言葉のはじまり/池田菊苗
「うま味」という言葉を英語で言うと・・・?
答えは、UMAMI。
世界には、UMAMIに相当する言葉がない。
そもそも旨味という概念がなかった。
帝国大学理学部教授 池田菊苗(いけだきくなえ)が、世紀の大発見をするまでは。
いまから100年以上も前、
甘味、酸味、塩味、苦味以外に、
味覚の基本となる物質があると信じ、探し求めた池田。
日本で長らく「ダシ」として使われてきた昆布に着目し、
ある物質を分離することに成功した。
物質の名は、グルタミン酸ナトリウム。
この発見に日本中が驚いた。
けれど、池田のすばらしい仕事は、成分の発見にとどまらなかった。
それは「うま味」というネーミング。
たった3文字のこのすばらしい名前が生み出されたために
この発見は、科学界だけでなく、みんなのものとなったのだ。
わたしたちがおいしい料理に舌鼓をうつとき、
何気なく使ってる「うま味」という言葉。
そこには、味わい深いストーリーがかくされていた。
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中村直史 11年11月20日放送
中村直史 11年11月20日放送
言葉のはじまり/鈴木昭
「激辛」という言葉はあるお店から生まれた。
そう聞くと、カレー屋かラーメン屋を想像する。
けれど激辛の発祥はせんべい屋だった。
東京の老舗、神田淡平(かんだあわへい)。
店主、鈴木昭(すずき あきら)がつくりだした新しいせんべいは
まるで唐辛子の塊のようだった。その名も「激辛」。
ネーミングのインパクトもあり、いつしか激辛せんべいは大ヒット。
その後の激辛カレーや激辛ラーメンへとつながり、
1986年には流行語大賞銀賞にも選ばれた。
激辛せんべいの燃えるような味とネーミングが、
まさに、ブームに火をつけたのである。
五島のはなし(165)
五島の秋の魚屋さんはどんな品ぞろえか調査してきました。

スターはヒラスですね。
一般的にはヒラマサと呼ばれる魚です。
見た目ブリと似ているけど、もっと歯ごたえがあり上品な味。

ヤズはブリの子ども、つまりハマチとかイナダのこと。
ヒラスと姿は似ているのにこの値段の差。ヒラスのスターぶりがわかるでしょう?


ゴマスはイシガキダイのこと。
イサキはイッサキと呼ばれます。「ッ」が入るのが五島弁の特徴。


きれいな真鯛。シイラは「万引」と呼ばれます。
五島風に言うと「マンビッ」。ここでも小さい「ッ」が入る。
万の力で引っぱる、そんな強い魚だから万引。
四国や九州の他の地域では万力(マンリキ)と呼ぶところが多いはず。
あー釣り行きたくなってきた。
五島のはなし(162)
五島・福江島から北西に約4km行ったところに嵯峨ノ島(さがのしま)があります。
ウィキペディアによれば、面積は3.17km²、人口は209人(2005年)。
漁業が盛んな島として知られています。

もともとは火山島。
男岳、女岳、ふたつの火山が連なった島で
島の西側はズドンと断崖になっています。

五島・福江島は全国の釣りファンのあこがれの島ですが、
嵯峨ノ島は、福江島の釣りファンのあこがれの島です。
ややこしいですが、つまり、あこがれのあこがれが嵯峨ノ島です。

かくいう僕も嵯峨ノ島と聞くと、胸の奥で太鼓が鳴るような感覚を覚えます。
なんか、すごいのが釣れそうな予感。

今日の夕飯に、と
こどもが家の前でクエを釣る。それが嵯峨ノ島。

五島列島は教会で有名ですが、ここ嵯峨ノ島にも嵯峨ノ島教会があります。
国の無形民族文化財として登録されている「オーモンデ」という念仏踊りもあります。
あこがれのあこがれ、嵯峨ノ島。
五島に行く際は、せっかくだからもう一日休みをとって、
嵯峨ノ島まで足伸ばしてみません?
踊る玉子

このVisionという番組の原稿制作のために
コピーライターが集っているのは、いってみれば
事務局、厚焼玉子(旧姓 中山佐知子)さんのもとに集っているのである。
玉子さんは、その名を知らないものはいない
コピーライターであり、ラジオCMディレクターであり、
そして若手コピーライターたちの母である。
そんな母が、今日はフロアの真ん中で踊っていた。
さぞかしうれしかったのだろう。
くるくるまわりながら踊っていた。
でも、自分の母親がいきなり踊り出したらどうですか。
びっくりするでしょう。みなびっくりしてました。
さらにいきなり手をつかまれて私まで踊らされたものだから
酔いのまわっていた私は
貧血で目の前が真っ暗になり、死ぬかと思ったのです。(中村)
中村直史 11年10月2日放送
ガンディーとスマッツ将軍
たとえば、南アフリカのスマッツ将軍。
ガンディーが南アフリカで人種差別の撤廃を求め闘っていたころの、
その闘いの相手だった。
ガンディーは人種差別的なあらゆる法律をわざと破り、
自ら進んで投獄されることによって、
南アフリカのリーダーたちと、世界中に向けて、
いかに人種差別がおかしいことかを訴えつづけた。
1914年、ガンディーたちの運動は
「インド人救済法」の成立へとつながる。
この法律をつくったのが、白人社会のリーダーであったスマッツ将軍だった。
その後、インドに戻ることとなったガンディーは、
投獄中に自らつくったサンダルをスマッツ将軍に贈った。
スマッツ将軍は、後日こう述べている。
わたしは、それ以来いく夏もこのサンダルをはいてすごした。
このような偉大な人物と、おなじはきものをはく資格はないと感じながら。
いかなる暴力にも頼らないこと。質素な暮らしをすること。
その力を信じ抜いたガンディーらしい贈り物だった。
ガンディーと孫アルン
規律に厳しいことで知られたガンディー。
けれど、ユーモアにあふれる人でもあったようだ。
孫の一人アルンが旅に出るガンディーに
サッカーボールのおみやげをねだったときのこと。
おじいちゃんは忙しいからきっとおみやげを忘れるよ
というアルンに対し、ガンディーは言った。
ぜったいに忘れないよ。でももし忘れたら、
おじいちゃんの頭をサッカーボールがわりにして遊んでいいから。
結局おみやげを買ってきたかどうかの記述は残ってない。
けれど、もし忘れたとしても・・・
ガンディーのことである、約束は守ったに違いない。






















