小林組・四宮拓真

四宮拓真 17年5月21日放送

170521-03

相田みつを デザイナー

「にんげんだもの」などの作品で知られる書家・詩人、相田みつを。

半紙に書きつけた独特の書体の詩が有名だが、
実は、グラフィックデザインも数多く手がけていたことは
あまり知られていない。

家族を養うために仕事を得る必要があったみつをは、
地元・足利市の和菓子店の包装紙などをデザインしていた。
「ロウケツ染め」という染物の技法を使った、
みつをらしく繊細で風変わりなデザインである。
当時としては、だいぶ斬新だったのではないだろうか。

みつをの仕事は評判を呼び、やがてデザインだけでなく
ネーミングやお菓子づくりそのものにまで関わったこともあったそうだ。
「デザイン」などという言葉がまだなかった地方都市で、
今でいうデザイナーと、コピーライターと、クリエイティブディレクターを
兼ねたような仕事をしていたことになる。

そんななか、どの仕事でも忘れずに必ずやっていたことがあった。
それは、「しおり」づくりである。
毎回、商品への思いを書でしたためた「しおり」をつくり、
商品に添えていた。
それの一部は、いまでも使われている。

どんなときでも、みつをの仕事には言葉が中心にあったのだ。

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四宮拓真 17年5月21日放送

170521-04

相田みつを 創作活動

「にんげんだもの」などの作品で知られる書家・詩人、相田みつを。

人間味のある朴訥とした筆づかいを、
誰もが思い浮かべることができるだろう。

しかし、彼の創作の現場は、その作風とは程遠いものだった。

シュッ、シュッと、斬りつけるような勢いで筆を走らせる。
その張り詰めた空気に、家族は近づくことができなかったそうだ。
そして、クオリティへの飽くなき執念。
書いても、書いても、納得できない。
ひとつの作品で何百もの、ときには何千もの半紙を使っていたという。
みつをの息子の一人(かずひと)さんは、山のような失敗作を燃やすのが日課だったそうだ。

「素朴」で「温和」なみつをの作品は、
尋常ならざる「殺気」と「気迫」によって生み出されていたのだ。

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四宮拓真 17年5月21日放送

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どんぺい
相田みつを 作風の変化

「にんげんだもの」などの作品で知られる書家・詩人、相田みつを。

みつをと言えば、誰もが連想するのは、あの独特の書体。
筆がのたうつようで、いわゆる「上手な字」ではない。

しかし、そのイメージを持って彼の初期の作品を見ると、あなたは驚くだろう。
実にきれいな楷書で、整然と漢字が並んでいるからだ。
それもそのはず。
みつをは19歳で著名な書家に弟子入りし、その後ほどなくして、
権威ある書道展で入選の常連になった。
20代にして、書道界ではかなりの実力者だったのだ。

そんなみつをが、いまの作風に変化したのは、30歳ごろ。
彼にどんな心境の変化があったのか。
のちにこう語っている。

 自分は、技術的に高度な作品を書くことはできる。
 でもそれでは、こいつなかなかうまいなあ、と感心はしてくれるが、
 いいなあ、素晴らしいなあ、と感動はしてくれないのだ。

そう考えて、みつをは自分の言葉を、
自分の字で伝えることに人生を捧げる決意をしたのだった。

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四宮拓真 17年5月21日放送

170521-06

相田みつを 一文字

「にんげんだもの」など の作品で知られる書家・詩人、相田みつを。

人生訓のような詩が人気だが、作品全体を眺めると
実は「一文字だけの作品」が多いことにきづく。

「出逢い」「逢引」の「逢」、
「不可能」「不自然」の「不」がその代表例で、
ほかにも「水」や、ひらがなの「ゆ」などもある。

 不自然の「不」という字は、否定ではない。
 今日の自分を生きる、今日新たに生まれ変わる。
 そうとらえている。

彼は、一文字のなかに、無限に広がる世界をイメージしていた。

「土」という一文字を書いた作品がある。

 タテ1本・ヨコ2本の線でできた極めてシンプルな漢字だが、
 だからこそ難しい。
 何回書いても、うまくいかない。

そう言って、彼は死ぬまで、「土」を書き続けた。

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四宮拓真 17年5月21日放送

170521-07

相田みつを 芸術家とは

「にんげんだもの」などの作品で知られる書家・詩人、相田みつを。

彼の作品は、絶大な人気を誇る一方で、
トイレの落書きと言われたり、パロディの対象になったりした。
みつを自身が「便所の神様」と揶揄されたことさえあった。

そんなイメージのせいだろうか、
彼はなかなか「芸術家」として評価されなかった。
とりわけ、アートの専門家からの批評・評論はいまもほとんど存在しない。
無視、と言っても差し支えないほどだ。

一方で、一般の人々からの人気は圧倒的だ。
関連出版物の販売数は累計で1千万部を優に超えると言われる。
東京・有楽町にある「相田みつを美術館」には、
オープンから20年が経ったいまでも、年間で40万を超える人たちが訪れる。

誰からも愛される。しかし、専門家だけが愛さない。
はたして、「芸術家」とはなんだろうか。

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四宮拓真 17年5月21日放送

170521-08
朝彦
相田みつを 相田みつを美術館

日本一有名な詩人・相田みつをの作品は、
東京・有楽町にある、
相田みつを美術館で出会うことできる。
ここには年間40万人もの人々が訪れる。
ひとりの詩人の施設としては、驚くべき人気である。

もちろん時期と時間にもよるが、
来館者には学生と高齢者の人が多い。

修学旅行なのか、制服姿で連れ立って入ってくる学生たちは、
「あっ、にんげんだものだ」なんて静かにおしゃべりしながら楽しんでいる。
一方で高齢の方は、おごそかに作品と対峙し、
ひとりうんうんとうなずいている。

一見シンプルで平易、しかし実は奥深いみつをの言葉がいちばん響くのが、
若者と高齢者という正反対の人々というのは興味深い。

日本人は相田みつをで育ち、相田みつをに帰ってくるのかもしれない。

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四宮拓真 16年12月11日放送

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天才絵師 河鍋暁斎「画鬼」

幕末・明治の人気絵師、河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)。

暁斎の最大の魅力は、縦横無尽で多彩な作風。
注文を受ければ来るものは拒まず、
仏画・浮世絵・春画・風刺画と、
あらゆるジャンルを書き尽くした。

そんな自分を暁斎は、画の鬼、「画鬼(がき)」と称した。

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四宮拓真 16年12月11日放送

161211-02

天才絵師 河鍋暁斎「熱量」

幕末・明治の絵師、河鍋暁斎。

初めて彼の作品を見るものは、
その熱量と膨大さに圧倒される。
とにかく多作。
1日に200枚の画を描いたこともあったという。

一方で、この多作が仇となり、
美術史の中でもなかなか評価が定まらなかった。

ただ、専門家の評価はともかく、
その驚くべき存在感は誰にも否定できない。
熱狂的なファンも多く、実はタトゥーにもしばしば使われるそうだ。

暁斎の残した熱は、いまも日本人の身体に刻まれている。

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四宮拓真 16年12月11日放送

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天才絵師 河鍋暁斎「早熟の鬼才」

絵師・河鍋暁斎は、圧倒的に早熟だった。
わずか3歳で蛙を写生したという。
その後7歳で浮世絵師・歌川国芳(うたがわ くによし)に入門し、
9歳になると狩野派(かのうは)に転じて、
19歳という若さで修行を終えた。

幼い頃から、絵に対する貪欲さは強烈だった。
川から流れてきた人の生首を拾って模写し、
周囲をひどく驚かせたという。

また、川遊びで鯉を生け捕りにしたときにも、
暁斎はすぐに写生をはじめ、鱗の数まで正確に描き上げた。
早く殺して食べてしまおうという周囲に対して、

 この鯉はあらゆる部分を写生させてもらった以上我が師だ。
 礼を尽くして天寿を全うさせてやらねばならない。

と強く反対し、逃してやった。

突拍子のない行動は、芸術への探究心の表れであった。

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四宮拓真 16年12月11日放送

161211-04

天才絵師 河鍋暁斎「絵日記」

幕末・明治の絵師、河鍋暁斎は
毎日絵日記をつけていた。
そこには人気絵師の賑やかな日々が、
ユーモラスに、生き生きと描かれている。

晩年まで描き続けたはずの絵日記だが、
実は4年分しか残っていない。
見た人がすぐに欲しがるので、
ほとんど人の手に渡してしまったそうだ。

絵日記は2010年に出版され、手にとることができる。
それは、今流行のコミックエッセイの走りのようだ。

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