2015 年 7 月 のアーカイブ

廣瀬大 15年7月12日放送

150712-07
Icely88
物語を愛した河合隼雄

心理学者・河合隼雄は言う。

心の病をかかえる患者さんが
治っていった話をそのまま書いたら、
都合のええ偶然が起こりすぎて
小説にならない。

でも、僕の患者さんが治っていくときには
奇跡のようなことがよく起きる。
こんなおもろいことないですよ。

世界は小説より
圧倒的に、都合がいい物語で
できているようだ。

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廣瀬大 15年7月12日放送

150712-08
Aureusbay
物語を愛した河合隼雄

心理学者・河合隼雄は、幼いころ、
ほかの子どもと行動するのが嫌で
幼稚園が嫌いだった。

でも担当の先生を大好きになり、
幼稚園に行くのが楽しみになった

しかし、ある日、
その先生は結婚し、
幼稚園を辞めてしまう。
大好きな先生のお別れのあいさつで
隼雄少年はかっこわるいと思いながらも涙が止まらない。

自己嫌悪に陥り、家に帰ってから、
母親の前であまり悲しそうな顔をしないでいたら、母親は言った。
「ほんとうに悲しいときは、男の子でも泣いてかまわない」
それでまた彼は泣いてしまった。

そのあと、遊びに来た同級生の男の子。
「今日は男の子でも泣いてるもんがいた」と冷やかすと
「ほんまに悲しいときは泣くやつのほうが偉いよ」と言い返した。

彼は幼いころから、自然と暮らしの中で
「こころ」との向き合い方を学んでいた。

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波多野三代 15年7月11日放送

150711-01
Alpsdake
別府温泉の立役者・油屋熊八PR篇

「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」
別府で温泉宿をはじめた油屋熊八が考えた
キャッチフレーズだ。

それをどこで広めるか。
商店のポスターか、大都市の看板か。
彼の選んだ場所は、普通の生活ではめったに訪れない、
でも日本一有名な場所だった。

それは富士山。
大きな柱にしたため山頂に打ち立てたのだ。

仰天した登山客のうわさはやがて新聞記者の耳に入り
全国の新聞に取り上げられた。
大正14年という時代に
マスメディアに取り上げられることで
PRが成功した瞬間だった。

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波多野三代 15年7月11日放送

150711-02

別府温泉の立役者・油屋熊八 子供 篇

「こどもたちをあいした ピカピカのおじさん」
別府駅前に立つ銅像にはこんなプレートがつけられている。
「ピカピカのおじさん」とは油屋熊八が
子供達につけられたあだ名である。

昭和初期というまだ子供の人権が低い時代に、
歌や踊り、童話を通じて子供達を喜ばせる事に力を尽くした。

クリスマスには、水上飛行機からサンタクロースを登場させて
驚かせたという。

当時、日本航空輸送会社の運賃は、
東京〜大阪間の飛行で30円。
工場労働者の平均月給が2円65銭。

熊八は子供達の笑顔を見る為には
借金をも厭わなかった。

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波多野三代 15年7月11日放送

150711-03

別府温泉の立役者・油屋熊八 おもてなし篇

油屋熊八の経営する「亀の井旅館」は
どんな旅人でも徹底してもてなした。

腕のいい板前を大阪から呼び寄せ、
うまい料理と最高の布団を提供した。
全世界の国旗をそろえ、
外国人観光客が訪れれば、その国の旗を掲げた。

さらには
急病に備え旅館へ看護婦を常駐。

客が帰ればそれでおしまいという訳ではなく、
一度訪れた相手には年賀状を出し続けるという
徹底ぶりだった。

彼のおもてなしの精神は、聖書の一節から来ている。
「旅人をもてなす事を忘れてはいけない」

かつて相場で一文無しになった熊八は、
船底に隠れアメリカに渡る。
行き倒れた彼を救ってくれた宣教師の言葉を
熊八は一生大切にした。

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波多野三代 15年7月11日放送

150711-04

別府温泉の立役者・油屋熊八 バスガイド篇

日本で最初の女性バスガイドは別府で生まれた。
当時のバスガイドと言えば高学歴の男性のみ。
案内の言葉を語るには高度な知識が必要だったからだ。

しかし、油屋熊八は、若い女性たちに「地獄巡り」のガイドをさせた。
七五調の案内文は童話作家がつくった。

「ここは名高き流川
 情けの厚い湯の町を
 真直ぐに通る大通り
 旅館商店軒並び
 夜は不夜城でございます」

アメリカ製のピカピカの観光バスに
美人バスガイドの名調子が響く。

関東大震災からの復興が進む
昭和2年のことだった。

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大友美有紀 15年7月5日放送

150705-01

「作家の時間割」トーマス・マン

午前8時前に起きる。
妻とコーヒーを飲み、
風呂に入って着替え、
8時半に妻と一緒に朝食をとる。
9時に書斎に入ったら、来客にも電話にも家族の呼びかけにも
一切応じない。
ベニスに死す、魔の山などを著したトーマス・マンの
仕事の時間割だ。

 すべての文を完璧に
 すべての形容詞を的確に
 歯を食いしばって一歩ずつ、ゆっくりと進む

子どもたちは9時から正午までは
絶対に物音を立ててはいけないと躾けられた。

自分にも家族にも厳しい創作活動だった。

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大友美有紀 15年7月5日放送

150705-02

「作家の時間割」オノレ・ド・バルザック

午後6時に軽い夕食をとった後、ベッドに入って寝る。
午前1時に起きて書きもの机の前に座ると7時間ぶっ通しで書く。
午前8時から1時間半仮眠。
午前9時半から4時まで仕事。
19世紀フランスを代表する作家バルザックは、
自分を容赦なく追い込んだ。
大きく膨れ上がった文学的野心と次々に訪れる借金取りと
際限なく飲むコーヒーがそれを後押しした。

 私は生きているのではない。
 自分自身を、恐ろしいやり方で消耗させている。
 だが、どうせ死ぬなら、
 仕事で死のうと他のことで死のうと同じだ。

自身を削り、1日1日が、日なたにおいた氷のように溶けていくと感じながら、
90篇あまりにわたる「人間喜劇」を執筆したのだ。

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大友美有紀 15年7月5日放送

150705-03

「作家の時間割」ボーヴォワールとサルトル

 人は女に生まれるのではない、女になるのだ

「第二の性」を著した女性作家シモーヌ・ド・ボーヴォワール。
20世紀フェミニズム運動の象徴的存在であり、
実存主義の哲学者サルトルのパートナー。
二人の間には「お互いに自由に恋愛し、それを一切隠し立てしない」
という取り決めがあった。

ボーヴォワールは朝起きて恋人とお茶を飲んでから
10時ごろに仕事を始める。1時ごろまで続けると、
サルトルのところへ行って昼食をとる。
恋人と一緒の時もあった。
それからサルトルのアパートで3、4時間、
黙って二人で仕事をする。
恋人がいるときは、夕食の後、自分のアパートに帰る。

サルトルは、自分のアパートで正午まで仕事をすると、
秘書が予定をいれた会合に1時間ほど出かける。
1時半にはボーヴォワールと一緒に食事してから仕事。
夜は政治集会に出かけたり、社交の場に行ったり、
ボーヴォワールと映画を見たり。
そしてバルビタール系睡眠薬を飲んで
2、3時間死んだように眠る。

 それほど長時間働かなくても、豊かな結果を生むことはできる。
 とサルトルは言う。

2人の奇妙で几帳面な関係は50年という長時間続いたのだった。

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大友美有紀 15年7月5日放送

150705-04

「作家の時間割」ジョルジュ・サンド

ほとんど毎晩、最低でも20枚の原稿を書く。
女性作家、ジョルジュ・サンド。
男装趣味や数々の男性遍歴、ショパンとの逃避行など、
自由奔放なイメージがあるが、仕事ぶりは真面目だった。
いつも夜遅くに執筆する。
それは10代の頃、病弱な祖母の世話をしていて
身についた習慣だった。

 夢遊病のようになって書いていたこともあった。
 書いたものを棚の上に置いておかなかったら
 タイトルすら思い出さなかっただろう。

それでも彼女は書く。
夜はサンドが一人で考えることのできる
唯一の時間だったから。

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