フランスの詩人、ルイ・アラゴンは言った。
教えるとは希望を語ること
学ぶとは真実を胸に刻むこと
大人が希望を語りつづければ、
子どもたちの希望は育つ。
大人が真実にもとづいて行動すれば
子どもたちは真実を胸に刻める。
未来に希望を連鎖していく、
そんなひとりになりたいと思う。
フランスの詩人、ルイ・アラゴンは言った。
教えるとは希望を語ること
学ぶとは真実を胸に刻むこと
大人が希望を語りつづければ、
子どもたちの希望は育つ。
大人が真実にもとづいて行動すれば
子どもたちは真実を胸に刻める。
未来に希望を連鎖していく、
そんなひとりになりたいと思う。
日本でいちばん多く母の詩を書いた詩人サトウハチロー。
3000に及ぶそのなかにこんな詩がある。
きょうも一日、いやなことがなかったと
日めくりのカレンダーに
おじぎをしてしずかにはぎとった母。
その姿とはぎとる音がいまでも目に見え
耳の奥に浮かぶのです。
わたしが日めくりカレンダーが好きなわけは これなのです。
仏教の考えかたに
あるがままの暮らしを静かに受入れる、
幸せを外の世界に求めず、みずからの内に求める、というのがあるが
サトウハチローの詩にうたわれた母は
意識もせずにそれを実践している。
おかあさんは、やっぱりすごい。
おかあさんは、やっぱりえらい。
勉強が苦手だった少女は、
働けば学校に行かなくていいと考え
児童劇団に入ることにした。
これが、吉永小百合・松原智恵子とともに
日活三人娘と呼ばれた女優、和泉雅子のはじまりだ。
歌も演技も下手だったが、
顔がきれいだからという理由で採用され、そして売れた。
人気がでると今度は自由がなくなった。
どこへ行くのにも母親か付き人が着いてくる。
20代になってもデートをしたこともなければ、
女友だちと会うことすら難しかった。
あるときテレビ番組のレポーターとして南極に行き、
大自然の広大さと自由の魅力にとりつかれた。
初めて自ら何かを望み、成し遂げたいと思ったのが、
北極点到達だった。
女性冒険家・和泉雅子が生まれた瞬間だった。
日本人女性初の北極点到達を成し遂げ、
今も毎年のように北極への旅を続けている。
マイナス40度の寒さに耐えるために脂肪を蓄えている彼女の容貌は
女優時代とはだいぶ異なるが、
和泉雅子はいつも笑顔でこう語る。
昔はキレイだったと言う人もいるけれど、
私は今の方がいい顔をしていると思うの。
寒いです。とても寒いです・・・
その冒険家は、よく泣き。よく弱音をはいた。
登山家・栗城史多(くりきのぶかず)。
登山をはじめたきっかけは、失恋だった。
高卒でフリーターの栗城から彼女は去った。
彼女が求めていたのは、「大卒、公務員、車持ち」そんな男だった。
彼女の気持ちがわからなかった。そのショックから、
彼女の趣味だった登山をはじめる。
そのとき20歳。寒いし、辛いし最初は冬山が嫌いだった。
けれど、1週間ほどかけて冬山を先輩と登ったとき。
その背中を泣きそうな思いで追いながら
不可能を超えていく自分に
気づいた。
それから栗城は小型カメラを背負い
インターネット中継しながらエベレストなど世界の山々に挑みはじめた。
そこにいる栗城は、冒険家というより、ひとりの素直な若者だった。
多く同世代がリアルタイムで応援の言葉を返した。
栗城は言う。
悔しかったら悔しがるし、泣いて弱音を吐いてもいい。
それが頑張る力になるから。
地図のない時代。
ミクロネシアの人々は星の位置を頼りに
数千キロの海を渡った。
その航海術の後継者、マウ・ピアイルグ。
勇猛という名をもつこの老人に憧れ、
ある日本人が、突然会いにきた。
冒険家の石川直樹。
当時21歳の石川にマウは星を覚えろと言った。
そして一緒に海へでた。
4日の予定だった航海は6日を過ぎ、飲み水はつきた。
それでもマウは動じない。
星を見つめ、波や風を全身で受け止めながら指示を下した。
そして9日目、波の向こうに島が見えた。
マウは別れ際に石川に言った。
心の中に星が見えるか?
心のなかに星が見えたら
自分の位置を見失うことはない。
それは冒険家にとっていちばん大切な教養かもしれない。
3月19日と20日もVisionはお休みです。
3月19日佐藤理人、3月20日薄組でした。
なお、J-waveでは被災地のための救援物資を
受け付けています。
詳細はこちらをご覧ください。
女であり妻であり母であり、
勤め人であり土を耕す人でもあった詩人、永瀬清子。
彼女は
心の底を隠したがる人間には詩は書けない、と言い
生涯、自分と向き合い続け、学び続けた。
晩年の学びを、彼女はこう語った。
人々のさまざまな忠告は、
常に私自身の発見と事実とに反していることが多い。
たとえば「安静に」「脂肪をとるな」「塩をとるな」「働くな」。
私自身の生命はつねに私に教えてくれる。
「悩め」「力をつくせ」「戦え」「一歩出ろ」。
戦争の真っただ中で、少女は疑問を抱いていた。
美しいものを楽しむことが、なぜ悪いことなのだろうか。
一億玉砕で死ぬことが、なぜ良いことなのだろうか。
もちろん、そんなことは誰にも言えなかった。
戦争が終わり、大人になって、
あの頃の疑問は正しかったということに気づいた。
同時に、人から思想を植えつけられた自分に腹が立った。
少女の名は、茨木のり子。
自分の言葉に対して潔いほどまっすぐな詩人になった。
後に発表した詩は、こんな一節で締めくくられている。
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
銀行員詩人と呼ばれた石垣りんは
昭和9年、満14歳で銀行に就職し
家族の生活を支えながら定年まで働いた。
幼いころに母と死に別れ、
ふたりめの母も若くして亡くなり、
18歳までに4人の母を持った。
戦争が終わり、30歳を迎えた石垣りんは、
臨終の床にある祖父と、こんな会話をした。
「私は、ひとりでもやっていけるかな?」
「やっていけるよ。」
「私のところで人間やめてもいい?」
「いいよ。人間、そんなに幸せなものじゃないから。」
こうして、彼女は生涯、
妻にも母にもならない道を選んだ。
しかし、そんな彼女の書く詩には
人間の生活への深い思いが溢れている。
銀行員詩人石垣りんの別名は、生活詩人。
その名言集にはこんなことばもある。
齢三十とあれば
くるしみも三十
かなしみも三十
柴田トヨさんが詩を書きはじめたのは、
90歳を超えてから。
趣味の日本舞踊が踊れなくなり、
新聞の詩の投稿欄に応募したのがはじまりだった。
その詩は、たちまち読者をひきつけ、
処女作品集はベストセラーとなる。
98歳でも
恋はするのよ
夢だってみるわ
雲にだって乗りたいわ
もうすぐ100歳になるトヨさんの中には
永遠の少女が生きている。
長野県松本市の裕福な家庭に生まれた少女は
小さなころから、幻聴や幻覚に悩まされていた。
その異常な日常を受け入れるためだろうか。
彼女は自分に見えている世界を鉛筆や絵の具で書きとめはじめた。
アーティスト、草間彌生。
10歳の時に描いた母の肖像画には顔の上に
着物の上に無数の水玉が描かれていた。
草間は60年代後半には
ニューヨークでハプニング・アーティストとして
知られるようになった。
やがて創作の形式として、小説や詩も用いはじめる。
過激で性的な作品群は、草間自身の屈折した人生と重ね合わされ
マスコミを騒がせた。
そんな中、草間彌生は言い切った。
私の小説はすべて私の想像から創出されたものであり、自叙伝ではない。
ただし、詩集は別格である。
小さな頃描いた、幻覚を現実として認めるためのドローイングの
ように。幼く澄んだ言葉で紡がれた「すみれ強迫」という詩がある。
ある日 突然 わたしの声は
すみれの声になっているの
心しずめて 息をつめて
ほんとうなのね、みんな
今日に おこったことたちは
悩みを抱える人が彼女のおむすびを食べると、
自然と自分を取り戻していく。
「森のイスキア」主催、佐藤初女さん。
10代で胸を患い、30代まで闘病生活。
治りたい。でも、だめかもしれない。
若き日に、祈る思いで歩いた海辺に、
87歳の初女さんが立ったとき。
色も模様もちがう貝殻を見つめてこう言った。
神様でしょうか、これを作ったのは。
佐藤初女さん。
その言葉にも、おむすびにも、
命の詩(うた)が流れている。
谷川俊太郎の詩に
画家・佐野洋子が絵をつけた詩集「女に」。
その詩集はふたりが結婚した翌年に出版された。
その中の一節、
もう何も欲しいとは思わないのに
まだあなたが欲しい。
詩とはパーソナルな芸術だ。
この美しい詩集はそう教えてくれる。
詩人、小池昌代(こいけまさよ)の代表詩集。
ババ、バサラ、サラバ
20篇ほどの詩がおさめられているが、
最後までその言葉の意味は明かされない。
読者すべてが抱くであろう
ババ、バサラ、サラバって何?という
問いの答えだろうか。
小池はこう言う。
現代詩を書いていると唇が寒くなる。
濁った音はあたたかい。
唇の破裂と爆発を、そこに生じる摩擦熱を
寒いわたしは求めていた。
ババ、バサラ、サラバ。
口だしてみると、不思議な呪文のように
ちょっと切ない、じわっと心が熱をもつ。
そんな感覚になるのはなぜだろう。
「意味」を伝えることを超えて
詩人、小池昌代は言葉と格闘する。
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