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坂本和加 10年08月07日放送


職人たち
 印伝屋 十三代 上原勇七

伝統を守ることが大切と思うなら、
ひとに愛され、使われ続けなければならないと思う。

甲府で400年近くつづく印伝屋、
十四代 上原勇七(ゆうしち)の話をきいて、
不易流行ということばを思い出した。

不易流行を、やさしくいうなら
変わらずに、変わること。

東京・青山にある直営店の商品を手に取ると
しっかりとした鹿革にトンボ柄に、繭玉模様。
古典柄でありながら、21世紀の印伝は、
なんと新しくモダンで、しゃれて見えることだろう。

新作をひとつ、求めると、
「この商品の感想は、
10年たってからお聞かせください」

財布に小袋、ペンケース
店に並ぶ商品を買う人、使う人も
また、伝統の一端を担っている。


職人たち
 ラーメン職人 中村栄利

経験がなくても、
弟子入りしなくても、
ひとは、成功できる。

神奈川県大和市の郊外にある、
ラーメン「中村屋」のオーナー
中村栄利(なかむらしげとし)が、それを証明してくれている。

22歳ではじめた店は、
いまや最高7時間待ちの超人気店に。
研究への原動力は、
もっとうまいラーメンをつくりたい、ただそれだけ。

中村は、あるとき確信する。
「自分は、ひとより嗅覚が鋭い」

成功の理由は、それだけではないかもしれない。
けれど、自分の強みを知っているひとは、
成功するチャンスをつかむ資格が、きっとある。


職人たち
 左官職人 挾土秀平

人工的なコンクリは、土に戻らない。
なのに、寿命は短い。
土蔵は、二百年以上もあるというのに・・・。

コンクリでなく、土がやりたい。

左官職人、挾土秀平(はさど)は、
土壁に夢中になって、
気づけば日本一有名な左官屋になってしまった。

挾土にとっては、それが悩みだった。
有名になるほど、作るものが
作品になってしまう。
挾土は、職人でいたいのだ。

女性演出家、残間理恵子(ざんまりえこ)は
こうアドバイスした。

  職人か、作家か、決めるのは世の中。

挾土は、どろんこになって、
今日も土壁と格闘している。


職人たち
 仏師 松本明慶

その仏像はひと目見ただけでため息が出る。
やわらかな木肌、繊細な陰影。
慈愛という言葉を目の当たりにした感覚をおぼえる。

その仏像の作者は仏師、松本明慶(みょうけい)。

彼は、仏像を彫るのではなく「仏を呼ぶ」という。
それは木に宿っている仏さまを、取り出し
現世に迎えいれること。

自分は彫ることで、仏様に生かされている。
それが松本明慶の現在の境地。

松本明慶の師、宗慶は
鎌倉時代の名仏師、運慶・快慶から伝わる
800年の秘伝を明慶に伝えたが
同時にこんなことも言った。

  すこし天狗になりなさい。
  それがいちばん上手くいく。

難しいけれど、
なにごとも、良い案配、ということ。


職人たち
 プロフィギュアスケーター 荒川静香

2006年、トリノ五輪の
金メダリスト荒川静香は、
5才でスケートをはじめた。

すぐに天才と呼ばれた彼女だが、
家はごくふつうの、サラリーマン家庭。
衣装の多くは、母の手作り。
子どもにスケートを続けさせることが
どれだけたいへんなことか、
彼女は、肌で知っている。

プロデビューとなった、
最初のアイスショーは
その収益の一部をチャリティにした。
もちろん、スケート界へ。

「金メダルのひと」より、
「イナバウワーのひと」でいたい。

荒川静香は、
大好きなスケートと、生きている。


職人たち
 宮大工 西岡常一

 もっと人間をよくしたい、
仕事をよくしたいと思うなら。
自己啓発やビジネス書なんかより
ずっとためになる、良書がある。

宮大工 西岡常一さんの残した
「木のいのち 木のこころ」。

西岡さんは、先祖代々、
法隆寺に使えてきた宮大工。
宮大工という仕事に誇りを持ち
使命感を持ってひとを育て、
技術を体で伝えてきたひとだ。
この本には、
西岡さんが宮大工の棟梁として
当たり前にしてきたことが、書いてある。
けれど、強く、深く、こころに届く
私たちの宝物になる言葉ばかり。

一三〇〇年前に建てられ
いまも建立時の美しさを保つ法隆寺。
西岡さんは、その法隆寺から学んだこと、
機械やネットや学校が
教えてくれないことを、
私たちに、伝えてくれている。


職人たち
 輪島漆工芸家 角偉三郎

輪島に生まれた漆工芸家、
角偉三郎(かど いざぶろう)は、
工芸界の革命児と呼ばれた。

角は、手袋をして触る美術品の漆工芸ではなく
いきた生活の中にある器を、生涯問い続けた。

近寄るだけでかぶれるという漆を
角は、素手でたっぷりとって椀に塗る。
その作品は、無骨で、力強く、体温がある。

  輪島にいて、輪島にない生き方をしたい。

魅力的な作品は、きっと
魅力的なひとからしか、生まれない。

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坂本和加 10年05月08日放送


着物と越原春子

かつてココ・シャネルが、
下着素材のジャージで
動きやすいドレスを作ったように。

いつの時代も、働く女性は、
ファッションを変え、
モードを生む。

越原春子もそのひとり。
大正時代、女学校設立のために
ひどく多忙な日々を送っていた越原は、
ある日、長すぎる帯を
ばっさりと切った。

正装ではなく普段使いの、短めの帯。
名古屋帯は、そうして生まれた。
この帯が、その後一般化したのは、
簡略化されても、その美しさが
損なわれていなかったからだろう。

美しく、ときに大胆に。
働く女性はいまも昔も、変わらない。


着物と宇野千代

着物で、でかけたい。
けれど着物って、面倒なルールが
きっとたくさんあるんでしょう? 
と言うひとがいる。

明治に生まれ、
前衛的なデザインや着こなしを
着物に提案しつづけた宇野千代は、
こんな風に言っている。

着るもののことで
いっぺん笑われたら、
あとは笑われた者の得。

昭和32年、宇野千代は、
アメリカで着物ショーを行った。
足元にヒール。モデルたちの
しなやかな身体のラインを
隠さず活かした着物姿の
なんと、斬新なことか。

着物はその人らしく楽しめばいい。
宇野千代は、いいお手本を
私たちに教えてくれている。


着物と水谷八重子

アンティーク着物が、
若い女性の間で人気だ。
なかでも、大正から昭和初期の、
銘仙と呼ばれる着物が。

はじめ、銘仙は、
例えるならジーンズのような
カジュアルな普段着だった。
それがアールヌーボーと融合し、
華やかな大正ロマンの代名詞になった。
大流行した銘仙の反物は、
1億反も売れた。

水谷八重子は
そんな時代に生きた女優。
駆け出しの頃は、
銘仙のイメージガールもやった。
けれど戦後、洋服の時代がやってきて、
気づけばあれほどあった着物は
箪笥からあとかたもなく消えていた。
水谷八重子は、
そのことを、こんなふうに回顧する。

 日本人特有の、あの細やかな
 つつましさをも、捨てた自分に気がついた。


着物とバルテュス

20世紀を代表するフランスの画家、
バルテュスは少年時代から
東洋的なものを
こころから愛した。

日本人形との出会いは、14才。
その息をのむ美しさに驚いた。
つぎの出会いは、59才。
こんどは本物の日本人形、
当時二十歳の学生だった節子を
見初め、妻にむかえた。

バルテュス自身もよく着物を着た。
日本人は、反物や帯に、
あらゆるものを文様化する。
バルテュスは、その鋭い感性を
高く評価していたのだ。

着物を着るひとが少なくなって久しい。
その感性が、いま鈍ってやしないか。

感性は身につけるもの。

バルテュスも言っている。
日本人には、着物がいちばん美しい。


着物と幸田文

着物は、風で、洗うもの。
だからこそ和服は
傷みにくく、昔から
世代を超えて
受け継ぐものだった。

東京下町生まれの作家、
幸田文もまた、
着物をよく愛した。
娘の青木玉は、
そのほとんどを継いだ。

文のいくつかの着物は、
ほどかれ、こんどは風でなく水に洗われて、
色を染め直され、生まれ変わった。

幸田文は、粋で個性的に
着物を着こなす洒落人だった。
だから玉には着こなせないと
思うものも多かった。

けれど、そこは親子。
文の着物は年を重ねた玉に、似合うようになる。
それも着物の、おもしろさ。


着物とよしだみほこ

ビルにはさまれた東京で。
「トントンからり」と聞こえてくる。

それは、
着物の反物の織り職人、
よしだみほこさんの
仕事部屋からやってきた音。

わたしのつくりたいものは
着る人のほしいものの、中にある。
だから、織るものに
なるべくわたしを入れたくない。

そう、きっぱりと言う
みほこさんから生まれた反物は、
やさしい、檸檬畑の風のよう。

きょうもまた、「トントンからり」。


着物と清少納言

じんざもみ、きくじん、
なつむしいろに、ひわいろ。

日本の色の表現は、
数百種と言われるけれど、
そのほとんどは、
平安の時代に生まれた。

清少納言は枕草子に、
着物の色あわせについて
宮中でのやりとりを
にぎやかに、書いている。
春先、紅梅の上着のインナーには、紫。
でももう、萌黄の季節かしら。と。

みな着物を来ていた時代に、
そのひとのセンスや品を
伝えるのは色だった。
ときには色で、こころを伝えた。

ひとのこころは、複雑なもの。
着物と共に生まれ、
伝えられてきた色を思うと、
その数の多さも、わかる気がする。

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坂本和加 10年04月10日放送

01-poincare

ポアンカレ予想と数学者① パパキリアコプーロス

数学の世界には、
魔物が住んでいる。
数学者、パパキリアコプーロスも
その魔物に人生を翻弄された。

パパは、最初に
ポアンカレ予想を解く。
みな、そう思っていた。
けれど、結局それは叶わなかった。

神経質で、
ひとと関わりを
持つことを嫌い、
結婚もせず、偏屈な変わり者。
墓さえどこにあるか、
わからないという。

パパの死後、
母国ギリシャの作家によって
一編の小説が生まれた。

パパをモデルにした、
ある数学者の、かなしい物語。

ギリシャでは、
ベストセラーになり、
映画化もされたという。

02-haku

ポアンカレ予想と数学者たち② ストーリングス博士

ポアンカレ予想は、
メルヴィルの『白鯨』に登場する
巨大鯨に似ている。

数学者たちは、
いつの時代も
まさに命がけで
世紀の難問と
対峙してきたのだ。

その難問は
2006年に解決済みだが、
ストーリングス博士は
未だに認めていない。
正しく言うなら、
信じられないのだ。

若かりし頃、博士は、
こんな論文を発表している。
タイトル
「ポアンカレ予想の証明に失敗する人」。

03-yon

ポアンカレ予想と数学者たち③ ハーケン博士

解けそうで、だけど、
どうしても解けないと
世界の数学者たちを
100年にわたり悩ませつづけた
ポアンカレ予想。

ハーケン博士も
そのひとりだったけれど、
途中から、180度、発想を変えた。
「ポアンカレ予想は、間違っている」。
その証明をしようとしたのだ。
格闘のつづく日々は、
正気を失いそうだったという。

けれど、三度(みたび)。
博士は発想の転換をする。
「こっちの難問なら、
午後を楽しく過ごせて、こんなにはかどる」。

ハーケン博士はそう言って、
別の、世紀の難問
「四色問題」を証明してしまった。

04-beauty

ポアンカレ予想と数学者たち④ サーストン博士

数学者たちは、
特別な世界で生きている。
そこで見つけた証明や定理を、
時に「エレガント」と賞賛する。

どう「エレガント」なのかは
凡人のわたしたちに、難しい。
たぶん聞いても、わからない。
そのくらい、数学は、
特別で特殊な別世界なのだ。

しかしサーストン博士は
数学で得た経験を
わかりやすくわたしたちに
伝えてくれる。

数学の本質は、世界をどういう視点で見るか。
物事を習うことは、物事を見ることです。

05-poincare

ポアンカレ予想と数学者たち⑤ アンリ・ポアンカレ

世界中の名だたる数学者たちが
その魅力にとりつかれ、
挑み続けたポアンカレ予想。
提唱者は、アンリ・ポアンカレ。
ニュートンやダヴィンチとならぶ、
19世紀の、知の巨人。

ポアンカレは、
じつに研究熱心な努力家だった。
ノートを持たない外出先で
思い浮かんだ数式を、
停車中の市電の車体に
書き込んでしまうくらいに。

そうでもなかったら、
世紀の難問は、
そう簡単には生まれない。

偶然は、それを受け入れる準備ができた
精神にのみ訪れる。

06-sanshiro

ポアンカレ予想と数学者たち⑥ グレゴリ・ペレリマン

むかし、東大の本郷キャンパスにある
三四郎池をなくそうという話があったとき、
猛反対をしたのは、
数学科の教員たちだったという。

数学者というのは、
「思索のための散歩」が好きなようで、
ポアンカレ予想を解いた天才数学者
ペレリマンも、ひどいときは40キロも
歩くことがあったらしい。

歩くことは、考えること。

最近、歩いていますか?

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坂本和加 10年03月20日放送

01-mm

ジーンズをはいた① ノーマ・ジーン

ジーンズとマリリン・モンローは、
じつは深い関係がある。

デビューのきっかけになった
軍事工場でのポートレイトは、
作業着のオーバーオール。
デビュー後は、ジーンズが
体型を維持するための
トレーニングウェアになったし、
遺作となった映画「荒馬と女」では
ジーンズは衣装だった。

けれど彼女は、私生活でも、
率先してジーンズをはいた。
まだふくらんだスカートが主流のころに。

彼女にはジーンズが必要だったのだと思う。
だれかのセックスシンボルであるよりも、
まず、ノーマ・ジーンであるために。

02-rosie

ジーンズをはいた② ノーマン・ロックウェル

ブルー・ジーンズは、第二次世界大戦時、
軍需工場の仕事着にもなった。
兵士は戦地に赴き、女性たちは、
オーバーオール姿で軍用機にリベットを打った。

ロウジー・ザ・リベッターは、
リベット打ちの名手。工場の華。
イラストレーター、
ノーマン・ロックウェルは、
戦意高揚が作り上げた、この架空の女性を
雑誌ポストの表紙画に描いた。

だぼついたオーバーオールに、男勝りな出で立ち。
オシャレや美しさなどとは無縁なこの画に、
サザビーオークションは、6億の値をつけた。

03-shirasu

ジーンズをはく③ 白州次郎

白州次郎といえば、
ジーンズ姿のポートレイトが、あまりにも有名。
そして彼は、ブルー・ジーンズをはじめて
はいた日本人として知られる。
はっきりと公に記憶されているのは、
講和条約締結のために乗った機内でのことのようだが、
白州がジーンズを手に入れたのは、
どうやら戦前のことらしい。

戦時中は、鬼畜米英とやっていた時代に、
だれも見たことのなかった
米国製ジーンズをはいて、
白州は、野畑を耕していた。

日本は、敗戦するだろう、
食糧難がくるだろうと予測して。

04-Jimmy

ジーンズをはいた④ ジミー・カーター

アメリカ合衆国大統領が
オフにジーンズ姿で現れるのは
かなり好意的に捉えられているが、
ジミー・カーターの時代は、
まだそうでもなかった。

当時のジーンズは、
肉体労働者と不良の制服。
しかし、カーターのジーンズ姿は、
ボブ・ディランと懇意になったあたりから、多くなる。

カーターもまた、他の若者たちのように
ディランの歌や、生き方、
履き古したブルー・ジーンズ姿に
大きな影響を受けたうちのひとりだった。

ディランをタブー視するおとなたちも多くいた。
けれど演説では、彼のことをこんなふうに伝えた。

 社会の正義や不公平を理解するのに
 役立ったもうひとつのものは詩人、
 ボブ・ディランの歌です。

05-dean

ジーンズをはく① ジョン・スタインベック

ノーベル賞受賞作家として知られる
ジョン・スタインベックの小説には、
ジーンズが幾度となく登場する。
これほどまでにブルー・ジーンズを
小説上に書いた人物は、
ほかにいないのではないか、というくらいに。

当時のジーンズは、
仕事着でもあったけれど、
生活をするための服でもあった。
まさに、アメリカ人の生活そのもの。
スタインベックの世界には、不可欠なものだった。

長編小説「エデンの東」は、映画にもなった。
主役は、彗星のごとく現れた新人俳優。
ジェームス・ディーンは、いまもなお、
ジーンズとともに人々の記憶にある。

06-brooke

ジーンズをはいた⑥ カルバン・クライン

街を歩けば、だれもがジーンズをはいている。
しかし、ワーク・ウェアとして生まれたジーンズが
かっこいい普段着になれたのは、
カルバン・クラインの功績が大きい。

 ブルー・ジーンズとはエロティシズムである。

カルバン・クラインは、そう断言して
デザイナーズ・ジーンズを世に売り出した。
ジーンズの本質は、変わらない。けれど、
セレブたちが飛びついたのは、ご存じの通り。

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坂本和加 10年02月21日放送

当麻庄司

蕎麦と当麻庄司①

重ねたセイロを「手持ち・肩持ち」で
自転車にまたがり、蕎麦を運ぶ。
昔ながらのスタイルで出前中の蕎麦屋を、
つい最近、青山で見かけたのだから、驚く。

カブの後ろに装着する
あの「出前機」が普及してからは、
こういった光景も、事故も、ずいぶん減った。
発明者は、当麻庄司。
目黒にあった蕎麦屋の主人だ。

この発明で、当麻は紫綬褒章を受章した。

ライ・クーダー

蕎麦とライ・クーダー②

江戸蕎麦の老舗といえば、のれん御三家。
更科なら白、砂場なら黄色、
藪なら緑がかった蕎麦を出す。
もちろん、汁の濃さや味も変わる。

中でも藪は、出前に適さない蕎麦だから
忙しい職人や通行人が相手だった。
もし東京で、その味や風情を楽しむなら、
「神田 やぶそば」がいい。

むかしライ・クーダーがここへきて、
「シンギング・ソバ!」と感激した蕎麦。
なぜ、シンギングなのか。
野暮は言わずに。どうぞ、お店へ。

林家彦六

蕎麦と落語家、林家彦六③

お蕎麦の「にっぱち」は、
つなぎの割合のことだと思われているが、
じつは「かけそば一杯」が、16文だったことから
「ニハチ、ジュウロク」で
「にっぱち」になったという説が、
どうやら近ごろでは有力らしい。

落語に「時そば」という
有名な演目があるが、
どうせお金を払うなら、
やっぱり、うまい蕎麦だろう。

「蕎麦は、
当たりはずれが多いから気をつけろ」と
言ったのは、今は亡き林家彦六師匠。
たしかに、扇子で蕎麦をたぐるのも芸のうちなら、
うまい蕎麦を知っていなければ。

さすがは彦六師匠…と思いきや、
本人はコーヒーやカレーなどの洋食を
好んでよく食べていたそうだ。

もとより、有名な落語家になるほど、
蕎麦を人前で食べるのを嫌がるのだそうだ。
それはじろじろ見られることよりも、
まずい蕎麦でも、うまそうに食べなきゃならないことのほうが、
ほんとうは、つらいからかもしれない。

松平治郷

蕎麦と松平治郷④

東京から遠くはなれた島根県もまた、
うまい蕎麦のみつかる土地だ。
出雲蕎麦の文化を運んできたのは、
松江7代目藩主、松平治郷。
江戸で覚えた蕎麦が、忘れられなかったのだ。
茶の世界では不昧公の名で知られるこの殿様は、
とっても風流で、オシャレに生きた。


 茶を立て、道具求めて、蕎麦を食い、
 庭を作りて、月花見ん、このほか大望なし、大笑、大笑。


夏目漱石

蕎麦と夏目漱石⑤

東京で生まれ育った文豪、
夏目漱石も、蕎麦はよく食べていたようで
多くの作品に蕎麦の描写を書き残している。

熊本から上京してきた『三四郎』は、
蕎麦屋で日本酒を飲むことを覚えたし、
かの『坊っちゃん』も、
道すがら見かけた蕎麦屋が
どうしても素通りできなくて
つい暖簾をくぐってしまうほどの蕎麦好き。

けれど、『我が輩は猫である』の登場人物、
迷亭先生はちょっと違う。
通人ぶった蕎麦講釈をのたまう、鼻つまみ役だ。
あげくに、つけすぎたワサビにむせてしまい、
迷亭先生は、作者・漱石にやり込められてしまう。

それは、蕎麦をたぐることに粋を見いだし、
知識をひけらかすスノッブたちに閉口する、
漱石なりのアンチテーゼのようにも思える。

甘党で知られる漱石にとっては、
されど蕎麦より、たかが蕎麦。
うまければそれで結構、と思っていただろうから。

宮沢賢治

蕎麦と宮沢賢治⑥

宮沢賢治もまた、蕎麦好きの文人。
「原稿料が入ったら、BUSHへいきましょう」と
うれしそうに、友人を誘った。

賢治が蕎麦屋をBUSHと呼ぶのは、
店名が「やぶ屋」だから。
そこの天ぷら蕎麦が、
賢治の大のお気に入りだったようで、
サイドメニューは酒でなく、サイダーを頼んだ。
天ぷら蕎麦、15銭。サイダー、23銭の時代に。

「やぶ屋」は、現在も
賢治の故郷、花巻市にある。
名物は、わんこそば。
天ぷら蕎麦はサイダーより、今は高い。

片倉康雄

蕎麦と片倉康雄⑦

蕎麦職人の世界で、
きっと片倉康雄を知らないひとはいない。
片倉は、蕎麦職人も通う
手打ちの名店、一茶庵の創業者。
師を持たず、まったくの
独学で蕎麦料理を完成させた。

片倉が目指したのは、
毛のように細い、蕎麦の味。
それは、片倉の幼い頃、
大好きだった母の打ってくれた、蕎麦だった。

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坂本和加 10年01月30日放送

01-hachi

ハチ公と上野博士①

秋田で生まれたハチが
上野博士の住む東京へ
もらわれてきたのは、子犬の頃。
博士は、上野英三郎さんといって、
東大の先生だった。
いまや近代農業土木の祖と言われるくらい、
エライ先生だったそうで。

その博士とハチが
過ごしたのは、たったの1年3ヶ月。
けれど、犬たちにとっては、
それは10年近くの歳月。

忠犬ハチ公の話は、
帰らぬ主人を待ち続けた
かわいそうな話ではない。
それは、我が子のように
深く愛された、犬の話。

02-hachi

ハチ公と上野八重子②

ハチは、子犬の頃から
丈夫な犬ではなかったそうだ。
「ハチはよくおなかを壊すから」といって
上野博士の奥様、八重子夫人は、
付きっきりの看病をよくした。

いつものように見送りにいき、
そのまま博士が帰らぬひとになってからは、
奥様が内縁だったため、
これまでの暮らしができなくなった。

ハチをよそへやったのは、
奥様は犬が嫌いだったから
と言うひとがいるけれど。

そうではなくて、
博士を恋しがるハチを見るのが
誰よりもつらかったから。

03-hachi

ハチ公と小林菊三郎③

植木屋の菊さんは、
2番目のハチのご主人だ。
菊さんは、亡くなった最初の
ご主人のお屋敷の庭師で、
秋田からやってきたハチを
東京駅まで引き取りに行ったのも、菊さんだった。

「ハチはご主人の形見だ」といって、
繋がずに、放し飼いにしたのも、菊さん。

だから、ハチは、
10年近くも渋谷に通いつづけられた。

04-hachi

ハチ公と斉藤弘吉④

もし、斉藤弘吉さんという方が
新聞へ寄稿しなかったら
ハチがこれほど有名になることも、
渋谷に銅像として飾られることも、
なかっただろう。

ハチをずいぶん前から知っていた
斉藤さんは、日本犬保存会の会長だった。
だから、渋谷駅で野良犬のように扱われる
秋田犬をふびんに思ったのだろう。

「いとしや老犬物語」という記事が
新聞に載り、ハチはいつのまにか
「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになった。

05-hachi

ハチ公と安藤照⑤

ハチが新聞に載ってから
日本中がハチ公ブームだった。
銅像は、ニセモノが出回る前にと、
彫像家の安藤照が、大急ぎで作った。

けれど、現在の銅像は
そのときのものではない。

戦時下の金属回収で、ハチ公は
いちど渋谷から姿を消し、
戦後、GHQの後押しと
子どもたちの募金活動により
ハチはふたたび渋谷に帰ってこれた。

06-hachi

忠犬ハチ公⑥

忠犬ハチ公と呼ばれ
一躍有名になった後も、
迎えの時間になれば渋谷駅へ向かい
帰らぬ主人を待っていた、ハチ。
年老いて、足がふらついて
目や耳が悪くなっても。

帰らぬ主人を「わかっていた」と言うひとがいる。
けれど、ハチにとっては、
主人を待つことが、この上ない、しあわせ。

ハチのお墓は、青山霊園にある。
大好きな大好きな、上野博士の隣に。

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坂本和加 09年12月26日放送

01-top

開高健と山の上ホテル①

山の上ホテルは、
神田駿河台の高台にございます。
小さな、文化人のホテルです。

開高健先生も、よくいらっしゃいました。
散歩のついでに、ふらっと。
あのかた、釣り師としても有名ですが
書いておられるほど
釣りはお上手ではないようでした。

 釣りの話をするときは、両手を縛っておけ。

これは、開高先生が
お好きだった、ロシアのことわざです。

02-top

石本恭子と山の上ホテル②

山の上ホテルは、
昭和29年にオープンした、
客室100前後の小さなホテルです。

当時、一機しかなかったエレベーターは
まだ手動で、石本恭子という
オペレーターが操作しておりました。
言葉遣いは美しく聡明、長身で上品な顔立ち。
淑女と呼ぶにふさわしく、
忘れがたい印象を残す女性でした。

ただ、それだけの話なのですが、
「旅館や料亭は、文化そのものであり、
そこで働く人たちもまた文化だ」と
言ってくださったのは、山口瞳先生でした。

03-top

丸谷才一と山の上ホテル③

丸谷才一先生が
山の上ホテルにお泊まりになるときは、
たいてい別館の623号室です。
山の上ホテルの、この部屋だけ、
カーテンが完全な暗幕になっているんです。
丸谷先生は夜型ですから、
明け方に眠るにはちょうどよかったのでしょう。

山の上ホテルは、作家の先生方が
何日間もカンヅメになる場所です。
そして、たくさんの丸谷文学もまた、
ここで生まれました。

けれど丸谷先生は、こんな風に言っています。

 作品が完成するのは、
 読者が読んで感心したときです。

04-top

池波正太郎と山の上ホテル④

池波正太郎先生は、
執筆と言うより休息のために、
よく山の上ホテルにお見えになりました。

池波先生は、お部屋で
よく画を描かれていました。
座卓が汚れないようにと、
ビニールカバーを持参されて。

几帳面で、洒落た粋人というのは、池波先生のことです。
ホテルに何枚か飾っております、
先生の水彩画は、お人柄そのものです。

05-top

山の上ホテルのレストラン⑤

山の上ホテルには、
作家の先生方をはじめ、
多くのお客様が例外なく好んだ
天ぷらの名店があることでも知られています。

創業者、吉田俊夫が仕入れまでみるほどの
食通だったせいもあるでしょう。けれどなにより、
吉田は、大通りにある鰻屋や鮨屋より
裏通りで見つかるような「天ぷら屋」が好きでした。
天ぷら職人に共通する、外連のない、
律儀で地味なところが。

今年の、全米のレストランガイド
サガット・サーベイにも載ったそうです。
「天ぷら 山の上」は、いまや
日本食の看板レストランです。

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吉田俊夫と山の上ホテル⑥

山の上ホテルは
今でも文藝春秋や中央公論に
小さな広告を載せています。
山の上ホテルの広告は、
文案もデザインも、みんな自前です。

会社勤めから
ホテルの創業者となった吉田俊夫は、
広告もしかり、初々しいサービスや、
素人っぽさにこだわっておりました。

願わくは、ここが有名になりすぎたり、
流行りすぎたりしませんように。

三島由紀夫の寄せた言葉を矜恃として
当時のパンフレットに載せたのも、吉田です。
今もまだ、知る人ぞ知るホテルであることが
それを証明してくれています。

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坂本和加 09年11月28日放送



長く生きる① きんさん ぎんさん

赤ちゃんがかわいいのは、
ひとりでは生きていけないから。
そして、年を取れば取るほど、
ひとはまた、かわいくなる。

100歳でスターになった、
双子のおばあちゃん「きんさん ぎんさん」は、
それを証明してくれた。

けれど、2人は声をそろえて。
「若い頃は、もっと、かわいかった」。

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長く生きる② 鈴木大拙

年々増え続ける自殺者のニュースを聞いたら、
禅学者、鈴木大拙は何を思うだろう。

長く生きること。
それは、80や90になってはじめて、
わかることがあるということ。
だからあなたも、できるだけ長生きなさい。

著書を英語で書いて、
世界に日本の禅文化を伝えた、
鈴木大拙は、96まで生きた。


「大巧は拙なるに似たり」

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長く生きる③ 白川静

白川静は、漢字を愛し、
生涯をその研究に捧げたひとだった。

その偉業は「字」を知るための「書」と書く、
「字書」3部作を完成させたことで名高いが、
ユニークな学説を唱えたことでも知られる。

たとえば、「ラク・楽しいという字は、
神様を楽しませるために振った鈴から生まれた」。

漢字の成り立ちには、
いつも民族信仰があると考えた
白川静がいちばん好きだった漢字は、
「ユウ・遊ぶ」という字。

96歳で亡くなった漢字の神様は、
きっといまごろ、天国で遊んでおられる。

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長く生きる④ 親鸞聖人

他力本願という言葉は、
れっきとした、仏教の言葉。

極楽浄土に行けるのは、自分の力ではなく、
他力、つまり仏さまのお力であるという意味だ。

ほんとうはありがたいはずなのに、
違った意味で受け取られることが多い。

他力本願は、親鸞聖人のお言葉。
90歳で入滅し、その30年後に
弟子たちによりまとめられた「歎異抄」は、
「異なるを、嘆く」と書く。

歎異抄は、親鸞聖人のため息
そのものなのかもしれない。

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長く生きる⑤  まど・みちお

まだ読み書きを習い始める前の、
小学校にも上がっていない子どもたちに
いちばんなじみのある100歳の有名人。

それはきっと、詩人・まど・みちお、だと思う。

つくった詩は、数え切れない。
「ぞうさん」に、「やぎさんゆうびん」も。
日本人みんなが歌える童謡は、まどみちお、作。

最新刊は4年前に、出版された。
「おじいさん詩集だ」というけれど、
そこにあるのは、少年のようにチャーミングで、
おおらかな表現に満ちた、変わらぬ世界。

つい先日(11/16)、まどさんは100歳になった。

まどさん。どうぞお元気で。
このメッセージを「やぎさんゆうびん」で
お届けできたらと思います。

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長く生きる⑥ 杉田玄白

はかないもののたとえ、
カゲロウは、たった数時間で命を終える。
一方で、ひとはいつの時代も
不老長寿を願ってやまない。

江戸時代の医師、杉田玄白は、
長寿について、こう記している。


 長生きしても、たいして
 驚くようなことはないわけで、
 無理に長生きを願うのは、無益である。

当時から長寿で知られた杉田先生は、
よっぽど「長生きの秘訣」を聞かれるのが、
お嫌いだったらしい。

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長く生きる⑦ 宇野千代

イギリスで、400歳の貝が
みつかったというニュースが流れた。

女文士、宇野千代が生きていたら、
うらやましいわ、と言うかもしれない。
彼女自身、98まで生きたのに。


 なんだか私、死なないような
 気がするんですよ。(はははは は)

晩年の宇野千代、お気に入りの言葉。

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長く生きる⑧ 小倉遊亀

枯れることは、老いること。

けれど、枯れなくては
うまみを増さないものがある。
それは、梅干し、かつお節。

小倉遊亀(ゆき)は100歳をすぎてなお
絵筆をとり続けた日本画家だった。


 一枚の葉っぱが手に入ったら、宇宙全体が手に入る。

まだ日本画家になる前、小倉は
同じ日本画家の大家、安田靫彦(ゆきひこ)に
もらった言葉を矜恃に生きた。

作品の味わいは、枯れてこそ。

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坂本和加 09年10月17日放送

1

タンデムストーリーズ①「ガストン・ライエ」 

身長は、たった163センチ。
そのハンデをもろともせずに、
パリダカの二輪部門で2度の優勝歴を持つ、
小さな巨人、ガストン・ライエ。
誰もが、そんな足の着かないバイクで
いったいどうやって? と、不思議がる。

ガストン・ライエの答えは、至ってシンプル。


 だったら、どうやったら足を着かないで、走りきれるかを考えたのさ。

現役引退後も、みんなと同じようにバイクを楽しみ、
世界中のバイク乗りに愛されたライダーだった。

2

タンデムストーリーズ②「マックス・フリッツ」

BMWという名車を語るなら、
そのエンブレムがプロペラに由来していることよりも、
そのオートバイの生みの親、
マックス・フリッツという男を知っている方がかっこいい。

エンジニアであった彼の最大の功績は、
水平対向2気筒、通称ボクサーツインと呼ばれる
エンジンを完成させたこと。
そのスタイルは、
1923年の初号機から今に続くビーエムだけのもの。

ドイツ、ミュンヘンにはBMW本社併設の博物館があるが
展示のほとんどをバイクが占める。
ビーエムのカーオーナーたちが、
ちょっとがっかりするくらいに。


3

タンデムストーリーズ③「ビバンダム」

ことしで111才になる。
世界的に有名な彼の名前は、ビバンダム。
そのからだは、うずたかく積み重なった
白いタイヤでできている。

創業者である、
ミシュラン兄弟のユーモアから生まれた
彼の名前は、「ヌンク・エスト・ビバンダム」という
ラテン語で書かれた最初のポスターから。
「今こそ飲み干すとき」という意味がある。

白いタイヤ男は、
生まれたときからからマーケットを飲み干す勢いで、
現在も世界トップシェアに君臨する。


4

タンデムストーリーズ④「チェ・ゲバラ」

23才の医学部生、エルネスト・ゲバラは
友人とふたりで一台のバイクにまたがり旅に出た。

アルゼンチンからチリ、ペルー、
そしてベネズエラへ。

相棒になったバイクは、英国製のノートン500。
タフなヤツというあだ名だったけれど
実際はひどいポンコツで、旅の間に壊れて鉄くずになった。

本当の旅がはじまったのは、それからだった。

バイクは、彼らが経済的に恵まれていることの象徴だった。
その垣根がなくなったとき
はじめて人々はゲバラに心を開いた。

百万長者よりも、文盲のインディオの方が好きだと言うゲバラが
旅行中に記した日記は、こう締めくくられている。

 この流浪は、僕を想像以上に変えた。
 僕は人民のために生きるだろう。


5

タンデムストーリーズ⑤ 山村レイコ

80年代は、バイクに乗る女の子、
ただそれだけで珍しがられる時代だった。
山村レイコが、そうだった。

バイクで旅する楽しさを伝えたいと、
彼女はエッセイストになった。
パリダカを走る国際ラリーストにもなった。
その魅力は、やっぱり書くことで伝えた。

そしてロハスが流行るずっと前に、
酪農や農業をして生きようと決めた。
大好きなバイクが自然との距離を近くしたから。

生きること、楽しむこと、働くこと
山村レイコのなかで
この三つは、いつも同じこと。


5

タンデムストーリーズ⑥浮谷東次郎

浮谷東次郎は14才のとき、バイクで1500キロを旅した。
とにかくよく飛ばす男は、カーレーサーになった。

けれど、最初は群を抜いて遅かったという。
のちの、最後尾からのゴボウ抜き逆転優勝は、
彼が理詰めで勝ち取ったもの。

そんな浮谷東次郎を語る言葉がある。

 カッコよく革ジャンを着ていました

そうか、こういう人がカッコいいんだ。


7

タンデムストーリーズ⑦ 藤沢武夫

昭和24年、真夏の阿佐谷で
本田宗一郎と藤澤武夫が出会い、
「技術の本田、経営の藤澤」の伝説が生まれた。

ホンダが、世界のホンダと称される由縁は、
原動機付き自転車「カブ号」の爆発的ヒットにある。
そのカブ号に目をつけ、
抜群のセンスで売り込んだのが藤澤だ。
「自分に似た人間なら、2人いらない」
そう断言する本田が、選んだ相棒だった。

神話のような本田の決断の数々も、
必ず藤沢の意見があった上でのこと。

「ホンダの社長は技術畑でなくては」、
という藤澤哲学にもとづいて
つねに経営がシナリオを書き
技術が主役をつとめるホンダのサクセスストーリーは、
いまや、MBAの教科書になった。

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坂本和加

sakamoto_waka

大好きなモーターサイクルで
行ってみたいところがある、っていうのと
書いてみたいことがある、っていうのは
同じなんですね。最近気づきました。

書くことで行けるところへは、
たどり着くのが難儀です。

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