古田彰一

坂本仁 11年4月10日放送

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ハリール・ジブラーン

新たなスタートをきった新社会人のキミへ。

大工さんは、住む人をしあわせにしたいと思っている。
エンジニアは、使う人の毎日をゆたかにしたいと思っている。
警察官は、みんなを守りたいと思っている。
営業マンは、お客さんを笑顔にしたいと思っている。

レバノン出身の詩人、ハリール・ジブラーンは言う。
仕事とは、
「愛」を目に見えるかたちに表現することである。 
と。


安野モヨコ

新たなスタートをきった新社会人のキミへ。

春は出会いの季節だけど、別れの季節でもある。
生活リズムが変わり、仕事が忙しくなって、
恋人と別れてしまう人もいるでしょう。

でもそんなときは、次の言葉を思いだしてください。

仕事頑張ったから損、なんてことないからね。
必ず、次の恋愛に生きてくるから。 

安野モヨコは漫画「働きマン」の中でそう書く。

人を磨くのは、仕事なのかもしれない。


宮崎駿

新たなスタートをきった新社会人のキミへ。

ひとたび映画制作がはじまると、
朝9時に出社して朝の5時まで黙々と仕事をする。
食事はアルミのお弁当箱にいれてきた白米といくつかのおかず。
それを半分づつ、昼と夜に食べる。

国民的アニメーション作家・宮崎駿はそんなストイックなワークスタイルを、
数十年もつづけている。
風の谷のナウシカ、隣のトトロ、崖の上のポニョなどの名作は、
そうした努力の上で生まれてきた。

宮崎駿は言う。
才能とは、情熱を持続させる能力のこと。
だと。

生まれながらにして、スゴイことを成し遂げる運命の人なんて
きっといない。
情熱を持続させられるかいなかが、明暗をわける。
そんなことを、いつも思いながら働いていってほしい。


井筒和幸

新たなスタートをきった新社会人のキミへ。

仕事に愛情を持てれば、仕事には魂が入る。
魂が入るから人の心を動かせる仕事になる。

パッチギなどで知られる映画監督・井筒和幸はそう語る。
彼が人の心を動かせる映画をつくれる秘訣は、
どうやら、仕事への愛情にあるようだ。

キミはこれから、どんな仕事で、人の心を動かしていきますか?

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八木田杏子 11年03月26日放送


ベートーヴェンとエリーゼとテレーゼ

「エリーゼのために」という曲は、もともと
「テレーゼのために」だったという説がある。

エリーゼとは誰かについてはいろいろ取り沙汰されているが
ベートーベンの主治医の姪である
テレーゼ・マルファッティという説が有力だ。
ベートーベンは40歳のときに
18歳のテレーゼに結婚を申し込んでいるし
なによりその楽譜を所持していたのが
テレーゼ・マリファッティなのだから。

ではなぜ、テレーゼがエリーゼに?

悪筆で名高いベートーベンが書いた作品のタイトルは
ドイツで筆跡鑑定をしてみた結果
エリーゼともテレーゼとも読めるそうなのだ。
ベートーベンは悪筆に屈することなく
女性に手紙を送り、曲をささげている。

ところで、ベートーベンの生涯にはもうひとりのテレーゼがいる。
こちらは伯爵令嬢のテレーゼ・フォン・ブルンスウィク。
美しく才気にあふれ多くの人々を魅了したといわれる女性だ。

こちらのテレーゼに捧げられた曲は
「ピアノソナタ24番 テレーゼ 作品78」というタイトルで
幸いに名前も読み間違えられずにテレーゼのままだ。

のびやかでエレガントなその曲は女性が弾くのにふさわしいが
少女たちの人気はエリーゼに傾いている。


鴻上尚史の孤独

ひとりぼっちにならないために、
ケータイを握りしめる、

孤独にならないようにしても、
ふと一人になったときに、不安はこみあげてくる。

劇作家の鴻上尚史は、
孤独と向き合う方法を教えてくれる。

人間は、一人でいるときに成長するのです。

一人は少しも悪くない。恥ずかしくない。みじめじゃない。
一人になりたいと思って一人でいることは、
とても快適なことだ
とあなたは、胸を張って、自分自身に言えばいいのです。

そう思うことで、
無理に話を合わせて愛想笑いをしなくなり、
30人に一人の本当の味方に出会えると、鴻上は語る。

明日は日曜日。

携帯電話を忘れて、
一人でふらっと出かけてみませんか。


フジ子・ヘミングの音色

60歳を越えてから、
ピアニストとして活躍のときを迎えたフジ子・ヘミング。

天才少女と呼ばれ、
日本で脚光を浴びていた彼女は
留学のときに国籍がないことが発覚。

その後、難民としてベルリンに留学し
優秀な成績をおさめたが
最大のチャンスを前にして聴覚を失ってしまう。

突然中断されてしまった演奏家としてのキャリア。
しかしフジ子はあきらめなかった。
働きながら耳の治療をつづけ
ピアノ教師の資格を得た後は、
ピアノを教えながら演奏活動を再会するようにもなった。

一流演奏家への道は
二度と開かれることはないはずだった。
しかし、1999年
フジ子・ヘミング67歳のときにチャンスがやってきた。
数年前に日本に戻っていた彼女のドキュメントが
テレビ番組として放送されたのだ。

その番組のなかでフジ子・ヘミングはピアノを弾いた。
その姿にも音にも
フジ子・ヘミングの人生がにじんでおり
それ見て涙した多くの人がフジ子のファンになった。

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3月12日と13日のVision

今回の大震災を受けて
急遽特別編成対応を敷いた関係で、
昨日(3/12土)と本日(3/13日)については両日とも、
「VISION」のゾーンを「ニュース情報枠」に差し替えて
放送させていただきました。

*3月12日:八木田杏子 3月13日:古居利康

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坂本仁 11年02月06日放送


サルヴァトーレ・フェラガモ

世界有数のファッションブランドの創設者、
サルヴァトーレ・フェラガモ。

足を痛めない靴をつくるために大学で解剖学を学び、
その履き心地とデザイン性で多くのハリウッドスターのお気に入りになった。

彼は言う。

美しさに限界はない。
デザインに飽和点はない。
そして靴屋が製品を飾るために使う素材に終わりはない。

サルヴァトーレ・フェラガモ。
画期的な靴をつくるために歩みつづけた人だった。


アンドレ・マルロー

「人間の条件」で知られる作家アンドレ・マルロー。
彼は、机の上で文筆活動をするタイプの作家ではなかった。

スペイン内戦では、共和国派の義勇軍にパイロットとして参加。
第二次大戦ではレジスタンス運動に身を投じ、
その功績を認められ、レジスタンス勲章も受賞している。

危険を顧みず、自らが正しいと思うほうに進んだ人、マルローは言う。

勇気というやつは、生き物なんだ。
だから鉄砲の手入れをするのと同じ理屈で勇気も手入れをしなくてはならないんだ。

勇気はキープすべきもの。
そうマルローは教えてくれる。


ギー・ラリベルテ

カナダのケベックシティの路上でアコーディオンを弾いたり、
ファイアーパフォーマンスをしていた大道芸人は、
いつしか世界有数のエンターテインメント集団の代表になった。
その芸人の名はギー・ラリベルテ。
文化・芸術・アクロバットを融合し独自の芸術表現に高めた
シルクドソレイユをつくった人。

2009年ラリベルテは3500万ドルの費用をかけて
民間人の宇宙旅行者になった。
そのときのことを、
「エンターテイナーの自分にとって素晴らしいショーだった。
 アドレナリンが放出され大いに刺激になった」
と語っている。

多くの人の心を動かすのが得意なギー・ラリベルテは、
自分の心を動かすことにも積極的だ。

さらに国際宇宙ステーションに滞在中の彼の写真を見ると
ピエロの赤い鼻をつけている。
ラリベルテは世界初の宇宙ピエロになって
水資源の大切さを訴えるメッセージを地球に送ったが
そんなときでもみんなを喜ばせることを忘れてはいない。

家族とテレビ電話をしたときも
赤い鼻をつけ、家族を楽しませていた。


マーク・ザッカーバーグ

世界中で5億人が利用する、
ソーシャルネットワーキングシステムFacebookを作った
マーク・ザッカーバーグは現在26歳。

5年前、彼は当時のYAHOO!のCEOテリー・セメルから、
10億ドルでFacebookの事業を買収したいと申し込まれた
ザッカーバーグは次のように語り、その話を断ってしまう。

 値段じゃないんだ。これは僕の赤ん坊なのさ。
 ずっと面倒をみていきたいんだ。
 自分で育てたいんだ。

26歳の若者が育てているFacebookは
まだまだ大きくなりそうだ。


伊東一雄

野茂英雄よりも早くメジャーリーグへの道を切り拓いた人、伊東一雄。

パンチョ伊東の愛称で知られる彼は、
まだ日本人の海外渡航が制限されていた20代の頃から
単身アメリカに渡ってメジャーリーグの試合を観戦。
パリーグの広報部長になってからは
仕事の合間を縫ってはアメリカの球場をまわるのが
趣味だった。

独学で学んだ英語でメジャーリーグの事務局や球場に入り浸り、
ついにはマイナーリーグクラスの選手でも
「パンチョ」の名を知らない者はいないと言われるまでになった。

ちなみにパンチョという愛称は、
メジャーリーグの関係者が親しみを込めてつけたものだという。

パリーグを退職してからは
メジャーリーグの取材活動はいっそう活発になり
プロ野球ニュースではメジャーリーグの解説を受け持った。

メジャーリーグを愛したパンチョ伊藤は、
メジャーリーグに愛された人だった。

癌に倒れたその告別式は
男の涙が多い告別式だったと伝えられている。


今西錦司

動物の生態を研究することから出発して
独自の動物社会学や進化論を提唱した今西錦司。

「ワシは好きなことしかせん」が口癖で、
日本の霊長類学を世界最高レベルまで育て上げた人だった。

晩年、岐阜大学の学長に招かれた際、
今西はこんなことを言って、その依頼を引き受けた。

 そこに山があるから、私は岐阜大学に行くのである。

生態学も動物行動学も
要は自然とそこに棲む生き物と向き合うことだ。
登山家でもあった今西は岐阜の山々が好きだったらしい。


清水幾太郎

「私はあなたの意見に反対だ」より、
「違う考え方もあるよね」と言うほうが、
目の前にいる人の意見を変えることができる。

戦後を代表する社会学者の清水幾太郎は、
著書「論文の書き方」で次のように語る。

無闇に烈(はげ)しい言葉を用いると、
言葉が相手の心の内部へ入り込む前に爆発してしまう。
言葉は相手の心の内部へ静かに入って、
入ってから爆発を遂げた方がよいのである。

彼の慎ましい言葉で書かれた数々の著作を読むと、
彼の言いたいことが心の内部に静かに入って伝わってくる。


小島秀夫

ピカソがゲルニカを描いたように、
そして、ジョンレノンがイマジンをつくったように、
小島秀夫はメタルギアソリッドをつくった。

反戦・反核のメッセージが込められたメタルギアソリッドシリーズは、
全世界で2700万本以上を売り上げた。
第3作のメタルギアソリッドはアメリカフォーチュン誌から
「20世紀最高のシナリオ」とまで賞賛されている。

ゲームデザイナー小島秀夫は言う。

ゲームは単なる暇つぶしの剣玉であってはならない。
消費したプレイ時間分の見返りが、
ユーザーの人生に還元されるモノが、
何かしら内包されていなければならない、と。

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八木田杏子 11年01月23日放送


クララ・シューマン

シューマンの妻、クララ・シューマンは
少女のころから天才ピアニストとして知られていた。

クララのプロデビューは1828年、9歳のときで
モーツァルトのピアノコンチェルトのソリストをつとめ
人気を博した。

そんなクララの家に
父の弟子としてシューマンが住むようになったのは
1830年のことだった。

20歳の大学生と11歳の天才ピアニストは
兄と妹のように仲が良かった。

その出会いが逃れられない運命の出会いだと
ふたりが気づくまでに、まだ数年の余裕がある。


シューマンの才能 

クララの父の弟子としてやってきた
20歳のシューマンは、焦っていた。

大学を辞めて本格的にピアノを学び始めた彼は、
指の訓練のための練習曲を弾かされていた。

となりでピアノを奏でる11歳のクララは、
ソロコンサートのための曲を弾いていた。

やがてシューマンは、
演奏よりも作曲にのめりこんでいく。

1年ほど作曲理論を学んでから
書き上げた作品は出版され、独創的と言われた。

ピアニストとしては
シューマンが足元にもおよばなかったクララが、
彼の音楽に夢中になる。

彼女は自作の曲をシューマンに捧げて、
書き直してほしいとねだった。

シューマンの旋律に導かれて、
クララの初恋がはじまる。


クララ・シューマンの自由 

婚約から3年。
シューマンとクララの結婚は長い道のりだった。

クララの父親が、結婚に反対したのだ。

すでにピアニストとして一世を風靡していた
クララのキャリアが
結婚によって終わってしまう。

父の心配にクララの気持ちは揺れる。

シューマンは辛抱強く待ちつづけ
愛を伝える手紙を書き送った。
父はシューマンをあきらめないクララを責めた。

やがて…
19歳になったクララは、父親の助けを借りずに、
パリの演奏旅行へ出発する。

独りぼっちの不安と負担で、不眠と頭痛に苦しんだけれど
ピアノの音色は澄み切っていた。

父親に見捨てられても自分の足で立てる。
その自信が、クララを自由にする。


クララ・シューマンの結婚生活 

1840年、やっとシューマンと結婚をしたクララは
次々と子供を生み育てながらヨーロッパをめぐって
演奏活動をつづけた。

忙しかった。
その忙しさはクララ自身の日記にも記されている。
それでも妻になる幸せは、クララの想像を超えていた。

この幸福を知らない人たちを、
わたしはどんなに気の毒に思うことか。
それでは半分しか生きていないと同じではないか。

ピアニストとして名を馳せ、
作曲家としても後世に名を残し
シューマンの妻であり、
大勢の子供たちの母だったクララの
忙しく幸せな日々をを喜びたい。


クララ・シューマンとヨハネス・ブラームス

シューマンが亡くなったとき、
未亡人になったクララと残された家庭を支えたのは
ヨハネス・ブラームスだった。

家族の一員のようになっていたブラームスに
クララは夫の楽譜や蔵書を自由に使わせた。
ブラームスはクララを尊敬し
作品ができあがるとまずクララに見せるのを習慣にした。

クララはブラームスの楽譜を、心待ちにしていた。
彼の音楽を誰よりも深く愛し、
美しく奏でられることを誇りにしていた。

音楽家としても人間としても
ふたりは支えあいながら、年を重ねていく。

クララが70歳までピアニストでいられたのも、
ブラームスが60歳を超えても作曲を続けたのも、
ふたりの親密な友情があったから。

60歳になったブラームスは、
「ピアノのための6つの小品」を作曲して、
74歳のクララに捧げた。

叙情的でおだやかな
長い友情にふさわしい曲である。


クララ・シューマンの生き様 

クララ・シューマンは、
100マルク紙幣の顔になっている。

彼女は、夫であるロベルト・シューマンが入院したときも
病院で息をひきとったときも
友人からの援助はすべて断り、苦境に立ち向かった。

ピアニストとして演奏活動をつづけながら
シューマンの作品を世に出すことにつとめ
シューマン全集の編纂にもあたった。

ピアノを弾いていると、
過度の苦しみを背負ったわたしの心が、
まるでほんとうに大声で泣いたあとのように、
軽くなるのです。

ドイツはクララ・シューマンの生涯をたたえて
その肖像を100マルク紙幣に残した。


ヨハネス・ブラームス

20歳のヨハネス・ブラームスは、
自分の作品とシューマンの曲は似ていると感じた。

ためらいがちに自宅を訪ねていくと、
ブラームスの曲を、まずシューマンが絶賛し
その妻クララも、若き才能に惚れこんだ。

シューマンは華々しくブラームスを紹介し
それがきっかけになって
やがてベートーベンの後継者とまでいわれるブラームスの
大作曲家への道がはじまる。

若いみずみずしい感受性は、
シューマン夫妻の刺激になっただろうけれど
ブラームスがシューマン夫妻に被った恩もまた大きい。


シューマン夫妻の交換日記 

シューマン夫妻は、
伝えきれない想いを、交換日記につづった。

ピアニストである妻のクララと共に
ロシアの演奏旅行に出かけたとき、
シューマンは発熱やめまいに苦しんでいた。

一方クララは演奏会の拍手を一身に受け、
華やかな貴族の夜会に出かけていく。

シューマンは何も言わずに、ひとこと日記に書いた。

この苦痛とクララの行動にはもう我慢ができない。

それを読んだ彼女も書いた。

わたしはしばしば、あなたを怒らせていたようだ。
ただわたしの至らなさと鈍感のせいだ。

シューマンが忙しくなったときは
クララが寂しさを日記にぶつけた。
そのとき夫は、妻への愛を書きしるした。

やわらかく傷つきやすい心は
口に出す言葉より日記の文字をラクに受け入れるのだろうか。

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坂本仁 10年12月11日放送


フランク・ミュラー

若い頃の挑戦より、年をとってからの挑戦のほうが難しい。

もし失敗したら自分はどうやって生きていこう。
家族は食べていけるだろうか。
様々な不安が自分を襲ってくる。

けれど、スイスでブレゲの再来と言われ、
精密で美しい時計を製作しつづけているフランク・ミュラーは
次のように言う。

 人生に挑戦するのに年齢なんて関係ない。
 そもそもこの世に時間などない。
 それは人間が勝手に作ったものだ。
 私は時計師だからそのことがよくわかる。

今、何かをはじめようとしている人、
そして自分の年齢を考えて不安になっている人は、
時計をはずしてみると、
新しい一歩を踏み出せるかもしれない。


ベーブ・ルース

野球において、ホームランは時間を止める。
ピッチャーは肩を落とし、
野手はボールを見送ることしかできず、
ただ1人打った人だけが、
ゆっくりとベースランニングする自由を許される。

そのホームランを生涯で714本も打った世界のホームラン王、
ベーブ・ルースは次のように語る。

 守備の甘いところへ打つのがコツだ。
 だから俺は場外へ打つ。

ベーブ・ルースにとっては、
ホームランを打つのは、
ヒットを打つより簡単だったのか。
そんな風に思ってしまうほど
単純で説得力のある偉大な発言だ。


中川翔子

あなたが生まれてから何日たったことでしょう。

例えば、
20歳の人は7300日。
40歳の人は14,600日になります。

歌手、タレント、女優、声優など、
さまざまな活動を楽しむ中川翔子さんは言います。

人生は3万日しかない。と。

自分が重ねていく年月を、
何歳と数えるではなく、
何日と数えてみる。
そうすると私たちはもっと毎日を大事に生きていける気がする。
もっと今を大切にできる。

中川翔子さんはそう胸に刻むことで、
きっと毎日をギザ楽しんでいるのでしょう。

あなたは今、何日めですか?


オードリーヘップバーン

 人間性の暗い側面、わがまま、強欲、不幸、そんなものが、
 私たちの空を汚し、空っぽの海にし、森を破壊し、
 何万もの美しい動物を絶滅に追い込みました。
 次は私たちの子供なのでしょうか。

1989年、ユニセフの親善大使に就任した
オードリー・ヘプバーンはそう語って
世界の痛ましい現実と戦いはじめた。

スーダン、ベトナム、バングラディシュ、南アメリカ。
安全な飲み水を確保する井戸の設置や地雷除去など、
子供たちを守るために世界中でユニセフの活動に身を捧げた。
ソマリアへは、自ら患っていた癌をおしてまで行ったという。

12月11日。今日はユニセフの創立記念日。
今もきっとオードリーヘップバーンは
天国で、世界の子供たちの未来を見守っている。


マイルス・デイビス

勉強は大切だ。
何か一つの道を決めて、
その世界を極めようと思ったら、
昼も夜も、寝ることも食べることも忘れて、
そのことを学びつづけなければならない。

けれど、それだけでは、足りないのである。

ジャズ界のピカソと言われ、
モダンジャズを牽引したトランペット奏者、
マイルス・デイビスはよいジャズを引く秘訣を問われて、
次のように言った。

 学べ。そして忘れろ。

マイルス・デイビスは、
学ぶことの重要性を説いた上で、
その先に行くためには、
ルールや常識から自らを解放しなければならないことを、
知っていた人だった。


アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ

偉人とはなんだろう?
すごい発見をした科学者のこと?
すごい成績を残したスポーツ選手のこと?
それとも、すごい商品を作ってお金持ちになった人のこと?

カトリック教会の修道女、アグネス・ゴンジャ・ボヤジュは、
次のように言った。

 大きなことを出来る人はたくさんいますが、
 小さなことをしようとする人はごくわずかしかいません。

小さなことをしつづけたアグネス・ゴンジャ・ボヤジュ。
いつしか彼女は、マザー・テレサと呼ばれるようになった。


ノーマンメイラー

高価な靴を履いてる営業マンより、
歩き回って擦り切れた靴を履いている営業マンの方が素敵だと思う。

流行の服をいつも着ているクリエイターより、
一心不乱に絵を描く、
絵の具で汚れた服を着ている画家の方がクリエイティブだと思う。

美しく流暢な言葉で愛を告白するより、
言葉は拙くても誠実に大声で愛を告白する方が伝わると思う。

生涯で40を超える作品を残したアメリカの大衆作家、
ノーマン・メイラーは次のように言う。

 本当に大事なことのうち、
 格好をつけたままでやれることは、一つもない。

ノーマン・メイラーが、格好をつけることを忘れて打ち込んだ大事なこと。
それは、人々の記憶に残る数多くの小説を世に送り出すことだった。

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八木田杏子 10年11月07日放送



近藤京子


 音痴な人なんて、いません。

ヴォイストレーナーの近藤京子はそう言って、
歌うことが苦手な人を変えてきた。


 あなた、それじゃあ、ただ上手いだけよ。

近藤京子はそう言って、
歌うことが得意な人を変えてきた。

音楽の授業では、音程をとる上手い下手で
成績がつけられていたけれど。

彼女は、音程よりも声量よりも、
気持ちが伝わることを大切にする。

想像力と身体のすべてをつかって、
歌に想いをのせるための
アドバイスはシンプルだ。


 話すように、歌いなさい。
 歌うように、話しなさい。



ハインリヒ・フォン・クライスト

ドイツ語による最も美しい散文と称された
クライストのエッセイ「マリオネット芝居について」。

その中で彼は、ある少年が
無垢な優美さを一瞬にして失う様を描いている。

少年が足を拭こうとして足代に足をのせた瞬間、
大きな鏡をチラと一瞥して、
自分の姿が彫刻のように美しいと意識する。

もう一度それを人に見せるために
ふたたび足台に足を上げると、
もはや違う動きになっていた。

こんなエピソードをもちいて
クライストは語る。


 意識が人間の自然な優美さに
 どんな混乱を惹き起こさせるかは心得ている。

魅力や長所は、意識した瞬間に、自惚れや気取りになる。

そのときに失うものはあまりにも大きい。



サトウハチロー

 
サトウハチローの「小さい秋見つけた」という詩には
子供の視点で発見した秋が描かれている。


 呼んでる口笛 もずの声
 
 お部屋は北向き くもりのガラス
 
 はぜの葉あかくて 入り日色

この歌を口ずさんでいた子供のころ、
秋はもっと手に取りやすいものだった。

落ち葉をふみしめながら、どんぐりを拾ったり
赤い紅葉を本にはさんだり。

もくもくしていた入道雲が、
薄くとけたような空をながめたり。

大人になって、
夏の締めくくりと冬の支度に気を取られていると、
秋はするりと逃げていく。

サトウハチローが50歳をこえてから作詞した
「ちいさい秋みつけた」は、
忙しい大人が
秋を見つけるための歌なのかもしれない。



島田紳助

「学ぶ」の語源は、「マネブ」。
「真似る」から派生したものだという説がある。

島田紳助がまだ駆け出しのころ。

彼は、過去の漫才をできる限り集めて、
面白いと思うものを2種類にわけた。

マネできるものと、マネできないもの。

面白いと思えて、
自分にもマネできそうな漫才だけを分析した。

なぜ、ウケるのか。
セリフが上手いのか、間の取り方がいいのか。

そこから紳助が創り上げた漫才は、
若い世代を虜にした。

大物芸人の最初の一歩は、
マネからはじまったのだ。



大平健

精神科医である大平健は、童話をつかって治療をおこなう。

心の病の原因や対処法を、
患者自身に気付いてもらうために、物語をつかうのだ。

たとえば、
老後のくらしが不安で眠れなくなった67歳の老婦人。
夫と老人ホームに入って、
新しい暮らしを始めるのが不安な彼女には、「ももたろう」。

子どものいないおじいさん、おばあさんが、
尋常ではない方法で子供を授かるこの物語。

年をとっていても希望はもてる、
老婦人がそう思えたとき、睡眠薬はいらなくなった。

不登校になった女子高生には、「ねむり姫」。

どんなに手を尽くして防ごうとしても
100年の眠りにおちてしまった眠り姫のように、
予想外の問題は誰にでも起こる。
それでも、最後には幸せになれる。

そう思えたとき、
不登校の女子高生と母親は快方にむかった。

先人の知恵がつまった童話を紐解くと、
絡まった心の紐のほどき方が
見えてくるのかもしれない。



アルフレッド・ノーベル

ノーベル賞は、ダイナマイトを実用化した
アルフレッド・ノーベルの遺言からはじまった。

という話は有名だが、
ノーベル賞に数学賞がない理由は、
あまり知られてはいない。

数学を重要な学問だと思っていなかった、
数学者が嫌いだったなど、諸説がある。

ノーベルの恋敵だった
ミッターク・レフラーが数学者だから、
という説もある。

想い叶わず生涯独身を通した彼は、
ノーベル賞が恋敵に贈られるのはたまらなかった。

だから数学賞が、存在しないのだ。

そう考えると、
ノーベル賞のいかめしさが消えて
親しみやすくなる。



村上隆

芸術に、評価基準なんてない。
そう思うのは、素人なのかもしれない。

村上隆は、美術界の歴史を読み解いて、
次の手を戦略的にうつ。

新しい、美しいだけでは、作品は売れない。
過去の評価基準の先にある新しい価値を
プレゼンテーションして、売るのだ。

彼は、こう語る。


 世界基準の文脈を理解するべきである。

 価値をうむのは、才能よりサブタイトル。

それが東京芸大の博士課程をおえたあと、
コンビニの賞味期限切れ弁当を食べて暮らしながら
作品をつくりつづけた村上の結論。

若いうちに奔放にのばした才能を、
戦略的にパッケージングしたから1億円で売れたのだ。



カラカウワ王

フラダンスは踊りながら、話している。

ひとつひとつの動きに意味があるフラダンスは、
まるで手話のよう。
踊りながらハワイの自然の美しさを称え、
恋人への想いを伝え
古い伝説も語り継いでいく。

今では癒しの象徴とされるこのダンスは、
アメリカ人の宣教師たちに
異教の踊りとして半世紀近くも禁止されていた。

フラダンスを復活させたのは、
外交に長けていたハワイ王国のカラカウワ王。

近ごろでは日本でも学ぶ人が多いフラダンス。
滅びなくて本当によかったと思う。

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細田高広 10年10月31日放送



1. バド・パウエル

バド・パウエルが、
ジャズピアニストとして
人気になった頃。

彼のライブをある男がお忍びで訪れた。
ジャズ・ピアノの神様と言われていた
アート・テイタム。

一曲聞き終えるとテイタムは大きな声で
周囲の人にこう言ったという。


 彼は、左手の使い方を知らないね。

その声を聞いたパウエルは、曲目を変更。
テイタムの十八番を、
左手一本で弾いた。

ジャズマンが腕を競ったジャズ全盛期。
ニューヨークでは、夜ごとに音楽が進化した。



2.ジョン・コルトレーン

サックス奏者、
ジョン・コルトレーンのキャリアは
苦悩の日々から始まった。

無名時代に、
マイルス・デイビスに抜擢されてバンドに加入。
口の悪い批評家に「ヘッポコ奏者」と呼ばれ、
ブーイングも日常茶飯事だった。

そんな状況が、彼を猛烈な練習へと駆り立てた。
コルトレーンの家の前を通って、
サックスが聞こえない日はなかった、と友人たちは回想する。


 もし君が真剣なら、靴紐だって演奏できる。

コルトレーンが
そこまで言えるほど努力を積んだとき、
世間は彼を「天才」と呼んでいた。



3.ルイ・アームストロング

極貧の家に生まれた、ルイ・アームストロング。
10代の頃には発砲事件を起こし、少年院に送られる。
そこで指導員から教わったのが、コルネットだった。

そんなアームストロングが数十年後にスターになって、
故郷のカーニバルにやってくる。

大盛況のライブの最中、突如、ひとりの老人が
ステージを向かって歩き出した。
手には、タオルでくるんだ何かを抱えている。
老人に気付いたアームストロングは、
その場で泣き崩れたという。

タオルに包まれていたのは、
少年院で吹いたボロボロのコルネットだったのだ。

What a wonderful world.

多くのシンガーがカバーした名曲だが、
本当に歌いこなせるのはアームストロングだけだろう。



4.ソニー・ロリンズ

テナーサックスの巨人と称される、
ソニー・ロリンズ。
「サキソフォン・コロッサス」が絶賛されると、
スターダムを駆け上がった。

ところがその絶頂期に、
彼は突如引退を表明する。
引退後も橋の下で、
延々サックスを吹く姿は目撃されていた。
数年後、カムバックして発表した曲はその名も「橋」。

他にも2回活動休止期間があるロリンズだが、
未でも現役奏者でいる。

さすがはテナーサックスの巨人、
息つぎが上手い。



5.マイルス・デイビス

マイルス・デイビスは、
実にフェアな男だった。

黒人への差別には、
当然、正面から反抗した。


 あんたは白人であること以外に何をしたんだ?
 オレかい?
 音楽の歴史を5回か6回は変えたかな。

一方では
白人を嫌う黒人にも、
同じように厳しかった。

白人のビル・エヴァンスを
バンドに迎えたときには、
黒人仲間からの非難に憤った。


 あいつ以上のピアニストを連れてきたら、
 俺はそいつがどんな色をしてたってすぐに使ってやる。

そんな彼の元には、驚くほど多様な
アーティストが集まることになる。

マイルスの音楽が
世界中に影響を与えたのは、
ジャズを人類の協同作業にしたからだろう。



6.ハンク・ジョーンズ

評論家からも、同じピアニストからも
リスペクトされているハンク・ジョンーズ。
彼のピアノは実に雄弁だ。

ピアニストのブラッド・メルドーは、
彼のように自然体で歌うピアニストが
理想だと言っている。

そんな天性の才能を持ちながら、
ハンク・ジョーンズは実に努力家だった。

彼は言う。


 練習は、1日休めば自分に分かる。
 3日休めばカミさんが分かる、
 7日休めば仕事が無くなる。

怠け心が湧いて来たら、彼の言葉を思い出してみよう。



7.フランク・シナトラ

フランク・シナトラの好物は
テネシー・ウィスキーの
ジャック・ダニエルズだった。

「酒とバラの日々。」
「酒は涙か溜息か。」

歌にも込められた、酒への想い。

シナトラは、
周囲から飲みすぎを咎められると
こう答えたという。


 アルコールは
 人間にとって最悪の敵かもしれない。
 しかし聖書には敵を愛せよと書いてある。



8.チャーリー・パーカー

ジャズがまだ、ダンスミュージックだった時代。
チャーリー・パーカーは、
誰かのための音楽はつまらないと思った。

閉店後のライブハウスで、
仲間たちと繰り広げたジャムセッション。
観客はいない。踊れなくていい。
自分が酔える音楽かどうかだけ考える。

そうしてジャズの伝統を投げ捨てたら、
モダン・ジャズの創始者になっていた。


 自分の楽器をマスターしろ。
 そうしたら、そんなくそったれは全部忘れて、
 ただ演奏するんだ。

成長とは、学ぶことより、
それを捨てることかもしれない。

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坂本仁 10年10月03日放送



①ジョゼ・モウリーニョ


 自分が世界一の監督だとは思わない。
 しかし、私以上の監督がいるとも思わない。

そう語るのは、サッカー監督・ジョゼ・モウリーニョ。
ポルトガル、イングランド、イタリアでリーグ戦を制し
チャンピオンズリーグの優勝も勝ち取っている。

モウリーニョには、他の監督が持たない能力がある。
6カ国語を話せるというコミュニケーション能力である。

自ら「私は三流の選手だった」と語る彼は、選手を引退後、
語学を勉強し、さまざまなクラブチームで通訳として働いた。
その過程で世界のスター選手たちとコミュニケーションする
語学力が育っていったのである。

三流選手であったことが、
モウリーニョを超一流の監督にしたのかもしれない。



②ロバートキャパ

20世紀を代表する戦場カメラマン、ロバート・キャパ。
数多くの戦争の第一線に飛び込み、
戦争の悲惨さを痛烈に訴えつづけた。

ロバート・キャパの有名な写真に「崩れ落ちる兵士」がある。
兵士が頭を撃たれて倒れる決定的瞬間を記録したその写真は、
インパクトがありすぎて、
やらせではないかと疑われたほどであった。


 戦争写真家のいちばんの望みは、失業することだ。

そう語るロバート・キャパは、
ベトナム戦争の取材中に地雷に触れて死亡した。
カメラを手にしたままだった。



③ディオゲネス

古代ギリシアのコリントスに高名な哲学者が住んでいた。
その哲学者は質素を好み、禁欲生活を送っていた。

ある日、その哲学者が家の前で横になってひなたぼっこをしていると、
当時絶大な権力を保持していたアレクサンドロス大王が
数名の供を連れてたずねてきた。
王もまた、その哲学者を尊敬するひとりだった。

王は哲学者の前で言った。


 余はマケドニア王アレクサンドロスである。
 ディオゲネスよ、望みを一つ言え。
 いくらかかっても構わぬ。

しばし考えた後、その哲学者は言った。


 そこに立たれると日陰になるからどいてくれ

その哲学者の名は、ディオゲネス。
彼は、人生にとって大事なのは物質的なものではなく、
心の豊かさだと考えていた。



④ブルーノ・ムナーリ

美術作家ブルーノ・ムナーリは語る。


 子どもの心を一生のあいだ自分の中に持ち続けるということは、
 知りたいという好奇心やわかる喜び、
 伝えたいという気持ちを持ち続けることだ。

彼の作品を知る人々はこの言葉に
あっ、そうかと納得する。

持ち運んだり箱に詰めたりできる彫刻。
質感の違う紙を使ってつくった、指先で感じる絵本など
ブルーノムナーリの作品は「鑑賞する」というより、
「遊ぶ」という言葉がピッタリなのである。



⑤カエサル

賽は投げられた。

重大な決定を下し物事が動きだしたという意味で引用されるこの言葉は、
誰しもが知っているユリウス・カエサルの言葉だ。

カエサルは他にも有名な引用句を残している。
「来た、見た、勝った。」
「ブルータス、おまえもか。」

あまりに有名なこの言葉とは逆に、
ほとんど知られていないこともある。
それは、カエサルが現在の本の原型を発明したことだ。

巻物からページをめくる冊子へ。
この発明のおかげで
我々は電車のなかでページをめくりながら
カエサルのガリア戦記を読むことができる。



⑥ウルリッヒ・インダービネン

一年中白銀の雪を冠するアルプスの女王マッターホルン。
4000m級の山々が連なるスイス・アルプスの女王と言われている。

そのマッターホルンには伝説のガイドがいた。
ウルリッヒ・インダービネン。
370回以上もマッターホルンに登り、
96歳まで現役のガイドでありつづけた。

ウルリッヒ・インダービネンは
アルプスの王と呼ばれていた。

垂直の壁を持つ女王も
王である人の前ではやさしくおとなしかったのだろうか。



⑦野依良治

分子とか、モルとか、エントロピーとか
そんな言葉を聞いただけで、
難しくて頭が痛くなってしまう人は多い。

けれど2001年にノーベル化学賞を受賞した
野依良治は次のように言う。


 有機化学は麻雀よりも面白い。

そう、
医薬品の製造などに絶大なインパクトを与えた
野依良治の業績の最初の一歩は
面白いと思うことからはじまったのである。

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細田高広 10年09月11日放送


ストラディバリウス

現代の技術をもってして、
何故300年も前のヴァイオリン、
ストラディバリウスを越えられないのか。

その秘密を解き明かそうと、
いくつもの科学者チームが分析をしてきた。

木材に秘密がある。ニスの塗り方が決め手だ。
いくつもの仮説は生まれた。
しかし、ストラディバリウスには近づけない。

ヴァイオリニスト
イツァーク・パールマンは言う。

ストラディバリウスは ”音”を持っています。
すでに音楽がそこにある。
自分は弓を楽器の弦にのせて動かすだけで、
音楽が流れ出てくるのです。

科学はまだ、感性を超えられない。


レス・ポール

3度のグラミー賞を
受賞した音楽家にして、
発明家の殿堂入りも果たした男。

レス・ポール。

彼が生まれなければ、
B.Bキングも、ジェフ・ベックも、
キース・リチャーズも生まれなかった。

彼のギターを愛する男を並べれば、
アメリカの
ポピュラー音楽史になってしまう。

94歳で無くなるまで、
毎週月曜日にイベントを開催し、
現役でギターを弾き続けたレス・ポール。

彼は、語る。

成功する秘訣は、
今より少しだけ上を目指すこと。
これを続けることだね。

天国でもきっと、
レス・ポールは鳴りやまない。


スティーブ・ヴァイ

 譜面はモナリザよりも美しい

と言ったのは、
ギタリストのスティーブ・ヴァイ。

フランク・ザッパから技術を学び、
バークレー音楽院で理論武装をした。

奇抜な衣装を身に纏い、
長髪をたなびかせるその姿。

3本のネックがついたギターから
繰り出される、
ギターの制約や定石を完全に無視した
フレーズの数々。

そんなスティーブ・ヴァイを
ファンたちは変態ギタリストと呼ぶ。

「上手」や「かっこいい」を追い求めても、
新しい音楽は生まれないから。

「変態」は、音楽家にとって
最大の誉め言葉かもしれない。


久保田五十一(いそかず)

バット職人、久保田五十一。

父親が51歳の時に生まれたから、
五十一と書いて、「いそかず」と読む。

51という数字の魔力だろうか。
彼は「51番」を背負うある男と
運命の出会いを果たす。

メジャーリーグのシアトルマリナーズで活躍する、
イチロー選手だ。

木を見極め、精巧な技術を駆使してバットを仕上げる。
イチロー選手は、そんな久保田がつくるバットしか使わない。

それでも久保田は、控えめに言う。

バッターと木が主役。私は脇役です。

10年連続200本安打への期待がかかる今年。
イチロー選手と久保田の記録は、
どこまで伸びるだろうか。

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