2014 年 7 月 5 日 のアーカイブ

佐藤延夫 14年7月5日放送

140705-01

ふたつめの人生 新村出(しんむらいずる)

明治生まれの言語学者、新村出は
広辞苑を編纂した人物として知られている。

東京帝国大学助教授を経て
そののち、京都帝国大学の教授となる。
言語学講座を28年にわたり担当した。

そして第二の人生では、さまざまな肩書きを並べる。
日本言語学会会長、
大東亜学術協会会長、
全国図書館大会名誉会長、などなど。

しかし当の本人は、平凡な人生を強く望んでいた。
こんな一句が残っている。

  小器われ 晩成もせず 永らえて 凡器を抱き 安らかに生く

自分が思うよりも、偉くなりすぎてしまった人。

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佐藤延夫 14年7月5日放送

140705-02

ふたつめの人生 間宮林蔵

むかし、社会の授業で習った。
サハリンとユーラシア大陸の間にあるのは、
間宮海峡だ。

1808年、幕府の命令で樺太に渡った間宮林蔵らは、
この土地が半島ではなく、島であることを確認。
のちにシーボルトが、間宮海峡と名付けた。
思いもよらず、世界地図に自分の名を残したのが最初の人生。

その後は幕府の隠密となり、
各地で行われていた密貿易を摘発している。

ちなみに間宮林蔵は変装の名人で、
粗末な格好をさせたら誰も本人だとわからなかったそうだ。

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佐藤延夫 14年7月5日放送

140705-03
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ふたつめの人生 佐藤義清(のりきよ)

平安時代の武士、佐藤義清は
鳥羽上皇のとき「北面の武士」に任命された。

北面の武士とは、御所の警護役ではあるが
容姿端麗、武術にすぐれ、詩文や和歌の心得も必要という、
いわゆるエリート集団だった。

そんな佐藤義清だが、わずか3年後、
23歳の若さで出家してしまう。
第二の人生での名前は、西行。
新古今和歌集で94首が選ばれるほどの歌人になった。

佐藤義清が出家した理由。
それは、恐れ多いほどの人と
不倫関係にあった、という説もある。

不意に人生を変えるのは、いつの時代も、恋なのか。

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佐藤延夫 14年7月5日放送

140705-04

ふたつめの人生  平賀源内

江戸時代の発明家、といえば
まず思い浮かぶのは、平賀源内だ。

13歳のころから本草学や儒教を学び、
25歳で長崎に遊学し、珍しい舶来品を目の当たりにした。
そして有名なエレキテルの発明、
土用の丑の日に鰻を食べる、という
広告プランナーのようなことまでやってのけた。

ここまでが、華やかな最初の人生だとすると、
第二の人生は、決して幸せではなかったようだ。

秩父で金山を採掘するも失敗。
炭焼き事業、焼き物、毛織物事業なども、ことごとく外れ、
晩年は殺人容疑で投獄されたうえ、一年後に病死してしまう。
亡くなる数年前に、こんな句を残した。

  功ならず 名ばかり逐いて 年暮れぬ

器用な人ほど、人生は難しそうだ。

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