小林慎一

河田紗弥 16年10月16日放送

161016-03
lethaargic
チャールズ・モンロー・シュルツ ~Good grief~

「Good grief」

チャールズ・モンロー・シュルツ作の
人気漫画「ピーナッツ」に登場するチャーリーブラウンやライナスなどの
子どもたちが度々言うセリフである。

彼の描く「ピーナッツ」では、
子どもの「もう、だめだ」「できないよ」といった
心の悩みや葛藤を多く描いている。

彼らは強がることなく、
野球の試合でミスをしたとき、
勉強ができないとき、好きな女の子にフラれちゃったとき
大きな声で「Good grief!」と嘆く。

この「Good grief!」をどう訳すか。
直訳だと「うれしい悲しみ」という意味だが、
最初に翻訳を手がけた谷川俊太郎はこう訳した。

「やれやれ。」

後向きなような、前向きなような。
乗り越えようとしているような、いないような。

「やれやれ」には、子どもたちのリアルな気持ちが込められている。

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河田紗弥 16年10月16日放送

161016-04
x-ray delta one
チャールズ・モンロー・シュルツ ~名言の裏に隠された事実~

人気キャラクター「スヌーピー」で知られる
チャールズ・モンロー・シュルツの「ピーナッツ」。

1950年から2000年までの50年間で
1万7897回にわたり、連載された。

しかし、最初から、順風満帆だったわけではない。

あまり経済的に豊かではない家庭であったのにもかかわらず、
自分を高額な美術学校に通わせてくれた両親。

その両親に、はやく恩返しをしたい。
そんな一心で、自分が描いた漫画を雑誌社に持っていくものの、
時代は第二次世界大戦。まったく受け入れてもらえなかった。

しかし、彼は決して諦めなかった。

彼が描く「ピーナッツ」の中で、チャーリー・ブラウンが
「いつの日か願いが叶うといいなあ」とぼやいたときに、
スヌーピーはこう答えている。

「そうなるように生きていかないとね」。

チャールズの人生そのままのコトバだ。

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河田紗弥 16年10月16日放送

161016-05
Arthur Lim
チャールズ・モンロー・シュルツ ~スヌーピーからの教え~

チャールズ・モンロー・シュルツが描く漫画「ピーナッツ」の
人気キャラクター「スヌーピー」。

趣味は、小説執筆とガールハント。
野球に、ホッケーに、どんなスポーツも無難にこなし、
車や飛行機の運転もお手の物。

人間より人間くさい、このスヌーピーという一匹の犬。

ある日、
スヌーピーの友達であるルーシーが、
人間に比べると、できないことや不便なことが多い犬であるスヌーピーに
「ときどき、あなたがどうして犬なんかでいられるのか、不思議に思うわ」と
語りかける。

そのときスヌーピーは、いつものように
犬小屋の上に、ごろんと寝転がりながら、こう答える。

「You play with the cards you’re dealt …whatever that means.」

配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどういう意味であれ。

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河田紗弥 16年10月16日放送

161016-06
Giulia van Pelt
チャールズ・モンロー・シュルツ ~悲しみを癒す薬~

チャールズ・モンロー・シュルツ作の漫画「ピーナッツ」の
主人公「チャーリー・ブラウン」。

彼は不器用で、自他ともに認める冴えない性格ではあるものの、
その優しさや素直さのおかげで、みんなに愛されている。

ハロウィンの日。
カボチャの大王が現れずに落胆していた友人のライナスは
「悲しみを癒す薬って、どんなものかなあ」とチャーリーブラウンに尋ねる。

すると、チャーリーブラウンは得意げに、こう言った。

「A chocolate-cream and a friendly pat on the back.」

ひと粒のチョコレートと友達が背中をポンと叩いてくれることだよ。

そしてチャーリーブラウンは、ライナスに
チョコレートを手渡し、背中をポンと叩き、立ち去るのだった。

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河田紗弥 16年10月16日放送

161016-07
kevin dooley
チャールズ・モンロー・シュルツ ~1回に1日ずつ~

チャールズ・モンロー・シュルツ作の漫画「ピーナッツ」に出てくる
ひとりの女の子「サリー」。

主人公「チャーリーブラウン」の妹でありながら、
いつも兄のことをうまく丸め込んでしまう、ちょっぴり理屈っぽい女の子。

そんなサリーたちが通う学校で、
〝自分はどのようにこれから生きていきたいか〟をテーマに
プレゼンテーションをしなさいという宿題が出た。

そしてサリーは、
そのプレゼンテーションでこんな名言を残している。

「They say the best way is just to live one day at a time…」

最善の生き方は1回に1日ずつ生きること。

そして彼女はつづけて、こうみんなに語りかけた。

「If you try to live seven days at a time, the week will be over before you know it.」

もし一度に七日生きようとしたら、知らない間に一週間が終わってしまうでしょ?と。

さて、あなたにとって、今日という一日は、どんな人生でしたか?

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河田紗弥 16年10月16日放送

161016-08
Rojer
チャールズ・モンロー・シュルツ ~理解ができる助言ほど…~

チャールズ・モンロー・シュルツが手掛けた
人気コミック「ピーナッツ」に登場する女の子「ルーシー」。

威張りん坊で、口を開けば、わがままばかり。
チャーリーブラウンのことをいじめるのが大好きで、強気な女の子。

でも、そんなルーシーも
チャーリーブラウンに、彼女なりの優しさを時折見せることがある。

ある日、友達に注意をされ、
すごく落ち込んでいるチャーリーに、
ルーシーが
「彼が言ってきたこと、ちゃんと理解できているの?」と尋ねると、
彼は「もちろんさ!」と悔しそうに答える。

そんなチャーリーブラウンに、ルーシーは
こんな一言を贈っている。

「Never take any advice that you can understand… it can’t possibly be any good.」

理解できるような助言はきかないこと…
ぜんぜん役に立たないにきまっているわ!

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小林慎一 16年9月18日放送

160918-01

50年の笑い篇

時は昭和41年。
日本にビートルズがやって来たころ。
場所は文京区後楽1丁目。
格闘技の聖地「後楽園ホール」で
ひとつのテレビ番組が始まった。

あれから50年。
おぎゃあと生まれた赤ん坊も
生え際が気になり
そろそろ細かい文字が読みづらいお年頃。

最初の司会は立川談志。
初放送からの大喜利メンバーは桂歌丸。
6代目司会は未だ独身春風亭昇太。

半世紀に渡る人気番組、
それは「笑点」です!

笑点の生みの親、立川談志はこう言う。
笑点は俺の最高傑作だ。

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小林慎一 16年9月18日放送

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scenic-scenery
新しい落語篇

名人候補として基本に忠実に
落語の芸を積んでいた
立川談志は、ある時こう思った。

落語は、このままでは
伝統芸能で終わってしまう。
今の感覚で自分のコトバで
語らなければ駄目だ。

そうして立ち上げた番組が、
笑点の前身である、金曜寄席。
寄席では言わばアンコール的な扱いだった
大喜利を番組の目玉にした。

いい答えには座布団を与え、悪いと取り上げる。
テレビ的演出が大いに受けた。

1967年に座布団運びになったのは、
俳優の石井伊吉。
後に、談志が、毒蝮三太夫との名前を授けた。
この名前も、俺の最高傑作だ、
と談志は語っている。

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小林慎一 16年9月18日放送

160918-03

笑点を書いた人篇

登内明人は、小学校入学のお祝いに、
父親から落語全集をもらうと
暗記するほど読み込んだ。

高校生になると
ラジオ寄席を聞くだけには飽き足らなくなり
長野県飯田市から片道8時間半かけて新宿まで
寄席を聞きに行くようになる。

大学を卒業し、
デザイン会社に勤務しながら、
寄席通いを続けていたある時、
パンフレットに書いてある
寄席文字の素晴らしさに気づいた。

調べてみると橘右近という人が書いている。

昭和36年、
意を決して谷中にあった右近の家を訪ね
文字を書く師匠の姿をひたすら見る日々がはじまった。

登内の子供が1歳になった誕生祝いに師匠を呼ぶと、
喜んでやって来た。
帰り際に「おまえに、あげるよ」とポンと表札を渡される。
そこには、「橘左近」と書いてあった。

橘左近。
大喜利番組「笑点」の題字を書いたその人である。

満員御礼を願って、
太い文字で、余白いっぱいに、
そして右肩上がりに、一気に書く。

左近が意図したかどうかは分からないが
笑点の笑うという文字は、笑っているように見える。

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小林慎一 16年9月18日放送

160918-04

首になった生みの親篇

大喜利番組「笑点」は
1966年に立川談志がはじめたが
最初の頃は、実に暗い雰囲気だった。

桂歌丸は、そう語る。

ブラックユーモアー多くしろ。
それ談志の方針だったが
当時の日本ではごく一部のマスコミ関係者
くらいにしか受けなかった。

一般の視聴者からは、むしろ引かれていたという。

そして、談志の方針に反発してメンバー全員が
番組を降板してしまう。

1969年11月に
談志は座布団運びの毒蝮三太夫とともに笑点を去ることになる。

そんな談志だが、その後も笑点には何度か出演している。
10分間の漫談で1時間しゃべり、放送禁止用語を連発。
編集者を大いに困らせたと言う。

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