‘松岡康’ タグのついている投稿

松岡康 17年12月24日放送

171224-01

大きすぎたプレゼント

今夜はクリスマスイブ。
たくさんの人が贈り物を用意しているだろう。

土佐の戦国大名、長宗我部元親。
彼は豊臣秀吉に驚きのプレゼントをしたという。

天下人となった秀吉の元には
毎日大名たちから贈り物が届いていた。

秀吉の懐に入りたい元親は、
なんとクジラをプレゼントしたのだ。

地元土佐で獲れたクジラを大坂まで送り、
同時に土佐料理もふるまった。
派手好きの秀吉は大喜びしたという。

クジラ。なんとも迫力のあるプレゼントだ。

topへ

松岡康 17年12月24日放送

171224-07

100年後の恩返し

1985年イラン・イラク戦争。
フセインは、48時間後からイラク上空を飛ぶ飛行機を
無差別に攻撃すると宣言を出した。

イラクの日本人を救出しなければならない。
その時、トルコ航空の飛行機が来て日本人全員を救出した。

なぜトルコなのか。
当時の駐日大使であるウトカン氏は語った。

 100年前和歌山県沖で起きたエルトゥール号の事故に関して
 日本人がしてくださった献身的な救助活動を、
 今でもトルコ国民たちは忘れていません。
 だからこそ、テヘランで困っている日本人を助けようと、
 トルコ航空機が飛んだのです

イラクに来た飛行機は
100年前に起きた事故の恩返しだったのだ。

topへ

松岡康 17年10月15日放送

171015-06

ニーチェ SNSとニーチェ

173年前の今日は、
哲学者ニーチェが生まれた日。

彼が残した言葉は、SNS社会を生きる私たちにも
様々な示唆を与えてくれる。

彼は友人についてこう語っている。

 できるだけ多くの友人を欲しがり、
 知り合っただけで友人と認め、
 いつも誰か仲間と一緒にいないと落ち着かないのは、
 自分が危険な状態になっているという証拠だ。

SNSでかんたんに友達になってしまう。
友達から、ついついイイね!を欲しがってしまう。

今の私たちを見てニーチェだったらなんというだろうか。

現代にこそ、彼の言葉は必要なのかもしれない。

topへ

松岡康 17年8月27日放送

170827-02

最高のサーファー

今やオリンピック競技となり、多くの人が楽しむサーフィン。
実は一度、この世から消えそうになった歴史がある。

1821年、ハワイに来航したキリスト教宣教師たちによって
サーフィンなどのハワイ独自の文化は迫害を受けた。
その影響で、20世紀初頭ごろには
サーファーはほとんどいなくなったという。

だが、一人の英雄の登場によって、
サーフィンは再び市民権を得ることとなる。
近代サーフィンの父、デューク・カハナモク。
1912年に競泳でオリンピック金メダリストとなった彼は、
ハワイ固有の文化であったサーフィンの復興と普及に努めた。

彼の活動によって、
サーフィンは世界の各地で急速に発展し、復興を遂げた。

デューク・カハナモクはこんな言葉を残している。

最高のサーファーとは最も楽しんでいる人です。

今日も世界中のビーチで、
最高のサーファーたちが波に乗っている。

topへ

松岡康 17年8月27日放送

170827-06
XWL
アロハシャツの起源

ハワイの代名詞ともいえるアロハシャツ。
実は、日本の着物と深いかかわりがあったという。

1904年、日本からハワイへ移民した宮本長太郎が
「ムサシヤ」という仕立て屋をオープンする。
日本から持ち込んだ着物地を使った開襟シャツを作り、人気を博した。

長太郎の死後、長男であった孝一郎が店を継ぎ、
「アロハシャツ」と銘打った新聞広告によって
着物地のシャツを広めることに成功した。

燃えるような赤に海の青。
アロハシャツの鮮やかな色や模様には、
日本の文化が色濃く残っているのだ。

topへ

松岡康 17年6月11日放送

170611-02

世界を変えた線

黒くどんよりとした空。
突然の夕立に、橋の上を急ぐ人々。
画面全体には雨が
複数の長い斜線となって描写されている。

歌川広重作「大はしあたけの夕立」。
この木版画は、遠くヨーロッパの美術界に
大きな衝撃を与えた。

西洋では雨の描写は
これまでほどんどなかったこともあり、
広重の描いた雨の描写方法は、
西洋の画家たちにとって革命的だった。

かのゴッホも夢中でこの版画を模写し、
印象派画家達の間で広がった
ジャポニズムの流行を生み出すきっかけとなった。

日本で生まれた線が、
遠くヨーロッパの美術を大きく変えたのだ。

topへ

松岡康 17年6月11日放送

170611-06

確率の話

「東京の降水確率は90%です」
梅雨時、毎日の様に降る雨に
心がどんよりとする人も多いかもしれない。

降水確率の様に、
天気予報にも使われる「確率」だが、
実は学問として比較的新しい。

数学が2000年以上前に
生まれたものであるのに対し、
確率という概念の歴史は
わずか300年程度なのだ。

その起源は、
ギャンブラーであるシュバリエ・ド・メレが、
賭博に関する疑問を
友人である数学者パスカルに伝えたことから
始まったという。

ギャンブルからはじまった確率だが、
今では人の暮らしを支えるものとして
大いに活用されている。

topへ

松岡康 17年4月16日放送

170416-06

喜劇王の少年時代

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

見るものすべてを笑顔にする、喜劇王チャップリン。
彼の少年時代は笑顔とはかけ離れたものだった。

1歳のときに両親が離婚。
貧乏な舞台女優だった母親のもとで育てられ、貧しい生活を送る。
5歳のときには、舞台に立っていた母が喉をつぶしてしまう。

母親は二度と舞台に立つことができず、のちに精神に異常をきたし
施設に収容された。

貧しいチャップリンは子供ながらに職を転々とし、
時にはコソ泥まで働いたという。

チャップリンは言う。

 無駄な一日。それは笑いのない日である。

つらい少年時代が作りあげた信念
それは人を笑顔にし続けることだった。

topへ

松岡康 17年4月16日放送

170416-08

建築家の少年時代

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

水平に長く伸びる薄い屋根。
構造から独立した石の壁が自由に配置され、流動的な空間を作っている。
近代建築の最高傑作ともいわれるバルセロナパビリオン。
この作品を設計したのが
20世紀を代表する建築家ミース・ファン・デル・ローエだ。

1886年ミースは石工一家の息子として生まれ、
幼いころから父の傍らで仕事を手伝った。

当時、建築家になるには大学で建築学を学ぶことがあたりまえの時代。
そんな時代にあって、ミースは正規の建築教育を一切受けていなかった。
彼は「ものを作る」ということを、体で学んでいったのだった。

ミースは言う。

 神は細部に宿る。

机の上で学ぶのではない。手で学ぶことで、得られる境地がそこにはあった。

topへ

松岡康 17年2月19日放送

170219-07
NWharry
阪神大震災とプロレス

今日、2月19日は、プロレスの日。

阪神大震災が起きた二日後の1995年1月19日。
被災地である大阪府立体育会館で、
全日本プロレスの大会が行われた。

都市を襲った未曾有の大災害。
水も電気も止まっている地域も多く、
プロレスを行えるような状況ではなかった。

だが全日本プロレスの代表だったジャイアント馬場は
「入場無料」「当日のファイトマネーを全額寄付」という条件で
大会を決行する判断をする。
「こんなときこそ、プロレスでみんなを励まそう!」

会場の入りは半分くらい。
だがいつもの大会より声援は大きく、
ジャイアント馬場をたたえるコールが
いつまでも続いていたという。

topへ


login