小山佳奈

小山佳奈 11年5月21日放送



湯川秀樹の衝撃

1949年。
あるニュースに
日本中が狂喜した。

日本人の物理学者が初めて
ノーベル賞を受賞したという。

敗戦ですべてを失ったこの国に
彗星のごとく現れたニューヒーロー。

彼のもとに押し掛けた
信じられない数の報道陣の中から
一人の記者がたずねた。

「賞金で何を買いますか」

彼はにやりと笑ってこういった。

「まずは子どもにグローブでも
 買うてやりましょうか」

湯川秀樹。

その軽妙な受け答えはまぎれもなく
ニューヒーローの誕生であった。



少年、湯川秀樹

物理学者、湯川秀樹の
少年時代はというと。

内気で無口で
友だちはほぼいない。
算数が得意で鉄棒が苦手。
納得がいかないと「言わん」と
押し黙ってしまうその頑固さから、
ついたあだ名は「イワンちゃん」。

ノーベル賞のような晴れ舞台など
クラスの誰も想像しなかった。

それから30年。

スウェーデンでの授賞式、
壇上に立ち流暢な英語でスピーチをする彼は
もう内気で無口な少年ではなかった。

ただどんなに結果が出なくても
あきらめなかった頑固さは
「イワンちゃん」のままだった。



湯川秀樹と家系

湯川秀樹が中学生の頃。

湯川の父は息子の進路について
悩んでいた。

一家は代々学者の家系。
子供たちも当然学者にするべく育ててきた。

しかしこの三男、秀樹に関しては、
成績もぱっとせず、記憶力もよくない。
いっそのこと専門学校にやり
手に職をつけさせた方が
子どものためなのではないか。

河原町通りを悶々と歩いていると
秀樹の中学校の校長にばったり出会う。
校長は即座に言った。

「あの少年ほどの才能は滅多にない。
 わたしの養子にしたいくらいだ」

そしてめでたく秀樹は学者の道を歩む。

そのとき父が校長に会わなければ
危うく自動車工になっていたかもしれない。



湯川秀樹と奥さん

湯川秀樹の妻、スミさん。
彼女は研究室の誰もが手を焼く気難しい夫を
いとも簡単にあやつる術を身につけている。

研究が上手くいかず
いらいらして帰ってきた時には
だまって熱燗をさしだす。

かと思えば
「日本人はノーベル賞をとれないんですかね」
と無邪気に言ってみせ、夫の尻をたたく。

夫の力学はどの方程式より
単純で明快だということを
スミさんは知っている。



湯川秀樹とノルマ

ノーベル賞を受賞するほどの研究といえば
幾十年もの苦難を想像するが
湯川秀樹の場合はそうではなかった。

彼が何年もかかずらっていたテーマは
あまりに壮大で難解であったため
研究は遅々として進まず
担当教授から「論文はまだかね」と
催促される日々。

研究員という職業柄、
とにかく何か書かなければ
お給料がもらえない。

焦った湯川秀樹は
とりあえず別のテーマで一本書き
当座をしのごうと考えた。

それがまんまと
当たった。

だから人生はおもしろい。



湯川秀樹と学者

学者とはロマンチストな生き物である。

湯川秀樹はこう言う。

「わたしは学者として生きている限り、
 見知らぬ土地の遍歴者であり、
 荒野の開拓者でありたい。」

知識や才能はもちろんだが
夢を見続けられるかどうかが
もっとも大切。

学者とはロマンチストな生き物である。



湯川秀樹の研究所

1953年。
湯川秀樹のノーベル賞を記念して
京都大学に「基礎物理学研究所」が
つくられた。

もともと湯川のためだけの研究所だったが
せっかくなら若い研究者たちが集える場所にしたいと
湯川は考えた。

学外でも国外でも
湯川の考え方と反する者も
構わず受け入れる。
大腸菌を飼い始める者でさえ
にこにこと見守っていた。

「好きにやったらええ」

彼は本当に学問を愛していた。
学問を愛する人間を愛していた。

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小山佳奈 11年4月24日放送


西岡常一 法隆寺

昭和9年。
老朽化が進む法隆寺の修繕が、
国家プロジェクトとして決まった。
失敗したら1300年の歴史が失われる。
その棟梁に選ばれたのは
27才の宮大工、
西岡常一であった。

常一はこの抜擢に緊張するどころか
心を踊らせる。

「飛鳥から今までの建築様式をすべて
 見られるチャンスだ」

法隆寺には
その時代ごとに修理を担当した
途方もない数の宮大工たちの魂が
込められている。

この大仕事を軽やかにやってのけた常一は、
その後、困難な寺院の修繕を数々成功させ
「最後の宮大工」と言われるようになる。


西岡常一 道具

昭和の日本の寺院建築を支えた
宮大工、西岡常一。

法隆寺には鬼がいる、と恐れられた彼は
道具に関しても徹底したこだわりを持っていた。

彼はノコギリを使わない。
やりがんなやちょうなといった、
そのお寺が建てられた当時と同じ
道具を使う。

「飛鳥の人たちはよく木を知っている。
 1300年前の飛鳥の大工の技術に
 私らは追いつけてないんです。」

鬼というあだ名に反して
微笑みはやさしい。

「みんな新しいことが
 正しいことだと信じていますが、
 古いことでもいいものはいいんです。」


西岡常一 木

昭和の日本の寺院建築を支え
最後の宮大工とよばれた、
西岡常一。

彼はつねに木と向かい合う。

くせのある木を進んで使う。
むやみに穴を開けない。
鉄の鉄を打ち込むなんて
もってのほか。

1300年前に建てられた
法隆寺に使われている木は
瓦を取ると何日かかけて
元の長さに戻っていくという。
それは木が、まだ生きているという、証拠。

「木を生かすには
 自然を生かさねばならず
 自然を生かすには
 自然の中で生きようとする人間の心が
 なくてはならない。」

彼が見ていたのはいつも
1300年先。


西岡常一 土

法隆寺をはじめ数々の寺院を修繕し、
最後の宮大工といわれた、
西岡常一。

宮大工の家系に生まれた彼は
小さな頃から英才教育を受けて育つ。

特に祖父は熱心で
小学校に上がる前から
常一に仕事を教え込み
宿題などするな、その時間があれば
鉋をかけろと教え込んだ。

そんな常一が高校に上がる際のこと。
彼は何の迷いもなく工業高校を選んだ。
それに対して、祖父の常吉は
なぜか大工仕事とは関係のない
農業高校をすすめる。

土などいじくっている暇はないという常一に
祖父は烈火のごとく、怒る。

「宮大工とは木だ。
 木を育てるのは土だ。
 土の気持ちがわからなくてどうする。」

そして彼は農業高校に進み
一から土と向かい合う。

よく言われることではあるけれど、
まわり道はまわり道ではない。


西岡常一

法隆寺の修繕を一手に引き受け
昭和最高の宮大工といわれた、
西岡常一。

彼はつねに困窮していた。

法隆寺の棟梁といっても
頻繁に仕事があるわけではない。
わずかばかりの田畑を耕し
それでも足りないときは
その田畑を売って家族を養った。

しかし彼はどんなに貧しくても
ふつうの住居の建築には手を出さなかった。

「宮大工は仏さんに入ってもらうから、 
 造ってなんぼというわけには
 いきませんのや。
 心に欲があってはならんのです。」

頑固すぎるほど頑固な姿勢が
西岡常一という男だ。


西岡常一

数々の寺院をよみがえらせ
日本最後の宮大工とよばれた西岡常一には
一人だけ弟子がいた。

師匠はとにかく何も教えてくれない。
鉋のかけ方も鉋くずを渡すだけ、
道具の手入れも毎日磨く背中を見せるだけ。

そうして育ったたった一人の弟子、
小川三夫さんはいま
斑鳩に宮大工の養成所をつくり
後継者を育てている。
そのやり方は師匠と同じ。
ただひたすら背中を見せ続ける。

「教えないから
 育つんですよ。」

斑鳩工舎とよばれるその学校から
巣立った若者たちは宮大工として
全国でその腕をふるっている。

常一のこころはいまも
生きている。


甲本ヒロト

「まあるい地球は誰のもの?
砕け散る波は誰のもの?
吹きつける風は誰のもの?
美しい朝は誰のもの?
 
チェルノブイリには Ah
チェルノブイリには Ah
チェルノブイリには行きたくねぇ」

1988年に発売された
ブルーハーツの「チェルノブイリ」。
所属していたレコード会社が許可せず
自主制作となったこの歌。

甲本ヒロトは
武道館の1万人の熱狂の前で
静かにこう言った。

「この意味をわからないひとは、
 自分で調べてほしい。
 そして、
 自分の意見を
持ってほしい。」

23年前のある夏の話。


とある科学者たちの話

アメリカとソ連が
宇宙ロケット開発に
しのぎを削っていた頃。

宇宙飛行士にかかる加速重力を
少しでも緩和するために
NASAがあるシートを開発した。

このシートの評判は上々。
何かほかの物に応用できないかと考えた
スウェーデンの科学者たちがいた。
しかしコストと複雑な工程が
容易にそれを許さない。

科学者たちは
それでもあきらめきれなかった。
試行錯誤を繰り返し、
20年以上の歳月をかけて
ようやく商品は完成した。

それが、
テンピュールという枕。

人がよく眠るために
自分の睡眠時間を削らなければならなかった

科学者たちに敬意をこめて。

おやすみなさい。
明日もいい日でありますように。

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小山佳奈 11年01月16日放送


カミュ

「今日、ママンが死んだ。」

有名な一節から始まるカミュの「異邦人」は
あるひとつの友情から生まれた。

カミュの友人、パスカル・ピア。
彼はこの原稿を一目でほれこみ
ありとあらゆる伝手を使って
出版社に売り込んだ。
フランスでダメなら
アメリカまで持っていった。

なぜこの無名な作家に
そこまで力を入れるのか。
ピアはこう答えた。

「僕は彼が大好きです」

その一言で、十分だった。


カミュ

貧しい家庭に育ち
将来は親戚の肉屋を継ぐはずだった
作家、アルベール・カミュ。

彼のただならぬ文才を見いだしたのは
小学校のジェルマン先生だった。

彼はカミュに文学の素晴らしさを教え、
根気づよく家族を説得し続けた。

それから30数年後の
ノーベル文学賞の受賞式で
壇上に立ったカミュのスピーチ。

「受賞の知らせを聞いて私は
 母のこと、それから、
 ジェルマン先生のことを思いました。
 いまでも私は先生に感謝する
 小さな生徒です。」

私たちも先生に感謝しなければならない。
今こうしてカミュの作品を読むことができるのだから。


カミュ

読み聞かせ、
という言葉がもてはやされているけれど。

20世紀初頭のアルジェリアの
貧しい家庭に生まれた少年には
読んでもらう本もなかった。

戦後史上最年少でノーベル賞を受賞した、
アルベール・カミュ。

彼の母は文字も読めず耳も聞こえない。
父は一歳のときに戦死していない。

身の周りには生活するのに最低限のものしかなく
本棚なんて学校に入るまで見たことがなかった。

それでもカミュは
作家になろうとし、成功をつかんだ。

 「意志もまたひとつの孤独である」

カミュのこの言葉に漂う悲しみは
彼の描く人間の悲しみでもある。


カミュ

作家、アルベール・カミュは、
おそらく文学史上もっとも
自信のない作家だった。

44歳という若さでノーベル賞を取りながら
死ぬまで自分の才能に自信が持てなかったカミュ。

俳優に転向しようと考えたり、
スター女優を愛人にして
なんとか箔をつけようとしたり。
「もう書けなくなりました」と
友人に泣きながら手紙を送ったり。

「書けなければ、私はせいぜい面白い傍観者だったにすぎない。
 書ければ、私は本当のクリエーターだったということだ。」

彼ほどの作家が自信を持てないとしたら
わたしたちはどうすればいいんだろう。


カミュ

作家、アルベール・カミュ。

彼はとにかく苦労人だ。
家が貧しかった彼は、
働きながら小説を書き続けた。

その職業も多岐にわたる。

自動車部品のセールスマンから
船舶仲買人、公務員、はては測候所員まで。

あるときの勤め先は、新聞社だった。

新聞社といっても
彼の担当は、割付けや校正といった
いわゆる技術職。
最後までその文才を職場の人に
見せることはなかった。

それから数年のち、
「異邦人」でカミュの名前が世間に知れ渡ったとき、
新聞社の人たちはみな腰を抜かした。

「あの影の薄い校正係が。」

人を驚かせることが
小説のあるひとつの役割だとしたら
カミュはまさにしてやったりだったろう。


カミュ

不条理をテーマにした「異邦人」で
戦後最年少でノーベル賞をとった
アルベール・カミュ。

彼はどんなにか才能はあったかもしれないが、
女性の眼から見ると問題は多い。

愛人が何人もいるのは当たり前。
ずっと好きだったフランシーヌが、
ようやくプロポーズを受けてくれたそばから
結婚なんて人生の終わりだと別の女性に泣きつく。
口癖は「君なしでは生きていけない」。

わかってはいるのに
好きにならずにいられない。

彼の気持ちは
彼の小説以上に
不条理だ。


カミュ

いまから51年前の1月。

作家、カミュは、
あっけなく死んだ。

友人が運転するクーペが
130キロで走行中にタイヤがパンクして
道路脇のプラタナスに激突。
助手席にいたと思われるカミュは即死だった。

死期を悟っていたのだろうか、
亡くなる直前
字の読めない母親に
手紙を送っている。

「あなたがその心と同じように
 若く、美しくありますように。」

読めない手紙を
母親は死ぬまで
大切に持ち続けた。


カミュ

作家、アルベール・カミュが亡くなって
50年後の2009年。

フランスのサルコジ大統領が
カミュのお墓をパリのパンテオンに
移すと言い出した。

パンテオンといえば
国家の英雄が眠る場所。

これに、フランス国民は激怒。
死ぬまで反体制を貫いたカミュを
政府の人気取りのために利用するなんて。

国中が感情的になる中
スピーケルという一人の研究者が
こう言った。

「私が口をはさめることではありません。 
 けれども彼ならば
 冷たい大理石よりも
 あたたかな日差しに包まれた
 故郷のラベンダー畑を好むでしょう。」

そしてカミュは無事
故郷のルールマランに
眠りつづけている。

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小山佳奈 10年11月20日放送


安部公房

1968年、
川端康成が日本人で初めて
ノーベル文学賞を受賞したその年。

パリのサンジェルマンデプレの一角に、
世界中の前衛作家の顔写真が張り巡らされる。

その中に、ただ一人、
日本人の顔があった。

安部公房。

奇想天外で難解なストーリーにも関わらず、
今なお世界中に熱狂的なファンを持つ。

安部公房はにこりともせずに言う。

「俺は世界的な前衛だからね」


安部公房

医学部出身の作家は案外多いが、
安部公房も、その一人。

しかしそもそも兵役逃れのために
医学部を選んだ彼にとって
医者になるための勉強なんかより
リルケやニーツェの方が
100倍重要だった。

何度も落第しようやく迎えた卒業試験では
妊娠期間を二年と答え教授を絶句させる。

「僕は医者になりません」

たぶん東大医学部史上初めてであろう
誓いを立ててようやく卒業を許された。

私たちは二重に感謝しなくてはならない。

一つは彼の文学を享受できたということ。
一つは彼の治療を受けずにすんだこと。


安部公房

たいていの作家は
売れない時代の苦労話の
一つや二つは持っているが、
安部公房の場合、ちょっと想像を絶する。

血を売ってパンを買う。
住んでいたバラックは隙間だらけで、
冬には粉雪が布団に降り積もる。

挙句の果てに
芥川賞で賞牌の時計をもらうやいなや
すぐさま質屋に走った。

売れてからは高級外車に乗り、
高級ホテルを定宿とした。

それもまた、いい話。


安部公房

文学界の鬼才、安部公房も、
焦っていた

それなりに本は出しているが
それなりにしか売れない。
27歳で芥川賞を取った彼も、
いつの間にか36歳になっていた。

急きたてられるように
軽井沢に別荘を借りる。

しかしその別荘は、
別荘とは名ばかりの
ただの牧場の休憩小屋。

電気もない。水道もない。
もちろんテレビもラジオも新聞もない。
外の世界から完全に遮断された世界。

そんな
極限から生まれたのが
「砂の女」だった。

焦ることも時には大切。
焦らなければ先は見えない。


安部公房

安部公房は、人に厳しい。

井上靖、井伏鱒二
巨匠と呼ばれる作家も彼の手にかかると
「まがいもの」と呼ばれてしまう。

初めて三島由起夫に会ったときも
「こういう小説は可能性がない」と
取りつく島もない。

しかしその後二人は
たびたび飲み屋に繰り出しては
文学について語り合うようになる。

「僕にとって三島由紀夫は得がたい相手だった。
 社交や妥協がいらない人物だった。」

安部公房は、人に厳しい。
その分、人への愛も深い。


ビートルズ

「いまの僕たちはキリストより人気がある。」

当時人気の絶頂だった
ジョン・レノンが雑誌の取材で言い放った言葉は
ローマ法王と世界中のクリスチャンの怒りを買った。

それから44年たった今年。
ローマ法王はジョンとビートルズを許すことを発表した。

「彼らの歌を聞いていると
昔のすべてのことが遠く無意味に思えてくる」

それが、音楽の力だ。


ビートルズ

ポール・マッカートニーは言う。
「結婚生活はやっぱりロマンティックでいいものだね。」

ジョン・レノンは言う。
「結婚など時代遅れの形式だと思う。」

ジョージ・ハリスンは言う。
「僕たちは成功にも名誉にも惑わされない。」

ジョン・レノンは言う。
「人間は誰でも一生をかけて大成功を夢見てるのさ。」

ビートルズはどこまでもバラバラだった。
それでも彼らは音楽でつながっていた。

ジョン・レノンは言う。
「話し合いはコミュニケーションの最も遅い手段だ。
音楽の方がずっといい。」

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小山佳奈 10年10月24日放送



「ビート・ジェネレーションの肖像」

ジャック・ケルアック、
アレン・ギンズバーグ、
ウィリアム・バロウズ。

1944年.ニューヨーク118丁目のアパートメントに
集まった若者たちがいた。
彼らはみんな未来に対する前向きな姿勢を失っていた。

華やかなアールデコの時代から
ウォール街の大暴落、
それに続いて起こった世界恐慌。
大人たちによって引き起こされた転落は
社会に対する不信感となってあらわれたのだ。

彼らは社会ではなく自分自身に興味を持った。

後に彼らは
「ビート・ジェネレーション」と呼ばれ
世界中の若者たちに
熱狂的に迎えられる詩や小説をかきはじめる。



「ビート・ジェネレーションの肖像」

「路上」というたった一冊の本で、
20世紀のアメリカの若者に神とあがめられた作家、
ジャック・ケルアック。

彼の夢はそもそもフットボールの選手だった。
しかし鳴り物入りで入ったコロンビア大学で、
コーチと大げんか。

鬱屈した想いでニューヨークを歩きまわると
そこは生まれ育った田舎町では見たことのない
まぶしさに溢れていた。

酒と、女と、ドラッグ、そして、
そのどれよりも刺激的な友人たち。

彼はあっさりドロップアウトし
狂ったように小説を書き始めた。

もしも彼がその時、コーチに気に入られていたら、
ヒッピーもロックも生まれていなかっただろう。

運命は、だいたい、ちょっとしたことで決まる。



「ビート・ジェネレーションの肖像」

孤高の詩人、アレン・ギンズバーグ。

1950年代のアメリカを席巻した
ビート・ジェネレーションの中で
いち早く売れたのが彼だった。

彼は同性愛者で、
同じくビート世代の作家、
ケルアックに一目ぼれ。

自由なケルアックに振り回されながらも
彼を出版社にせっせと売り込み続け、
それがケルアックの成功につながる。

それは「ケルアック」という名の
ギンズバーグ最高の作品だった。



「ビート・ジェネレーションの肖像」

作家、ウィリアム・バロウズ。

妻を間違えて射殺してしまったり、
幻のドラッグを求めてチベットまで旅をしたり
逸話には事欠かない戦後文学の奇才。

彼は博学だったし頭もよかったけれど、
作家になりたいなんて
これっぽっちも思っていなかった。

そんなバロウズの才能を
誰よりも惜しんでいたのは
親友のケルアックだった。

彼はバロウズが床に書き散らした文章を
拾い集めてタイピングしタイトルまでつけて
本に仕立て上げた。

友情。

陳腐な言葉だが、
誰かに対する使命感と翻訳すればうなづける。



「ビート・ジェネレーションの肖像」

かのカート・コバーンが憧れ、
今なおアメリカの若者のカルト・ヒーローで
ありつづける男。

ニール・キャサディ。

彼自身が書いたものは一篇もない。
だが彼の無軌道な生き方に、
ビート・ジェネレーションの仲間たちは
憧れ、嫉妬した。

ガムのようにたやすく車を盗んだかと思えば
ショーペンハウアーを諳んじ女をくどくニール。

それは小説のヒーローとして申し分のない素材で
ケルアックは彼との旅を一冊の本に記した。

それが「路上」
無軌道なヒーローに世界中の若者は酔い
ケルアックはスター作家になった。

そんな成功とはまるで無関心に
ニールはあっけなく死んだ。
メキシコの道の上で裸で倒れていた。

まさに「路上/オン・ザ・ロード」

ニール・キャサディは自分自身が作品だったのだ。



「ビート・ジェネレーションの肖像」

若さとは実験である。

作家、ジャック・ケルアックは、
タイプライターの紙を交換する手間が
どうにも許せなかった。

浮かんだ言葉がその瞬間に
逃げていくからだ。

かくして彼は、
トレーシングペーパーを何百枚もつなぎ
40メートルもの巻物を作った。

ケルアックは
わずか20日で17万5千字の小説を書き上げたけれど
そんな面倒くさい巻物を読む出版社はどこにもなかった。

2001年、その巻物にタイピングされた
「オン・ザ・ロード」の原稿には
240万ドルの値段がつけられている。



「ビート・ジェネレーションの肖像」

作家にとって
世に出ないことは
存在しないも同然である。

作家、ジャック・ケルアックは
ほぼ10年間、
無名であった。

先の見えない毎日の中
彼がそれでも書き続けられたのは
友人たちのおかげだった。

ギンズバーグはダリや知識人と引き合わせ、
バロウズは乞食同然の彼に
執筆できる部屋とタイプライターを用意した。

ケルアックは
世界で一番幸せな無名作家だった。



「ビート・ジェネレーションの肖像」

1967年、
ビートの作家、ジャック・ケルアックは
アルコールの過剰摂取で死んだ。

若者のカリスマとまつりあげられた彼も
晩年は忘れ去られた存在になっていた。

しかし葬式当日。
町の人は異様な光景を目にする。

何百人という若者が全米中から集まり
献花の列をなした。

それから半世紀。

ビートルズ、
ボブ・ディラン、
コッポラ。

みんなみんな、
ビートに憧れて育った。

ケルアックは言う。

「若者よ、狂え。」

Jack Kerouac by photographer Tom Palumbo from New York, NY, USA

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小山佳奈 10年09月05日放送



「フランツ・カフカの日常」

朝8時に役所に行き、
午後2時まで働く。
午後3時に家族と昼食をとり、
仮眠をし、散歩をし、夕食をとった後は、
夜10時半から午前5時まで執筆。

これが、
20世紀最高の作家、
フランツ・カフカの
すべてであった。

独身で
役所勤めで、
実家暮らし。

おそろしく規則正しく
おそろしく不規則な生活。

そこから彼は
おそろしく奇妙な作品を
次々と生みだした。



「公務員 フランツ・カフカ」

カフカは優秀な
公務員であった。

「労働者傷害保険協会」という
聞くからにまじめそうな役所に
勤めていたカフカは
それにも負けないまじめな仕事ぶりで
上司からの信頼も厚かった。

何よりも頼りにされたのが
文書の類だった。

友人たちが文壇で活躍する中、
彼は黙々と
協会の年次報告書や
保険に関する論文といったものを
書き続けた。

カフカはあくまで
優秀な公務員であった。



「フランツ・カフカの奇妙な行動」

フランツ・カフカは
数多くの芸術家と同じように
生きている間はほぼ無名であった。

生涯で出版した本は全部で7冊。
それもごく少ない部数しか刷られず
一般の人にはなかなか目につかなかった。

であるのに、カフカはなぜか
せっかく書店に並んでいる本を
ことごとく買い占めた。

売れ残っているのが恥ずかしいのではない。
自分の作品が人の目に触れることを
極度に嫌がったのだ。

そんなカフカは死ぬ間際、
親友のブロートに切願した。


 すべての手紙と作品は破棄するように。

ブロートは深くうなずきながら、死後、
彼の作品を次々と世に送り出した。

私たちは
親友の大いなる裏切りに
感謝しなければならない。



「フランツ・カフカ少年」

14歳のフランツ・カフカが
友人の家に遊びに行った時の話。

「作家になりたい」と口にしたカフカを
その友人の兄が笑った。

それに対してカチンときたカフカは
帰り際、その家の訪問帳にこう書いた。


 出会いがあり、交わりがある。
 別れがあって、そしてしばしば再会はない。

残された中でおそらく
人生最初の作品において
その類まれなる文才と皮肉は
すでに完成されていた。



「フランツ・カフカと女」

カフカはめんどくさい男だ。

フェリーツェという女性と
二度、婚約して、
二度、破棄した。

500通と言う尋常ではない数の手紙を送っては
返事がないと不満をもらす。

彼女がカフカに魅かれ始め
実際に会いたいと言った途端に
さまざまな理由をつけて逃げ回る。

挙句の果てに
仲介役に入った彼女の友人と
こっそり文通を始める。

カフカは本当に
めんどくさい男だ。

そんなめんどくさい男を
好きになってしまうのが、
女という生き物。

その証拠に、フェリーツェは
カフカからの手紙を
生涯、捨てることはなかった。



「フランツ・カフカの発明」

フランツ・カフカ。

作家であり公務員でもあった
彼の仕事は、
工場で事故にあった労働者に
ちゃんと保険が支払われているかを
監督することだった。

現場へ視察に行くと心配性の彼は必ず
「安全ヘルメット」をかぶった。
それを見た工員たちが
ヘルメットを着用するようになると
工場では事故が大幅に減った。
そこから「安全ヘルメット」が
世界中に普及したのだ、とか。

工事現場を見かけたら
カフカをちょっと思い出そう。



「フランツ・カフカと南京虫」

今やらなくてはならないことがあるときほど、
今やらなくていいことがはかどる。

フランツ・カフカは
5年の間、長編小説に
かかずらっていた。

逃げたい一心で書きだした
とある短編は
その短さも手伝って
一気に書き上がった。

それが後に
カフカの名を不朽のものにした
「変身」。

ちなみにこの「変身」、
当初は「南京虫物語」という
タイトルだったという。



「フランツ・カフカの最期」

1924年、
カフカは死んだ。
結核だった。

激しい痛みの中でも
彼は書くことをやめなかった。

最後の作品は「断食芸人」。
自ら食べることを拒む男の話を
食べることを拒まれた作家は
震える手で書きあげた。


 ぼくの書くものに
 価値がないとしたら、
 それはつまり、
 この自分がまるで
 無価値だということだ。

フランツ・カフカは
やはり作家だ。
やさしくて孤独な
世界最高の作家だ。

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小山佳奈 10年08月14日放送


アイザック・ニュートン

天才とは集中力だと思う。

かのニュートンも、
ひとたび研究に没頭すると
部屋に閉じこもったきり
食事もろくに取らなかったという。

秘書は自分の務めた5年間で
ニュートンが笑うのを
一度しか見たことがなかった。

その一回は
誰かがこう尋ねたときだった。

「ユークリッドの幾何学なんて
何の役に立つんだ。」

ニュートンは、何も言わずに
ニヤリとほくそ笑んだ。

いまでも数学は
この世界を書き記すたったひとつの方法である。


ウィリアム・ハミルトン

数学者とは執着だと思う。

アイルランドの生んだ天才数学者、
ウィリアム・ハミルトン。

彼はその生涯を、
数学と、ある一人の女性に捧げた。

19歳で恋に落ち、
彼女が他の男性に嫁いでもなお
手紙を送り、詩を贈った。

彼女が死の床についたとき
ハミルトンは30年ぶりに会いにいく。

「憶えているでしょうか
ずっと昔のあのできごとを。
忘れられない思い出が
今もあるかと知りたくて。」

ハミルトンはこの執着で数学に挑み
そして数学は彼を受け入れ、名声を与えた。


堀田瑞松

1885年8月14日、
日本で初めての特許が認められた。
第一号の商品は「サビ止め」。

富国強兵真っただ中、造船に励む日本。
しかし鉄で出来た船はすぐ船底が錆びてしまい
6ヶ月ごとに塗装をしなおさなければならない。
これは世界中の船に共通する悩みだった。

そんな中、
船底のサビを止める方法を思いついたのは
学者でも技術者でもなく
工芸家、堀田瑞松(ずいしょう)だった。

刀の鞘塗りの家に生まれ、
漆の扱いには慣れていた瑞松。
なんと、
漆に生姜と渋柿を混ぜるという
斬新な手法でサビ止めを作り上げた。

日本の伝統工芸を担う人は
実は最先端の科学者だったのだ。


山口冨士夫

ロックというものがまだ
危険な存在でしかなかった時代。
一つのバンドが
怠惰な時代の流れにくすぶる
若者の狂気を集めた。

村八分。

名前からして穏やかならないそのバンドは、
ストーンズ顔負けの轟音ギターと
京都弁まるだしの生々しい歌詞で
「伝説」の名を欲しいままにした。

ギターの山口冨士夫は言う。

「ロックは音楽じゃない
 ロックは生き方の話なんだ」

ロックフェスという名のお祭りが
夏を彩るようになって10年。

色とりどりのタオルを首に巻いた若者たちが
楽しそうに歌い、踊る。

どこまでも平和な近ごろのロックを
少しだけ物足りなく思うのは
青すぎる空のせいだけではないはずだ。


ジョン・S・ペンバートン

8月のコーラには
魔物が住んでいる。
子どもの頃は、そう信じていた。

コカ・コーラの創業者、
ジョン・S・ペンバートン。

彼がコカ・コーラを発明した時に
特許を取らなかったのは有名な話。

特許を取るためには材料と製法を
公開しなければならない。

そんな危険を冒さなくても
誰にもこの味は真似できないという
確信がペンバートンにはあった。

その通り。

120年たった今でも
その魔物は魔物のまま、
8月の少年少女の喉元を
つかんで離さない。


ジョージ・ソロス

“ウォール街の投機王。”
“ポンドの空売りでイングランド銀行を破産させた男。”

ハンガリーに生まれ、
その類まれな金融センスで
史上最高額の利益を叩きだしたジョージ・ソロスの言葉がある。

「仮説が利益を生む。
 しかし、仮説に欠点を認めると
私はほっとする」

なるほど。

人生は、大胆と無謀を
はきちがえちゃいけない。
常にリスクを意識すべし。


ビスマルク

この国のリーダーたちを見ると
強いリーダーというものを
考えてみたくもなる。

オットー・フォン・ビスマルク。

ドイツ帝国初代宰相。
またの名を「鉄血宰相」。
ニックネームがすでに強い。

卓越した外交手腕と冷静な判断力で
バラバラだったドイツをひとつにし
果てはヨーロッパをもまとめ上げた。

しかし死ぬ間際、最後に遺した言葉は
政治とは関係のない、妻への想いだった。

「愛するヨハナにまた会えますように」

本当のリーダーとは
こういう人なのかもしれない。

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小山佳奈 10年07月24日放送


芥川龍之介 才能

大きな鼻に悩むお坊さんの話とか、
芋粥をいつもの量の3分の2しか
食べられなかったお役人の話とか。

芥川龍之介が取り上げるテーマと言ったら
どうでもいいことばかり。

同人たちもいぶかしむ
芥川龍之介の才能を見つけたのは
文壇の神様、夏目漱石だった。

「みんなの言うことには頓着せず
ずんずんお進みなさい。
大丈夫。
外れたら僕があやまります。」

神様の通行証をもらった芥川は
作家の道を軽やかに歩き始めた。


芥川龍之介 初めての原稿料

初めての給料は
誰にとっても感慨深い。

大作家、芥川龍之介だって
それは例外ではない。

初めて文章でお金をもらったのは
芥川、25歳のとき。

原稿料が届く日の朝、
はやる気持ちを抑えきれず
友人と玄関の前で待ち構えていた。

「1枚1円なら12枚で12円だ。」
「いやいや18円はあるだろう。」
「じゃあ8円おごれよ。」

届いた振替用紙を開けると
そこに書かれていたのは
「3円60銭」。

友人は何も言わずに
芥川の肩を叩いた。


芥川龍之介 イメージ

芥川龍之介は、気を遣う。

腰は低いし、手紙はマメに書くし
訪ねて来た人にはいちいち食事をふるまう。

彼が企画した本が売れなかったときも
その本に参加した120人の作家たちに
自分のお財布から三越の商品券を配った。

そこには冷やかで懐疑的な
孤高の天才のイメージはどこにもない。

寂しがり屋で、やさしくて。
人間、芥川龍之介がそこにはいる。


芥川龍之介 塚本文

バルタザールもイエーツも
文ちゃんは知らなかった。

でも芥川龍之介にとっては、
彼に熱狂する文学かぶれのめんどくさい女子なんかより
文ちゃんと一緒にいた方がよほど安らいだ。

芥川が文ちゃんに送ったプロポーズの手紙は
簡潔で素直で美しい。

「僕のやっている商売は
 日本で一番金にならない商売です。
 うちには年寄りが3人います。
 
 理由はひとつしかありません。
 僕は、文ちゃんが好きです。
 それだけでよければ来てください。」
 
そんな熱い想いで結婚したはずなのに
その後、文ちゃんじゃ物足りなくなって
文学少女を好きになってしまう芥川。

仕方ないですね、
男というものは。


芥川龍之介 子供

芥川龍之介には、
3人の子供がいる。

彼らの名前はみな、
親友からもらった。

長男、比呂志は、菊池寛。
次男、多加志は、小穴隆一。
三男、也寸志は、恒藤恭。

「芸術家だけにはするな」

それが芥川家の唯一の教育方針。
しかし、子どもたちはそれを無視して
音楽家となり、役者となった。

子どもという作品だけは
思うようにいかない。


芥川龍之介 嫉妬

芥川龍之介は、嫉妬する。
志賀直哉という人物と
彼の書く天衣無縫な作品に
憧れ、脅威した。

芥川は志賀にある時こう言った。

「芸術というものが
本当にわかっていないんです」

芸術に終わりはない。
自分で自分を終わりにしない限り。


芥川龍之介 最期の言葉

83年前の今日、
芥川龍之介は自殺した。

彼が最期に遺したと言われる言葉は
あまりにも有名だ。

「将来に対する漠然とした不安」。

でも実は漠然となんかじゃない
もっとたしかな不安がたくさんあった。

親友の発狂。義兄の自殺。
借金。家族内の不和。
そして、文壇のやっかみ。

そんな現実的な数々に体の不調も重なって
彼はやっぱり死ぬしかないなと思った。
そうして彼は睡眠薬をたくさん飲んだ。

亡くなった夫を最期に送り出す時
妻の文ちゃんはこういった。

「お父さん、よかったですね。」

文ちゃんだけは
何もかもわかっていた。

今日は、河童忌。

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小山佳奈 10年06月12日放送


詩人 立原道造

詩人、立原道造。

たった24年と8カ月の人生に
紡ぎ出された彼の詩は
どこまでも青く甘く切ない。

「裸の小鳥と月あかり
 郵便切手とうろこ雲
 引き出しの中にかたつむり
 影の上にはふうりんそう

 僕は ひとりで
 夜は ひろがる」


立原道造 親友の妹

恋は人を詩人にするとはよく言うけれど
立原道造ははじめての恋がきっかけで
そのまま、本物の詩人になってしまった。

立原道造が初めて恋をしたのは14歳のとき。
相手は親友の妹で
人一倍おくての立原は
あふれる思いを歌に託した。

「片恋は 夜明淋しき
 夢に見し 久子の面影
 頭にさやか」

彼女を想う詩が山と積もる頃、
少年の恋は静かに終わり
詩人としての人生が始まった。


立原道造 正門前

東大の建築科に通う学生になった立原道造は
ある日、大学の正門前で
太宰治にばったり会った。

「浅草にでも行かないか」と誘う太宰。
太宰の目当てはもちろん遊郭。

そんな目的を知ってか知らずか
立原は恥ずかしそうに顔を赤らめ
設計図を引くための大きな三角定規を片手に
そそくさとその場を立ち去る。

どこまでもきまじめな、立原。
すでに無頼を地でいく、太宰。

昭和十年。
まだ日本が戦争へと駆け出す前の
文学者たちの青春がそこにある。


立原道造 アサイさん

詩人であり建築家でもあった
立原道造。

大学を出て
建築事務所に勤め始めた彼は
そこで19歳のタイピスト、
水戸部アサイと出会う。

二人の恋はどちらかといえば
消極的なものだった。

デートといえば
なぜか同期の武(たけ)さんが
いつもついてくる。
難しい文学論や自作の詩を
延々と語り続ける立原を
アサイは黙って聞いている。

ただの一度も「愛してる」とは言わなかった。
ただの一度も「愛してる?」とは聞かなかった。

病に蝕まれていく体が告げる
そう長くない将来。
言葉にすることの重さを
詩人は誰よりも知っていた。


立原道造 光

出征する兵士たちを
戦地へ見送る万歳三唱がこだまする
昭和13年の暮れ。
立原道造はすでに結核におかされていた。

絶望と病苦の中で、
立原道造は長崎に旅に出る。

「しづかな、平和な、光にみちた生活!
そのとき僕が文学者として
通用しなくなるのなら
むしろその方をねがう。」

芥川も、中也も、
みんないなくなってしまったけれど、
夭折の詩人、なんて死んだ後に称賛されるより、
たとえ詩が書けなくなっても
いま生きてることの方が素晴らしい。

立原はただ生きたかった。
生きてやりたいことが
もっともっとあった。


立原道造 遺言

昭和14年、3月。
詩人、立原道造は、
結核の療養所にいた。

食欲はとうになかったけれど
見舞いに来た友人たちに
何が食べたい?
と聞かれた立原はこう答えた。

「五月のそよ風をゼリーにして
 持って来てください。」

それは
中原中也賞を受賞したばかりの
24歳の詩人の最後の言葉として
伝えられている。


立原道造 「思い出」  

立原道造が亡くなって70年。

初めての恋人であり
最後の恋人であったアサイさんは
いま長崎に住んでいる。

そこは
立原が死の病をおして
たどり着いた最後の場所。

当時のことはよく覚えていないんだけど、
と笑うアサイさん。

ツイードのジャケットに白いシャツ、
すらりと伸びた長い指と物憂げな表情。

アサイさんの手には今でも
立原から送られた15通の手紙が
そっと握られている。

「夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と」

ふたりは結婚することはなかったけれど
立原道造のそばには最後までアサイさんがいた。

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小山佳奈 10年04月17日放送

01-sayoko

山口小夜子

1972年。
切れ長の目におかっぱ頭で
パリのランウェイを颯爽と歩く
一人の日本人女性がいた。

彼女の名は、山口小夜子。

「ニューズウィーク」で
世界のトップモデル6人に選ばれ
小夜子のマネキンがロンドンの
ショーウィンドーを飾った。

しかし
彼女は言う。

「本当にやりたいことが
できるようになったのは
 50を過ぎてからよ」

人生の濃度は
名声とも年齢とも
関係ない。

02-niel

ニール・ヤング

001年9月11日。

世界を揺るがせたあの事件の直後
アメリカの大手ラジオ局が
放送自粛の曲目リストをつくった。

その中にはジョン・レノンの
「イマジン」も入っていた。

ほどなくして放送された
犠牲者追悼のチャリティー番組。
おもむろに登場した二―ルヤングは
一分の迷いもなくイマジンを歌った。

「想像してごらん 
 国や宗教が存在しない世界を」

世界中の戦闘機が
パトリオットミサイルの代わりに
このメロディーを積んでくれたなら。

03-aku

阿久悠

作詞家、阿久悠について。

生涯で5000曲以上も書いた
怪物作詞家の別名は
「アナログの鬼」。

パソコンなんて無粋なものは使わない。
原稿用紙に100円のフェルトペンで
キュッキュッと小気味よい音を立てながら
一気に書きあげる。

「原稿は縦書きですから
読んでいる人は自然に頷くんです。」

たしかに彼の歌には
意味もなく頷いてしまう
強さがある。

「人間の心はアナログですから。」

04-buddy

バディ・ホリー

何ごとにもはじまりがあるように、
ロックにだってはじまりがある。

ロックの父といえば、
バディ・ホリー。

ボブ・ディランがギターをにぎったのも
ジョン・レノンが眼鏡をかけたのも
キース・リチャーズは3コードをおぼえたのも
みんなバディ・ホリーになりたかったから。

ありがとう。

あなたがいなかったら
世界はなんとつまらなかったんだろう。

05-atsumi

渥美清

風天の寅さんこと、渥美清。
彼の本名は田所康雄という。

素顔の田所は風天どころか
よく本を読み、よく映画を観る勉強家。
何事にも緻密な計算を立てる
完璧主義者だった。

私生活は一切みせず
家族も家から出さなかった。

車寅次郎を知らない人はいない。
渥美清を知らない人はいない。
田所康雄を知る人はほぼ、いない。

だから寅さんは
あんなに朗らかで
少し寂しい。

桜を見ると
江戸川堤にたたずむ
寅さんの横顔を思い出す。

06-bolan

マーク・ボラン

TREXのマーク・ボラン。
彼は若いころオカルトに凝っていて
魔女と同棲をしていたという噂もあった。

魔女はひとつ予言をした。
「あなたは大成功をおさめるが
 30になる前に血まみれになって死ぬ。」

マーク・ボランはその言葉どおり
30歳になる2週間前に
交通事故で亡くなってしまった。

おぼろにかすむ春の宵は
おぼろな話が気にかかります。

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