「夏」のはなし 風鈴職人 篠原儀治
風鈴職人、篠原儀治(よしはる)。
大正13年、東京の下町、向島の風鈴職人の家の
長男としてうまれる。
職人たちが2交替で24時間風鈴を作る大きな工房で
儀治も12歳のころから風鈴作りを学び始めた。
戦時中は資材が手に入らず儀治の親が、
ふかし芋を売って生計を立てたりしていたが、
戦争から復員した儀治は、ガラス工房の復興に乗り出した。
職人が型を使わず空中でふくらます、宙吹き(ちゅうぶき)でガラスを成形し
汚れを防ぐため絵付けは中からする。
東京の下町の風鈴を「江戸風鈴」と名づけブランドにしたのも儀治の才覚だった。
デパートに営業し、販路を広げ、風鈴の売れない冬は、
アメリカに渡りクリスマスツリーの飾りとして売った。
儀治は頑固な職人であると同時に、
柔軟なビジネスマンでもあったのだ。
彼は言う。
作った物を売る技術を知らないとダメだよ。
家計が苦しいのに俺の跡をやろうって誰が思います?
12歳から風鈴を作り始めた少年は、
87歳になった今も息子たちと日本の夏の伝統を
守り続けている。
「夏」のはなし 上山英一郎と妻ゆき
あなた!倉の中で
ヘビがとぐろまいているの!
妻は夫のもとへ飛んで来た。
そして思いついた。
あなた、
蚊取り線香の形状、うずまき型はどうかしら?
燃焼時間もかせげるし、お線香みたいに倒れないし。
KINCHOの創業者である上山英一郎とその妻ゆき。
夫婦のくらしのひとこまから蚊取り線香の
あの渦巻きの形は生まれた。
渦巻きはのばせば75センチ、6時間から7時間は燃えている。
それまでの棒のような、40分しか持たない製品とは
格段の違いがあった。
渦巻きの蚊取り線香は、
MOSQUITO COILと呼ばれ、世界中で
夏の日の必需品となっている。
薄組・熊埜御堂由香
熊埜御堂由香 11年8月7日放送
熊埜御堂由香 11年7月30日放送
子どもの時間 モーリス・センダック
わたしは、たとえるなら、
編曲者であって、革新的作曲家ではなかった。
世界的ベストセラー絵本
「かいじゅうたちのいるところ」の
作者モーリス・センダックは
そう自分を評した。
1928年、センダックが生まれた年は
世界のヒーローも生まれた。ミッキーマウスだ。
彼はミッキーマウスの大ファンになり
のちの代表作、「まよなかのだいころ」の主人公に
ミッキーという名前をつけた。
ディズニーの影響を受けた登場人物を
古典的なイラストレーションで描くセンダックのオリジナリティは
自分自身の幼児体験にあった。
わたしが人より優れていることがあるなら、
子ども時代のことを、よく覚えてることだね。
それは、まぎれもなくセンダックだけのもの、
彼だけの才能だった。
センダックの絵本には
悪戯な子供や生意気な子供、大人が手を焼く子供が
が生き生きと描かれている。
熊埜御堂由香 11年6月19日放送
3 友達について 山口瞳と向田邦子
1980年、直木賞、選考会。
はじめて選考委員になった、山口瞳は
先輩作家たちの前で思いきって、言った。
向田邦子はもう、51歳なんですよ。
そんなに長くは作家として
書き続けられないんですよ。
選考委員は一同、驚いた。
え?50代?もっと若く見えるぞ?
上手いけど、小味だ、
小説家としては、駆けだしだ、
という一部の反対がふっとゆらいで
向田は、直木賞を受賞した。
山口は受賞の記者会見で、
向田邦子さんは私より小説が上手です、
と笑いをとった。でも、本心だった。
その後も、彼女におせっかいなアドバイスを続けた。
例えばこんな風、「あ・うん?そんなのダメだ。
タイトルは一度でおぼえられる簡単なものにしろ」
そのたびに、向田は微笑みながら聞いていた。
向田邦子が、飛行機事故にあった通夜のあと
山口瞳は仲間と軍歌、「戦友」を歌った。
気づいたらひとりで、声をはりあげて歌っていた。
モノを書く、という戦いを生き抜く。
そういう覚悟でふたりは結ばれていたのだ。
4 友達について やなせたかし
アンパンマンの作者、
やなせたかしは言った。
ぼくらはしょせん
罪の子で
完全なひとはひとりもいない
もしいたとすれば友にしたくない
アンパンマンは、こげたマントで、
自分の顔を食べさせては、パワー不足で失速して、
なんだか、少しかっこわるい。
けれど、決してくじけない。
そうして、彼は
「子どもたちのヒ―ロ―」ではなくて、
ともだちになっていったんだ。
熊埜御堂由香 11年5月14日放送
熊埜御堂由香 11年3月27日放送

冒険の話 栗城史多
寒いです。とても寒いです・・・
その冒険家は、よく泣き。よく弱音をはいた。
登山家・栗城史多(くりきのぶかず)。
登山をはじめたきっかけは、失恋だった。
高卒でフリーターの栗城から彼女は去った。
彼女が求めていたのは、「大卒、公務員、車持ち」そんな男だった。
彼女の気持ちがわからなかった。そのショックから、
彼女の趣味だった登山をはじめる。
そのとき20歳。寒いし、辛いし最初は冬山が嫌いだった。
けれど、1週間ほどかけて冬山を先輩と登ったとき。
その背中を泣きそうな思いで追いながら
不可能を超えていく自分に
気づいた。
それから栗城は小型カメラを背負い
インターネット中継しながらエベレストなど世界の山々に挑みはじめた。
そこにいる栗城は、冒険家というより、ひとりの素直な若者だった。
多く同世代がリアルタイムで応援の言葉を返した。
栗城は言う。
悔しかったら悔しがるし、泣いて弱音を吐いてもいい。
それが頑張る力になるから。

冒険の話 マウ・ピアイルグと石川直樹
地図のない時代。
ミクロネシアの人々は星の位置を頼りに
数千キロの海を渡った。
その航海術の後継者、マウ・ピアイルグ。
勇猛という名をもつこの老人に憧れ、
ある日本人が、突然会いにきた。
冒険家の石川直樹。
当時21歳の石川にマウは星を覚えろと言った。
そして一緒に海へでた。
4日の予定だった航海は6日を過ぎ、飲み水はつきた。
それでもマウは動じない。
星を見つめ、波や風を全身で受け止めながら指示を下した。
そして9日目、波の向こうに島が見えた。
マウは別れ際に石川に言った。
心の中に星が見えるか?
心のなかに星が見えたら
自分の位置を見失うことはない。
それは冒険家にとっていちばん大切な教養かもしれない。
3月19日と20日もVisionお休みです
3月19日と20日もVisionはお休みです。
3月19日佐藤理人、3月20日薄組でした。
なお、J-waveでは被災地のための救援物資を
受け付けています。
詳細はこちらをご覧ください。
http://www.j-wave.co.jp/topics/1103_hth.htm
熊埜御堂由香 11年02月20日放送

あの人の詩 草間彌生
長野県松本市の裕福な家庭に生まれた少女は
小さなころから、幻聴や幻覚に悩まされていた。
その異常な日常を受け入れるためだろうか。
彼女は自分に見えている世界を鉛筆や絵の具で書きとめはじめた。
アーティスト、草間彌生。
10歳の時に描いた母の肖像画には顔の上に
着物の上に無数の水玉が描かれていた。
草間は60年代後半には
ニューヨークでハプニング・アーティストとして
知られるようになった。
やがて創作の形式として、小説や詩も用いはじめる。
過激で性的な作品群は、草間自身の屈折した人生と重ね合わされ
マスコミを騒がせた。
そんな中、草間彌生は言い切った。
私の小説はすべて私の想像から創出されたものであり、自叙伝ではない。
ただし、詩集は別格である。
小さな頃描いた、幻覚を現実として認めるためのドローイングの
ように。幼く澄んだ言葉で紡がれた「すみれ強迫」という詩がある。
ある日 突然 わたしの声は
すみれの声になっているの
心しずめて 息をつめて
ほんとうなのね、みんな
今日に おこったことたちは























