門田組・宮田知明

宮田知明 12年11月24日放送


nodoca
つづける人 秋本治

こち亀、でおなじみ、
少年ジャンプの長寿マンガ、
「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。

作者・秋本治は、
連載の継続の難しい少年ジャンプにあって、
単行本にして182巻、1500話を越える連載を、
38年間、いまだ休んだことがない。

「ジョジョの奇妙な冒険」の作者、
荒木飛呂彦はこのことについて、
「長く続ける秘訣は何か」と尋ねたところ、

秋本曰く、「規則正しい生活をしてください。」

長く続けるヒケツとは、内容如何よりも、
自分が続けられるコンディションを保てるか、
ということ。

漫画家は徹夜が当たり前、
と考えていた荒木は、
その後、秋本の教えを守り続け、
「ジョジョの奇妙な冒険」は今年、
連載25年目を迎える。

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宮田知明 12年11月24日放送


dishhh
つづける人 森田一義

「笑っていいとも!」でおなじみ、
日本屈指のお笑いタレント、
タモリ、こと森田一義。

単独司会者としての
生放送の長寿記録として、
5000回達成の際に
ギネスブックに認定されたのが、
もう10年も前の2003年のこと。

その長く続ける秘訣を聞かれたところ、
タモリ曰く、

「反省しないこと。」

タモリ自身、「今日はすべっちゃったな」
と感じる日もある。
でも、クヨクヨ考えない。
次の日に引きずらない。

彼は、出演するすべての番組において、
一切反省会をしないという。

反省と聞くと、
それだけで正しいことのようにも感じるが、
「反省をしない」という決断の方が、
実は勇気のいることなのかもしれない。

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宮田知明 12年9月29日放送



乗り越える人/松井裕樹

今年の、夏の甲子園を沸かせた、
桐光学園の2年生エース、松井裕樹。

準々決勝までの4試合で積み上げた、
68個の奪三振は、板東英二・齋藤佑樹に次ぐ、
歴代3位。

準々決勝、猛打の青森・光星学園から、
毎回そして全員からの、計15奪三振。
しかし、惜しくも敗戦。

準々決勝で敗れた後のインタビューで、
泣き崩れながらも「来年は甲子園で優勝します」と誓った。
甲子園の土は持ち帰らなかった。

来年の夏の甲子園まで、まだあと10カ月。
彼が乗り越え、そして優勝を手にするのを
待ち遠しい人は、きっと多い。

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宮田知明 12年9月29日放送



乗り越える人/松井裕樹

今年の、夏の甲子園を沸かせた、
桐光学園の2年生エース、松井裕樹。

準々決勝までの4試合で積み上げた、
68個の奪三振は、板東英二・齋藤佑樹に次ぐ、
歴代3位。

準々決勝、猛打の青森・光星学園から、
毎回そして全員からの、計15奪三振。
しかし、惜しくも敗戦。

準々決勝で敗れた後のインタビューで、
泣き崩れながらも「来年は甲子園で優勝します」と誓った。
甲子園の土は持ち帰らなかった。

来年の夏の甲子園まで、まだあと10カ月。
彼が乗り越え、そして優勝を手にするのを
待ち遠しい人は、きっと多い。

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宮田知明 12年7月22日放送



草野マサムネとザ・ブルーハーツ

スピッツのボーカリスト、草野マサムネは、
大学入学当初、「チーターズ」というバンドを組んでいた。

もともと、そんなに
上昇志向があるわけではなかったが、
たくさんのバンドを見るうちに、
当時のバンドマンたちのあこがれだった「新宿ロフト」の
ステージに立ちたい、と思うようになっていった。

そんな矢先、草野は、ある曲と出会う。
ザ・ブルーハーツの、「人にやさしく」

「こんなバンドがやりたい」という、
草野の理想が、そこにあった。
このままでは、ブルーハーツの後追いになってしまう。
そう思うと、やる気がどんどんしぼんでいき、
結果、チーターズは自然消滅。

でも、その約1年後、草野の出した答えは、
「もう一回、バンドをやろう。
しかも、今度は新宿ロフトをめざせるようなバンドを。」

バンド名は、「スピッツ」。
草野が、高校時代から、バンドをやるならこれがいい、
と思っていた名前だった。


rockheim
草野マサムネとアコースティックギター

「ブルーハーツみたいな音楽をやっていても、
 この先、未来はないんじゃない?」

スピッツのインディーズ時代、
渋谷のライブハウス、「ラ・ママ」でライブを行った後、
草野が店長から言われた言葉。

真似をしているつもりはなかった。
でも、確かにブルーハーツの影響は受けていた。

このときから、草野はエレキギターを手放し、
アコースティックギターを持ってライブに出るようになった。
楽曲も、ビート系から、メロディアスな方向に変わった。

「スピッツらしさ」の原型が、できあがった。
そのきっかけは、ライブハウスの店長の、
ふとした一言。



草野マサムネと新宿ロフト

スピッツの、当初の目標。
それは、当時のバンドマンの憧れ、
「新宿ロフト」のステージに立つこと。

その機会は、意外と早くまわってきた。

バンド結成から2年後、
スピッツのデモテープを聴いたあるイベント会社の人が、
新宿ロフトで行うイベントに参加しないか、
と声をかけてくれたのだ。
そしてその5カ月後、スピッツは新宿ロフトで
ワンマンライブを果たす。

でも、草野は満足しなかった。

新宿ロフトは、日本のロックの歴史を作ってきた老舗のライブハウス。
その、ロフトの名前にふさわしいライブをやらないと。

目標にたどり着くと、また次の目標が生まれる。
そうやってスピッツは成長を続け、
結成から4年というスピードで
メジャーデビューを果たすのだが、
その後の苦労は、また別のお話。


NguyenDai
草野マサムネと売れないジレンマ

メジャーデビューし、3枚のアルバムを出したが、
まったく売れる兆しのなかったスピッツ。

アルバムの売り上げも、
出すごとに少しずつ落ちていた。

スピッツを、たくさんの人に聴いてほしい。
そうやって、真剣に努力してくれている周りのスタッフに、
草野は申し訳ない気持ちだった。

オリコンにチャートインして、
みんなに恩返ししたい。
そのためには、もっとポップな曲を…
4枚目の「Crispy!」は、そんな想いを
形にしたアルバム。

しかし、結果的に「Crispy!」は、チャートインしなかった。
売れようと努力したのに売れなかった。
草野の落ち込みは、相当なものだった。

でも、その影では、新しいファンが生まれ、
ラジオ局やレコード屋がプッシュするようになっていた。

そして次のアルバム、「空の飛び方」は、
オリコン・アルバムチャートで14位に入る。
「Crispy!」での努力は、次のアルバムにあらわれた。



草野マサムネと自分の声

「マサムネの歌は、高いキーで、
もっと張って歌った方が聴き手に届くよ。」

音楽プロデューサー、笹路正徳の言葉に、
草野は驚かされた。

今でこそ、草野のハイトーンの声の美しさが
スピッツの魅力のひとつであることは
誰もが認めるところだが、
当時、草野は、ハイトーンの自分の声が嫌いだった。

「ロックはクールに」という思い込みがあり、
わざとキーを低く設定して唄っていたのだ。

自分では気づかない魅力を
気づかせてくれる人がそばにいたことが、
草野にとって、幸運だった。

ハイトーンの声でそのまま歌う。
これをきっかけに、スピッツの音楽は、
より明るく、美しいものになっていく。



草野マサムネとスピッツバブル

「地味な曲だなぁ。」

そう、メンバーで話しながら作った曲が、
162万枚のミリオンセラーとなった、
「ロビンソン」。

その後のスピッツは、本人たちが
「スピッツバブル」と称するほど、
売れに売れ続けた。

ただ、当の草野は、頂点に立ちたいとか、
いい車に乗りたいとか、
スターの考えるようなことには興味がなかった。

これで、しばらく音楽を続けられる。
それだけで十分だった。

そんな当時の、草野のささやかな幸せとは。

 「CDを買うとき、前は5枚の中から1枚を選んで買っていた。
  でも今は、まとめて5枚、大人買いできることが幸せだ。」


uzaigaijin
草野マサムネと新しい壁

「いまだに、聴きたくないアルバムがある。」

スピッツのボーカル、
草野マサムネがそう言いきるアルバムの名前は、
「フェイクファー」。
音楽プロデューサー、笹路正徳から離れて
最初に作ったアルバムだった。

けれども、自立しようとしたはずなのに
どうやって曲を作ったらいいか、
どんな詞を乗せればいいか、わからなくなった。
ギリギリまで歌詞ができず、ブースの中にまで
ノートと鉛筆を持って入った。

しかし、そんな「フェイクファー」を、
いちばん好きだと言うファンも多い。
それを証明するかのように、『フェイクファー』ツアーは、
大きな成功を収める。
「ライブバンド」としてのスピッツが、確立しつつあった。

壁につきあたっていると感じているとき、
スピッツは、実は前に進んでいた。



草野マサムネと3人の男

「20年以上、同じメンバーで
続けてこられたのはなぜですか?」

そんな問いに、スピッツのボーカリスト、
草野マサムネは、
「4人が、同じ方向を向いていたから。」
と答えている。

しかし
チーターズの頃からずっと草野とともに歩んできたベーシスト
田村明浩は言う。

 スピッツの4人は、誰ひとりとして先のことを
 考えてやってきたわけじゃない。
 ただ、少なくとも草野以外の3人は、
 草野の曲がある限りスピッツは続くと思っている。

20年間、続いた理由は、
「大好きな曲がそこにあるから」

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宮田知明 12年3月25日放送


Strifu
忘れられない日/北野武

「まあまあじゃん」

映画・戦場のメリークリスマスの試写を終え、
お笑い芸人にしては、
それなりの演技をしたな、と思った、
北野武。

こっそり、映画館に観に行くと、
シリアスなシーンにもかかわらず
彼が出たとき、観客が急に笑ったのを見た。

「これ、どうにかしないと、映画なんてやってられない」

それ以降、彼は出演映画に、
俳優としてのこだわりを持つようになる。

北野武の俳優としての生き方を決めたのは、
そんな、なんでもないはずの一日。



忘れられない日/大山のぶ代

「先生、あのー、私、
 あれでいいんでしょうか?」

それは、藤子不二雄と大山のぶ代の初対面の日。
アニメ、ドラえもんの録音現場で、
出演者と藤子不二雄が挨拶をする時のことだった。

彼の持つ優しい雰囲気にほだされ、
とっさにでた一言であり、
そして、いちばん、気になっていたこと。

藤子は、一度彼女を見て、
そしてスクリーンのドラえもんに目を移し、
こう言った。

「ドラえもんって、ああいう声だったんですねえ。」

それは、大山の、
ドラえもんの声への迷いや、不安が消えた、大切な日。


じぇにゅ
忘れられない日/鈴木健

2007年10月4日、ヤクルトvs横浜。

それはヤクルトスワローズ、
鈴木健の引退試合。

8回裏、宮本の代打として
バッターボックスに立った鈴木の打席は、
リーグ優勝も決まった後の消化試合とは思えない
大きな盛り上がりを見せた。

粘りに粘り、ファールの山を築く鈴木。
1球1球にどよめく球場。
13球目、打球は、サードへの平凡なファールフライ。
しかしサード・村田は、追いつくも、ワザととらない。
スタジアムに、大きな拍手が沸き起こる。

そして15球目、センター前ヒット。
1塁ベース上で、涙する鈴木。

結果だけみれば、単なるシングルヒット。
でも、この1つの打席に、
苦労を積み、ひたむきに野球をやってきた鈴木への、
選手たちの想いがこもっていた。

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宮田知明 11年12月17日放送



幸せを運ぶ男/浅尾拓也

打率リーグ最下位。
今年、そんなチームをリーグ優勝まで導いた原動力は
まぎれもなくその層の厚い投手陣。

中でも、特に輝いていたのは、
セ・リーグMVP、
中日ドラゴンズのセットアッパー、浅尾拓也。

2011年は球団新記録の79試合に登板し、
防御率は0.41。

絶対的な安定感でドラゴンズに
リーグ優勝をもたらした彼のMVP受賞式。
そんな彼へのインタビューは、なぜか謝罪会見に。
そこには、浅尾らしい、
謙虚さがにじみ出ていた。

 吉見が取るもんだと思っていました。
 ボクが吉見の勝ちを2つ消してしまったので、
 本当は20勝してるはず。
 ごめんなさいって言いたいです。



幸せを運ぶ男/小林武史

Mr.Childrenをはじめ、
日本を代表する数々のアーティストを
スターダムに押し上げてきた音楽プロデューサー、小林武史。

NHKの番組で
アーティストとの接し方について、
意外にも「友達として」と答えた。

プロデュースする若いバンドのやりたい
路線ではない方向性を示した後、
彼はこんな言葉を使った。

・・・これは友人として言うんだけどね。

今のそのバンドは、殻を破った方がいいが、
でも、殻を破ったからと言って絶対成功するとは限らない。
だから、友人として、そのことを言う、ということ。

相手が若いアーティストだからと言って、
上から押しつけるわけではない、
そのフラットな「友人」としての一言が、
アーティストの心に届くのだろう。

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宮田知明 11年11月12日放送



グレースケリー①

幼い頃のグレース・ケリーは、
病弱で内気な女の子だった。

オリンピックのボート競技の
金メダリストである父は、
スポーツのできる姉や兄の方をかわいがった。

「グレースにできることは、
姉のペギーならもっとうまくこなせる。」
と、父に言われつづけた。

尊敬する父に認められたい。
その想いが、グレースを動かす力になった。

1955年3月30日、
『喝采』でアカデミー主演女優賞を獲得した時の、
彼女の語った言葉。

 これで、やっとケリー家の一員になれました。

ハリウッド女優から、モナコのプリンセスへ。
今日、11月12日は、
グレース・ケリーの誕生日。



グレースケリー②

「背が高すぎ。痩せすぎ。
顎ががっちりしすぎ。」

若き日のグレース・ケリーは、
自分の容姿に
コンプレックスを感じていた。

しかし、それこそが
オードリー・ヘップバーンや、
マリリン・モンローと違う、
彼女らしい、全く別の魅力を放っていた。

その美しさを一言で表した言葉が、
「クールビューティー」。

もし、グレースが、
背がちょうど良くて、痩せてなくて、
顎ががっちりしていなかったら、
同じ成功は得られなかったのかもしれない。

今日、11月12日は、
グレース・ケリーの誕生日。



グレースケリー③

「嬉しくて、この喜びを何て
言葉にしたらよいか分かりません。
この受賞を可能にしてくださった皆様に、
心から感謝を述べたいと思います。」

映画『喝采』でアカデミー主演女優賞を
獲得したグレース・ケリー。
しかし彼女は、その時の気持ちを
こうも語っている。

オスカーを受賞した日、
 それは私の人生の中で一番寂しい時間でした。

受賞後、宿泊先のホテルの
部屋に戻ったグレースは、たった一人きりだった。

いくら成功しても、
分かち合える人がいなければ幸せではない。
一人彼女は、そう感じていた。

しかしその1ヶ月後に、
まさか運命の出会いが待ち受けていることなど
知る由もないグレース・ケリー。
このとき25歳。

11月12日は、グレース・ケリーの誕生日です。



グレースケリー④

ハリウッドのスター女優グレース・ケリーと
モナコのプリンス、レーニエ三世

華やかな世界に住む2人の交際の手段は
文通だった。

カンヌ映画祭で出会い、
ほんのひととき、交わした会話。
それ以来、2人は手紙のやりとりを欠かさなかった。

後にグレースはこう語っている。

女性がある程度の成功を果たすと、
結婚することで自分を失わず、
尊敬できる男性を見つけるのは大変なこと。

そのことを考えたら、
ふたりを隔てる距離などは
問題ではなかったのかも知れない。

11月12日は、グレース・ケリーの誕生日。



グレースケリー⑤

そして、お姫さまは、
幸せに暮らしましたとさ。

おとぎ話ならそこでハッピーエンドだが
モナコのプリンセスになったグレース・ケリーの現実は
その先があった。

本音を話せる友人がいない。
自由に出かけることもできない。
フランス語も流暢に話せない。

公務や生活に慣れて、
安定した毎日を送れるようになるには、
女優になってからアカデミー賞を取るまでより
ずっと長い時間を要した。

グレースは言う。

私は、女優に挑戦したように、
結婚にも挑戦したんです。

今日、11月12日は、
グレースケリーの誕生日。



グレースケリー⑥

 ただ月を眺めるためだけに
 竹で縁側を作るとは、
 なんと素敵なセンスなんでしょう。

大の親日家、グレースケリーが、
京都の桂離宮を訪れたときの言葉。

いつかモナコにもこのような庭園を造りたい。
そんな願いをかなえたのは、
他ならぬ夫のレニエ公。

グレースが亡くなって12年後に完成した日本庭園。
その茶室は、GRACE GARDENと名付けられた。

そんなグレースが、日本に送った言葉。

優しさ、礼儀、美、敬愛といった美徳を
日本が失わずにいることを、
世界中が切望しています。

今日は、日本を愛した
グレースケリーの誕生日。



グレースケリー⑦

「出産おめでとう(グレース公妃より)」

病院で出産があると、自ら病院へ出かけ、
お祝いの言葉と自分のサインを入れたカード、
そして花束を届けた、グレース公妃。

少しでも国民とのつながりを深めたい。
そう考えてのアイデアだった。

アメリカABCテレビのインタビュー中に
語った彼女の言葉は、
そのまま人柄や生き方を象徴している。

慎ましく、思いやりのある人間だったと、
みんなの記憶に残しておいてほしいのです。

今日、11月12日は、
グレースケリーの誕生日。

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宮田知明 11年9月18日放送



あるスポーツ選手の美学/三浦知良

日本では、引き際のいさぎよさを
よく「美しい」とされる。

その考え方の逆、
つまり「やめない」ことに美しさを見出す人、
キングカズこと、三浦和良。

余力を残して辞めていく選手は多い中で、
44歳になってもカズは全くそのそぶりを見せない。

4年前、テレビ番組で、
「いつまでやるのか」という質問に対して、
彼はこう答えている。

できたら還暦までやりたいんだけどね。

3月29日のチャリティーマッチでのゴールを見せられると、
あのときの言葉は、あながち冗談でもないかもしれない。



ある毒舌家の美学/有吉弘行

毒舌にも、美学がある。

平成の毒舌王、有吉弘行曰く、
「悪口はいいけど、陰口はダメ」。
その真意とは。

僕は絶対に本人のいないところで悪口は言いません。
陰口をたたけば周りの人から
「こいつは俺の事もどこかで悪く言ってる」と
思われて自分の評判が下がる。陰口は自分に返ってくる。

これは、毒舌キャラとして芸能界でやっていくための、
彼独特の美学なのかもしれない。

でも、
むしろ毒舌でも何でもない普通の人にとって、
この考え方に学ぶところは多い。



あるジャーナリストの美学/池上彰

いい質問ですね!でおなじみの
ジャーナリスト・池上彰。

分かりやすい説明に定評のある彼にも、
一つの美学がある。
それは、説明するときに、
「自分の個人的な意見は差し挟まない」ということ。

NHKを辞めてすぐの頃、民放の番組の
コメンテーターとして出演したとき、よく言われた言葉。
「あなたの意見を聞かせてください。」

視聴者からすると何でもない質問だが、
池上には違和感があった。

それは、32年間のジャーナリストとしての生活で、
「自分の意見は一切出すな」
「客観報道に徹しろ」と教えられてきたから。

誰かのバイアスのかかった意見よりも、
公平な視点での説明の方が人は納得しやすい。

そう思ってテレビを見ると、コメンテーターの
自分勝手な意見が、なんと多いことか。

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宮田知明 11年7月23日放送



闘うひと~江頭2:50

お前はいつだって全力だと言えるか?オレは言える。

番組に登場する短い時間の中で、江頭2:50ほど
自分と格闘している芸人はいない。

外国で逮捕されたり、番組で全裸になって
出入り禁止にされるような破壊的な芸風に対し、
彼が被災地にボランティアに行ったという話は意外性があり、
大きな話題になった。

でも、本人は特別なことをしたと思っていないらしい。
彼曰く、

おれはお金ないからさ。
体で払ってきただけなんだよ。

確かに、お笑いもボランティアも、
誰かのために体を張るという点では同じ。
全力で生きている、ただそれだけ。



闘うひと~フリードリヒ・シラー

ベートーベンの交響曲第九番
その四楽章の合唱部分の歌詞は、
ドイツ古典主義の代表者である
フリードリヒ・シラーの詩「歓喜に寄せて」を、
その愛読者でもあるベートーベンが歌詞として引用したもの。

詩の内容は、困窮を極めた放浪生活の末、
彼を助けてくれた友人たちに対する
感謝の気持ちを詩にしたものだと言われている。

多くの賛同者を得ながらも、
医学書以外の著作を禁じられ、
幽閉生活、そして亡命。
そんな不遇な経験をした彼だからこそ、
書きあげられた詩だった。

シラーは言う。

人は幸運の時は偉大に見えるかもしれない。
 でも、真に向上するのは、不運の時である。

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