2010 年 のアーカイブ

厚焼玉子 10年05月16日放送



世界一遅いマラソン記録  金栗四三

日本のマラソンの父と呼ばれた金栗四三(かなぐりしそう)は
日本人初のオリンピック選手として
1912年のストックホルム大会に出場した。

試合当日のコンディションは最悪だった。
船と列車の長い旅、白夜での寝不足。
マラソンの当日は迎えが来ず、
試合の前に競技場まで走る羽目になった。

さらにその日は摂氏40度を超える記録的な暑さで
参加選手は次々にリタイア。
金栗もレース半ばに日射病で倒れてしまうが
このとき、なぜか彼の棄権は連絡されず
「日本の金栗選手はレース中に失踪」と記録されてしまった。

それから55年
75歳になった金栗四三のところに一通の招待状が届いた。


 「スウェーデンのオリンピック記念式典で
 あのときのマラソンをゴールしませんか」

54年8ヶ月6日5時間32分20秒3という
世界一遅いマラソン記録はこうして生まれた。
1967年3月21日のことだった。
「長い道のりでした」と本人もスピーチしている。

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細田高広 10年05月15日放送


つくる人の言葉1 ル・コルビュジェ

高層ビルが乱立した、1930年代のニューヨーク。
その風景は「空を切り裂くもの」
という意味でSkyscraperと名付けられた。
日本語でいう、摩天楼。

当時、高層ビル群を見た誰もが
「高すぎる」と口にした。
だが、ただひとり建築家ル・コルビュジェだけは
真逆のことを思っていた。

摩天楼は、小さすぎる。

空だけでなく、地上を観察したコルビュジェは
ビルの下に広がる交通渋滞や、
スラム街を見逃せなかった。

摩天楼をもっと高くすれば、
住む空間が広がり、公園ができ、
交通網が整理できる。そう考えたのだ。

彼の志と比べれば、たしかに摩天楼は小さすぎる。


着つくる人の言葉2.フランク・ミュラー

挑戦するのに、年齢なんて関係ない。


そう口にする人は多いけれど。
スイスの時計師フランク・ミュラーほど
説得力をもって語れる男を知らない。

彼は言う。

 挑戦するのに、年齢なんて関係ない。

 だいたい時間なんて、

 人間が勝手に作ったもの。

 私は時計師だからよくわかる。

時間を忘れよう。年齢を忘れよう。
ぜんぶ、人がでっちあげたものだから。

「高齢社会」なんていう呼び名が、
日本の元気を奪っているのかもしれない。


つくる人の言葉3  イサム・ノグチ

日米のハーフとして生まれた
イサム・ノグチは長く悩んでいた。
100%のアメリカ人ではない。
100%の日本人でもない。
自分が不完全な存在に思えてならない。

だからイサム・ノグチは、
国籍も国境も関係ない「芸術」の世界に
居場所を見つけようとした。
彼は自らの彫刻作品について、こう語っている。

 もし、誰かが文句を
 いったらこう言ってください。
 完璧なものは面白みに欠ける。

その言葉は、「自分自身」にも
向けられているようだ。


つくる人の言葉4 ヴィダル・サスーン

ヘアデザイナーという職業を確立し、
美容界を席巻したヴィダル・サスーン。
彼の人生も、初めから華やいでいたわけではない。

5歳の時に父が家を出て、一家は困窮する。
シャンプーボーイとして働き始めたとき、
ヴィダルはまだ14歳だった。

そんなヴィダルは、26歳で自分の店を持ち、
洗ったままで髪型が整う技術を発明。
さらにミニスカートの流行とともに
彼がデザインしたショートボブが世界的にブレイク。
いつしか女優やセレブから大評判になった。

人生年表だけ見ると、
あっと言う間に成功を収めたかのよう。

だが、ヴィダルは言う。

 「成功」が「努力」の前に来るのは、辞書だけさ。

さすがは美の専門家。
汗と努力の人生だって、
見とれるほど美しく見せてしまう。


つくる人の言葉5  ルイス・バラガン

建築界のノーベル賞と呼ばれるプリッカー賞。
その授賞式でルイス・バラガンは言った。

 建築家の使命は、
 静けさに満ちた住まいをつくることなのです。
 静けさは、苦悩や怖れを真の意味で癒します。

悩みや孤独は、
きっと誰もが抱えているもの。
解決できるのは、結局、自分ひとりしかいない。
だから、バラガンは悩みと向き合える
「静寂」を設計した。

東京で今、
設計されるべきものは
静けさなのかもしれない。


つくる人の言葉6  東孝光(あずま たかみつ)

建築家の仕事を思うとき、
いつも考えることがある。

地球の上にびっしり建築が並ぶ今、
新しい建築なんて
生み出せるのだろうか、と。

建築家、東孝光の言葉は
そんな問いは無意味だ
と教えてくれる。

 美しい空間は、人々の夢のなかに、
 いつでも存在する。
 建築家は、それを引き出し、見せてあげればよいのだ。

新しい建築の図面は、住む人の頭の中にある。


着つくる人の言葉7  ジミー大西

99%の努力。1%のひらめき。
エジソンが残した発明のレシピだ。

新しいアイデアを見つけたいなら、
ひたすら努力せよ。
エジソンは何て酷なことを言うのだろう。

しかし。お笑い芸人から
画家になったジミー大西は
この有名な言葉に新しい解釈をくれた。

 あれは誰かが英訳間違えてるんとちゃいますか?
 僕は99%の遊び心で1%のひらめきやと思いますよ。
 誰が99%も努力します? しませんよ。
 僕は楽しんだ思いますよ。

確かに。好きなものに夢中になるとき、
「努力している」なんて思わない。

大好きなものがある人は皆、
天才になるチャンスを持っている。

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五島のはなし(97)

ハリガネムシって知ってますか?
ハリガネムシはカマキリの体の中にすみついて
卵を産みたくなると
カマキリの脳に「水辺に行け」という指令を出します。
で、カマキリが水辺に行ったところで
カマキリの腹の中から出てきて
水(つまり川とか)に入り、そこで卵を産みます。
(次の世代はカマキリが水を飲む時、
卵か子どもかが水と一緒にカマキリの体内に入るのだそうです)

・・・すごい。そして気持ち悪い。
ハリガネムシの姿がこれまた恐怖。
あえて写真は載せないけれど。

うだうだ書きましたが、
このハリガネムシ的なムシが僕の体内にもいる気がして、
というのも無性に水辺に行きたくなるからです。
訳もなく釣りに行きたくなる。
たぶん、幼い頃、五島で寄生されたと思うんです。

一昨日も、仕事から帰ったあと
ムシの指令に逆らえず近くの岸壁へ。
平日なのに夜中の2時まで釣りをしてしまいました。

都会の夜のあらかぶ

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五島のはなし(96)

2010-05-09 13:08:26

このゴールデンウィーク、
五島・福江島の鬼岳で
毎年恒例の「バラモン凧あげ大会」が
催されたそうです。

バラモンは
五島の方言である「ばらか=勇壮な、元気がよい」+「者」
から来てるはずで、
インドのカースト制度のバラモンとも
この長い歴史の中でなんかしらの接点があるのでは
と想像してしまうけど、
どうなのかはわからない。

立派な凧です。
デザインは鬼をモチーフにしていると
長年思い込んでたのですが、
どうやら「鬼に立ち向かう武士」を描いているらしい。

てっぺんに糸が張ってあり
これが風を受けて「ぶーん」とうなるような音を出します。
この音が魔除けになるのだとか。

明日は月曜日。
自分の頭の上にこの糸を張り、
ぶーんと音を立てながら出勤したいような気分。

バラモン凧大会(五島観光協会のHPより)

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五島のはなし(95)

2010-05-03 18:40:04

きのう千葉の富津に遊びにいこうとしたら
もんのすごい渋滞で、
あきらめて高速を降りてしまいました。

で、高速を降りたすぐすばにあったつばさ公園(羽田空港脇。飛行機が間近に見られるからこの名前)
でのんびりしてました。

公園の前は干潟になっていて
潮干狩りしている人がいたので
こんな都会のど真ん中で・・・
と思いつつ波打ち際で砂の中をあさったら
でてくるわでてくるわ。
バカ貝らしき貝だけど、
時々大人のこぶし大の巨大なのがとれる。

こんなでかいバカ貝はないぞ、と持って帰ってネットで調べたら
アメリカ原産の「ホンビナス貝」なるものらしい。
なんでも東京湾奥で繁殖中なのだとか。
アメリカではクラムチャウダーの材料として重宝されているとのこと。
・・・でもなんか食べる気がしない。

東京湾は五島の海に比べて有機物が豊富なのだと思う。
(やっとこさ五島がでてきた)
だからアサリもよくとれる。

その前日は横須賀の走水でアサリをどっさり
とってきて、もうアサリはいいやってくらい食べました。

今日は近所の港に夜釣りに行って
メバルがたくさん釣れたのだけど、
これも豊富な有機物に関係していると思う。
思うだけだけど。

というわけで、五島に帰れなかったうっぷんを
東京の海ではらしている2010年のゴールデンウィーク。

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重大なお知らせ再び

VisionのURLは
http://www.01-radio.com/vision/です。
これは重要なことです。
SAKURAから引っ越したので、絶体絶命、唯一無二に
http://www.01-radio.com/vision/
上記のみがVisionのURLになったのです。
Visionに記事を書くときのログイン画面のアドレスも
当然ながらSAKURAのURLは使えません。
こちらからお願いします。
http://www.01-radio.com/vision/wp-login.php

古いURLからログインして記事を書くと
反映されないばかりか、行方不明になりますぜ。

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小宮由美子 10年05月09日放送



ある選手

 「ナンバーワンのプレッシャーは
  経験した者でなければわからない」

かつて、世界ランキング1位の
テニス・プレーヤーだった
ジョン・マッケンローは、こう語っている。


 「いつも何かに脅かされているんだ。その間、
 楽しさを覚えたことなんて一度もなかった。
 例えて言うなら、断崖絶壁に立ち、
 強風を受けているようなもの。
 力いっぱい踏ん張っていなければ
 すぐに下に落っこちてしまう」と。

それだけのプレッシャーに身を晒しながら
世界のトッププレーヤーが
頂点をめざして戦うグランドスラム
今年も、目が離せない。



ある園芸家

手のかかることがうれしい。
待ちどおしくて、たまらない。

カレル・チャペックの本『園芸家12ヵ月』は
植物を育てる人だけが知るよろこびに溢れている。

たとえば、庭をつくりだすと
「ものの考え方がすっかり変わってしまう」と、彼は書く。


 「雨が降ると、庭に雨が降っているのだ、と思う。
 日が射すときも、ただ射しているのではない、
 庭に、日が射しているのだ、と思う。
 日がかくれると、庭が眠って、
 今日一日の疲れを休めるのだ、そう思って、ほっとする」

5月。
世界中の園芸家たちにとって素晴らしい季節が
また、巡ってきた。



ある芸術家

古い書物、
ガラスの小瓶、白い球体や、
バレリーナのチュチュの切れ端…

素材のコラージュによって、
小さな空間の中に詩的な世界をつくりだした
<箱の芸術家>、ジョゼフ・コーネル。

彼は、国内外で名声が高まったのちも
周囲の人々と一定の距離を保ち続け、
生涯、ニューヨークのベイサイドにある
木造家屋の地下室で、静かに作品をつくり続けた。

しかし1972年、心臓発作でこの世を去るその日の朝、
コーネルが電話で妹に打ち明けたという言葉は、
孤高の芸術家の胸の内を、そっと教えてくれる。


 「今まで内気にふるまいすぎた」




ある作家


 「20代の私は、時計の奴隷でした」

作家・向田邦子は、そう告白する。

待ち合わせの時間に相手が遅れると、きつい言葉でなじる。
自分自身を追い立てては、
「また一日を無駄にしてしまった」という口惜しさに焦れる。

実際、数々の素晴らしい作品を残しながら、生きることを謳歌し、
51年の人生を駆け抜けていったようにみえる彼女。
だが、死の数年前に書いた『時計なんか恐くない』という
エッセイの中に、若き日の自分の姿をふりかえりながら、
こんな言葉を残している。

 「時計は、絶対ではありません。
 人間のつくったかりそめの約束です。

 もっと大きな、『人生』『一生』という目に見えない大時計で、
 自分だけの時を計ってもいいのではないでしょうか。
 
 若い時の、『ああ、今日一日、無駄にしてしまった』という絶望は、
 人生の大時計で計れば、ほんの一秒ほどの、素敵な時間です」



あるダンサー


 「長いあいだ作品を作り続けてきましたが、
 身体の奥底から取り出して表現したいことが
 まだまだ沢山あります。
 それは言葉にできないけれど、私の身体から
 決して、消えてなくならないものです」

2004年の来日公演の際に、
ピナ・バウシュが語った言葉。

ヴッパタール舞踊団を率いる振付家であり、
稀有なダンサーでもあった彼女。

数々の独創的な作品を生み出し、
世界に衝撃を与え続けたその繊細な身体は、
2009年、病に倒れた。

けれども
ピナ・バウシュの意思は
多くのダンサーのなかに残された。

彼女は、いま、失われた身体によって、
生きることの価値を私たちに投げかける。



ある王妃

バラの名前になった女性たちがいる。

Joséphine de Beauharnais(ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ)
も、そのひとり。

250種類ものバラを城の庭に植え、
歯並びの悪さを隠すために、いつもバラを
手離さなかったといわれる、ナポレオンの最初の妻。

皇后としてより、<ジョセフィーヌ>という
バラの一種として人々の口にのぼることは、
バラを愛してやまなかった彼女にとって
幸福なこと、かもしれない。



ある音楽家

ある日、青年は、バルセロナの港近くにあった
古い楽譜店に、何気なく足を踏み入れた。
しばらく物色していると、角が擦り切れ、色褪せた
1冊の楽譜が目に飛びこんだ。

表紙に書かれた文字をみて、彼は自分の目を疑う。
高鳴る胸の動悸をおさえ、譜面を追った。
「その音符は、王冠を飾るいくつもの宝石のように思えた」と
後に彼は語っている。

楽譜をしっかりと抱きかかえて家路についた彼は、
それから一日も休むことなく、曲と向き合う。

12年の歳月を経て、その時がやって来た。
遂に彼は、聴衆の前での演奏を決意する。
そして、単なる「練習曲」とみなされていた曲の
真の価値を示し、絶賛を浴びた――

唯一無二のチェロの名手、パブロ・カザルスと、
彼に揺るぎない名声をもたらすことになる
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲<無伴奏チェロ組曲>との
数奇なほどに運命的な、出会いの話。

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熊埜御堂 由香 10年05月09日放送



走る人 角田光代

彼女は、32歳で大失恋した。
切れた電球を変える気力もなくなった。
だから、髪を切るわけでもなく、
次の男を焦って探すでもなく、
ボクシングをはじめた。
強くなりたかったから。

女心の機微を描き続ける作家・角田光代。

失恋からたちなおっても、運動する習慣は残った。
角田は忙しい暮らしの合間にランニングを続ける。

いま、若い女性にマラソンが流行しているのも、
からだとこころがつながっていることを
実感しやすいスポーツだからかもしれない。

きっと、今日も、いろんな思いを抱えて、走るひとがいる。

角田光代のある小説の主人公が、こうつぶやく。


 道ってのはどこまでも
続いているもんなんだねえ。

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たそがれのライブ


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坂本和加 10年05月08日放送


着物と越原春子

かつてココ・シャネルが、
下着素材のジャージで
動きやすいドレスを作ったように。

いつの時代も、働く女性は、
ファッションを変え、
モードを生む。

越原春子もそのひとり。
大正時代、女学校設立のために
ひどく多忙な日々を送っていた越原は、
ある日、長すぎる帯を
ばっさりと切った。

正装ではなく普段使いの、短めの帯。
名古屋帯は、そうして生まれた。
この帯が、その後一般化したのは、
簡略化されても、その美しさが
損なわれていなかったからだろう。

美しく、ときに大胆に。
働く女性はいまも昔も、変わらない。


着物と宇野千代

着物で、でかけたい。
けれど着物って、面倒なルールが
きっとたくさんあるんでしょう? 
と言うひとがいる。

明治に生まれ、
前衛的なデザインや着こなしを
着物に提案しつづけた宇野千代は、
こんな風に言っている。

着るもののことで
いっぺん笑われたら、
あとは笑われた者の得。

昭和32年、宇野千代は、
アメリカで着物ショーを行った。
足元にヒール。モデルたちの
しなやかな身体のラインを
隠さず活かした着物姿の
なんと、斬新なことか。

着物はその人らしく楽しめばいい。
宇野千代は、いいお手本を
私たちに教えてくれている。


着物と水谷八重子

アンティーク着物が、
若い女性の間で人気だ。
なかでも、大正から昭和初期の、
銘仙と呼ばれる着物が。

はじめ、銘仙は、
例えるならジーンズのような
カジュアルな普段着だった。
それがアールヌーボーと融合し、
華やかな大正ロマンの代名詞になった。
大流行した銘仙の反物は、
1億反も売れた。

水谷八重子は
そんな時代に生きた女優。
駆け出しの頃は、
銘仙のイメージガールもやった。
けれど戦後、洋服の時代がやってきて、
気づけばあれほどあった着物は
箪笥からあとかたもなく消えていた。
水谷八重子は、
そのことを、こんなふうに回顧する。

 日本人特有の、あの細やかな
 つつましさをも、捨てた自分に気がついた。


着物とバルテュス

20世紀を代表するフランスの画家、
バルテュスは少年時代から
東洋的なものを
こころから愛した。

日本人形との出会いは、14才。
その息をのむ美しさに驚いた。
つぎの出会いは、59才。
こんどは本物の日本人形、
当時二十歳の学生だった節子を
見初め、妻にむかえた。

バルテュス自身もよく着物を着た。
日本人は、反物や帯に、
あらゆるものを文様化する。
バルテュスは、その鋭い感性を
高く評価していたのだ。

着物を着るひとが少なくなって久しい。
その感性が、いま鈍ってやしないか。

感性は身につけるもの。

バルテュスも言っている。
日本人には、着物がいちばん美しい。


着物と幸田文

着物は、風で、洗うもの。
だからこそ和服は
傷みにくく、昔から
世代を超えて
受け継ぐものだった。

東京下町生まれの作家、
幸田文もまた、
着物をよく愛した。
娘の青木玉は、
そのほとんどを継いだ。

文のいくつかの着物は、
ほどかれ、こんどは風でなく水に洗われて、
色を染め直され、生まれ変わった。

幸田文は、粋で個性的に
着物を着こなす洒落人だった。
だから玉には着こなせないと
思うものも多かった。

けれど、そこは親子。
文の着物は年を重ねた玉に、似合うようになる。
それも着物の、おもしろさ。


着物とよしだみほこ

ビルにはさまれた東京で。
「トントンからり」と聞こえてくる。

それは、
着物の反物の織り職人、
よしだみほこさんの
仕事部屋からやってきた音。

わたしのつくりたいものは
着る人のほしいものの、中にある。
だから、織るものに
なるべくわたしを入れたくない。

そう、きっぱりと言う
みほこさんから生まれた反物は、
やさしい、檸檬畑の風のよう。

きょうもまた、「トントンからり」。


着物と清少納言

じんざもみ、きくじん、
なつむしいろに、ひわいろ。

日本の色の表現は、
数百種と言われるけれど、
そのほとんどは、
平安の時代に生まれた。

清少納言は枕草子に、
着物の色あわせについて
宮中でのやりとりを
にぎやかに、書いている。
春先、紅梅の上着のインナーには、紫。
でももう、萌黄の季節かしら。と。

みな着物を来ていた時代に、
そのひとのセンスや品を
伝えるのは色だった。
ときには色で、こころを伝えた。

ひとのこころは、複雑なもの。
着物と共に生まれ、
伝えられてきた色を思うと、
その数の多さも、わかる気がする。

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