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名雪祐平

名雪祐平 11年5月1日放送



シャガール 1

ピカソは、こう言った。

 私は探すのではない。
 見つけるのだ。

それに対して、シャガールは言った。

 この私、私は待つのだ。

いったい、何を。
それは愛の表現だったのかもしれない。

ロシア革命に失望し、
移住したパリではナチス侵攻があり、
亡命したアメリカで最愛の妻を
亡くした、シャガール。

画家は歴史の中を生き、
その時代に描いた愛を
いま私たちは
受け取っているのかもしれない。





シャガール 2

ロシア生まれの画家、
シャガールは22歳の時、
14歳のベラに出会い、恋に堕ちる。

労働者階級出身のシャガール。
一方、裕福な宝石商の娘で、
才色兼備のベラ。

家柄の差もあり、ベラの両親をはじめ、
結婚には猛烈な反対をされてしまう。

けっきょく、出会いから6年の歳月がかかり、
二人は結ばれた。

シャガールは、二人をモデルに
いくつもの絵を描いた。

空を飛ぶ花婿花嫁。

舞い上がる絶頂の気持ちが
キャンバスからあふれそう。







シャガール 3

ロシアの貧しい事務員の息子として
生まれた、マルク・シャガール。

父と同じような職業につくこと。
それが当時の階級社会の
習わしだった。

 ママ、ぼく、画家になりたいんだ。

息子の希望に、母はこう言った。

 ママはあなたに才能があると
 信じているわ。
 でも、もしかすると、
 事務員という職業があなたには
 合っているかもしれないと
 思うのよ。

才能を認めてもなお、
母親は、平凡で幸せな人生を望んでしまう。

それでも息子はあきらめず、
母親を説得し、絵の塾に通わせてもらうことで、
事務員への運命を避けることが
できたのだった。





シャガール 4


シャガールは、
76歳の時にパリ・オペラ座の
天井絵の依頼を受けた。

納得いくまで何度もやり直したという。
うまく描けないといって、
声をあげて泣くほど鬼気せまる姿があった。

何歳になっても、大御所になっても、
既存の方法への敵意を常に持ち続けた。

“敵意”というほどの強烈なエネルギー。
だからこそ生まれた傑作の数々。

 まず感動することだ。
 感動がないなら、やめたほうがよい。

97歳で亡くなるまで、
その姿勢を貫いた天才だった。





サガン 1

その小説は、
こんな書き出しではじまる。

 ものうさと甘さがつきまとって
 離れないこの見知らぬ感情に、
 悲しみという重々しい、
 りっぱな名をつけようか、私は迷う。

作者はパリの18歳の女子大生、
フランソワーズ・サガン。
処女作『悲しみよ こんにちは』である。

1952年の初版は、わずか三千部。
それから部数を伸ばしたのは、
皮肉にも、その新しい文体に猛反対した
批評家たちのせいだった。

批評が、分別くさい大人の意見であればあるほど、
「小娘の小説」と反対すればするほど、
逆にサガンの新しさ、瑞々しさを証明することになり、
人々は興味津々になった。

それは、サガン自身が
時代の主人公になっていくという、
ストーリーの書き出しでもあった。





サガン 2

フランソワーズ・サガンの
『悲しみよ こんにちは』は、
フランスで100万部、
それから25カ国以上に翻訳され、
500万部の大ベストセラーになった。

時代の寵児となった18歳に、
大人の質問は退屈だった。
大金持ちになった感想とか、
ワンパターンにおちいった質問ばかり。

サガンはこんな言葉を返した。

 お金は持っている側だけでなく、
 持っていない人をも支配してしまいます。

お見事。





サガン 3

フランソワーズ・サガンは、
まるで自分の小説の登場人物のようだった。

22歳の時、
愛車アストン・マーチンで転落事故。
「サガン即死」というニュースが
流れるほどの瀕死の重傷を負う。

23歳の時、20歳年上の男と結婚。
ルーレットで8に賭けて
800万フランを当て、別荘を購入。

酒、麻薬、ギャンブル、クルマ、
そして男にのめり込んだ。

肉体的にも精神的にも、
過剰なものがあると休まる。

と語ったサガン。

それは深い孤独を埋めるための
過剰だったのだろうか。





サガン 4

科学的に、考えよう。
合理的に、考えよう。

でも、いつのまにか
人の心がないがしろになっていないだろうか。

フランソワーズ・サガンは警告する。

 思いやりのない頭の良さというのは
 なんとも危険な兵器よ。

合理的に考えた時の、
選ばれる何かと、
切り捨てられる何か。

その両者の間を
私たちはどれだけ思いやり、
埋めることができるだろうか。

この、不安定な時代にこそ。

文学的に、考えよう。

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名雪祐平 11年3月27日放送



サガン 4

フランソワーズ・サガンは、

 孤独というものは、
 平等に訪れる。

という。
優雅な人にも、優しい人にも、
恐ろしい人でも、鬼のような冷たい人にも、
孤独は、平等に訪れる、と。

その孤独と向き合うのは、
たったひとりの自分。

だから、その自分だけは
けっして裏切らないように、と。

『愛と同じくらい孤独』
というサガンの本のタイトルのように、
孤独と同じように、
愛も、平等に、今夜世界中に訪れますように。



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名雪祐平 11年01月30日放送



長谷川町子1

14歳の少女が、
飴をしゃぶりながら寝ころがって、
つぶやいた。

田河水泡の弟子になりたいな。

漫画のらくろで
当時、日本一人気だった大漫画家の
弟子になりたい、と
ぽろっと言っただけ。

すると、母がすぐこう言ったのだ。

それはいい。早速頼みに行きなさい。

未来を変える一言だった。

やがてサザエさんを描く少女、
長谷川町子が、
夢をつかむまで、あとすこし。








長谷川町子2

のらくろで有名な漫画家、
田河水泡は編集者に言った。

うちには女の子の弟子がいるよ。
珍しいでしょう。

そう聞いて
興味が湧かない編集者はいない。

少女の名前は、長谷川町子。
わずか15歳で、
雑誌・少女倶楽部に『狸のお面』
でデビューする。

漫画家人生が順調に
はじまった。

けれど、
どんなに才能があっても、
紙が不足しては描けない。

戦争が激しくなっていた。
サザエさん誕生は、戦争のあと。





長谷川町子3

サザエさんのふるさと。
それは福岡県百道(ももち)の海。

戦争で疎開した漫画家、長谷川町子が
よく散歩したことから、
海にちなんだ名前ばかりの
サザエさんのアイデアは生まれたという。

それから新聞の四コマ漫画を28年。
ほぼ休まなかった。

長谷川は、いつもこう言っていた。

漫画は面白くなくては駄目なのよ。

このあたり前のような言葉は、
マンネリに陥らないための
自分への戒めだったのかもしれない。

サザエさんは、戦わない。
宇宙を飛ばない。
お城に住まない。

それでも1回1回
シャキッと見事に終わらせる。

長谷川が胃を壊しながら、
格闘して描き続けたのは、
ごくごく普通の主婦が主人公という
画期的漫画だった。

その主婦が、
戦後日本を代表する大ヒロインになったのだ。





長谷川町子4

サザエさんで国民的人気を得た
漫画家、長谷川町子。

健全な漫画。
ヒューマニズム…。

そんな作風に自分で飽きてしまい、
まったく違うヒロイン像を
考えつく。

それが『いじわるばあさん』。

いじわるを漫画にするのは、
いたずらを考えるようなもの、
かもしれない。

だから、毒があっても、辛辣でも、
いじわるばあさんは、
人々の気持ちをとらえ、ヒットした。





長谷川町子5

1920年の今日、1月30日。
漫画家、長谷川町子は生まれた。

終戦直後、
26歳で『サザエさん』を発表。

以来、新聞連載で、単行本で、テレビで
ずっと愛され続けている希有な漫画である。

60年間以上、サザエさんは28歳のまま。
でも、作者は歳をとる。

生涯独身だった長谷川は、
70歳になって姉と3つ約束する。

 どんな病気にかかっても入院しない

 手術は受けない

 葬儀・告別式はしない
 また死後、納骨が済むまでは公にしない。

もう、覚悟があったのかもしれない。
1992年、長谷川は72歳で永眠し、
約束通り、納骨式の翌日まで
その死は公表されることはなかった。

人見知りな、最期だった。

人見知りなど縁のなさそうな、
サザエさんが
今週もテレビで笑っている。





田河水泡1

ちょっと間抜けで、ユーモラス。

田河水泡の漫画『のらくろ』シリーズは、
戦前に大人気になった。

主人公、のらくろは、日本軍の二等兵。

天涯孤独の野良犬が、
軍隊で失敗ばかりしながら、成長していく物語。

しかし。

犬の分際で、兵士とは何事か!

とうとう軍部の圧力がかかり、
連載中止へ追い込まれた。

娯楽作品であり、また
戦争の風刺などとんでもない時代に
生まれた意義深い作品だった。

一人の漫画家の勇気が
そこにあった。





田河水泡2

『のらくろ』シリーズの漫画家、
田河水泡には、多くの弟子があつまってきた。

でも実は田河先生は、教えない先生だった。
だから、大きく育ったのかもしれない。

『サザエさん』の長谷川町子。
『あんみつ姫』の倉金章介。
『猿飛佐助』の杉浦茂。

弟子たちはいつも、こう言われていた。

漫画はね、
人の言うことを聞いたりしちゃだめだよ。
強烈に自分の個性を発揮しなくちゃ。
下手でもいいんですよ。
人まねはいけない。

昨今、何でも教わりたがる
風潮にいる現代人には
耳が痛いお言葉。





漫画家の墓

思わず、微笑みたくなるお墓がある。

漫画家たちのお墓がそう。

田河水泡のお墓には、
のらくろが笑って寄り添っている。

藤子・F・不二夫のお墓にも
ドラえもんがいる。
四次元ポケットに名刺を入れられる。

石ノ森章太郎のお墓には、
サイボーグ009や仮面ライダーが
オールカラーでりりしい。

さすが、漫画家。
亡くなっても、キャラクターの墓守が
サービス精神を発揮している。

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名雪祐平 10年12月26日放送



チャールズ・M・シュルツ1


子どもの頃の自分をモデルに、
ストーリーを作り続けることは、
楽しいだろうか。
苦しいだろうか。

それを50年間続けた漫画家がいる。

チャーリー・ブラウンと
スヌーピーの生みの親、
チャールズ・シュルツ

描き続け、
彼自身が老人になればなるほど
どんどん子どもに戻って
漫画の中で遊んでいたのだとしたら、

やっぱり、なんだか楽しそうだ。





チャールズ・M・シュルツ2


スヌーピーの生みの親、
チャールズ・シュルツは、
内気でダメな子どもだった自分を
忘れていなかった。

漫画に登場する
小学生チャーリー・ブラウンたちは、

やれやれ。

お手上げだよ。

と、よく愚痴や弱音をこぼす。

でも必ず、
困った問題を乗り越えようと悩んだり、
一歩一歩進もうと、がんばるのだ。

スーパーマンはいない。
でも、内気だった漫画家だけが描ける
主人公たちは、
世界中のアイドルになった。





ムハマド・ユヌス1


バングラデシュの大学教授が、
貧しい農村に調査に行った。

42人の村人の話を聞き、
いま必要なお金はいくらかを
訊ねてみた。

合計、たった27ドル。

竹のカゴをつくる材料を買うための、
わずかな現金さえなかったのだ。

教授はポケットマネーから
27ドルを貸した。
少しずつ返してくれればいい、と。

のちに全額きれいに返済された。

お金を借り、貧しい人たちは
自分の仕事と活力を手に入れた。
食料を買った。
石鹸や鉛筆も買えたかもしれない。

これはとても良いことだ。
貧困を救うための画期的な銀行を作ろう。

ムハマド・ユヌスは大学教授を辞め、
グラミン銀行を創設した。








ムハマド・ユヌス2


そんなもの、誰も見向きもしない、
ということに世界で初めて取り組む人がいる。

ムハマド・ユヌスはグラミン銀行を作り、
ほんの少ないお金を貧困に苦しむ人たちに
無担保で貸すことを始めた。

どうせ返せっこないさ。

そんな偏見も、見事にひっくり返った。
返済率は99%に達するほどだった。

グラミン銀行は
世界の貧困で苦しむ人々の向上心を信じ、
救い続けている。

誰も見向きもしなかった事業に、
いま、世界中が注目している。




ムハマド・ユヌス3


世界一尊敬されている銀行家は誰か。

数百億円という年収をふところに入れた
アメリカの銀行家より、
数ドルがなくて困っている人たちを救った
この人かもしれない。

ムハマド・ユヌス
グラミン銀行総裁。

彼の言葉がある。


 どんなことでもいい。
 きみのすぐ目の前にある問題から
 はじめればいいんだよ。
 どんなことでもいい。
 きみの手の届く範囲ではじめればいい。


目の前の貧しい人たちに自分の27ドルを貸したこと。
その小さな一歩が、
グラミン銀行のきっかけとなり、
いま、約10万カ所に上る相談センターで
貧しい人たちにお金を融資している。





ハーブ・リッツ1


ある日、無名の2人の若者が
ドライブに出かけた。

途中、タイヤがパンクしてしまった。

修理中のひまつぶしに
1人がもう1人を撮影した写真が
全米の雑誌に掲載されることになった。

写真に写った若者、リチャード・ギア
写真を撮った若者、ハーブ・リッツ

俳優としてギアが成功するにつれ、
リッツも大人気のプロカメラマンとなった。

タイヤのパンクから、
運が走り始めた。




ハーブ・リッツ2


クリスマスから一夜明けた
何でもない、12月26日。

アメリカの写真家ハーブ・リッツが
50歳で他界した。2002年のこと。
エイズだった。

「最も写真を撮ってもらいたい写真家」
そう呼ばれた。

ずばり、それは
自分を美しく撮ってくれるから。
マドンナを筆頭に、
セレブたちからオファーが殺到した。

逆にリッツが
「最も写真を撮りたかったモデル」は、
誰だったのか。

未発表の彼の傑作を
モデルとなった恋人だけが、
眺めているかもしれない。





ゴルバチョフ


クリスマスから一夜明けた
何でもない、12月26日。

ソビエト連邦は崩壊した。1991年のこと。


 蒔けるだけ種を蒔いておきたい。


その言葉の通り、
国家改革ペレストロイカを進めていた
ゴルバチョフだったが、
ソ連崩壊前日には大統領を辞任した。

それが本望でなくても
怒濤の時代の真ん中に彼はいた。

40年以上続いた冷戦を終結させた
その名前は、
とっくに教科書に載っている。




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名雪祐平 10年11月28日放送



星野哲郎


11月15日、
作詞家・星野哲郎が亡くなった。
85歳だった。

告別式で、
歌手の水前寺清子は、
生前に星野から託された
未発表の詩を読み上げた。

詩の冒頭は、こう始まる。


 あけみちゃんてば あけみちゃん
 再婚しようよ 天国で


それは16年前に先に亡くなった
妻へ伝える、
情感あふれる詩だった。





アーネスト・シャクルトン1


20世紀の初め。
ロンドンの新聞に載った広告が
話題をさらった。


 探検隊員求む。至難の旅。
 わずかな報酬。極寒。暗黒の長い月日。
 絶えざる危険。生命の保証無し。
 ただし、成功の暁には名誉と賞賛を得る。


これは、探検家アーネスト・シャクルトンが掲げた
南極探検隊員の募集広告。

この文を読んで、
心を熱くした者だけが
苦難を乗り越えられる資格をもつ。

この広告で、
シャクルトンの卓越したリーダーシップが
すでに発揮されていたのだった。





アーネスト・シャクルトン2


アーネスト・シャクルトン隊長は、
隊員27人を率いて
南極横断の探検に出発した。

そこは一夜にして
数十キロの海が氷るような極寒地。

南極を目前に巨大な氷に阻まれ、
船が座礁してしまった。

ついに沈没した船から脱出し、白い地獄を彷徨う。
それから20カ月も氷の上を漂流し、
耐え続けることになろうとは…。

絶望的な危機に、
隊長は考えた。

全隊員に生きる希望を与え続けよう。
希望とは仕事だった。

毎日時間割で仕事を担当させ、
使命と責任、緊張を維持した。


 人は命令では動かない。
 人は階級では動かない。


机上のリーダー論では命を守れない。
生きるんだ。

そしてシャクルトン隊長は、
素晴らしいリーダーシップで
一人も犠牲者を出すことなく、全員生還させたのだ。





ロッシーニ


tournedos rossini
牛ヒレ肉のロッシーニ風

この“ロッシーニ”とは
イタリア最高の作曲家ともいわれる
ロッシーニのこと。

フォアグラやトリュフを使ったレシピを考え、
料理に自分の名がつくほどの
美食家であった。

ある日、知人の家でご馳走になった後、
「また食べにいらして」と言われて、こう返した。

今でもいいのですが…。

古今東西、食いしん坊はどこか憎めない。









ラブレター1 カフカ


過去にもらった、
あのラブレターは、
いまどこにあるだろう。

作家カフカは、
恋人ができると情熱的に、
短期間に何百通も手紙を送った。

恋人たちは、まだ無名だったカフカからの
手紙を捨てずに、
別れてもずっともっていた。

きっと、カフカの手紙には言葉に命があった。
捨てられない。大切に残したい。
そんな魅力でいっぱいだったに違いない。

カフカの死後、多数の手紙は、
受け取った恋人の名前がつく本となった。
『フェリーツェへの手紙』は700ページ、
『ミレナへの手紙』は400ページを超えた。

逆にカフカ自身は、恋が終わると
女性から受け取った手紙は処分していたという。

だから、まさか自分が書いたラブレターが
世の中に公開されるとは。

天国で顔を赤くしたかもしれない。





三船敏郎


映画俳優、三船敏郎は、
『スター・ウォーズ』と
『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』
の出演依頼を2度とも断った。

いろいろな理由があったにしろ、
『七人の侍』の菊千代そっくりと言われる
一本気な性格が、どこかで影響してしまったのか。

それにしても…

仮面をかぶらないダースベイダー、
三船がライトセーバーを振り回す姿。

ぜひ観たかったもの。

映画ファンとして、
ほんとうに惜しいエピソード。





江戸川乱歩


平井太郎は、
貿易会社で働き始めたが
1年しか続かなかった。

それから、いろいろな仕事に手を出した。
古本屋、新聞記者、ポマード工場の支配人。
チャルメラを吹いて夜泣きそばを
売り歩いたこともあった。

そして、何度目かの失業のとき、
賞金目当てで小説を書き始める。

2週間で書き上げた処女作『二銭銅貨』は
見事雑誌に掲載されたのだった。

こうして平井太郎は、江戸川乱歩になった。

就職できても、
天職にめぐりあうまで
シューカツは続くのかもしれない。
乱歩のように。





ラブレター2 短い告白


一枚の便せんに
太宰治が書いた、
たった4文字のラブレター。

「こひしい」

はるか遠く、
南極越冬隊の夫にあてた妻からの、
たった3文字のモールス信号。

「あなた」

日本中で
送受信されているかもしれない、
たった2文字のメール。

「すき」

たったそれだけの、
すばらしい言葉。

さて、1文字だったら…
と考えながら、
夜は深まって。


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名雪祐平 10年10月23日放送



熊谷守一 1

自分の絵は、売るためのものではない。
描きたいときに描くもの。

画家、熊谷守一はそう考えていた。
けれど、絵が売れなければ、貧しい。

4歳の息子が肺炎になっても十分な治療ができず、
命をなくした。

その死に顔を、
画家は描いたのだった。

絵を描かずに死なせた息子の亡骸を
描く自分に愕然とした。

それでも、
売るための絵は描けなかった。

画家は筆をおいた。





熊谷守一 2

絵が描けない画家、熊谷守一。

貧しさから
次々と子どもたちを病で失ったが、
売るための絵は描けなかった。

ようやく60歳近くになって、
書や墨絵にめざめ、
こんどは娘の死をきっかけに
再び“絵を描く画家”に生まれ変わったのだ。

この後、画家は自宅の門から外へは
30年間出なかった。

小さな庭が画家の宇宙になり、
そこに息づく草花や虫、
生き物たちの命とたわむれ、
一日中眺め、
画家は唯一絶対の画風を
獲得していった。





熊谷守一 3

熊谷守一の絵は、
独特である。

単純な色と線で、
対象物の内面まで表現する。

なにしろ、対象物への
愛情にあふれている。画家は言う。

 絵でも字でも
 うまく描こうなんて
 とんでもないことだ。

名誉やお金にはまったく無頓着。
文化勲章も
「これ以上人が来るようになっては困る」
と辞退した。

97歳の死の直前に描いた名作『猫』は、
その自由で、のびやかな猫の表情が
まるで熊谷の自画像のようにも
思えてくる。





アンデルセン

童話の父、アンデルセン。

若い日には、
オペラ歌手をめざしたり、
バレエ学校にも在籍したものの
失敗と挫折を繰りかえした。

その経験が、のちの
『みにくいアヒルの子』を生んだ
ともいわれる。

作家として大成功し、
まさしく美しい白鳥となったアンデルセンだったが、
女性に対しては醜いアヒルのように
モテることなく、生涯独身でおわる。

葬儀は、デンマークの国葬をもって
おこなわれた。

女性との縁に恵まれなかったが、
葬儀には王族からホームレスまで、
もちろん子どもたちも参列した。

たしかに、アンデルセンは
たくさんの人々から愛されたのだった。
そしていまも、
世界中の子どもたちを夢中にさせている。





ディオゲネス

ギリシャの哲学者、ディオゲネス。

みすぼらしい路上生活を送り、
どこでも平気で物を食べた。
そんな彼を見て、
人々は「まるで犬だ」とののしった。

ディオゲネスはこう言い返した。

「人が物を食っているときに集まってくる
 おまえらこそ犬じゃないか」

食べることがおかしなことでなければ、
どこで食べてもおかしなことではない。

それが彼の哲学。

さて、現代。
道ばたで、地下鉄の中で、
物を食べている人々も哲学、
しているのだろうか。





エルンスト・ルスカ

ノーベル賞の条件。
それは長生きすること。

功績をあげてからの最長記録は
55年後の受賞。

その1人、エルンスト・ルスカは
25歳の年に電子顕微鏡を開発し、
80歳の年にノーベル賞物理学賞を受賞した。

今の研究開発が
未来のノーベル賞かもしれない。

みなさん、長生きしましょう。






ムンク


孤独と不安。

それらを絵で表現するとしたら、
どんな色だろう。
どんな形だろう。

1つの見事な答えがある。
ムンクの『叫び』

不気味な赤い空。
ミイラのような男のゆがんだ表情。

自然をつらぬく、けたたましい、
終わりのない叫びに耐えかねて
男は耳をおさえている。

なぜ、ムンクには叫びが聴こえたのか。

 病と狂気と死が、
 私の揺りかごを見守っていた黒い天使だった。

そんなムンクの孤独と不安が
世界の叫びと激しく共鳴したのだろうか。

ムンクの『叫び』
それはまるで1枚の音。

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名雪祐平 10年09月26日放送



ルイス・キャロル


少女の身体が
大きくなったり、
小さくなったり。

『不思議の国のアリス』は、
想像力にあふれている。

しかし、作者のルイス・キャロルは
異常なほど几帳面な男だった。

記録魔で、手紙魔で、計画魔。

そんな、完璧主義という
病いのような日常から、
とことん奇想天外な物語が、
創作されたのであった。









キャサリン・ヘップバーン1


アカデミー賞ノミネートを12回。
主演女優賞を4回。

どちらも最多記録を誇る
キャサリン・ヘップバーン

けれども、彼女は
何回ノミネートされても、
授賞式に1回も出席することはなかった。

理由は、
おそろしくシンプル。


 大勢の人間が集まるところに
 行くのは嫌いだから。


初ノミネートから約50年もの間、
びくとも変わらない意志が
すごい。




キャサリン・ヘップバーン2


アカデミー賞に、12回ノミネートされても
授賞式には欠席してしまう。

大勢いるところが嫌いだから。

そんなキャサリン・ヘップバーンが
1回だけ授賞式に出席したことがある。

それは自らのノミネートが
理由ではなかった。

長年の友人であるプロデューサーに贈られる賞の
「プレゼンター役」を引き受けたのだ。

はじめて授賞式に姿を見せた大女優に、
会場はスタンディング・オベーション。

彼女もユーモアでこたえた。


 よかったわ。
 “いまごろのこのこやってきて”
 と言われなくて。


そして、無事プレゼンターとして
友人に賞を渡すと
すぐに舞台から裏口へと消えた。

会場にいたのは、わずか15分だった。

こういうことを、
あざやか、というのかもしれない。





ノーベル


ダイナマイトを発明し、
莫大な富を築いた
アルフレッド・ノーベル


 仕事があれば、
 そこが我が祖国。


と、世界中に出張する。

小説家ヴィクトル・ユゴーは彼を
「ヨーロッパでもっとも裕福な浮浪者」
と評した。

子どもはいなかった。

遺言状により、
創立されたノーベル賞は
いまにつづく
彼の子孫なのかもしれない。





ユトリロ1


ルノワールの有名な作品
『ブージヴァルの踊り』

その絵のなかで、
若き日の母が、
男に身体を寄せている。

あれが父だろうか?
息子ユトリロは、
父親を知らなかった。

祖母の元で育てられ、
深い孤独に悩み、
次第に酒に溺れていった。

17歳ですでに
アルコール中毒となり、
精神病院に入院する。

ここで、治療のため
絵を描くことを勧められたのだった。

孤独とアルコール。

その2つが、
まるで、父と母のように、
画家ユトリロを産んだのかもしれない。





ユトリロ2


ユトリロといえば、
風景画。

けれど酒に溺れ、
奇行ばかり繰りかえしたため、
パリの街中で人々は
罵声を浴びせはじめた。

外で画けないため、
絵葉書をもとに室内で制作すると、
またそれを批判された。

しかし、ユトリロは
絵葉書からでも
詩情あふれる風景画を創ってのけた。

酒で生活が荒れに荒れ、
絵葉書に頼ってもいた
この時代に傑作が多いのは、
人間と芸術の不思議である。





赤塚不二夫1


昭和30年代前半、
ギャグ漫画は、
認められていなかった。

だから、赤塚不二夫は、
少女漫画も描いていた。

それが
『ひみつのアッコちゃん』
が生まれたひみつ。

鏡よ、鏡。
と変身するアッコちゃん。

かわいらしい少女漫画のふりをさせて、
実は、新しいギャグ漫画を
試したのかもしれません。

いたずらが大好きだった
赤塚先生のことだから。





赤塚不二夫2


ギャグ漫画に
こだわるのはなぜですか?

赤塚不二夫は迷わず答えた。


 芸術性が高いものね。
 ギャグ漫画というのは、
 人間が笑うということ、
 ギャグこそ品位が
 必要なんですよ。


たしかに…。たとえば、

これでいいのだ。

これ以上芸術的な一言は
ないのかもしれません。

これでいいのだ。


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