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厚焼玉子 12年4月23日放送


東京タワーとVision

J-WAVEが東京タワーからあなたへお届けする
最後のプログラム、Vision。


1988年
それは東京ドームがオープンした年でもあった。
J-waveは東京タワーに送信所を設け
秋には本放送を開始した。

東京タワーは私たちのシンボルでもあった。

2003年、
J-waveが六本木ヒルズにスタジオを構えたとき
東京タワーは握手できそうな距離まで近づいた。

窓からは毎日東京タワーが見える。
夕暮れに沈んだ街から明かりの残る空に向かって立ち上がる
東京タワーのライトアップは空よりも明るく美しい。

私たちは毎日東京タワーを眺め、東京タワーとともに働いてきた。
だから、お疲れさまは言わない。
さようならも言わない。
いまこの瞬間も東京タワーとお隣同士の距離は変わらないのだから。

J-waveの窓から東京タワーの左を見ると、
ビルのてっぺんから東京スカイツリーが顔を出している。
高さ634メートルのこの新しいランドマークは
みんなに「上を向いて」というメッセージを送っている。


上を向いて、未来を見つめ、希望を抱き
明日に向かって、みんなの心のウエーブをつなげていこう。

YOUR WAVE MAKES THE WORLD

J-waveはこれからも
ふたつのタワーに見守られて
あたらしいウエーブを発信していきます。

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厚焼玉子 11年11月19日放送


王妃マルゲリータとピザ

マルゲリータというピザがある。
トマト、モッツァレラチーズ、バジリコのトッピング、
赤、白、緑の配色が美しいピザだ。

このピザが生まれたのは1889年のことだった。
ナポリを訪れたイタリアの王妃マルゲリータのために
ピザ職人のラッファエーレ・エスポジトが3種類のピザをつくり
そのなかで王妃がいちばんお気に召したピザに
マルゲリータという名前をいただいたのだ。

マルゲリータの誕生日は明日11月20日
この日はピザの日になっている。




王妃マルゲリータと真珠

イタリアの王妃マルゲリータの名前は
ギリシャ語で真珠という意味をあらわす言葉
「マルガリータリ」に由来している。
真珠のように美しくという願いが込められているのだ。

王妃マルゲリータの写真を見ると
頭に月桂樹のティアラを飾り
首には10本ではきかない真珠のネックレスを
巻いている。
その真珠は夫である国王が浮気をするたびに
増えていったらしい。

夫が浮気をして…
などと国民に愚痴をこぼしたりはなさらないけれど
ネックレスを見ればわかる人にはわかる。

賢明な王妃マルゲリータの名前は
イタリアのピザの名前にもなっている。

明日11月20日はピザの日




王妃マルゲリータとピザの店

ブランディというナポリのピザの店には
1889年6月の日付の古い手紙が
いまも残っている。

それは手紙というよりは感謝状で
王妃のためにつくったピザがおいしかったと書かれ
とくにトマトとモッツァレラのピザがおいしいと
つけ加えられている。

その「とくにおいしかった」ピザは
王妃の名前であるマルゲリータと呼ばれ
やがて世界中に知れ渡る。

ナポリのピザの店ブランディには
日本語のホームページまである。

明日11月20日はピザの日




王妃マルゲリータともうひとつのエピソード

本当かどうかは知らないけれど
イタリア王妃の名前をつけてもらったピザ、マルゲリータには
もうひとつのエピソードがある。

イタリア王妃のためにピザをつくるように命じられた
ピザ職人ラッファエーレ・エスポジトが
とりどりのピザをつくって王妃の前に並べた後に
エスポジトの妻が新しいピザをひとつ焼いて持ってきた。
王妃はそのピザがたいへん気に入り名前をたずねたけれど
気紛れに妻が焼いたピザに名前のあろうはずはなく
エスポジトはひたすら恐縮するばかり。

そこに妻が助け舟を出した。
「王妃さま、このピザは王妃さまと同じ名前で
 マルゲリータと申します。
 トマトの赤、モッツァレラの白、バジリコの緑は
 イタリアの国旗をあらわします」

それが評判となって店は大繁盛。
でも気の毒なエスポジトは、それ以来妻に頭が上がらなかった。

明日は王妃マルゲリータの誕生日、そしてピザの日でもある。






王妃マルゲリータと自転車

世界でもっとも古い自転車メーカーは
1885年創業のイタリアのビアンキ。
ビアンキの自転車の色はチェレステという緑色に近い青色で
チェレステは空を意味すると同時に
イタリア王妃マルゲリータの瞳の色ともいわれている。

1895年、ビアンキの創始者であるエドアルド・ビアンキは
女性用自転車を制作して王妃に献上し
その乗りかたも指導したと伝えられるので
王妃の瞳の色というのも本当かもしれない。

自転車に乗る王妃さま、ピザの名前の王妃さま
国民に愛された様子が目に浮かぶ。

明日11月20日は王妃マルゲリータの誕生日、そしてピザの日。




王妃マルゲリータとティアラ

 1867年のパリ万国博でゴールドメダルを獲得した
月桂樹のティアラは
イタリア国王エマヌエーレ二世が買い求め
やがて息子の嫁になるマルゲリータへの贈り物にした。

花嫁はこのとき16歳と5ヶ月。

金とダイヤモンドの超豪華版のティアラを身につけた
王妃マルゲリータが
庶民に愛されるピザの名前になったのは
それから22年後のことだった。

明日11月20日は王妃マルゲリータの誕生日、
そしてピザの日




王妃マルゲリータのフルネーム

ピザの名前にもなっているイタリアの王妃マルゲリータの
フルネームは長い。
マルゲリータ・マリア・テレーザ・ジョヴァンナ・ディ・サヴォイアが
その正式な名前だ。

マリア・テレーザは父かたの祖母の名前だが
ジョヴァンナは17世紀までさかのぼる。
マリーア・ジョヴァンナというしっかりもの王妃さまが
一族のなかにおいでになるのだ。

マリーア・ジョヴァンナは
当時王さまや貴族が独占していたチョコレートを
一般に販売することを許し
チョコレート文化をヨーロッパに広めた。
さらにグリッシーニというクラッカーのようなパンの発明も
マリーア・ジョヴァンナの手によるものらしい。

食べることが大好きなイタリアでは
王妃さまも食文化に貢献する。
我々がいまマルゲリータというピザを食べられるのも
王妃マルゲリータのおかげだ。

明日11月20日は王妃マルゲリータの誕生日、そしてピザの日。

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厚焼玉子 10年10月30日放送



藤村の初恋

ふるさとの馬籠(まごめ)の家には
桑畑のところどころにリンゴの木が植えてあって
隣との境に高い塀があり
その塀の向こうに同い年の少女がいた。

島崎藤村は、少女とリンゴの木の下を歩いた。
裏のたんぼ道で鳥の声に耳をすました。
谷から流れてくるせせらぎでカジカを掬(すく)うこともあった。

人目のないところに隠れて
少女をそっと抱きしめた、島崎藤村八歳の初恋。

今日は初恋の日
島崎藤村の「初恋」の詩は、明治29年の今日
文学界に発表された。








特攻隊員の恋

特攻隊員上原良司、22歳は
こんな言葉を残して特攻機に乗った。

  愛する恋人に死なれたとき
  自分も一緒に精神的には死んでおりました。
  天国において彼女と会えると思うと
  死は天国へ行く途中でしかありませんから
  なんでもありません。

好きだとも言えずに死に別れた初恋の人の
面影を追って
上原良司が沖縄のアメリカ軍機動部隊に
空から突入したのは
終戦間際の初夏のことだった。

今日は初恋の日





ミカドの恋

17歳の二条天皇が恋をしたのは
叔母にあたる藤原多子(ふじわらのまさるこ)だった。

多子の君は二条天皇の叔父にあたる近衛天皇の皇后だった人で
四つほど年上だったが
美女の誉れ高く、絵と書に秀で琴と琵琶の名手でもあったという。

とはいえ、叔母にあたる人と、
しかも皇后の地位にあった人と結婚なんでとんでもない。
まわりは猛反対したけれど
いまは未亡人なんだからいいじゃないか、とばかり
17歳の若さは無理矢理望みを遂げてしまう。

それは日本史にも残る事件になった。

今日は初恋の日





啄木の初恋

  砂山の 砂に腹這い
  初恋の 痛みを遠く 思いいずる日

石川啄木の初恋の歌は
何人もの作曲家が曲をつけている。
なかでも越谷達之助(こしたにたつのすけ)の切ないメロディは人気を博し
日本の代表的な歌曲になった。

ところで、
石川啄木の初恋は13歳。
その相手は啄木にとって高嶺の花だった節子。
だが、啄木は6年にわたる初恋を実らせ
節子と結婚している。

詩人でも詩人でなくても
人に言えない恋のひとつくらいあってもいい。
この歌を聴きながらそんなことを思う。

今日は初恋の日。





泉鏡花と年上の女

早くに母を亡くしたせいか
泉鏡花のあこがれはいつも年上の女(ひと)だった。

母のような姉のような女性、
やさしく美しく、妖艶ではかなげで
それなのに、いざというときは強い。

そんな女性はいるはずがないと誰もが思う。
けれど、鏡花の心と鏡花の書く小説のなかには
確かに存在していた。

鏡花の初恋の人は湯浅しげという
やはり年上の人だった。
その人をモデルにした小説を読むと
生身ではない美しい女がふわりと浮かび出る。

今日は初恋の日





八百屋お七

恋のために火付けをして
火あぶりになった八百屋お七と
その恋のお相手の吉三郎がはじめて会話を交わします。

 「私は十六になります。」
  「私も十六です。」

井原西鶴描く、もどかしく切なく美しい
十六歳の初恋のシーンです。





スサノオ



スサノオのオロチ退治は
英雄伝でもあるけれど、恋の話でもあると思う。

さんざん悪さをして高天原を追われたスサノオが、
突然心を入れかえて人々のためにオロチ退治をするというよりは
好きになったクシナダヒメを助けるためと考えた方が
矛盾がないからだ。

スサノオはオロチを退治した後で
クシナダヒメと結婚し、こんな歌を詠んだ。

  八雲立つ  出雲八重垣(いずもやえかき)  妻籠(つまご)みに
  八重垣つくる その八重垣を

この三十一文字の歌が
日本の歌のはじまりとなり
その後(のち)、恋人たちは歌を交わし合って思いを伝えた。
スサノオは、いつも間にか歌と恋の神さまになっていた。

スサノオを祭る島根県の八重垣神社では
縁結びの赤い糸を買うことができる。

今日は初恋の日。

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厚焼玉子 10年08月08日放送



涼味 そうめん


暑い日の「素麺」という言葉の涼しさ。
あの白く冷たい麺に生姜のきいたつけ汁を出されたら
どんなに食欲のない日も思わず箸を取る。

日本の夏に素麺を考えた人はえらい。
でもいったい誰が?

素麺は奈良時代に中国から伝来したお菓子が起源という説がある。
けれども、9世紀になると
早くも岡山あたりで「麦切り」が作られ
宮中に献上されていたという記録が残っている。
この「麦切り」が素麺の、いわばご先祖さまらしい。

おいしい素麺で名高い岡山県鴨方町は、
いまでもキレイな水に蛍が飛び、空気はカラッと澄みわたっている。
この土地でこだわりの手延べ素麺をつくりつづけてきた
おくしま家(や)の奥島信行さんは、
2006年、小さくても人に役立つ発明や提案をした人がもらえる
東久邇宮記念賞を受賞した。





涼味 かき氷


夏はやっぱりかき氷。
ぶんぶんと音を立てて氷をまわしながら削る
あの機械の音でさえ暑いときはうれしいけれど
江戸時代の随筆家鈴木牧之(ぼくし)の北越雪譜には
もっと涼しいかき氷が出てきます。

夏、鳥の声が足元から聞こえるほどの山道を歩いて
汗だくになった鈴木牧之は
やっと腰をおろした茶店に天然の氷を見つけます。

山陰の谷から取ってきた氷を包丁でさらさらと削ったかき氷を
一杯めは、茶店のおじいさんがすすめるままにきな粉をかけて。
二杯めはきな粉をことわって
荷物のなかから砂糖を出してふりかけて食べた。

歯も浮くほどの冷たさに思わず暑さを忘れた、と
北越雪譜に書かれているかき氷、
天然の氷をさらさら削ったかき氷、
いっぺん食べてみたいです。










涼味 辛味大根


大根の辛味はイソチオシアネートという成分によるらしいが
それを通常の4倍も持つ大根がある。
親田辛味大根(おやだからみだいこん)という名の幻の大根だ。

親田辛味大根は、長野県下條村の特産品で
地元で「あまからぴん」と呼ばれる。
最初にほんのり甘く、次に強烈な辛さがやってくるからだ。

この「あまからぴん」を代々伝えてきたのは
下條村の佐々木圭さんの家で
江戸時代には尾張の殿さまに献上した記録も残っている。
危うく滅亡しかけたこともあったけれど
村の人たちの協力によって復活し
いまでは村全体の特産品になった。

信州長野といえば蕎麦どころだが
親田辛味大根は冷たい蕎麦との相性が抜群にいい。

暑い日に、ピリリと刺激的なおろし蕎麦。
佐々木さん、下條村の皆さん、ありがとう。





涼味 ラムネ


夏の風物詩といえば昔はラムネだった。
夏休みに連れて行ってもらった映画館のラムネ、
海の家のラムネ、
お祭りの、神社の夜店で売っていたラムネ。

あのカラコロ音を立てるビー玉入りのラムネの瓶は
誰がつくったのだろう。

ラムネ瓶はもともとイギリスで発明されたものだが
スクラップのガラスの中からそれを見つけた徳永玉吉が
見よう見まねで4年がかりで再現。
明治25年にやっと国産第一号のラムネ瓶が生まれることになった。

イギリスではもうラムネ瓶は残っていないけれど
徳永玉吉のおかげで
日本の夏は、いまでもラムネのビー玉が涼しい音を立てる。




涼味 ところてん


 清滝の水汲みよせて ところてん


芭蕉の夏の俳句は涼しい。

清滝は京都の嵯峨野の奥のもっと奥にある水の里で
清滝川に沿った渓谷には夏は蛍が飛び、カジカも鳴く。
谷の風は涼しく
昔から涼を求める人々が訪れる土地でもあった。

清滝の茶店で、
川の水を汲んで冷やしたところてんを
芭蕉は食べたに違いない。

ところてんの味を決めるのは
テングサとおいしい水。


 清滝の水汲みよせて ところてん


そんなところてんを食べてみたい。





涼味 かき氷の2


「けずった氷に甘いシロップをかけて
金(かね)のお椀に盛りつけたものは上品で美しい」と書いたのは清少納言。
平安時代のかき氷のようすがうかがえる。

その氷は冬の寒いさなかに切り出して
氷室と呼ばれる天然の冷蔵庫に保存しておいたもの。
身分のある人しか口にできない夏の贅沢品だったし
それ以前に神さまにお供えするものでもあった。

そのころ、都をとりまく北の山々には
計6カ所の氷室があって、
山ときくと遠そうだけれど
いちばん奥の氷室でも御所まで2時間ほどの距離。
しかも氷室から御所までは
重い氷を運ぶにはもってこいの下り坂。

ギラギラ暑い太陽に照らされて
溶けていく氷をなんとか無事に運ぶための知恵が
氷室の場所にもうかがえる。

むかし氷室があった土地には氷室、御室(おむろ)という町名が残り
氷室山や氷室池、氷室神社もある。

削った氷に甘いシロップ
冷たさをそのまま伝える金の器…
1000年の昔のかき氷は尊い。





涼味 冷やし中華


冷やし中華の発祥の地は仙台であるらしい。

昭和12年、中華料理店の人たちが集まって
観光客があつまる七夕祭りの新メニューを考えたとき
ざる蕎麦からヒントを得てつくりだしたのが冷やし中華だといわれる。

この開発の中心になった人物は
仙台龍亭(りゅうてい)の初代店主、四倉義雄さん。

当時の冷やし中華の具は
茹でたキャベツ、塩もみキュウリ、ニンジン、トマトにチャーシュー。
お値段の25銭はラーメン10銭に較べると高かったけれど
ハイカラな味としてもてはやされた。

そういえば、仙台の七夕祭りは今日が最終日。
冷やし中華の売れ行きはいかがでしょうか。





涼味 吉野葛


葛切り、葛餅、葛まんじゅう
和菓子の世界では夏の涼しさを葛で演出する。

そのなめらかな食感、透明感で
葛のなかでも白い宝石と称えられる貴重な吉野葛は
冬のいちばん寒い時期に生産のピークを迎える。

手がちぎれそうな冷たい地下水に晒してはまた晒して
精製した純白の澱粉を
身を切られるほどの寒風に干しあげる。

空気も水も冷たいほどいい。
冬は冷え込むほどいい。
人には厳しすぎる冬の寒さが、やがて夏の涼しさになる。

吉野葛の元祖、森野吉野葛本舗の19代当主
森野藤助さんのご先祖さまは南朝の遺臣で
その家は南朝破れてより吉野葛をつくりつづけているそうだ。





涼味 カレーライス


カレーライスは夏の味。
汗を拭き、冷たい水を飲みながら食べた後は
少し涼しくなった気がする。

日本の家庭でつくるカレーライスは
明治時代にイギリスから伝わったシチューを
日本海軍がアレンジしたものからはじまっており
1908年に発行された海軍割烹術参考書という
いわば海軍のレシピ集には
牛肉、人参、玉葱、馬鈴薯を材料とするカレーも載っている。

明治時代のカレー、海軍のカレー
日本のカレーのルーツはどんな味だろう。

気になる「海軍割烹術参考書」は
国文学者の前田雅之さんと写真家の猪本典子(いのもとのりこ)さんによって
3年前の夏、復刻場が出版された。

この本を買う人は
やはりカレー好きが多いらしい。





涼味 ヴィシソワーズ


夏の冷たいスープの代表、ヴィシソワーズ。
じゃがいもとネギと牛乳からつくるこのスープを考え出したのは
ニューヨークのホテル、ザ・リッツ・カールトンのシェフ
ルイ・ディア(Louis Diat)だった。

あたたかいスープを飲みたくなかった夏の日
お母さんは少年だったディアのポタージュに
冷たい牛乳を入れてくれた。
そんな思い出が、ヴィシソワーズには込められている。

ヴィシソワーズが
ザ・リッツ・カールトンのメニューに載ったのは1917年。
子供にスープを食べさせたい母の気持ちが
ホテルの洗練されたメニューになったのは
冷蔵庫の普及のたまものでもあった。


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厚焼玉子 10年06月05日放送



宮沢賢治の音

ぷりりぷりりと震えるウメバチソウ
サァン、ツァンと揺れる竜胆の花
しゃりんしゃりんとそよぐ鈴蘭。
そしてツリガネソウは
カンカンカン、カエコカンコカンと響き合う。

宮沢賢治はもの言わぬ植物から歌を聴いた。

どっどど どどうど、と風が鳴る。
ツンツンツンと月は明るい。

宮沢賢治にとって
この星の天と地の間にあるものはすべて生きているのだ。
生きているから歌を持っているのだ。

ルルルルル、とハチスズメが飛ぶ。
ギュッギュッ、ギッギッと蛙が鳴く。

私たちもこの星の歌に耳を澄ませよう。
一本の木に鳥が来て、一輪の花に虫が来る。
ひとしずくの水にだって無数の微生物が棲んでいる。

小さな命の歌と歌が
美しく響き合う地球であるように。







火の鳥から野菜へ

野口種苗研究所の野口勳さんは野菜の種と苗を売っている。
その種は固定種と呼ばれるもので
親の種を取って撒くと親と同じ野菜が生えてくる。

種を撒いたら生えてくるのは当然のようだが
いまの野菜の多くはF1と呼ばれる種からできている。
F1は一代雑種で大量生産には便利だけれど
その種から同じ野菜はできない。

野口勳さんは大学の頃から手塚治虫の大ファンで
念願の虫プロに就職して「火の鳥」の初代編集者になった。
手塚治虫の生涯のテーマは
「生命の尊厳と地球環境の持続」

これに感銘を受けた野口さんは家業の種苗店を継いだとき
日本の伝統的な固定種を扱うことに決めたのだ。

種を撒いたら親と同じ野菜が生えてくる。
こんな当たり前のことを守っていくのも
地球に生まれた生命の尊厳と地球環境の持続だと思う。





海は森を恋いながら 熊谷龍子

 森は海を 海は森を恋いながら 悠久よりの愛紡ぎゆく

この美しい言葉は宮城県の歌人熊谷龍子さんが詠んだ歌。
熊谷さんは森のなかの家に住み
山から海を考えたことはあったけれど
海から山を見たことはなかった。

誘われて海へ行った。
海の水で洗っただけのまっ白な牡蠣を食べた。
その牡蠣は森の恵みだと教えられた。
びっくりした。

森の落ち葉が腐葉土になり
森に降った雨が腐葉土にしみ込んで
その養分を川に運ぶ。
その川はやがて海につながっていくのだ。

海と森には深い絆がある。
太古からの地球の営みのなかで
海と森はつながっている。

森は海を、海は森を恋い慕っている。
この言葉を忘れないようにしよう。





森は海の恋人 畠山重篤

宮城県気仙沼の海が茶色になったのは
昭和40年代から50年年代にかけてのことだった。

その原因は多過ぎるほどあった。
工場排水、一般家庭からの排水、農薬に除草剤、
手入れのされない針葉樹林からの赤土…

気仙沼で牡蠣の養殖をしていた畠山重篤さんは
まっ白なはずの牡蠣の身が赤くなったことに驚き
ヨーロッパまで視察に行って勉強をした。

いままでの海を取り戻すには何をすればいいのだろう。
海ばかり見ていたのではダメなんだ。

海には植物プランクトンの森がある。
海の森を育てるのは山の森だ。
山の森の養分を川が運んで海の森を育てることがわかった。

いま、畠山さんは「森は海の恋人」というNPO法人の代表として
海に生きる人たちの手で山の森を育てる活動をしている。

木を植え、森を育て、里山をつくり
気仙沼の海は少しづつキレイになっている。

「森は海の恋人」という言葉は歌人熊谷龍子さんの歌からもらった。
  森は海を 海は森を恋いながら 悠久よりの愛紡ぎゆく
美しい言葉に負けない美しい海を…





照葉樹林 宮脇昭

マレーシアの、
再生不可能と言われた熱帯雨林をよみがえらせ
万里の長城の壊滅した森も復活させた。
2006年には地球環境に貢献したことが認められ
ブループラネット賞を受賞した宮脇昭さん。

宮脇さんが木を植えるときは
その土地にもともと生えていた木をさがして植える。
しかし、たとえばいまの日本でその土地本来の森は
0.06%しか残っていない。

困ったとき、宮脇さんは鎮守の森の木を調べる。
鎮守の森は神さまの領域なので
昔から木を伐られることがあまりないからだ。

宮脇さんの森は人の管理を必要としない。
地球の太古の森がそうだったように
自然にまかせておけば元気に生きている。

人は自然をもっと信じて生きなければ。





10年めの三宅島 ジャック・モイヤー

かつて200種類を超える野鳥が棲み
バードアイランドと呼ばれた三宅島。

噴火直後は小鳥の声も聞こえなくなったといわれたけれど
10年たったいまでは賑やかなさえずりが聴こえる。
海では魚と伊勢エビが増えている。

三宅島に住んでいた世界環境保護スペシャリスト
ジャック・モイヤー博士は
島に帰る日が来る前に亡くなってしまったけれど
博士が教えてくれたことは、いまも三宅島に生きています。





宇宙ゴミ ニコラス・ジョンソン

5,500トンのゴミが地球の周囲をまわっている。
その内容は人工衛星やロケットの残骸から
宇宙飛行士が落とした手袋や工具まで。

これらをまとめてスペース・デプリと呼ぶ。
日本語で言うなら宇宙ゴミ。

宇宙ゴミは活動中の人工衛星と衝突することがある。
たとえば1996年のフランスの軍事衛星は
10年前のロケットの破片と衝突して損傷を受けた。
直径10センチのゴミで宇宙船ひとつが破壊されてしまうというから
宇宙のゴミは危険物そのものなのだ。

アメリカの航空宇宙局NASAには宇宙ゴミ問題の主任科学者がいる。
お名前はニコラス・ジョンソン。
ジョンソン氏は宇宙ゴミ国際調整会議の米国代表団の団長をつとめ、
国際宇宙科学学会の宇宙ゴミ小委員会の共同議長、
さらに米国航空宇宙学会の宇宙ゴミ標準化委員会の委員も兼ねている。
また1995年には国際宇宙ステーションの
宇宙ゴミ安全管理委員会の委員でもあった。

地球は宇宙へつながっている。
地球環境はもう地球だけの問題ではなくなってしまったようだ。

頭の痛い宇宙ゴミ問題に取り組むジョンソン氏を
心から応援したい。

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厚焼玉子 09年9月27日放送

ワーズワースの家

ワーズワースの家


湖の詩人ワーズワースが生まれたのは
イギリスの湖水地方、
川や森に囲まれたコッカマスの町。

その目抜き通りに面した家を見学に行くと
なんだかいい匂い。
キッチンでミートパイを焼いている最中です。
庭では野菜を収穫しています。

お父さんの書斎や客間の道具に
手を触れることはできませんが
子供部屋の家具やおもちゃはご自由にどうぞ。

ただ家を眺めるだけでなく
当時の暮らしぶりも見ることができる。

ワーズワースの家はまだ生きて呼吸しています。



ワーズワースの落書き

ワーズワースの落書き


湖の詩人ワーズワースは8歳で母親に死に別れます。

裕福な法律家だった父は
幼いワーズワースを湖水地方中部の村
ホークスヘッドのグラマースクールに送りました。
9歳の少年が下宿生活をしながら
学校に通ったのです。

その学校は小さかったけれど
16世紀に創立した伝統ある学び舎でした。
白い壁に木の床、細長い木の机に
椅子は背もたれのない木のベンチ。

机のひとつには
ワーズワースの名前が刻まれていました。
少年ワーズワースが
小刀で刻んだいたずら書きです。



ワーズワースとアンおばさん

ワーズワースとアンおばさん


湖の詩人ワーズワースが
母の死をきっかけに
ホークスヘッドで学校生活を送っていたころ
その下宿先のおかみさんにアンおばさんと呼ばれる人がいました。

アンおばさんは孤独な少年に愛情を注ぎ
少年も母のようにアンおばさんを慕いました。

ワーズワースが大学生になった夏休み
なつかしいアンおばさんに会うために
ホークスヘッドを訪れたときの詩があります。

ヒースの野を越え
牧場の丘からウィダミア湖へ駆け下り
大声で渡し船を呼んで湖を渡ると
また丘を駆け登ってホークスヘッドへ向う…
その飛ぶような足取りとはやる心を
その詩はうたっています。

丘から見える湖は青く輝き
その湖の向こうになつかしいおばさんがいる。

ワーズワースがその詩のなかで
アンおばさんを表現した言葉「kind and motherly」は
湖水地方の風景そのものでした。





ワーズワースのクリスマス休暇

ワーズワースのクリスマス休暇


13歳のワーズワースは
クリスマス休暇で家に帰るために
迎えの馬車を待っていました。

待ち切れず、原っぱに駆け出し岩山に登り
吹きさらしの風のなかで
草の上にしゃがみこんで馬車が来る道を眺めていました。

それほど待ちかねたクリスマス休暇の最中に
ワーズワースの父は亡くなり
馬車を待っていたときの風の声、森や水のざわめきは
ワーズワースの心の中に暗く沈みます。

その風景は一生ワーズワースにつきまとい
常に警告を発するブレーキの役割を果たしました。



ワーズワースの散歩

ワーズワースの散歩


大学から湖水地方を離れていたワーズワースが
再び湖のそばに戻って来たのは1799年のことでした。

グラスミア湖のほとりの
もとは宿屋だったというダヴ・コテージを借りて
妹のドロシーと一緒に暮らしはじめます。

家は湖に面し、小さな果樹園と庭がありました。
バラとスイカズラが白い壁を彩っていました。

この頃の生活の中心は散歩。
ふたりは昼でも夜でもかまわず歩きまわりました。
5キロ離れた隣の町などは散歩のうちにも入らないくらい
20キロ先の友人の家でも気軽に歩いて遊びに行きます。
けれども、本当に好きなのは山や谷、森に湖。
ここにはワーズワースの作品のテーマが
すべてそろっていました。

大自然こそ自分の書斎と言い切るワーズワースにとって
山や湖を歩くことは
感性を研ぎすまし、詩の風景をさがすことでもありました。

そんな詩人の心中を知らない村の人々は
ワーズワースのあまりに長い散歩の理由がさっぱりわからず
ときには、こんな愉快な噂もあったようです。
「フランスのスパイかしら?」



ワーズワースの最後の家

ワーズワースの最後の家


1813年
湖の詩人ワーズワースは最後の引っ越しをします。

古い農家を改築したその家からは
ふたつの湖を眺めることができました。
庭はワーズワース自身が設計し
まわりの風景に溶け込むように
注意深く木々や草花が植えられています。

この最後の家こそワーズワースにとって完璧な家。
でも自分が死んだらどうなるだろう…
 
 家の正面の壁や石段はそのまま残るだろうか。
 庭はどうだろう。
 美しいシダやコケ、野生のゼラニウム…


ご心配なく。
心ある人たちの手でいまもちゃんと守られています。



ワーズワースの朗読

ワーズワースの朗読


湖の詩人ワーズワースが
書き上げたばかりの新しい詩を真っ先に聴いたのは
庭の小鳥たちでした。

ワーズワースは
新しい詩をつくるたびに庭に出て朗読をし
小鳥が返すさえずりで
作品の出来を判断していたといいます。

批評家の小鳥の名前は
残念ながら伝わっていないのですが。



ワーズワースの自然保護

ワーズワースの自然保護


湖の詩人ワーズワースの存在は
イギリスの湖水地方を世界的に有名にする一方で
湖水の景観を守る意識を人々に植えつけました。

1844年、この地方に鉄道を敷く計画が持ち上がったとき
ワーズワースは湖の環境だいなしにすると猛反対。
モーニング・ポストに反対の意思を表明する文書を投稿し
それがきっかけで鉄道計画は中止になります。

いまでもウィンダミアから湖に向う鉄道はなく
自動車では近づけない湖もあります。
そのかわりに活躍するのがフットパスと呼ばれる散歩道。

歩いてください。
そして美しい自然を楽しんでください。
ワーズワースの声が聞こえるようです。

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ストラディバリ

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アントニオ・ストラディバリ(Antonio Stradivari)
が制作したバイオリンは1200梃。
およそ半分が現存しているといわれる。
ストラディバリのバイオリンには
Antonius Stradivarius Cremonensis Faciebat Anno
という銘があるためにストラディバリウスと呼ばれる。

ストラディバリウスのバイオリンのなかで最上のものは3梃ある。
そのひとつはメサイアと名付けられ
いまはオックスフォードのアシュモリアン美術館に展示されている。
アラードと呼ばれるものは個人のコレクターが所有している。
ドルフィンは日本音楽財団が所有しており
これは日本のあるバイオリニストに貸与されている。

日本音楽財団はバイオリンだけでも
16梃を所有しており
内外のバイオリニストに無償貸与している。

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