藤本組・藤本宗将

村山覚 13年12月29日放送



鬼が笑った話 初代若乃花

昭和33年。体重105キロの小柄な力士が横綱に昇進した。
初代・若乃花。
熱のこもった取り組みから「土俵の鬼」と呼ばれた男である。

同時期に横綱であった栃錦といくつもの好勝負を演じたため
「栃若時代」という言葉もうまれた。

引退会見で「横綱の豪快な上手投げや呼び戻しが見られないのは
本当に寂しい」と言われて、こう答えた。

 『まぁそのうちにまた出てきますよ、そういう人が。』

30年後、甥っ子である貴花田が初優勝。
理事長としてトロフィーを渡すこととなった。
少し険しい顔をして涙をこらえていた土俵の鬼は、
土俵を降りてから静かに微笑んだ。

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村山覚 13年12月29日放送



鬼が笑った話 パガニーニ

クラシック音楽史に
燦然と名を残すヴァイオリニストといえば、
ニコロ・パガニーニ。

今からおよそ200年前に、
そのずば抜けた演奏技術はヨーロッパ中の話題となり
「ヴァイオリンの鬼神」「悪魔に魂を売り渡した男」
などと言われていた。

ある国で演奏した際、国王がアンコール演奏を求めた。
しかし『パガニーニは二度繰り返さない』と断ったという。
自分の演奏を唯一無二だと自負していたパガニーニは、
作品が楽譜として出版されることも拒否し続けた。

またある時、求婚してきた女性に対して
『私のヴァイオリンをいつでもただで聴くつもりだな?』
と言ったというエピソードも残っている。

こんな鬼のような男が、表舞台から姿を消した時期がある。
ギターを弾く女性と同棲をして4年ほど姿を消していたのだ。
パガニーニが作曲したヴァイオリンとギターのための
二重奏曲からは、愛に溢れた生活が想像できる。

ヴァイオリンの鬼も、
愛する女性の前では屈託なく笑っていたのだろうか。

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阿部広太郎 13年12月29日放送


BONGURI
鬼が笑った話 内海藤太郎

日本のフランス料理の礎を築いた、
料理人、内海藤太郎。

「厨房では鬼のように怖かった」
弟子たちはそう語る。
ミスをしたらビンタが飛び、
遅刻した者は外に放り出した。

帝国ホテルの総料理長もつとめた内海が、
海外から来た若い料理長の下につき、
周囲を驚かせた。

「日本の西洋料理は知り尽くしている
 新しい料理を知るためここに来た」

美味しい料理に出会う料理の鬼。
嬉しそうな笑顔が目に浮かぶ。

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阿部広太郎 13年12月29日放送



鬼が笑った話 三國連太郎

30代なかばで老け役を演じるため、
上下の歯10本を麻酔もかけず引き抜いた。
役作りのためなら手段を選ばない、
「演技の鬼」と言われた三國連太郎である。

ある時は、浮浪者の心理を探るために、
ボロボロの格好で街中のカップルを脅し、
逮捕されそうになったこともある。

硬派な演技派俳優として知られたため、
「釣りバカ日誌」の温厚でコミカルな社長役は、
当初、本人は不本意だったようだ。
「昔の義理で出演している」
インタビューなどでもしばしばそう語っていた。

人が役をつくるのか。役が人をつくるのか。
20年続いたシリーズ最終作『釣りバカ日誌20 ファイナル』の
記者会見で三國はこうスピーチしている。

「混迷の映画界の中で暗中模索した冒険のような作品。
 スタッフの作品作りに対する情熱は日本映画史に永遠に残る。
 僕にとって生涯の仕事だった。」

演技の鬼は
日本中から愛される「スーさん」として、
スクリーンの中で楽しそうに笑っていた。

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阿部広太郎 13年12月29日放送


もがみますみ
鬼が笑った話 戸山為夫

競馬はブラッドスポーツ。
血統という意味の通りサラブレッドは、
徹底的に追及された血の結晶である。

そんな競馬界の常識に挑んだのは、
「鍛えて最強馬をつくる」調教師、戸山為夫。

良血とはいえないミホノブルボンに対し、
大抵の馬が1、2本で音を上げる坂路コースを、
多い時には5本も走らせた。

「馬は勝たないと生き残れない。
 心を鬼にしてでも鍛えて勝たせるのが馬のためだ」

日本ダービーを圧勝し、
皐月賞との二冠を達成したミホノブルボン。
そこには調教の鬼の惜しみない笑顔があった。

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藤本宗将 13年12月29日放送



鬼が笑った話 馬場信春

戦国時代。
鬼と呼ばれた武将はたくさんいたが、
なかでも武田家に仕えた馬場信春は
70戦してかすり傷ひとつ負わず、不死身と恐れられた。

だが、鬼にも最期のときが来る。

長篠の戦いで孤軍奮闘するものの、味方は総崩れ。
時代の移ろいをどう感じたのだろうか。
部下に退却を告げた馬場は、
にっこり笑ったと記録に残されている。

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藤本宗将 13年12月29日放送



鬼が笑った話 土光敏夫

経営者としての手腕を買われて行政改革に取り組み、
「行革の鬼」と呼ばれた土光敏夫。
人並外れた行動力と猛烈なまでの働きぶりで、
日本の再建に奔走した。

そんな土光が、晩年に笑いながらこんなことを語ったという。

「もし、来世に天国と地獄があるとすれば、
 僕はためらいなく地獄行きを望むね。

 極楽はたしかに楽しいだろうが、
 そんなラクなところでのんびりするのは性に合わない。
 やっぱり地獄の、それも地獄の釜焚きでもして、
 その釜の底から日本の動きを監視していく――
 あの世に行っても、多分、そんなところでしょう」

彼の目に、いまの日本はどんなふうに映っているのだろう。

鬼に笑われないような、来年にしなければ。

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藤本宗将 13年11月30日放送



インナーワールド アドルフ・クスマウル

人の体内は、いちばん身近な未知の世界。
それを覗き見ることにはじめて成功したのは、
19世紀半ばのドイツの内科医、アドルフ・クスマウル。

人間の内蔵を見るには、手術しか方法がなかった時代。
なんとか切らずに見ることができないかと考えるうち、
クスマウルは口から長い筒を入れて胃の中を覗くことを思いついた。

しかし完成したのは現在の内視鏡とは違い、
まったく曲がらない金属製の筒。

そこでクスマウルが連れてきたのは、中国人の大道芸人。
剣を飲み込む要領でこの筒を飲ませようと考えたのだ。

芸は身を助けるというが、
この芸は医学の進歩を助けてくれた。

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藤本宗将 13年11月30日放送



インナーワールド アドルフ・クスマウル

人間の体の中を見たい。
その願いに光がさしたのは、1895年のこと。
しかもそれは医学ではなく、物理学の成果としてだった。
物理学者ヴィルヘルム・レントゲンが、
物体を通り抜ける奇妙な光を発見したのだ。

レントゲンは、
早速さまざまな写真をX線で撮影した。

そのうち妻の手を写した1枚がいまも残っている。
写真には骨がはっきりと浮かび上がり、
X線を通さない金の指輪だけが黒く映っていた。
これを見た彼女は、
「自分の死体を見た気分だわ!」と叫んだという。

だがX線写真は医学に応用され、
むしろ多くの人々を死から救うことになった。

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藤本宗将 13年11月30日放送



インナーワールド アドルフ・クスマウル

「胃の中を撮影するカメラをつくってほしい」

カメラメーカーの主任技師であった杉浦睦夫のもとに、
そんな奇妙な依頼が舞い込んだ。
依頼主は外科医・宇治達郎。
杉浦を出張先まで追いかけて熱心に説得したが、
多忙な彼からいい返事はもらえなかった。

しかし東京に戻る列車の中で運命は変わる。
その日に大型台風が関東を直撃。
一晩中閉じ込められて話し合ううち、議論が白熱。
ついにふたりは開発を決心する。

そして1950年、世界初の胃カメラが完成した。

異質なものがぶつかって、イノベーションは生まれる。
そのための密室を運命が用意したのかもしれない。

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