、
ポケットからチョークを取り出し、
工場の床に夢中で図面を描きなぐる。

彼が立ち去ったあと、
残った社員は床にトレーシングペーパーをかぶせ、
図面をなぞったものだった。

 「人より1分でも1秒でも早ければ、特許になる。
  すべてスピードじゃないですか

本田にとっては、技術開発もタイムを争うレースだった。

あなたには、時間を惜しんで取り組めるものがありますか。
きょうは、時の記念日。


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漫画家の「時間」 水木しげる

1日10時間。
それが、漫画家・水木しげるの睡眠時間。

漫画家といえば締め切りに追われているイメージだが、
水木の人生哲学は「睡眠至上主義」。彼はこう語る。

 「睡眠を削って頑張るのを良しとする風潮が日本中を覆っています。
  実に嘆かわしい。眠るが勝ちです

 「10時間たっぷり寝るのです。それを1年間続けなさい。
  少しバカになりますが、あくせくした人生観が変わります。
  これが幸せへの第一歩です

これだけのマイペースぶり、
なかなか凡人には真似できそうにない。

とはいえ、目が覚めているあいだについて言えば、
水木の漫画に打ち込む集中力たるや猛烈なものだったらしい。

起きているときがオン。寝ているときがオフ。
これほど単純で効率的なオン・オフの切り替えはないだろう。

ゆっくり眠るのも、立派な時間の使い方ですよ。
きょうは、時の記念日。

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藤本宗将 12年5月26日放送



ロベール・ウーダン 1

近代マジックの父と呼ばれる、ロベール・ウーダン。

彼はもともと腕のいい時計職人だった。
ウーダンのつくった機械仕掛けの人形は、
1844年のパリ産業博覧会で入賞も果たした。

産業革命の波が押し寄せた時代。
才能ある技術者には、
華々しい活躍が約束されていたはずだ。

しかしウーダンは、
40歳でマジシャンに転身する。

彼はきっと、こう思っていたのだろう。

「ただ、世の中をびっくりさせたかった。それだけさ」

そういえば、スティーブ・ジョブズも
iPadを「magical device」と呼んでいた。

テクノロジーは、いつだってマジックに憧れる。



ロベール・ウーダン 2

燕尾服にシルクハット。

マジシャンとしてはじめてこの服装を取り入れたのが、
近代マジックの父、ロベール・ウーダン。

彼はあやしげな衣装ではなく正装に身を包み、
舞台の照明を明るくして
それまでの黒魔術的なイメージを払拭した。

マジックを、純粋なエンターテイメントへと進化させたのだ。

この革新的なスタイルはたちまち世界中に広がり、
今まではマジシャンの代名詞となった。

ウーダンは、こんな言葉を残した。

「マジシャンは、魔法使いの役を演じる役者である」

役者としてのウーダンはもういないが、
彼の演出はいまも生き続けている。



ロベール・ウーダン 3

近代マジックを確立したロベール・ウーダン。

もともと時計職人だったウーダンは、
その経歴を活かしたトリックを得意としていた。

たとえば、「パレ・ロワイヤルの菓子職人」というマジック。

人形に向かって注文をすると
いったん店の中に入り、
そのお菓子を取って戻ってくる。

19世紀の人々はその精巧な動きに驚いただろうが、
カラクリはきわめて単純。
ウーダンの息子が、中に隠れて操作していたのだ。

高名な技術者でもあるウーダンが、
まさかそんな子供だましをするとは誰も思わない。

トリックは、いつも観客の心の中に仕掛けられている。



チャン・リン・スー

マジックの歴史上最も有名な死亡事故は、
1918年3月23日、ロンドンで起こった。

犠牲となったマジシャンの名は、チャン・リン・スー。

きらびやかな中国服に、長く垂らした弁髪。派手なメイク。
彼の異国情緒あふれるショーは、その日も盛況だった。

しかし悲劇は突然訪れる。
弾丸を受け止めるマジックで、銃が暴発。
銃声とともに倒れるスー。
事情を知らない観客は拍手喝采。
それがそのまま、彼の人生の幕引きになった。

だが、本当の結末はそのあとに待っていた。
運び込まれた病院で、スーが白人であることが発覚したのだ。

本名はウィリアム・ロビンソン。
いつも通訳をそばに置き、
中国人として生活していた彼のことを
誰も白人とは思わなかった。

彼の中にあったのは、
人生をかけて騙そうという覚悟だったのか。
それとも、
自分なら騙し通せるという自信だったのか。



ハリー・フーディーニ 1

死後80年以上たった今もなお
アメリカで最も有名なマジシャンと言われる
ハリー・フーディーニ。

彼が活躍した時代には、
まだスピリチュアリズムが信じられていた。

あるときフーディーニは
亡くなった母親と話したいと願い、
霊媒師のもとを訪ね歩いた。

しかし、どの霊媒師もインチキばかり。

裏切られた彼の思いは、怒りに変わる。
マジシャンとしての鋭い観察眼で
霊媒師たちのトリックをあばき、
生涯をかけて彼らを否定し続けた。

ところが死の直前、
フーディーニが妻に言い残したのは
意外にもこんな言葉だった。

「死後の世界があったなら、必ず連絡するよ」



ハリー・フーディーニ 2

数々の脱出マジックで名を馳せた、
ハリー・フーディーニ。

「脱出王」と呼ばれた天才マジシャンにも、
逃れられない運命がある。

彼の死は、1926年10月31日のこと。

フーディーニは不死身だと信じた客に
不意打ちで腹を殴られ、
急性虫垂炎を起こしたのだ。

葬儀の日、参列者のひとりはこう言った。

「賭けてもいいが、彼はこの棺の中にもういない」

マジックは、人を信じる力でできている。



ジャスパー・マスケリン

第二次世界大戦中、ひとりの男がイギリス軍に志願した。
自分の持つ技術によって、ドイツ軍を打倒できると信じて。

男はジャスパー・マスケリン。職業、マジシャン。

西アフリカ戦線に配属されたマスケリンは、
マジックを応用したカモフラージュの専門部隊を組織する。
集められたのは画家、大工、電気技師など14名。
通称「マジックギャング」。

戦争は、騙し合いだ。

マスケリンたちは
偽の戦車部隊を自在に出現させ、敵を撹乱した。
偽の建物や灯台で港をつくり、
敵の爆撃機を惑わせたこともあった。

彼らのマジックは、ドイツ軍を翻弄し続けた。

しかし終戦となったのちも、
その功績が公式に認められることはなかった。
マスケリンは酒に溺れ、失意のうちに死んだという。

戦争は、騙し合いだ。
プロのマジシャンさえ欺かれるほどの。

そこには勝者など、いなかった。

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藤本宗将 5月から参戦

藤本宗将(写真左)が2012年5月から参戦します。

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