‘小林慎一’ タグのついている投稿

小林慎一 16年9月18日放送

160918-01

50年の笑い篇

時は昭和41年。
日本にビートルズがやって来たころ。
場所は文京区後楽1丁目。
格闘技の聖地「後楽園ホール」で
ひとつのテレビ番組が始まった。

あれから50年。
おぎゃあと生まれた赤ん坊も
生え際が気になり
そろそろ細かい文字が読みづらいお年頃。

最初の司会は立川談志。
初放送からの大喜利メンバーは桂歌丸。
6代目司会は未だ独身春風亭昇太。

半世紀に渡る人気番組、
それは「笑点」です!

笑点の生みの親、立川談志はこう言う。
笑点は俺の最高傑作だ。

topへ

小林慎一 16年9月18日放送

160918-02
scenic-scenery
新しい落語篇

名人候補として基本に忠実に
落語の芸を積んでいた
立川談志は、ある時こう思った。

落語は、このままでは
伝統芸能で終わってしまう。
今の感覚で自分のコトバで
語らなければ駄目だ。

そうして立ち上げた番組が、
笑点の前身である、金曜寄席。
寄席では言わばアンコール的な扱いだった
大喜利を番組の目玉にした。

いい答えには座布団を与え、悪いと取り上げる。
テレビ的演出が大いに受けた。

1967年に座布団運びになったのは、
俳優の石井伊吉。
後に、談志が、毒蝮三太夫との名前を授けた。
この名前も、俺の最高傑作だ、
と談志は語っている。

topへ

小林慎一 16年9月18日放送

160918-03

笑点を書いた人篇

登内明人は、小学校入学のお祝いに、
父親から落語全集をもらうと
暗記するほど読み込んだ。

高校生になると
ラジオ寄席を聞くだけには飽き足らなくなり
長野県飯田市から片道8時間半かけて新宿まで
寄席を聞きに行くようになる。

大学を卒業し、
デザイン会社に勤務しながら、
寄席通いを続けていたある時、
パンフレットに書いてある
寄席文字の素晴らしさに気づいた。

調べてみると橘右近という人が書いている。

昭和36年、
意を決して谷中にあった右近の家を訪ね
文字を書く師匠の姿をひたすら見る日々がはじまった。

登内の子供が1歳になった誕生祝いに師匠を呼ぶと、
喜んでやって来た。
帰り際に「おまえに、あげるよ」とポンと表札を渡される。
そこには、「橘左近」と書いてあった。

橘左近。
大喜利番組「笑点」の題字を書いたその人である。

満員御礼を願って、
太い文字で、余白いっぱいに、
そして右肩上がりに、一気に書く。

左近が意図したかどうかは分からないが
笑点の笑うという文字は、笑っているように見える。

topへ

小林慎一 16年9月18日放送

160918-04

首になった生みの親篇

大喜利番組「笑点」は
1966年に立川談志がはじめたが
最初の頃は、実に暗い雰囲気だった。

桂歌丸は、そう語る。

ブラックユーモアー多くしろ。
それ談志の方針だったが
当時の日本ではごく一部のマスコミ関係者
くらいにしか受けなかった。

一般の視聴者からは、むしろ引かれていたという。

そして、談志の方針に反発してメンバー全員が
番組を降板してしまう。

1969年11月に
談志は座布団運びの毒蝮三太夫とともに笑点を去ることになる。

そんな談志だが、その後も笑点には何度か出演している。
10分間の漫談で1時間しゃべり、放送禁止用語を連発。
編集者を大いに困らせたと言う。

topへ

小林慎一 16年9月18日放送

160918-05

びっくりした笑いと悲しみ篇

笑点の3代目司会を務めたのは、
「びっくりしたなあ、もう」でおなじみの
初代、三波信介である。

1970年のこと。
北海道収録の際に、大雪が降り飛行機が欠航し、
司会の前田武彦が来れなくなった。

ゲストに呼ばれていた「てんぷくトリオ」の三波が急遽
司会をすることになる。

座布団運びは、同じ「てんぷくトリオ」の伊藤四郎。

三波の司会は大好評であった。

そのまま、三代目司会に収まると
木久蔵の「いやーんばかーん」や林家こん平の「チャラーン!」
といった定番のネタをリードし

座布団運びを「陸に上がったトドの死体」などと
罵るスタイルを築いた。

40.5%という驚異的な視聴率を上げたが、
三波は解離性大動脈瘤破裂により53歳で急死する。

正月の特別番組の「カルメン」で
心臓を押さえ最後を迎える役を演じた4日後のことだった。

topへ

小林慎一 16年9月18日放送

160918-06

誰よりも笑う司会篇

「笑点」の四代目司会は、
先代の三遊亭円楽である。

実は、笑点の前身である「金曜寄席」の司会も円楽だった。

「アタシは円楽に司会をやらせて、円楽を売ろうと思ってたから、
 自分は作家でいたわけ。でも、あまりにも下手くそなんで、アタシがやった」

と立川談志は、後に語っている。

絶大な人気を誇った三波信介が急死し
その後を継ぐという大役を円楽が務めることになる。

司会がガハハと誰よりも笑ったり、
コメントを言わずに、次々と回答させテンポアップしたり、
意図的に三波信介との違いを演出した。

当初は2回だけとの約束だったが、
歴代最長の23年にも渡って司会を続けた。

笑点は円楽の豪快な笑い声とともに、
国民的番組へと成長していく。

topへ

小林慎一 16年9月18日放送

160918-07

座布団のプロ篇

1973年に歌手デビュー。
紅白に出場。

歌手をやめると
ボクシングのC級ライセンスを取得。

1987年には
スティーブン・スピルバーク監督の
「太陽の帝国」に出演し

5代名鈴々舎馬風の弟子で
高座名は鈴々舎鈴丸。

数多くの肩書きを持つその人の名は、山田隆夫。
笑点の座布団を運んで32年。
座布団運びのプロ中のプロである。

笑点の「ちびっこ大喜利」のレギュラーで
座布団10枚のご褒美として
レコードデビューの権利を獲得。

「ちびっこ大喜利」の人気メンバー4人でバンドを結成し
「ずうとるび」として歌手デビューを果たす。

笑点という番組に、
一番幸福を運んでもらったのは山田隆夫
本人なのだ。

topへ

小林慎一 16年9月18日放送

160918-08
asobitsuchiya
半世紀の出演者篇

2016年5月22日。
桂歌丸は、笑点からついに勇退した。

番組は生放送。

歌丸の笑点最後の日に、
努めて明るく振る舞った回答者だったが、
どうにもいつもと様子が違う。

次々と座布団がもらえる。
山田くんは大忙し。
いつもと違う大判振る舞いに、回答者にも笑顔があふれ、
回答の舌も滑らかに、会場も大いに盛り上がった。

そして迎えた最後のお題は「歌丸に贈る言葉」。
小遊三はこう答えた。
「抱いてください!」

それを受けて歌丸はこう言った。

「山田くん。気持ち悪いから全員の全部持って行って!」

歌丸の最高で最後の演出であったが、
自分の痕跡を残さず、後輩に自由にやれという
メッセージでもあった。

topへ

小林慎一 16年8月21日放送

160821-01

ドラッガーを初めて認めた男篇

後に、経営学者として不動の地位を得る
ピーター・F・ドラッガーは
1927年にウィーンの有力な経済雑誌「国民経済」に
論文を投稿する。

彼は、当時、18歳だった。

名門の誉れの高いウィーン学者が占める編集者たちにとって
その原稿をボツにする理由は、
18歳の少年が書いたというだけで十分だった。

論文には、誇大妄想をばかりを語る、ぽっと出の政治家だった
アドルフ・ヒットラーがドイツの人々の心をとらえるだろうと予測してあった。

ヒットラーの言っていることの中には、
混乱の時代の処方箋になると、ドイツ国民が感じる可能性があると
論じていた。

また、イギリスのマイナーな経済学者であったケインズが
社会的な影響力を持つだろうとも書いてあった。

この原稿は、ブタペストから亡命してきていた経済人類学者であり
副編集長だったカール・ポランニーだけが評価し、ドラッガー少年をディナーに誘った。

芋だけの生涯で一番まずしいディナーだった、
とドラッガーは後に語っている。

その夜、ポランニーとドラッガーは、
ヒットラーとケインズの登場という重大な予測について語り、
そして、2人の失敗についても語り合ったという。

topへ

小林慎一 16年8月21日放送

160821-02

経済人類学篇

経済人類学という学問をご存知だろうか。

経済人類学は
ブタペスト出身の弁護士であり学者であった
カール・ポランニーによって構築された。

経済も社会に埋め込まれていると考え、
人類学的フィールドワークから
経済活動を明らかにしていく学問として始まった。

2001年に彼の著書「大転換」が再び出版され、
ポランニーの社会統合の概念は
現代社会でも有効であると再評価されている。

日本を代表する経済人類学者・栗本慎一郎は、
「人間とは何か」を第一義に考える経済人類学は
細分化・専門家してしまった学問を統一し
人類の問題を包括的にとらえる可能性のある
学問であると語っている。

topへ


login