藤本組・藤本宗将

福宿桃香 15年8月22日放送

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あるオタクの話 嶺脇育夫

タワーレコード社長、嶺脇育夫。
女性アイドルについて検索すると、必ず彼の名前に辿り着く。

CDショップに入社した理由は、洋楽が好きだったから。
ところが、たまたまテレビで見たモーニング娘。にハマり、
ありとあらゆるアイドルにのめりこんだ。

嶺脇は、周りのスタッフがアイドルというジャンルに対して
意識を向けていないことに不満を持った。

誰もやらないなら、自分がアイドルを売り出すしかない。

今では当たり前となった店舗内でのアイドルイベントの
仕組みを作り出したのは、彼だ。

現場での積極的な活動は評価され、社長に就任。
その数ヶ月後にはなんと、T-Palette Records
というアイドル専用レーベルまで立ち上げた。

「やっぱり売る側が好きだって言わないと、
 お客さまにも届かない。僕でよければ
 アイドルがどんなに好きかってことを語りますよ」

彼は、アイドルオタクにとっても
アイドルにとっても、希望だ。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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マイヤ・プリセツカヤ①

2015年5月2日、ひとりのバレリーナがこの世を去った。
彼女の名は、マイヤ・プリセツカヤ。
「20世紀最高のバレリーナ」と呼ばれた、伝説のダンサーだった。

生まれ持った運動能力とカリスマ性を考えれば、
プリセツカヤがバレエの道を進むことは、必然だったといえる。
彼女は、生後8ヶ月で歩き始めた。
誰に教わるでもなく爪先立ちで歩き回るようになり、
靴に穴が開くまで踊り騒いだという。
見かねた両親に連れられて行ったバレエ学校の試験では、
彼女が披露した1回のお辞儀に審査員が魅了され、合格となった。

天性の素質が開花した彼女の勢いは止まらない。
バレエの知識も経験も持たずに入学してきた少女は
卒業試験を満点で合格。
世界5大バレエ団のひとつ・ボリショイバレエの一員となった。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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マイヤ・プリセツカヤ②

20世紀最高のバレリーナ、マイヤ・プリセツカヤ。
最高のバレリーナと呼ばれる所以は、
最高のパフォーマンスを、どんな時でも、見せてくれたからに他ならない。

フィレンツェで、「かもめ」という演目を踊ったときのこと。
左足の指を骨折していた彼女は、
1時間かけて塩化エチルで指を麻痺させ、いつもどおりに舞台へ立った。

すさまじいまでの忍耐強さが培われたのは、
スターリンの支配下で暮らした幼少期。
父親が処刑され、母親と弟が収容所へ連れていかれた絶望の中でさえも、
彼女は踊ることをやめなかった。
家族の分まで踊らなければ。それが自分の使命だと信じていた。

晩年、彼女はこんな言葉を残している。
「どんな場所にいても、なぜそこにいるのかがわかっていなければならない」
多くの人に支えられて舞台に立てる幸せと責任を、生涯忘れなかったのだろう。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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www.kremlin.ru
マイヤ・プリセツカヤ③

スターバレリーナとして、
80歳を過ぎても踊りつづけたマイヤ・プリセツカヤ。

日本との関係は非常に深かった。
公演のためにたびたび来日していた現役時代はもちろん、
引退後も日本の若手を育成するべく、何度も足を運んだ。

宝塚歌劇団の公演「王家に捧ぐ歌」では、
彼女が自らミュージカルの振付を担当している。
稽古の日に合わせて来日し、
檀れいや湖月わたる、安蘭けいをはじめ
当時のトップダンサー達に厳しく指導をした。

魂と心と技術が一体にならないと、美しさは生まれない。
彼女の教えを、日本のダンサーたちは今も覚えている。
日本の芸術への貢献をたたえて、
黒澤明やオスカー・ピーターソンにつづき88人目となる
高松宮殿下記念世界文化賞をはじめ、旭日中綬章が贈られた。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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マイヤ・プリセツカヤ④

スターバレリーナ、マイヤ・プリセツカヤの代表作といえば、
「瀕死の白鳥」。

バレリーナの個性が大きく出る踊りで、
彼女が演じる白鳥は、1度しか倒れない。
最後の最後まで死に抵抗し、突然、動きを止めるのだ。

彼女の白鳥は、彼女の人生そのものだったといえる。
自伝には、こんな言葉があった。

蔑まれたり、人間としての尊厳が踏みにじられない日は一日としてない。

ユダヤ系の家系だったことを理由に受けた差別・迫害はすさまじく、
海外公演で滞在していたホテルでは、食事がドッグフードのこともあった。

それでも彼女は、バレエを通じて抗いつづける。
「カルメン組曲」や「ボレロ」など反ソ連的な新作に挑戦を続け、
世界をよりまっとうな方向へと、変えていった。

プリセツカヤの死後、日本のバレリーナ・森下洋子は、こう語った。

自らをなげうって多くの人に喜びを届けるという聖なる仕事を終え、
マイヤさんが彼岸に渡る船から手を振っている姿が、はっきり見えるような気がします。後は任せた、と。

自伝のタイトルは、「闘う白鳥」。
彼女の一生は、長い長い闘いだった。

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上遠野茜 15年7月18日放送

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ホームランの話 ベーブ・ルース

「病気の少年のために、野球選手がホームランを約束する」

そんなストーリーの大元となったのは、
メジャーリーグの伝説、ベーブ・ルースだ。

ある日ルースは、病気で入院するファンの少年のため
ホームランを打つことを約束。
試合で見事にそれを果たし、少年を勇気づけたという。

「約束のホームラン」
そう呼ばれたこの逸話には、まだ続きがある。

20年余りが過ぎ、
晩年のルースが病気のため入院していた頃、
たくましい海軍隊員が彼を見舞った。
それは病気を克服し、立派に成長を遂げた当時の少年だった。

人一倍子供好きだったルース。どんなに喜んだだろう。

球史を塗りかえたホームラン王は、
人と人の間にも見事なアーチをかけた。

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福宿桃香 15年7月18日放送

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ホームランの話 新井兄弟

阪神タイガースの新井良太は、
同じくプロ野球選手の兄を持つ。

もともと野球を始めたのも兄・貴浩のすすめ。
肩を並べて、ただ一緒に野球をやりたい。
やがてプロでも兄と同じ阪神でプレーするまでになった。

しかし待っていたのは、兄とのポジション争い。
体格もプレースタイルも似ていた兄弟にとって、
一人が活躍することは
もう一人の居場所がなくなることだったのだ。
そのとき良太が出した答えは、
兄と同じファーストから、サードへの守備位置変更。

そして試合に揃って出場するようになったふたりは、
2012年7月29日の対横浜戦で快挙を達成する。
4回、まず良太がバックスクリーンに飛び込む特大3ラン。
そして7回には貴浩がダメ押しの2ラン。
じつにプロ野球史上31年ぶりの
兄弟アベックホームランだった。

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村山覚 15年7月18日放送

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Yasunari Goto
ホームランの話 バレンティン

「ホームランを打つときは、
 ボールがバスケットボールみたいにでかく見えるんだ」

ウラディミール・バレンティン。
カリブ海の小さな島から日本へやってきたその男は、
日本プロ野球のホームラン記録を更新しようとしていた。

それまでの記録は、王貞治・ローズ・カブレラの3人が持つ55号。
記録更新を阻むため相手ピッチャーに敬遠をされるのではないか?
と野球ファンやマスコミは囁いた。

それは杞憂に終わった。

日本のピッチャーたちは、バレンティンと真っ向勝負をし、
前代未聞の60号という記録が生まれた。

ホームランは野球の華、と言われるが、
男のプライドを賭けた真剣勝負こそ、野球の華である。

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藤本宗将 15年7月18日放送

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ホームランの話 藤村富美男(ふじむらふみお)

かつて「物干し竿」と呼ばれた長いバットで
ホームランを量産した打者がいた。
ミスタータイガースこと、藤村富美男。

ヒントにしたのは知人に誘われたゴルフだった。藤村曰く、

「長いものでシバいたほうが、
 遠心力があるからよく飛ぶだろうと」

しかし、理由はもうひとつあった。

「川上の赤バット、大下の青バットという時代。
 拮抗してなにか特徴のあるバットはないかいな、とね」

そんな目立ちたがりは、
選手兼監督になってからも変わらなかった。

1956年6月24日の対広島戦。
1点ビハインドで迎えた9回裏2死満塁の場面で
3塁コーチについていた藤村は、球審にこう告げたのだ。

 「代打、ワシ!」

スタンドの観客は大喝采。
そして打席に入って3球目。藤村の物干し竿が一閃すると、
打球はレフトスタンドへと消えていった。

それは日本球界史上2人目の代打逆転サヨナラ満塁本塁打。
そして、藤村にとって現役最後の本塁打。
ショーマンシップあふれるプロの生き様は、
最後の最後まで派手だった。

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藤本宗将 15年5月10日放送

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母を生きた人 マリア・テレジア

「子供は何人いても多すぎることはないわ」

かつてそう言ったのは「女帝」マリア・テレジア。
マリー・アントワネットら16人の子をもうけ、
政略結婚によって国を守ろうとした彼女らしい。

だが、彼女が暮らした宮殿を訪ねると印象が変わる。
子供たちの絵を飾った部屋。
親子手作りの飾り付けが残る部屋。
そこには大家族の笑い声があふれていたのだろう。

「子供は何人いても多すぎることはないわ」

ひとりの母親の言葉として聞くと、
また違った思いが伝わってくる。

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