小林慎一

阿部友紀 15年12月26日放送

151226-01

山川登美子 白百合の君の恋

「みだれ髪」の作者、与謝野晶子と肩を並べた歌人、山川登美子。

士族の家柄に生まれ、厳しく育てられた登美子が歌に目覚めたのは21歳の頃。
鉄幹という男性と、のちに鉄幹の妻になる与謝野晶子との出会いがきっかけだ。

鉄幹に「白百合の君」と呼ばれ、かわいがられ、
いつしか「白百合」の号で歌を詠むようになった登美子。

 君が手に ふれにし日より胸の緒の 小琴のしらべ たゞにいわれぬ

歌集「恋布」に寄せた、鉄幹への恋の歌は、
その上品さから、今もなお、多くの人々に愛されている。

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阿部友紀 15年12月26日放送

151226-02

山川登美子 白百合の君、白萩の君

みだれ髪の作者、与謝野晶子と競い合った歌人、山川登美子。

29歳で生涯を閉じた登美子が残した歌は多くないが、
ひとつひとつが名作として文学史に刻まれている。

 髪ながき 少女(をとめ)とうまれ しろ百合に
      額(ぬか)は伏せつつ 君をこそ思へ

登美子が、思い人・鉄幹に「白百合の君」と呼ばれるきっかけになった歌である。

一方で、鉄幹は与謝野晶子にも「白萩の君」という呼び名を与え、
女2人の恋心を競わせたそうだ。

しかし、登美子と晶子の関係は良好だった。
歌も恋も切磋琢磨し合う日々に、登美子は幸せを感じていたに違いない。

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阿部友紀 15年12月26日放送

151226-03

山川登美子 白百合の君の結婚

与謝野晶子と1人の男性を奪い合った歌人、山川登美子。

着々と歌のキャリアを積んでいた登美子であったが、
ある日突然、歌の世界を離れることになる。
父親が結婚話を勝手に進めてしまったのだ。

 それとなく紅き花みな友にゆずりそむきて泣きて忘れ草つむ

当時、登美子と与謝野晶子は、鉄幹という男性に恋をしていた。
登美子は結婚を期に、泣く泣く晶子に鉄幹をゆずることになる。

しかし不幸にも、登美子の結婚生活は続かなかった。
夫が結核を発症したのだ。

自分が去った後、晶子が鉄幹と結婚したことを知った登美子は、
どんな気持ちだったのだろうか。

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阿部友紀 15年12月26日放送

151226-04

山川登美子 薄命の歌人

薄命の歌人、山川登美子。
思い人・鉄幹をライバルの与謝野晶子に譲り、歌の世界からも離れていたが、
夫の死を期に、また歌を詠むようになった。

合同詩歌集「恋衣」の刊行も果たしている。

しかし、歌人として生きて行こうとした矢先、またしても登美子を不幸が襲う。

死別した夫からうつされた結核を発症したのだ。

そして明治42年、
登美子は、29歳で孤独に人生の幕を閉じる。

 をみなにて またも来む世ぞ生まれまし 花もなつかし 月もなつかし

病床で読んだ歌には、また女に生まれたいという願いが切に込められている。

志半ばで遂げられなかった歌の世界への思いを、
そして叶わなかった恋を
来世では成就させたいと思っていたのかもしれない。

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坂本弥光 15年12月19日放送

151219-01

リーヴァイ・ストラウスとジーンズ  ゴールドラッシュ

1829年、ドイツのバイエルン地方で、
ひとりの男が生まれた。

彼は、父親の死をきっかけにニューヨークへと移住。
24歳にて念願のアメリカ市民となる。

その頃のアメリカ西海岸と言えば、ゴールドラッシュのまっただ中。
男と一家はこの時流に着目し、
鉱山労働者を相手にテントや荷馬車用の幌を売る行商をはじめる。

しかしながら、テントは全く売れない。
そこで、テントや幌の材料であったキャンバス帆布を使った、
耐久性のある作業用ズボンを製造。
金鉱石や採鉱道具をしまうために、大きなポケットも付けたことで、
ズボンは街中で大評判になっていった。

その男こそが、リーヴァイ・ストラウス、
リーバイス社の創始者となる男だ。

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坂本弥光 15年12月19日放送

151219-02

リーヴァイ・ストラウスとジーンズ ジーンズの誕生

リーバイスの創始者、
リーヴァイ・ストラウス。

彼の運命を変えた1通の手紙がある。
差出人の名は、ジェイコブ・デイヴィス。

洋服店を営んでいたデイヴィスは、リガ出身の移民。
ストラウスの上顧客の1人であった。

その手紙に書かれていたのは、
彼がひとりの客につくったズボンの話。

より丈夫で長持ちするズボンを作るために、
金属鋲、英語でいうリヴェットを
ズボンのポケットの隅に打ちつけた製法だった。

しかし、デイヴィスには特許を取得するための資金がなかった。
そこでストラウスが資金を提供し、共同で特許を申請した。

そうして2人の手によって、
ジーンズは産声を上げたのだ。

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坂本弥光 15年12月19日放送

151219-03

リーヴァイ・ストラウスとジーンズ リーバイス

これは、
リーバイスの創始者 リーヴァイ・ストラウスの話。

1880年代に入り、
ジーンズの生地は、キャンバスからデニムに変更。
そうして生まれたのが、世界で最初のブルージーンズだ。

リーバイスのブルージーンズには、
ウエストバンドに縫い付けられたレザーパッチに
ツーホースマークというシンボルがある。
これは、2頭の馬で両方から引っ張っても破れないほど
頑丈であることを意味している。

1890年には、ロットナンバーが導入。
最高級の製品に「501」の番号が与えられる。

その後、少しずつ改良が重ねられ、
1902年に現在のような5ポケットのスタイルが確立。

まるでその完成を見届けるかのように、
リーヴァイ・ストラウスは死去した。
73歳だった。

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坂本弥光 15年12月19日放送

151219-04

リーヴァイ・ストラウスとジーンズ スターとファッション

ジーンズのイメージをつくりあげた、
1人の映画スターがいる。

マーロン・ブランド。
1953年に公開された映画「あばれもの」で、
暴走族のリーダーを演じたマーロン。

そこで彼は、黒の革ジャンと黒いブーツ、
リーバイスの「501」ジーンズという格好で、
バイクにまたがり暴れ回る。
まったく違うスターの誕生だった。

マーロンに魅了された若者たちは、
誰しもがこぞってジーンズを履くようになった。

このようにして、
ジーンズは若者たちの流行の第一線を走ることになる。

イヴ・サンローランは、こんな言葉を残している。

「ジーンズを、私が世の中に出すことができなかったことが、残念でならない。」

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伊豆原浩太 15年11月29日放送

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Joel Bedford
パット・マクグラス 「まるでゴッホのようなメイク」

世界が認める美のカリスマ、パット・マクグラス。
プラダやミュウミュウ、ドルチェ&ガッバーナなど
名だたるメゾンを担当するトップメイクアップアーティストだ。

1970年、イギリスで生まれた彼女は
ジャマイカ系の母・ジーンに、女手ひとつで育てられた。
物心ついた頃には、口紅を目元に塗込む独自のアイメイクを施し、
ロンドンの街中を闊歩していた。

パットが指でメイクする様子を見て、あるデザイナーは言う。

「彼女の指は、まるでゴッホが絵を描く筆のようだ」

と。

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伊豆原浩太 15年11月29日放送

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MIT-Libraries
パット・マクグラス 「化粧品売り場に通う女の子」

世界のメゾンが認めるトップメイクアップアーティスト、
パット・マクグラス。
クリエイティビティのルーツは
何よりもファッションに夢中な母・ジーンにあった。

パットが幼い頃、ジーンは決まって金曜日に、
彼女を連れて化粧品売り場へ出かけた。
当時珍しかった、黒人の肌に合うアイテムを探すためだ。
手元の化粧品を混ぜ合わせ、
肌の色になじむクリームをつくるのも日課だった。

パットは当時を振り返って言う。

「あの時は本当に金曜日が嫌いだったわ。化粧品売り場でいつも泣いていた。
 でも不思議よね。当時の体験が、今のわたしをつくっているんだから。」

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