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小宮由美子 11年9月24日放送


テニスから生まれたストーリー1 伊達公子

プロテニスプレーヤーとして
再びコートに立ち、世界へ挑み続けている伊達公子。
その理由のひとつは、「テニス界への感謝」。
2つ目は、「世界のトップで戦える日本人プレーヤーに
早く育ってもらいたい」という願い。
そして3つ目は、「チャレンジすることが好き」だから。
 
「現役時代は無我夢中で
自分自身のことだけで必死でした」
と告白する伊達。
でも、今の彼女のイメージの中には、彼女以外の、
若手選手や、子どもたちや、世界中のたくさんの存在がある。
 
「過去の世界ランキング4位までいった伊達公子としてではなく、
 新たなる挑戦(者)としてコートに立ちたい」
 
そんな伊達公子の姿に励まされるのは、
テニス好きだけではないはずだ。




テニスから生まれたストーリー2  クリス・エバート

「チャンピオンなら、心の底から
チャンピオンじゃなきゃだめなのよ」

 
70年、80年代を代表するテニス・プレーヤー。
ナブラチロワとの名勝負で、女子テニスの人気を盛り上げた
クリス・エバートの言葉。
 
世界最高のコーチを雇ったり、最高の道具を揃えたり、
試合に出るというだけなら誰にでもできる。
でも、心がチャンピオンにふさわしくなければ、
チャンピオンにはなれない。
 
テニスの四大大会で通算18勝を上げた彼女は、
同時にこうも言っている。
 
「反対に、何ひとつ持たない代わりに
 その気持ちと根性だけでやり抜く自信があるなら、
 チャンピオンになれるわよ」







テニスから生まれたストーリー3 ロジャー・フェデラー

1996年9月。
ひとりのスポーツジャーナリストが、
生涯忘れることのできない出会いを経験した。
観客もいない、ボールパーソンもいない。
場末のコートで盛り上がることもなく始まった試合で
彼の目を釘付けにしたのは、15歳の少年。
 
完璧すぎるほどのボールコントロール。
すさまじい集中力。
何より注意を引いたのが、少年の狂気のような叫び声。
試合中に、大声で絶え間なく独り言をつぶやき、
自分自身に向かって、激しい罵りの言葉を繰り返す。
 
ジャーナリストの身体に衝撃が走った。
「才能の原石を見つけた」と思った、と後に語っている。
 
エキセントリックな15歳の少年の名は
ロジャー・フェデラー。
 
今や、ポーカーフェイスともとれる涼しい表情と
スマートで華麗なプレースタイルが印象深いフェデラーだが、
その内面には、気性烈しく、勝利への執念に満ちた
野性的なあの少年が、かくれている。




テニスから生まれたストーリー4 ラファエル・ナダル

テニス・プレーヤー、ラファエル・ナダル。
彼のまわりには、どこに行っても人が集まる。
たくさんの視線が、彼の一挙手一投足に注がれる。
 
だから、ファンは知っている。
試合中に、長めの髪を耳にかけるしぐさ。
ミネラルウォーターのペットボトルを、神経質に並べる動作。
そして、コート上で、頻繁に下着を直す癖。
 
指摘されて、ナダルは言った。
「あの癖は直らないね。見てる人をイライラさせそうで
申し訳ないけど無理だよ、癖なんだから」
 
観客を熱狂させ、圧倒するスター選手の、人間味を感じる一面。
これからも世界中の多くのファンが、魅力あふれる彼の姿を追い続ける。




テニスから生まれるストーリー5 ジュスティーヌ・エナン

「結婚は全仏(大会の)優勝なんかよりずっと素晴らしい。
グランドスラム優勝は、ほんの一瞬の喜び。でも結婚式の日は
これからの私の人生の中で永遠に最高の日であり続けるわ」

 
ベルギーのプロテニスプレーヤー、ジュスティーヌ・エナンは
ストレスの大きいプロテニスプレーヤーの生活の中での
家族のありがたさをこう語った。
支えてくれる人がいるなら、
勝ち負けなんて、大して重要なことじゃない、と。
 
そんな満ち足りた新婚生活を送りながら、
2003年の全豪オープン、全仏オープン、そして
全米オープン優勝を果たしたエナン。
 
これ以上の幸せの両立、イメージできるだろうか。




テニスから生まれるストーリー6 ビヨン・ボルグ

「僕の最強のポイントは、しつこいところ」
 
男子テニスの元世界王者、ビヨン・ボルグはそう言った。
 
試合では絶対にあきらめない。
どんなに負けが見えていても、最後のボールまで戦い抜く。
その結果、不利な状況から逆転勝ちしたゲームが山ほどあった。
 
ボルグの「しつこさ」は、
全仏オープンでの4連覇を含む6勝、ウィンブルドン5連覇など
テニス史に黄金時代を築いた。
 
強い者ほど、あきらめが悪い。




テニスから生まれたストーリー7 マルティナ・ヒンギス

天才少女とうたわれて、あまりにも早く世界の頂点を極めた
テニス・プレーヤー、マルティナ・ヒンギス。
 
彼女は現役時代、大会で優勝した3日後には
ハードなトレーニングを再開していた。
それも、軽い内容ではなく、ハードなメニューを。
攻撃的に、情熱の炎を焚きつけるように、
右に、左に、ボールを追いかけ、力いっぱい打ち返す。
そのうちに、雑念のようなものはスッと消えてなくなった。
 
当時、なぜそんなに練習が好きなのか、
と問われたヒンギスの答え。
「2日もテニスをしていないと、
身体が寂しさを覚えてしまうのよ」

 
プレーヤーにしか知り得ない孤独がある。
プレーヤーにしか知り得ない喜びも、またある。

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小宮由美子 11年7月16日放送


どんな家で暮らそう① 立原道造

詩人、そして、建築家である立原道造(たちはらみちぞう)が
夢見たのは、小さな花のような家だった。

ひと部屋しかないシンプルな空間にあるのは、ベッドと机、
テーブルと腰掛け。台所はなく、照明はひとつだけ。
思索のための空間ともいえるこの家を
立原はヒアシンスハウスと名付け、芸術家たちの集った
浦和の沼の湖畔に建てようとした。

その家に彼が暮らす日は訪れなかった。
図面だけを残して立原道造は24歳で夭折。
遺志を継ぐ人々によって、ヒアシンスハウスは
65年の時間を経て、2004年に実現した。

繊細で、やさしくて、限りなく素朴。
沼の湖畔にたたずむ寡黙な家は、
今という時代に向かって多くのことを語りかける。




どんな家に暮らそう② 清家清

1952年。
建築家・清家清(せいけきよし)は両親のために家を建てた。
だが、「こんなへんてこな家には住めない」と両親は拒否。
どこを見渡しても段差のない家。それだけじゃない。
50平米のワンルームしかないその家には、間仕切りもなければ扉もなかった。
ありきたりを排除した斬新すぎるこの家には
清家本人と妻、そして子どもたちが住むことになった。
ひとつきりの部屋が、家族の集うリビングになり、
清家の仕事部屋になり、客室になり、寝室になった。
トイレと洗面所の間も扉はないから、
洗面所で髭を剃っている父と、トイレを使いながら話をするような暮らし。
でも、「居心地がいいんですよね」と子どもたちはいう。
家族が住み継ぎ、現在も事務所として使われ、60年近くも
空き家になったことがない。その事実が、いつまでも古びることのない
この家の魅力を証明している。

清家清の「私の家」。日本の住宅史に残る名作である。






どんな家に暮らそう③ 有元夫妻

有元利夫(ありもととしお)と有元容子(ありもとようこ)。
芸術家であるふたりにとっては、
自分たちの住む家も作品のひとつだった。
毎日のように工事現場へ通い、左官屋さんが呆れるほど
細々と注文を出して作ったこだわりの我が家。
だが、利夫が旅立った後、容子はふと考えることがあった。
ふたりが制作に没頭した1階のアトリエ。決して広くはない場所で、
ふたりが顔をつきあわせて四六時中、制作することが
どんなにお互いの平和を損なっていただろうか、と。

そんな妻の思いに対する答えは、夫のエッセイの中に
ちゃんと残されている。

しんと静まりかえったアトリエでひとり静かに絵筆を走らすといった
図は僕には無縁で、ほぼ常に誰かそばにいてくれないと落ち着いて
仕事が出来ない。「誰か」といっても、むろん誰でもいいわけではなく、なるべく僕の気持も絵のことも分かってくれて、いろんな意味でそばに
居やすい人がいいから、必然的にその「誰か」は僕のオクさんと
いうことになる。


ふたりの多くの作品は、ふたりのアトリエから生み出された。




どんな家で暮らそう④ 内藤ルネ

夢のある少女の絵で知られる画家・内藤ルネ。
雑誌『ジュニアそれいゆ』を舞台に注目を集め始めた頃、
彼が住んでいたのは、先輩から紹介されたボロボロの長屋だった。
3畳半の部屋には畳などなく、敷かれているのは板。
壁も板だから、隣の声がまる聞こえ。
ふるさとからルネの様子を見に来た父は、無言になった。
お前さんのことではいろいろ驚かされたけど、あそこは泣けた
と、後に息子に打ち明けた。
だがそんな部屋の壁に、ルネは綺麗な紙を貼り、
拾ってきた箱を黄色に塗って戸棚にし、空き瓶や石を美しく飾った。

その後、時代の先端をゆくマンションや家に移り住んだが、
「ルネ君が住んだ家の中で、(あの長屋こそが)一番素敵だった」と
ある画家に言わしめた。

限られた空間が、内藤ルネの美意識を逆に際立たせた家だった。




どんな家に暮らそう⑤ 西村伊作

1919年に出版された『楽しき住家』。
日本人向けの洋風住宅と、新しいライフスタイルを紹介し人気を博した
この本の著者・西村伊作は、家族が集う居間や食堂は
南向きの、日当りのよい、快活な、窓の大きな」部屋がいいと提案した。
江戸時代以来、武家住宅の流れを汲んだ日本の家の間取りは
主人と客のための座敷を、庭園を望むおもて側に、
家族の部屋はその裏に、と考えられていた。
西村の発想に新しい時代の到来を感じとった人たちは、
こぞって彼に設計を依頼した。

じつは、西村は建築家というわけではなかった。
家族への、そして家族との暮らしへの愛が
日本の住宅史に名を残す、独学の建築家を生んだのだった。




どんな家に暮らそう⑥ 植田正治

鳥取県境港市。
砂丘を舞台にした美しい作品で知られる
写真家・植田正治(うえだしょうじ)は、生涯
生まれ育ったこの街に暮らした。
植田と妻と4人の子どもたちの生活の場であり、
ある時は、仲間が集う「梁山泊」であり、そして
植田の写真館にもなったのが築百年近くになる町屋。
さあ、撮るぞ
晩年、家にいることが多くなった後も、
家の棚いっぱい並んでいるオブジェを撮り、
窓から見える雲の流れをおもしろがった。
「何かもうひとつ、何かないか」とせがまれて
被写体となるものを探した長女・和子は、
家にあるもで植田が撮らないものはなかったと述懐する。
家は、父にとって、おもちゃ箱ね」と。




どんな家に暮らそう⑦ シューベルト綾

カナダへの留学を終えて、日本に帰国した17歳のシューベルト綾。
東京での都会生活に戻り、タレントとして芸能界に復帰しようと
していた彼女に転機が訪れたのは、その冬のことだった。

家族旅行でハワイへ旅立った彼女は、帰りの飛行機に乗らなかった。
何かに導かれるように、東京での生活からかけ離れたマウイ島での暮らしを、彼女は選んだ。

奥深いジャングルの中に、テントと虫除けの蚊帳を建て、
ハンモックをぶら下げただけで、すぐに「家」ができあがる。
そのことに、彼女自身が驚いた。
火を起こして炊いたごはんは、その苦労の分だけおいしく、
野菜やフルーツはどこまでも瑞々しかった。毎日の重たい水汲みは、
体力作りに加えて、美しい滝に出向く癒しの時間になった


くすぶっていた本能が目覚めていく。
あの頃の内面にあった葛藤や乾きが、知らないうちに道しるべとなって
自分をいざなったのかもしれない、シューベルト綾は、そう振り返る。

心のままに
彼女は、9年間のマウイ島での暮らしの中で、大切なメッセージを受け取った。

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小宮由美子 11年4月23日放送



イタリアの横顔① カメラマン

ローマのカメマン、リーノ・バリッラーリ。
人は彼を、<キング・オブ・パパラッツィ>と呼ぶ。

ゴシップ写真を専門とする職業柄、カメラを向けたスターたちから
暴力を受け救急車で担ぎこまれること160回。
憤ったスターたちにしょっちゅう壊されるから、カメラの機材はいつも新品。
そんなリーノが、これまでに世界に放ったスクープは数知れず。
身体を張った仕事ぶりはリーノ自身の存在を伝説化した。

取材相手から毛嫌いされるのが常だが、それだけでもないらしい。
パパラッツィは、イタリアのマスコミ界では真の意味でのフリーランスだ
命令されるボスなど必要ない、自分の勘だけを
頼りに生きる、孤独を愛する一匹オオカミ

そう賛辞を贈ったイタリア映画の巨匠フェデリコ・フェリーニも
リーノが友情を育んだスターのひとり。

パパラッツィという仕事は、体を張った危険な仕事。
しかし生まれ変わってもまたぜひパパラッツィでありたい

そう語るリーノの伝説は、今日も続く。





イタリアの横顔② 靴磨き

ローマにある<ロザリーナの店>といえば、
美貌の女性、ロザリーナ・ダッラーゴの靴磨き専門店のこと。

もともと尋常ではない靴マニアだったという彼女は、
ある日、自分の靴を磨いてくれる名人を探しているうちに
自分がその名人になればいいのだ、と思いつく。そして
数か月後には、銀行から100万ほどの借金をして店を開けた。
靴に対する愛情に溢れた彼女の仕事は、
その美しい容姿と人柄も相まってたちまち話題になり、
高級ブティックが軒を並べる目抜き通りのそばにある<ロザリーナの店>
には、有名無名の人々が、ひきもきらずに訪れる。
最初は母親の仕事を恥ずかしがり、学校で親の職業を聞かれ
「靴関係です」と答えていたという子供たちも、
今は誇りに思ってくれている、とロザリーナは語る。
屈辱的な仕事などこの世の中にはなく、どんな仕事でも誇り高く
一生懸命やり遂げれば必ず成功する、ということもよく理解したようです








イタリアの横顔③ 泥棒

家の前に停めておいた車を盗まれ、悲嘆に暮れている人のところに
翌日、無事に車が戻ってきた。中にあった手紙には、
やむを得ぬ事情でお車をお借りしたこと、お許しください。
 お詫びのしるしに
」と、話題のオペラのチケットが2枚添えられていた。
なかなか洒落た泥棒じゃないか」と喜んで出かけ、
帰ってきたら、家の中は空っぽ。何から何まで運び出された後だった――。
これは、イタリアであったという本当の話。
作家・井上ひさしも、イタリアの泥棒に一杯食わされたひとり。
 ミラノ空港で、隙をついて盗まれた鞄に入っていたのは、
帰りの航空券に筋子のおにぎり、
古書などを買うためにせっせと貯めてきた現金や、大切なノート…。

……鞄を盗られてしまった
日本に電話をかけると、イタリア暮らしの長かった井上の妻は笑い出した。
イタリアを甘くみたわね
イタリアは職人の国よ。だから泥棒だって職人なんです
 妻は続けて、夫にこう助言した。
これからは緊張した表情で行動することね。
引き締まった顔の持主は決して狙われないというから






イタリアの横顔④ピアニスト

シチリアの最も由緒あるホテル、<サン・ドメニコ・パレス>。
そのピアノバーの専属ピアニスト、キコ・シモーネが愛されたのは、
彼の奏でる素晴らしい音色のせいだけではなかった。
  アメリカに夢中になった青年時代。彼が見たイタリアのギャングスター。
  ライフワークでもあったマラソンへの挑戦。そして出会った女性たち…。
銀髪に大きな眼鏡、スマートで優雅なこの紳士の身の上話は、
どんな小説よりも面白かったという。

非常に多忙でも、ホテルでの演奏は欠かすことがなかった。
これは、生涯現役でピアノを弾き続けた彼の、91歳のときの言葉。

これまで4度の結婚をしましたが、どうも5度目を
年内にすることになりそうな話もありまして…

(忙しくて)どうしても演奏できないときは、82歳になる妹が代役で
弾き語りしてくれるのです。私より、ずっと上手いんですよ






イタリアの横顔⑤ 生ハム職人

イタリアのベルルスコーニ首相は、1シーズンにたった4本。
ベネトンのルチアーノ社長は、2年も前から予約して、ようやく2本。
サッカー・イングランド代表監督ファビオ・カペッロでも、
1本買えるか、買えないか――。
これは、北イタリアの小さな町に住む、
ロレンツォ・ドスヴァルドが作る生ハムのこと。
<幻のハム><イタリアにおける文句なしの最高品>と絶賛され、
順番待ちのリストは長くなる一方だが、売りに出される生ハムの数は
年間たった1500本。どんな有名人であろうとも、
自分の順番が来るのをじっと待つしかない。お金を積んでもダメ。
生産規模を拡大することを、ドスヴァルドは頑なに拒む。
現状で満足です。少量生産だがイタリアで最高品質の、
無敵の生ハムを作れるほうが、ずっと誇り高いことだと思います

楽しく質の高い仕事をすることが、彼の幸せ。
そして、同じくらい大切なのが、妻や子どもたちと楽しい時間を過ごすこと。
大金を手にするのと、家族といい関係を保つのとどちらかを選べと
言われたら、当然迷わず、私は家族を選びますね

ドスヴァルドは、無敵の父でもある。





イタリアの横顔⑥市民

イタリア・ボローニャの市長選挙を前に、候補者定めの市民集会に
参加した作家・井上ひさしは度肝を抜かれた。
檀上の候補者に次々と質問を突き付ける市民は、まるで刑事。
汗をかきながら必死に答える候補者は、容疑者。
壮絶きわまりない討論が繰り広げられる会場は、取調室のようだったから。
このような市民集会を選挙まで重ねて、市民は候補者の質を見極める。
候補者は鍛えられ、市長にふさわしくなっていく。
「市民の皆さんは、彼を候補者として認めたのでしょうか」
井上がたずねると、イタリア人通訳はこう答えた。
「彼は、客席を一度も笑わせることができなかったでしょう。
まだまだ鍛える必要がありそうね」





イタリアの横顔⑦ ボローニャ人

1945年4月。
ボローニャの人々はナチスドイツをはじめとする占領軍に対して、
何度もデモをおこない、ストライキをうち、やがて彼らと戦って、
自力で街を解放した。
赤煉瓦でできた美食の町として知られ、イタリア人も憧れる
現在のボローニャは、たくさんの犠牲によって守られた。

「守るべきものとは」「空疎な言葉や抽象概念ではなく、
具体的な人間や、目に見える景色のことです。
どこの国の人間でも、人間や景色のためには立ち上がるはずです」
「こうしたことはみな、ボローニャの街並みから教わっているように思います」
ボローニャへの愛にあふれた紀行文の中に
作家・井上ひさしが残した言葉が、いまとくべつ、胸をうつ。

「日常を守れ」

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小宮由美子 11年02月12日放送



お腹がすいてきた① 水上勉

幼い頃、京都の禅寺で暮らした作家・水上勉は、
精進料理の作り方を叩き込まれた。
食べ物を粗末に扱うことはゆるされない暮らし。
毎朝、畑と相談して、何もない台所から作れるものを絞り出した。

ある日、台所の隅に、ほうれん草の根っこの部分を
切り捨てたのを老師に見つかった。
叱られるでもなく、拾い集めた根を渡されて、水上少年は赤面する。

「いちばん、うまいとこを捨ててしもたらあかんがな」
老師の言葉に、禅の教えが重なった。
ほうれん草の柔らかい葉も、固い根っこも、平等のいのち。
どっちを尊び、どっちをさげすむことがあってはならない。

後年、水上は『土を喰う日々』の中にこう書いている。

ぼくはそれ以来、今日にいたるまで、たとえば、料理屋や、
呑み屋などで、ほうれん草のひたしが出ると、根をさがすのだ。






お腹がすいてきた② 藤田嗣治

女優・高峰秀子が、
パリに暮らす画家・藤田嗣治を訪ねたときのこと。
長く祖国を離れている嗣治に、秀子は聴いた。

「日本の何が食べたいな、と思いますか?」

「根三つ葉、しその葉、みょうが、ふきのとう、
柚子に筆しょうがにくわいに納豆、…」


たちどころに十品ばかりを口にした嗣治のことを、
秀子はエッセイの中でこんなふうに言っている。

レオナルド・フジタなんて名前になって、すっかりフランス人に
なっちゃったけれど、藤田先生ほど「日本人」だった人はいない。






お腹がすいてきた③ 向田邦子

作家・向田邦子は料理を作るのが好きだった。
作った料理を食べてもらうことは、もっと好きだった。

よく家に人を招いてもてなした。
メニューの多くは、気取りのない「いつものおかず」。
不意の来訪にも、心づくしの品が並んだ。
たとえば、寒い夜に訪れた来客には熱いほうじ茶と、
冷蔵庫に作りおきしてあるさつまいものレモン煮を。
夕食を食べはぐれた若いディレクターには、
有り合わせを工夫したお腹の足しになるものを。

「善はいそげ。私はつくりたい料理をつくるとき、
原稿の締切が迫っていて、本当は料理に励むより
字を書かねばならないとき、自分にこう号令をかける」


そんな邦子だから、気づくと原稿用紙にお品書きなどを
連ねてみたり、作ってみたいレシピを書き留めたり。

いつ原稿が出来上がるのかと気を揉んだ人もいたろうが、
温かいもてなしに心満たされた人もまた、大勢いたことだろう。





お腹がすいてきた④ アーン・バックストロム

アルプスの山々に囲まれたスキーリゾート、シャモニー。
フリースキーヤーとして、輝かしいキャリアを築いていた
アーン・バックストロムは、
仲間とともにこのシャモニーの凍りついた岩山を自力で登り、
命の危険をはらんだ伝説的なラインに挑もうとしていた。

辿り着いた岩の峰から、アーンは遂に滑り出す。
烈しい斜面。延々と続く雪の急カーブ。
スピ―ドをあげ、ターンを刻みつづけるアーンの中に、やがて
「山が与えてくれる力強い感情」が生まれる。
「自分がどんなに些細な存在であるかを再確認」し、同時に
「自分の存在を強烈に」感じる瞬間。

この冒険について語ったエッセイ「重力にまかせて」を
締めくくるのは次の一文だ。

2,700メートルの標高を下り、着込んでいたレイヤーを
剥ぐように脱ぐと、Tシャツ姿でバーに行く。美しい春の午後、
ビールとエスプレッソがこれまでにないほど美味しく感じられた。






お腹がすいてきた⑤ ジョエル・ロブション

私の母は、夜の食事にもしばしばクレープを作ってくれました。
そして、ちょっとしたいたずらをして遊ぶのです。
母は、2枚のクレープの間に適当に糸を隠し入れておく。
すると、誰かがそれを間違って口に入れてしまう。口をもごもご
しないわけにはいかず、それを見て、皆で大笑いするのです


ジョエル・ロブションの幼いときのエピソード。
「地球上で最も有名な料理人」のひとりとうたわれる彼の<食の喜びは>、
慎ましくあたたかな家庭の食卓で、こんな風に培われた。





食のよろこび⑥ クロード・オスカール・モネ

画家・モネは、庭づくりを、そして、食べることを愛した。

理想の食卓を実現するため、
家族や料理人に、材料や調理法を厳しく指示し、
美味しいタルトを目当てに小旅行を企画することもあった。

「例のジロール茸のレシピを送ってもらえると嬉しいのですが。
 今ちょうどこのキノコがたくさん生えていて、
 私の中の食いしん坊が、あなたにレシピを聞けと催促するのです」


友人の家で気に入った料理と出会えば、モネは手紙で
作り方をたずね、6冊にも及ぶレシピノートを残した。

夕食はいつも19時半。
食事の時間を知らせる銅鑼(どら)が鳴らされると、
大家族でテーブルを囲んだ。
モネにとって、一日のうちの至福のひとときだったに違いない。







お腹がすいてきた⑦ 高峰秀子

早春の味の楽しみは、「蕗の薹(ふきのとう)」のホロ苦さに始まる。

とはじまる女優・高峰秀子のエッセイは、読んでいるだけで美味しそう。

ぐらぐらと煮え立つお湯に多めの塩をふり、蕗の薹を入れ、
サアーッと緑が冴えるのを見る。茹で上がったら水でさらして
こわれないようにそうっと絞る。あとは、酒とみりんと薄口醤油に
だし汁を加えて、ふんわりと煮るだけ。お椀に3個ほど盛って
食卓に置けば、さわやかな匂いの漂う春のお膳の出来上がり。

生きている内に、あと何回、蕗の薹に会えることかしら?
ふっと、そんなことを考えながら口に含むと、
ホロ苦さがいっそう身にしみるようだ。


秀子の言葉に、食と人とも、一期一会だということを気づかされる。

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小宮由美子 11年01月22日放送



本を愛して① ウィリアム・ユーアート・グラッドストン

4回にわたってイギリスの首相をつとめたグラッドストン。
彼は、責任の重みに押し潰されそうなとき、
次の3つの気晴らしの方法のうちのどれかを実行した。

大きな木を斧で切り倒すか。
ロンドンの町を歩き回って売春婦と話をするか。
本の整理をするか。

中でも本の整理は、お気に入りだった。
彼はいつも大量に本を買い、その本を本棚におさめる作業に没頭した。

心から本を愛するものは、命あるかぎり
 本を家へおさめる作業を人まかせにはしないだろう


グラッドストンの遺作となったエッセイのタイトルは
『本とその収納』。1898年、彼が世を去った直後に出版された。








本を愛して② 一柳齋柳一


明治の末から、大正、昭和のはじめにかけて活躍した
寄席芸人、一柳齋柳一。
九代目團十郎に似た、苦み走った渋い男前。
偉い人間がキライで、筋っぽい若手の噺家をかわいがった。

彼は皿回しの名人だったが、非凡な記憶力に恵まれ、
ときおり寄席で記憶術を演じ、拍手喝采を浴びた。

本が好きで博学、楽屋では「先生」と呼ばれていた柳一。
しかし意外にも、柳一は蔵書というものを持たなかった。
一度読むと、内容のことごとくを覚えてしまったから、だという。





本を愛して③ 私および友人たちに

かつて本は、人の手によって
何年もかけて書き写されることで作られた。
そのため非常に高価で、購入には一財産が必要だった。

「本を盗むべからず」
持ち主たちが、蔵書に有名な呪いの言葉を書き留め
泥棒よけとしたのも、無理のないことだった。

やがて印刷技術が生まれ、図書館が全盛期を迎えると
本に添えられる言葉も変わった。
ヴィリバルト・ピルクハイマーのコレクションの
蔵書票には、次のような言葉を見つけることができる。

<私および友人たちに>

文学という宝物を公開し、みなで分かち合うという思想は、
イタリアから始まり、やがて世界に広まっていく。





本を愛して④ 少年と古書店主

少年が、美しく彩られた中世の彩飾写本のとりこになったのは
15歳のときだった。
手持ちの小遣いは5ポンドあります。彩飾写本を売ってください」と、彼はロンドンの古書店に片っ端から手紙を出したが、返ってくるのは
当然のことながら、そっけない、ないしは慇懃なお断り。
その中で、ただひとりの古書店主が、長い手紙を少年に送った。

5ポンドでは何ほどのことも出来ないが、がっかりすることはない

古書店主が同封してくれたカタログのコピーは、
少年の写本への興味と憧れを掻き立てるには十分なものだった。

この古書店主は、アラン・トマス。
世界中に顧客を持ち、自分の好みに徹したコレクションを
残したことでも知られる深い学識の持ち主。
そして少年は、クリストファ・ド・ハーメル。
のちのロンドンのオークション会社、サザビーズの
中世写本部門の責任者となる人物である。





本を愛して⑤ 中井履軒 

本という存在は、人を楽しませ、人をとりこにし、
そして、人を正す。
江戸時代を生きた儒学者、中井履軒(なかいりけん)は
晩年、視力を失ってからも、
常に論語をひらき、机の上に置いていた。
不思議に思った人がその訳を尋ねたところ、
たとえ目が見えなくとも、聖なる教典が置かれてあると思えば、
自ずから心がひきしまるからだ、と履軒は答えたという。





本を愛して⑥ 作家のペンネーム

知人の珍しい苗字を拝借して「太宰治」。

エドガー・アラン・ポーにあやかって「江戸川乱歩」。

極めつけは、
目をつぶって電話帳を開き、
鉛筆で突いたら里見とあったので、「里見弴」。

後世に名を残す作家たちのペンネームの付け方は軽妙で
遊び心が効いている。

小説を書いてみたいと思って、なかなか筆をとれないときは
ペンネームから考えてみるのはどうだろう。
分身のもつ筆のほうが、なめらかに滑り出すかもしれない。





本を愛して⑦ ジョン・ダントン

17世紀、ロンドンで本屋を営んでいた男、
ジョン・ダントン。
幸せな結婚生活を送っていたが、その期間はあまりにも短かった。
妻が若くしてこの世を去ってしまったのだ。
だが、ダントンは半年後には再婚。
心変わりの早さをこんなふうに表現した。

ただ人を代えたというだけなのだ。
それで我が家における女性の徳の質に変わりがあったわけではない。
二人目の妻は、最初の妻のいわば増補改訂版であり、
新装版であるとも言えようか


ユーモアがあるというのか、正直すぎるというのか。
意見が分かれるところではある。

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小宮由美子 10年09月18日放送



ハワイアン・ヒストリー
〜フラの母、マイキ・アウイ・レイク


現在活躍している多くのフラ指導者を育て、
「フラの母」とも呼ばれるマイキ・アウイ・レイク。

彼女が、生前いかに魅力あふれる、愛された女性だったかを
知る手がかりは、フラソング『プア・リリレフア』の中にある。

 あなたはどこに
 リリフレアの花よ
 大切なあなたを想う気持ちで
 僕の頭はいっぱいだ


今も歌い継がれ、踊り継がれるこの切ない名曲は、
ひとりの男性からマイキに捧げられた、ラブレターなのだそうだ。





ハワイアン・ヒストリー
〜キャプテン・クックの出会った住民


「彼らの視線はさまざまなものの間を
 きょろきょろと動き回った。
 見慣れない物を前にした時のそのふるまいを見ていると、
 彼らが驚嘆していることは歴然とわかった。
 かつて一度も船という物に乗ったことがないのは明らかだった」


1778年、ハワイ諸島に上陸したキャプテン・クックは、
島の住民たちの様子をそう記録している。

初めて出会うヨーロッパ人たちに、ハワイの人々は友好的だった。
最初はカヌーで、おそるおそる艦隊の船を遠巻きにしていたが、
翌日になるともう、船の中に乗り込んでいったという。

彼らが最初に取り引きしたものは、
真鍮のメダルと一尾のサバ。

この出来事を境に
やがて、ハワイの歴史は大きく変わっていくことになる。





ハワイアンたち
〜ギャビー・パヒヌイ


ギターの弦をゆるめて、独特の響きを作り出す
「スラッキー・ギター」。

19世紀末に、ハワイのカウボーイたちが好んだ演奏方法だが、
やがて衰退。それを復活させたのが、ギャビー・パヒヌイだった。

1955年、ハワイ語で歌った『ヒイラヴェ』が大ヒット。
ネイティブ・ハワイアン文化の復興をねがう人々に
ギャビーは熱烈な支持を受けた。

音楽での成功が、経済的な成功に結びつくことはなく、
生涯、建設現場の労働で生計を立てていたというギャビー。

同時代のミュージシャンたちに尊敬され、愛され、
いつも、たくさんの人たちに囲まれていたというギャビー。

彼の音楽はいま、世界的に高く評価され、
ギタリストになった彼の息子スィロにも、その魂が受け継がれている。





ハワイアン・ヒストリー
〜ナイノア・トンプソンと、ホクレア号


星と太陽。風と、うねり。海面の色や、空を飛ぶ鳥など、
自然が与えてくれるサインだけをたよりに大海原を航海する
「スターナビゲーション」。
古代ポリネシア人が数千年前から継承してきたこの伝統航海術で
<ホクレア号>は、いくつもの航海を成功させてきた。

最新の技術に頼らずに、あえて古来の技に従い、昔ながらのカヌーで漕ぎ出す。
クルーとして乗り込むハワイアンたちにとって、それは勇敢に海を渡って世界
を広げてきた先祖の文化の継承であり、その精神を学ぶこと。

「この世の中で起こっているドラマの、その向こうを見ることが
 できる人間が必要なんです」

そう語るのは、ホクレア号の航海士、ナイノア・トンプソン。

「伝統を蘇らせるのは大事だが、それを教育によって次の世代に
伝えるのは、もっと大事だ」
「それが、ホクレア号の航海の、本当の目的だ」

今、ハワイの若い世代にとって、クルーになることは憧れ。
オアフでは今日も、選ばれた候補たちが、次の航海に向けた
厳しく長いトレーニングを積んでいる。





ハワイアン・ヒストリー
〜摂政カアアフマヌ


 女も、バナナを食べていい。
 男と女は、一緒に食事をしてもいい。


それまでハワイにあった宗教的なタブーを変えたのは、
カアアフマヌという女性だった。
大王の21人の妻の中で最も愛され、信頼されていたという
彼女は、まず自分でそのタブーを破ってみせた。

民衆も、この変化を受け入れた。
タブーを破っても、雷は鳴らなかったし、
神の怒りが下ることがなかったから。

1819年。ハワイの近代化が始まろうとしていた頃の話。







ハワイアン・ヒストリー
〜カメハメハ大王


「醜いと呼んでもいいほど勇猛な顔立ち。だが、非常に知的で
 観察力に富み、良い性格をしている」


ハワイに上陸したキャプテン・クックの部下、ジェイムズ・キングは、
当時、青年だったカメハメハを、こうあらわしている。

1753年頃、ハワイ島の北部で生まれ、
ずば抜けた体力と知力で頭角をあらわしたカメハメハ。

のちに、歴史上はじめてハワイ諸島の統一を成し遂げ、
ひとつの王朝をつくりあげた彼の写真は、残っていない。

銅像や肖像画はいくつも残されているが、どれも顔が違う。
戦いのないハワイの黄金時代を築き、
民衆からも愛されたという王は、どんな顔立ちをしていたのだろう。

1819年5月8日、カメハメハは世を去った。
墓所は秘密にされ、今も知られていない。





ハワイアンたち〜
リリウオカラニ


あの、有名な『アロハ・オエ』。
作曲したのが、ハワイ王国最後の女王だということは
あまり知られていない。

リリウオカラニ。

彼女が、王であった兄のあとを継いで即位したとき、
力を増しつつあったアメリカ勢力によって、
ハワイ王国は崩壊寸前だった。
1895年、ハワイの復権を試みて、武力蜂起が起きるが、
簡単につぶされる。リリウオカラニは、白人勢力に対する
反乱の首謀者として逮捕され、軟禁された。
ハワイ王国の滅亡。

そんな激動の人生の中で、
リリウオカラニが残した『アロハ・オエ』。
別れを歌うこの曲は、
アメリカへ吸収されていく祖国への悲しみの歌ともいわれている。

 甘い記憶が私に帰ってくる
 過去の思い出が鮮やかに蘇る
 親しいものよ、おまえは私のもの
 おまえから真実の愛が去ることはない
 アロハ・オエ、アロハ・オエ

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小宮由美子 10年08月28日放送



妻たち〜 山口(安田)静江

詩人・山之口獏の生活は貧しかった。

戦後、貧乏を語る専門家のようにマスコミにひっぱりだされたことも
手伝って、生活の苦労は一躍有名になってしまう。

妻である静江は、新聞記者やアナウンサーから
不躾な質問を浴びせられた。

「逃げ出したいと思われたことは何度かあったでしょうね?」

それに対して、
静江は詩人の妻としての矜持に溢れた返答をしている。

「貧乏はしましたけれど、
 わたくしたちの生活にすさんだものはありませんでした。
 ともかく詩がありましたから…」








妻たち 〜中川暢子

似た者夫婦という言葉があるが、
正反対の夫婦もある。

中川一政は、
女房となった暢子を画家らしい視点から観察した。

「どうも自分の女房は人が好きらしい。
 私の家へ客が来る。客がくれば食事をする。
 面倒くさいだろうと思うのだが、長年の間、
 そういうことで嫌な顔をしたことが一度もなかった」


麦や胡瓜は食べるが、その生態には興味がない。
鳥や樹木を愛でるが、その名前にも興味がない。
黙々と知識を得るより、人とのかかわりによって生き生きとする妻。

「私は考えた。私の女房は人生派である。
 私は自然派であると。
 その極端が夫婦になったのだと」


「さみしい家庭」に育ち、人を怖れていたと語る一政。
暢子への視線には、自分にないものを持つ妻への
信頼と憧れとを感じることができる。





妻たち〜節子・クロソフスカ・ド・ローラ

「夫婦の愛というのは、それぞれの夫婦によって
 築いていくものが違います」


この一文からはじまる「愛について」という随筆の書き手、
節子・クロソフスカ・ド・ローラ。

2001年にこの世を去った画家・バルテュスと
彼女の場合、それは<仕事>だった。

「私はバルテュスという人間と、彼が作る作品を愛しました。
 美しい作品を生むためには何でも受け入れることができる、という
 気持ちがあったことが、長く続く基盤になったのです」


最期の別れのとき、
節子は昏睡状態にある夫・バルテュスの耳元にそっとささやいた。

「今まで何から何まで本当にありがとうございました」
「再婚はいたしませんよ」


そう付け加えると、バルテュスの口元が、微笑んだという。





妻たち〜 西武子

西武子は、夫を、硫黄島の戦いで亡くした。

夫の名は、バロン西こと、西竹一。
男爵家に生まれ、莫大な財力と華やかな容姿、
人を魅了してやまない独特の魅力に恵まれた男。
その竹一に嫁いだのが、名家に生まれ、美貌の人だった武子。
のちに竹一はロサンゼルスオリンピックの馬術競技で金メダルを獲得し
さらに輝かしい栄華に包まれるも、太平洋戦争、勃発。
二人もまた、時代の渦にのみこまれていく。

生前の栄光と、過酷な戦場であった硫黄島での戦死という
壮絶なコントラストによって、死後も注目を集める竹一。
周囲が特別な視線を遺族に浴びせ続ける中で、
女手ひとつ、のこされた一男二女を育てあげた武子は、
後年、次のような文章を残している。

「戦後、花やをやり、デパートでもんぺをはいて、
 売り場に立ったこともあります。もとの知人が私を見て、
 『気の毒で声をかけられなかった』と、あとで聞きましたが、
 残念でした。私にとっては当たり前のことでしたのに」


西武子は、昭和53年に亡くなった。73歳だった。
年を重ねたときの彼女は落ち着いた気品があり、
若いときよりさらに美しかったという。





妻たち〜 吉野きみ子

戦「おまえなんか、酒田へ帰れ!」
と、押し入れからトランクを引っぱり出す夫・弘(ひろし)。
「ええ、帰ります!」と、トランクに物を詰め始める妻・きみ子。
「まあ、まあ」と、そこに同居の父が割って入って事なきを得る。

吉野家で繰り返された、夫婦喧嘩の一場面。
互いに気持ちをわかっていながら、時に烈しくぶつかり合う。
ぶつかりながら、長い年月をかけて信頼を築く。
そんな、妻・きみ子との夫婦生活の中から、詩は生まれた。

 二人が睦まじくいるためには
 愚かでいるほうがいい
 立派すぎないほうがいい
 立派すぎることは
 長持ちしないことだと気付いているほうがいい…


結婚式で、新しい門出を迎えたふたりに贈られることの多い『祝婚歌』。
夫である、詩人の吉野弘の作による。





妻たち 〜グラフ

「あなたの直感を信じればいいのよ」
「僕の直感は、僕のことを信じていないんだ」


夫婦そろって、世界no.1プロ・テニスプレーヤーで
あったことで知られる、アンドレ・アガシとグラフの会話。

ふたりの考え方は、まったく違う。
「そこが、結婚生活がうまくいっている秘訣なんだ」とアガシは言う。

彼が長年に渡ってテニス界のトップに君臨し続けることが
できたのは、同業者であり、考え方の違う、この妻の存在が
大きかったといわれている。





妻たち 〜檀ヨソ子

「あるとき、檀のことをどのくらいわかっていたと思うかと質問された。
 それに対して、私は傲慢にも、檀の気持ちのかなりの部分は
 わかっていたと思うと答えてしまった。たぶん10のうち7か8は、と。
 だが、本当は何もわかっていなかった」


檀ヨソ子が、夫である作家・檀一雄の代表作『火宅の人』を通読したのは、
檀の17回忌を過ぎた後だった。
愛人との暮らしを綴った私小説ともいえるその内容は、
妻であるヨソ子にとっては堪え難いものだった。

ヨソ子はその苦悩を、インタビューを受けるかたちで、
『檀』という一冊の本に記す。
過ぎ去った日々の記憶に傷つき、
夫の死後に知る、夫婦の距離に茫然とするヨソ子の心情が
率直に書かれた本の中には、
だが時に、夫と妻の間だけで交わされた、甘い思い出が滲む。

一年に渡るインタビューによって書かれたというその本は、
ヨソ子のこんな言葉によって締めくくられている。

「あなたにとって私とは何だったのか。
 私にとってあなたはすべてであったけれど。
 だが、それも、答えは必要としない」

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小宮由美子 10年07月31日放送



海に生きる人 1

世界初のサーフィン専門雑誌『SURFER』を創刊した人物、
ジョン・セバーソン(John Severson)。
情報の少なかった時代に、雑誌は話題を呼び、
世界中のサーファーたちに支持された。

1971年に雑誌の版権を売却したあと、
ジョンは、サーフィンをしながら
家族と落ち着いて暮らせる地を探し、
世界各地を15年近くも旅し続けた。

ジョンは言う。

 「どこへ旅してもサーフィンが言葉の代わりをしてくれた。
 言葉が通じなくても、サーファー同士はハートが通じ合えるから
 世界中に生涯の友達ができたよ」


ハワイのマウイ島。
彼はいま、やっと見つけた定住の地で波とともに生きている。





海に生きる人 2 

レル・サン(Rell Sun)。

女性プロサーファーのさきがけであり、
そのエレガントなサーフスタイルと美しい生き方から、
「クイーン・オブ・マカハ」と讃えられる伝説の人。

彼女は癌と診断され、余命一年に満たないと告げられても
サーフィンを辞めなかった。

初心者にはにこやかに波をゆずり、自由に、優雅に波に乗る。
立ち上がる体力がなくなってからもボディボードにつかまった。
海に入れば、いつだって笑顔を見せた。

彼女がよく口にしていたという言葉がある。

 「ハワイのアロハ・スピリット。
 それは、本当にシンプルなこと。
 与えて、与えて、そして与える。
 心から与え続けること。
 何も、与えるものがなくなるまでね」









海に生きる人 3

1967年のその日
ハワイ・ノースショアには荒波が押し寄せていた。

誰がこの巨大な波に乗るのか?
海の烈しさに、ただ立ち尽くすサーファーたち。
固唾を飲んで見守るギャラリー。そのビーチに降り立ったのが
エドワード・ライアン・マクア・ハナイ・アイカウ。
通称、エディ。

彼は、いつもと変わらぬ様子で沖へと向かい、
落ちれば命は助からない荒波の頂点から、一気にボードを滑らせた。
その姿は、踊るように優雅だったと伝えられる。
見事に波を乗り切ったエディの名は島中をかけめぐり、
やがて世界中のサーファーの耳に届いた。

その後、船の遭難事故によって33年の短い生涯を閉じた
エディだが、彼は今も「勇者の代名詞」。
大波にチャレンジするハワイアンサーファーたちの間で
語られる合言葉にも登場する。

“Eddie would go.”
エディなら行くぜ。





海に生きる人 4

5階建てのビルほどの巨大な波を乗りこなす
ビッグウェイブ・サーファー、
レイアード・ハミルトン(Laird Hamilton)。

落ちれば命の危険すらある波の表面を、
彼はマッハ40のスピードで降りていく。
その超人的なパフォーマンスを見て
「あなたは恐れを知らない」と言った人に、
彼はこう返したという。

 「僕にとって、恐怖は敵じゃない」
 恐怖心があったからこそ僕は進歩してきた。」


人間が生まれながらに持つ恐怖心。
それをなくそうとするのではなく、むしろ
他人以上に持っていたい、というレイアード。
彼の「恐怖」には、海に対する畏敬の念も含まれる。

 「ビッグウェイブに乗ったとき、
 自分の内に広がるのは謙虚な気持ちだけ。
 とても対抗できない力を目の当たりにして、
 自分のちっぽけさを知る。
 海はいつだって僕らにサインを送ってくるんだ。
 常に、謙虚な気持ちを抱き続けるように、とね」






海に生きる人 5

13年間にわたってワールドツアーをまわり
常に上位にランクインしてきたトップ・サーファー、
ロブ・マチャド(Rob Machado)。

ツアーを引退してから彼が夢中になったのは、
すべてのサーフボードの原型といわれる『アライア』に乗ることだった。
板きれにしか見えないこのシンプルなサーフボードは、
経験豊富なサーファーでも乗りこなすことが難しい。
そのことが、彼のチャレンジ精神をかきたてた。

 「アライアに乗ることは、僕にとって素晴らしい経験になった。
 自分をビギナーの気持ちに戻してくれたからね」


自分にできないことこそが、新しい世界の入り口になる。
できないからこそ、楽しみがある。
マチャドは、それを知っている。

 「よく考えてみると、波に乗るなんて魔法みたいだ」

誰もが憧れる輝かしい経歴の持ち主でありながら、
彼は今も、そんなことを口にする。

挑戦する。そして、楽しむ。
サーフィンは、終わらない。





海に生きる人 6


 「決して水を怖がらず、
 出来るだけ遠くへ行ってごらんなさい」


母は、幼い息子にそう言い聞かせていたという。
そして少年は、たぶん、そのとおりに従った。

のちのオリンピック水泳競技の金メダリスト。
サーフィンの魅力を世界に広め、
近代サーフィンの父と讃えられることにもなった
デューク・カハナモク(Duke Kahanamoku)。
彼の生涯は運命づけられたものだったのかもしれない。

海と出会う季節に。






海に生きる人 7

パドルアウト。
サーフボードの上に腹這いになり、手で漕ぎながら
沖に向かっていくこと。

サーファーたちは、波に乗るために
このパドルアウトを繰り返す。

サーフィンの神様とまで言われるサーファー、
ジェリー・ロペス(Jerry Lopez)が、はじめての挑戦のときに
友人から贈られ、今も大切にしている言葉がある。

 『悩むぐらいならとりあえずパドルアウトしてみろよ』

ジェリーは、自伝に記している。
サーフィンから学んだ多くのことは、サーフィンだけでなく、
人生についての教訓だ、と。

彼はその言葉を、今度は私たちに向けて贈ってくれる。

 「次の一歩を踏み出すときや、
 新しい世界や道を自分の前に開いていきたいけれど、
 いまだに踏みとどまっているようなとき、
 私が友からもらった言葉をぜひ思い出してほしい」


 「悩むくらいならとりあえずパドルアウトしてみろよ」

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小宮由美子 10年06月19日放送



アルゼンチンの人々

観客も、ピッチに立っている。

78年のワールドカップ。
地元アルゼンチンは、オランダとの決勝戦に勝ち進み、
スタジアムの熱気は最高潮に達していた。

しかし、試合終了間際に同点ゴールをゆるし、
手中にしかけていた優勝は、一気に遠ざかる。

沈む選手たちを鼓舞したのは弱冠34歳の監督、メノッティの言葉だった。

「回りを見渡してみろ。
 われわれは8万人、相手はたったの11人じゃないか!」

選手たちの顔に、輝きが戻り、
ベンチのあちこちから、自然に声があがった。

延長戦、アルゼンチンは2つのゴールを叩き出し、
オランダを圧倒。
国中の人々と、勝利の美酒に酔いしれた。





バッジョ

イタリアが生んだサッカーの至宝、
ロベルト・バッジョ。

彼がスーパープレイヤーだからこそ、
94年のワールドカップ決勝戦でのPKの失敗は、衝撃的だった。

98年、ワールドカップ準々決勝。
ふたたびPK戦にもつれこんだイタリア。
最初のキッカーとなったバッジオは、
4年前の悪夢を振り払うかのように、ゴールを決める。

だが、歴史は繰り返す。

最終キッカー、ディビアッジョが、PK失敗。イタリアは敗北した。

そのとき、誰よりも先にディビアッジョに駆け寄ったのが、バッジョだった。

 「PKを外すことができるのは、
 PKを蹴る勇気を持った者だけだ」


成功も、失敗も知っているバッジョの言葉は
いまも重く響く。





スコットランドの人々

ワールドカップ。
数々のドラマが生まれる夢の舞台で、
人々に感動を与えるのは、勝者だけではない。

スコットランド・グラスゴーにあるパブ
『アイアンホース』の壁に掲げられたサッカーユニフォームには、
次のような言葉が書かれているという。

 スコットランド、
 我々のもっとも大きな誇り、
 それは決して倒れないことではない
 倒れるたびに起ち上がる、
 それが誇りだ


数々の激闘を繰り広げ、負けてもなお、挑み続ける。
その選手たちの姿こそが、
祖国の人々の魂をふるわせ、明日への力を与えている。









ワールドカップ。

ごく一握りの、選ばれた者だけにゆるされた最高の舞台。

そのピッチに立つ選手たちの矜持を、
かつてイングランド代表のストライカーだった、
アラン・シアラーの言葉があらわしている。

「イングランド代表の白いシャツは、お金では買えない」

祖国への誇りを胸に戦いに挑む、
すべての選手に、幸あれ。





ペレ

 「泣かないで、お父さん」
 
1950年、地元ブラジルが
まさかの逆転劇で優勝を逃した、ワールドカップ最終戦。
いわゆる、「マラカナンの悲劇」。

打ちひしがれ、涙を流す父親に、9歳の息子は、こう言ったという。

 「泣かないで、お父さん。
 僕が大きくなったら、ワールドカップをとってあげる」


8年後。
17歳になった少年は、本当にワールドカップの舞台に立ち、
5本のシュートを決めて活躍。
ブラジルをワールドカップ初優勝へと導き、
父親との、あの日の約束を現実にした。

少年の名は、ペレ。

その後、ブラジルを3度の優勝へ導いた、
サッカーの歴史に名を刻む英雄。


ワールドカップは、たくさんの夢物語を生む。

未来の英雄は、今年も
世界中の街のどこかで誕生しているかもしれない。


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小宮由美子 10年05月09日放送



ある選手

 「ナンバーワンのプレッシャーは
  経験した者でなければわからない」


かつて、世界ランキング1位の
テニス・プレーヤーだった
ジョン・マッケンローは、こう語っている。


 「いつも何かに脅かされているんだ。その間、
 楽しさを覚えたことなんて一度もなかった。
 例えて言うなら、断崖絶壁に立ち、
 強風を受けているようなもの。
 力いっぱい踏ん張っていなければ
 すぐに下に落っこちてしまう」と。


それだけのプレッシャーに身を晒しながら
世界のトッププレーヤーが
頂点をめざして戦うグランドスラム
今年も、目が離せない。





ある園芸家


手のかかることがうれしい。
待ちどおしくて、たまらない。

カレル・チャペックの本『園芸家12ヵ月』は
植物を育てる人だけが知るよろこびに溢れている。

たとえば、庭をつくりだすと
「ものの考え方がすっかり変わってしまう」と、彼は書く。


 「雨が降ると、庭に雨が降っているのだ、と思う。
 日が射すときも、ただ射しているのではない、
 庭に、日が射しているのだ、と思う。
 日がかくれると、庭が眠って、
 今日一日の疲れを休めるのだ、そう思って、ほっとする」


5月。
世界中の園芸家たちにとって素晴らしい季節が
また、巡ってきた。










ある芸術家


古い書物、
ガラスの小瓶、白い球体や、
バレリーナのチュチュの切れ端…

素材のコラージュによって、
小さな空間の中に詩的な世界をつくりだした
<箱の芸術家>、ジョゼフ・コーネル。

彼は、国内外で名声が高まったのちも
周囲の人々と一定の距離を保ち続け、
生涯、ニューヨークのベイサイドにある
木造家屋の地下室で、静かに作品をつくり続けた。

しかし1972年、心臓発作でこの世を去るその日の朝、
コーネルが電話で妹に打ち明けたという言葉は、
孤高の芸術家の胸の内を、そっと教えてくれる。


 「今まで内気にふるまいすぎた」





ある作家



 「20代の私は、時計の奴隷でした」


作家・向田邦子は、そう告白する。

待ち合わせの時間に相手が遅れると、きつい言葉でなじる。
自分自身を追い立てては、
「また一日を無駄にしてしまった」という口惜しさに焦れる。

実際、数々の素晴らしい作品を残しながら、生きることを謳歌し、
51年の人生を駆け抜けていったようにみえる彼女。
だが、死の数年前に書いた『時計なんか恐くない』という
エッセイの中に、若き日の自分の姿をふりかえりながら、
こんな言葉を残している。

 「時計は、絶対ではありません。
 人間のつくったかりそめの約束です。

 もっと大きな、『人生』『一生』という目に見えない大時計で、
 自分だけの時を計ってもいいのではないでしょうか。
 
 若い時の、『ああ、今日一日、無駄にしてしまった』という絶望は、
 人生の大時計で計れば、ほんの一秒ほどの、素敵な時間です」






あるダンサー



 「長いあいだ作品を作り続けてきましたが、
 身体の奥底から取り出して表現したいことが
 まだまだ沢山あります。
 それは言葉にできないけれど、私の身体から
 決して、消えてなくならないものです」


2004年の来日公演の際に、
ピナ・バウシュが語った言葉。

ヴッパタール舞踊団を率いる振付家であり、
稀有なダンサーでもあった彼女。

数々の独創的な作品を生み出し、
世界に衝撃を与え続けたその繊細な身体は、
2009年、病に倒れた。

けれども
ピナ・バウシュの意思は
多くのダンサーのなかに残された。

彼女は、いま、失われた身体によって、
生きることの価値を私たちに投げかける。





ある王妃


バラの名前になった女性たちがいる。

Joséphine de Beauharnais(ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ)
も、そのひとり。

250種類ものバラを城の庭に植え、
歯並びの悪さを隠すために、いつもバラを
手離さなかったといわれる、ナポレオンの最初の妻。

皇后としてより、<ジョセフィーヌ>という
バラの一種として人々の口にのぼることは、
バラを愛してやまなかった彼女にとって
幸福なこと、かもしれない。




ある音楽家


ある日、青年は、バルセロナの港近くにあった
古い楽譜店に、何気なく足を踏み入れた。
しばらく物色していると、角が擦り切れ、色褪せた
1冊の楽譜が目に飛びこんだ。

表紙に書かれた文字をみて、彼は自分の目を疑う。
高鳴る胸の動悸をおさえ、譜面を追った。
「その音符は、王冠を飾るいくつもの宝石のように思えた」と
後に彼は語っている。

楽譜をしっかりと抱きかかえて家路についた彼は、
それから一日も休むことなく、曲と向き合う。

12年の歳月を経て、その時がやって来た。
遂に彼は、聴衆の前での演奏を決意する。
そして、単なる「練習曲」とみなされていた曲の
真の価値を示し、絶賛を浴びた――

唯一無二のチェロの名手、パブロ・カザルスと、
彼に揺るぎない名声をもたらすことになる
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲<無伴奏チェロ組曲>との
数奇なほどに運命的な、出会いの話。


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