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佐藤延夫 11年02月05日放送



遠い春/石田波郷(いしだはきょう)

大正生まれの俳人、石田波郷は、
病室の窓から外を眺めていた。
昭和42年のことだ。
戦争で体を悪くしたあとは、
病気と付き合いながら数々の句を詠んだ。

   春雪三日 祭の如く 過ぎにけり
   (しゅんせつみっか まつりのごとく すぎにけり)

関東地方では、真冬よりも春先に雪が降る。
水分を多く含んだ牡丹雪で、
地面に触れた途端、はかなく消えてしまう。
残るのは、祭りのあとのような寂しさだけで。

立春を過ぎても、春はまだ遠い。







遠い春/宇佐美魚目(ぎょもく)

岐阜の郡上八幡(ぐじょうはちまん)は、
長良川と吉田川、小駄良川(こだらがわ)の
3つの川に挟まれた小さな城下町だ。

ここには宗祇水(そうぎすい)という湧水の名所があり、
全国名水百選の第一番に選ばれている。

大正生まれの俳人、宇佐美魚目は
父を亡くしたあと郡上八幡を訪れ、六つの句を詠んだ。

   なお寒く 水菜浮きをり 宗祇(そうぎ)の井

奥美濃の早春。
水と風、心の中も、まだ寒々としている。





遠い春/加藤楸邨(しゅうそん)

長生殿(ちょうせいでん)、福徳、いがら饅頭というのは
金沢の代表的な和菓子であり、
明治時代の俳人、加藤楸邨もこの菓子を愛した。

母の故郷、金沢に住み始めたのは16歳のとき。
雪の降りしきる中、母が食べさせてくれた
いがら饅頭の味は、生涯忘れなかったそうだ。

   いがら饅頭 黄なり雪ふる 母の国
   (いがらまんじゅう きなりゆきふる ははのくに)

楸邨が詠む金沢の冬は、包まれるように深く優しい。





遠い春/松本たかし

愛知県の蒲郡は、文人たちに愛された土地だ。
高浜虚子も志賀直哉も、
穏やかな三河の海が好きだった。

明治生まれの俳人、松本たかしは
立春を過ぎたばかりのある日、
宿泊したホテルの庭で小さな発見をした。

   暖房の 外の日向の 梅早し

ぽかぽかした陽射しの中、
もう梅の花が咲いている。

三河湾にぽつんと浮かぶ竹島と
遠くにかすむ知多半島、渥美半島を眺めたら、
また言葉が生まれてきた。

   夕霞む 桃色の海 紺の島

色とりどりの風景に染まる蒲郡には、
ひと足早い春がやってくるのかもしれない。





遠い春/臼田亜浪(うすだあろう)

漂泊の旅人と呼ばれる俳人、臼田亜浪。
自然とのやりとりの中で
独自の世界をつくりあげた。

信州小諸に生まれた亜浪は
折に触れ故郷に戻り、句を詠んだ。

  雪散るや 千曲の川音(かわと) 立ち来たり

目を閉じると、木々に積もった雪が崩れ、
千曲川の流れが耳に飛び込んでくる。
それが幼き日の思い出の音だった。

あなたの故郷の音は、何ですか?





遠い春/飯田龍太

俳人、飯田蛇笏の四男として生まれた飯田龍太は、
父親のように俳句の世界に入った。
父親のように山梨を愛し、
ふるさとの情景を言葉にした。

  雪の日暮れは いくたびも読む 文(ふみ)のごとし

いとおしい時間は、
しんしんと降る雪のように
ゆっくりと流れていく。





遠い春/秋元不死男(ふじお)


伊豆の風景。

山葵田(わさびだ)の清らかな水。
青く光る滝壷。
つづら折りの峠道。

そしてシダ植物のひとつ、ハイコモチシダは
別名ジョウレンシダとも呼ばれ、
本州では伊豆、浄蓮の滝付近で自生が確認されている。

明治生まれの俳人、秋元不死男は
この場所がたいそう気に入ったようで
何度も訪れ、多くの句を残している。

これは昭和49年2月11日の作。

   葛折の 東風の峠に 影日向
   (つづらおりの こちのとうげに かげひなた)

秋元不死男は語る。
俳句とは、ものに執着し、もので終わる、沈黙の文芸である。

そのとおり、早春の伊豆天城には、ものたちの優しい光が溢れている。

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佐藤延夫 11年01月01日放送



ある正月/芥川龍之介

酒が嫌いで、風呂も嫌い。
生ものは一切食べず、
ハマグリなどの貝類も受け付けない。

芥川龍之介は、作家であると同時に、偏食家でもあった。
唯一、好んで食べたのは、
鰤の照り焼きだったそうだ。

そんな芥川家のお正月。
小松菜、大根、里芋、くわい、タケノコ、鳥肉を並べ、
お雑煮は、切り餅を焼かずに、お湯で煮る。
驚くほど質素だが、
大晦日の晩には、昆布と小梅を入れたお茶を、福茶と呼んでたしなんだ。

新しい年に、福が来るように。

誰もが思う小さな願いは、この偏屈そうな男の心にも、ちゃんとある。





ある正月/高浜虚子

俳人、高浜虚子は長生きだった。

三十歳まで命があればいい、と思っていたそうだが、
実際は八十五歳で生きたし、そのあいだも俳句を詠み続けた。
晩年になっても正月を迎えるたびに、自分の気持ちを言葉にした。


  揺らげる歯 そのまま大事 雑煮食ふ

  酒もすき 餅もすきなり 今朝の春

  斯くの如く 只ありて食ふ 雑煮かな


最後の句は、八十三歳の作。
高浜虚子先生、どうやらお雑煮がお好きだったようで。








ある正月/折口信夫

源氏物語の一節。
「いとかたかるべき世にこそあらめ」
この言葉を、
「なるほど世間はむずかしい」

そう訳したのは、民族学者の折口信夫だ。
古典の口語訳を喜んで引き受けたのは、
同居する弟子たちの食事代を捻出するためだったという。

正月になるとさらに多くの弟子が集まるので
築地市場や百貨店をまわり
おでんの具に高級ハム、合鴨などを買い漁った。

弟子のひとりは、のちにこう語っている。

  食べ物にかけては掏摸のように敏捷で貪欲な先生だった。

なるほど、世間は難しい。





ある正月/南方熊楠

生物学者、南方熊楠。
この人は、学者というよりも
野生児と呼んだほうが、しっくりくる。

普段は服など着ずに裸で暮らし、酒は浴びるように飲む。
ビールなら1ダース。
日本酒は茶碗でがぶがぶと飲んだ。

武勇伝も多い。
アメリカでは、得意の柔道で不良たちを投げ飛ばし、
イギリスの大英博物館に勤めていたころには
侮辱した白人を殴り倒し、入館禁止になった。

その反面、驚くべき記憶力を持つ。
読み漁った本の内容を鮮明に覚えており、
家に帰ってから完璧に写し書いた。
語学力も堪能で、十数カ国語を話したという。

そんな熊楠のお正月。
おせち料理とお雑煮を好んで食べたが、
「おめでとう」という言葉は禁じていた。

  命が縮まるのに、なにがめでたいか。

なにからなにまで破天荒なこの男。
のちに民族学者の柳田國男が、
熊楠を「日本人の可能性の極限」と喩えたのも、よくわかる。





ある正月/柳田國男

食事を味わうよりも、
この人は、食事を調べるほうが好きなのではないか。

民族学者、柳田國男の本をめくると、
ついそう思えてくる。
彼自身も美食を嫌い、質素な食事を好んだ。

正月にまつわる食べ物の記述は多いが、
美味しそうな話はなかなか見つからない。
たとえば鏡餅については、このように記している。

  鏡餅の“カガミ”とは、各人に平等に向けられる鏡で、
  ここに食物分配の本来の意義があるとする。

なるほど。
お正月から、背筋がぴんと伸びました。





ある正月/小泉八雲


  日本人は立派な文明を持っていながら、
  好んで野蛮人の真似をしたがる。


明治時代、欧米の文化に心酔する日本国民を
そう言って批判したのは、小泉八雲だ。

日本人よりも日本人らしいこの男は、
お正月のしめ飾りを気に入り、
一月の末までそのまま飾り続けていたそうだ。





ある正月/幸徳秋水

明治時代の思想家、幸徳秋水。

日露戦争に異を唱え、鋭い論調で政府を批判したが
彼そのものは呑気な性格であり、
私生活では酒と女。放蕩に身を任せていた。

昼酒をあおり大切な帽子をなくす。
給料を前借りして飲みまわる。
そんなことを繰り返すと、
年の暮れには一銭も残らない。

家計にまわす金はなく、
母や妻に対し、不孝の子にして不仁の夫なりき、と自らを戒めている。

幸徳秋水の、ある元旦。
大逆事件の首謀者として疑われ、
獄中で最後の正月を迎えた。
友人への手紙には、こうつづられている。

  弁当箱を取り上げると、急に胸が迫ってきて数滴の涙が粥の上に落ちた。
  僕は始終、粥ばかり食ってる。

この数日後、死刑を宣告された。
今年は、それからちょうど100年。
のどかな正月を送れるのは、本当に幸せなことだと思う。
心配事は、いろいろあるけれど。


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佐藤延夫 10年12月04日放送



ピーナッツの話/チャールズ・シュルツ

スヌーピーとチャーリー・ブラウンの生みの親、
チャールズ・シュルツ。

自分の描いた絵が初めて褒められたのは、
幼稚園の初日のことだった。
白い紙と黒いクレヨンを渡されたので、
雪かきをしている男の絵を描いた。
ただ、思うままに。

みんなの絵を見て回っていた先生が、
彼の前で止まり、こう言った。

チャールズ、あなたはきっと絵描きさんになるわ

この優しい予言は、少年の心に永遠に残る。








ピーナッツの話/ルール

チャールズ・シュルツの漫画「ピーナッツ」には、
ひとつのルールがある。

スヌーピー、チャーリー・ブラウン、ルーシー、ウッドストックなど
登場人物は多いが、作品の中に大人を出すことは一度も無かった。
その理由は、いたって単純だ。

場所がないから。

子供の視線で描かれた子供サイズの構図に、
大人が入りこむ隙はない。

読者は知らず知らずのうち、
子供のひとりとして漫画に参加している。

ここでは、子供になることがルールだ。




ピーナッツの話/犬

漫画「ピーナッツ」の作者、チャールズ・シュルツは、
幼いときに犬を買っていた。

名前は、スパイク。

漫画にもスパイクという犬が登場する。
スヌーピーの兄という設定で。

雑種で気性が荒かった本物のスパイク。
漫画の中ではビーグル犬になり、
孤独を愛し、砂漠で穏やかに暮らしている。

漫画家は、うらやましい。
自分の思い出に、命を吹き込むことができるんだから。





ピーナッツの話/チャーリー・ブラウン

作者曰く、普通の人の代表。
これが、ピーナッツに登場する丸顔の少年、チャーリー・ブラウンだ。

好きな女の子の顔も見られないシャイな性格だけど、
ときどき、ものごとの核心を突く。
たとえば「安心」という意味について聞かれたとき。

安心感ってのは、車の後ろの席で眠ることだよ。
前の席にはパパとママがいて、心配事はぜんぶ引き受けてくれる。

そしてチャーリー・ブラウンは興奮して続ける。

でも、それはいつまでも続かない!
あるとき突然、きみはおとなになって、
もう二度と同じ気持ちは味わえないんだ!

私たち読者は、なるほど、と感心する。
でも、そういった言葉の多くは、ガールフレンドに軽々と切り返されてしまう。

  女の子って、男の子に哲学的な話をされるのは好きじゃないのよ。

私たち読者は再び思う。なるほど。





ピーナッツの話/スヌーピー1

1960年代初頭に始まった、アメリカのアポロ宇宙計画。
数年後、そのキャラクターに任命されたのが、スヌーピーだった。

アポロ10号の月面着陸船の名前は、「スヌーピー」。
司令船は、「チャーリー・ブラウン」と名付けられた。

もちろん当時の漫画にも、宇宙服を着たスヌーピーが登場する。

  ここは月。
  やった!月に立った最初のビーグル犬だ!
  ロシアに勝ったぞ・・・
  みんなに勝ったぞ・・・
  隣に住んでる馬鹿な猫にも勝った!

スヌーピーは、アメリカの象徴。
この小さな犬には、世の中の全てを巻き込むほどの力があった。





ピーナッツの話/スヌーピー2

スヌーピーは、よく寝ている。
犬小屋の上で。
テントの上で。
ときには岩を枕にして。
そうかと思えば、タイプライターで何かを打ち込んでいる。

あるとき、犬小屋から落ちたあと
スヌーピーは呟いた。

世の中、厳しい現実に満ちている。

スヌーピーは、哲学者なのだ。





ピーナッツの話/声

チャーリー・ブラウンは独り言を言う。
  精神科医によれば、ピーナッツバターサンドイッチを食べる人は孤独なんだって。
  その通りだと思うよ。

スヌーピーは呟く。
  先生にあてられて「ミシシッピー」のスペルを聞かれたら、困ったことになるな。

リランは、ぼやく。
  初日から「戦争と平和」を読まされるんじゃないだろうね。

ペパーミント・パティは愚痴をこぼす。
  わたしは、人生の歩道の敷石の間から
  必死で伸び上がろうとしている、みじめな、みにくい雑草なの!

シュローダーは、ピアノを弾きながら叫ぶ。
  お金なんて関係ない!これは芸術なんだ。

ルーシーは、小言を言う。
  世界が抱える様々な問題を知ったら、そんな嬉しそうな顔はしていられないわよ!


大人でもドキッとするような言葉は、
漫画「ピーナッツ」の中で、財宝のようにきらきら輝いている。

このめまぐるしく美しい台詞を訳しているのは、谷川俊太郎さんだ。

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佐藤延夫 10年11月06日放送



莫山先生と土

大正時代の最後に生まれた書家、榊莫山先生は
「土」という字を好んで書いた。

土の二つのヨコ棒は
地面と地中を表している。
そして一本のタテ棒は、
植物の種が芽を出してくる姿、だそうだ。

わたしの土は、地の豊饒。
五風十雨(ごふうじゅうう)に野も山も、青く染まれ、と祈りつつ

ある展覧会の図録にそう記していた。
「土」という字の中には壮大な宇宙の神秘が宿っている、という。

莫山先生のように
四十年も五十年もひとつの文字を書いた人でないと、
その意味は、きっとわからない。








莫山先生と女

莫山先生は「女」について考えた。

彫刻にせよ、絵画にせよ、写真にせよ、
芸術は、二千年も女の神秘を追いかけている。
それなのに、なんで書の世界で「女」をイメージしてあかんのや。

十数年が過ぎたころ、
莫山先生の書く「女」に命が宿り始めたという。
見る人は、ひとつの文字から、女の姿を想像することができた。

わたしの女は、生の豊饒。
ふくよかな女神の笑みに、露は光って

莫山先生は語る。
「女」は夢のオブジェだと。





莫山先生と墨

莫山先生は、墨の話をするのが好きだ。

書道に使われる墨は、
煤(すす)とニカワと香料でできている。

肝心な墨の色は、煤が決める。
かつて墨づくりの名人たちは、
菜種油や松脂(まつやに)からとれる煤に執着したそうだ。
莫山先生は語る。

墨は、生まれて二十年から六十年ぐらいが働きざかりである。
ちょうど人間と同じである。

時の流れとともに墨は老いていくが、
いったん紙にえがかれると
軽く千年は光を放ち続けるという。





莫山先生と良寛和尚

良寛さんの生き方は純粋だ。
その純粋さが書に宿っている、と莫山先生は言った。

良寛和尚の生きた時代。
江戸幕府の政治は頽廃を極め
役人たちは私利私欲を貪った。
良寛はそんな世俗に背を向け
ただひたすらに経をあげ
詩を書き、歌をつくった。

莫山先生は、良寛の詩を独自にこう解釈する。

心は水のようなもの 誰にもわかるはずがない
心に邪念がわいたなら 何も見えなくなるんだな
あれよこれよとこだわれば ほんとのことは遠ざかる
こだわり心に酔ううちは 救いもくそもあるものか

そういえば、32歳ですべての肩書を捨て
野に下った人がいる。

莫山先生が良寛和尚を好んだ理由。
それは権威を嫌うあなたの生き方にそっくりだったから、ではありませんか?





莫山先生と詩

書家、榊莫山先生は、
あるときから詩と書と絵がひとつになった作品を多く作った。

これは詩書画三絶(ししょがさんぜつ)と呼ばれるもので
古くは池大雅や与謝蕪村が名作を残している。

莫山先生の場合は、
教訓めいた言葉など書かない。
他愛のない言葉を、思いつくままに添える。

  山へ ヤブレタ夢ヲ 拾ヒニイッタ。
  夢ハドコニモ落チテヰナカッタ。
  ワタシハソット ソノ虹ヲポケットニ入レテ帰ッタ。
  虹ハツブレテヰナカッタ。

優しい言葉が置いてあるから、
見る人は難しい顔をしない。ただ、ほほ笑むだけ。
これでいい。





莫山先生と夢二

竹久夢二のファンだった莫山先生。
あるとき、夢二の詩が気になった。

煙草のけむりが きれてながれる これが別れか

それもそのはず、心臓の病をきっかけに、
一日100本吸っていた煙草をやめた。
莫山先生は、夢二の言葉を噛みしめて、こう嘆く。

ああ、あ。わたしの別れは煙草との別れ、やった。
だが、夢二の別れは、女との別れ。えらいちがいや。





莫山先生と筆


白いザンバラ髪がトレードマークの莫山先生。
今から30年近く前に、
ある名案を思い付いた。

これまで羊やイタチ、馬、タヌキ、牛など
あらゆる動物の毛の筆を試したが、
自分の髪で筆を作ったらどうだろうか。

白髪混じりの一握りをハサミでちょん切り、
馴染みの筆屋に送る。

「せんせ、このゴマシオの毛、いったいなんだんね」
「わしの頭の毛ぇや。筆になりまっしゃろ。二、三本。」

そんなやりとりがあり、しばらくして筆ができた。

アトリエに並ぶ数百本の筆の中で、
抜群に可愛いけど
ひとつも主人の言うことをきかないのが、
自分の頭髪でつくった筆だそうだ。

今年の9月、莫山先生は
その筆を手に、長い長い旅へお出かけになった。


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佐藤延夫 10年10月02日放送



ドラッカーの言葉1

1909年、ウィーンで生まれた男は、
幼少期に第一次世界大戦を迎え、
若干二十歳で新聞記者となる。
ヒトラーにインタビューをしたこともあったが、
自分の論文のせいでナチスに追われ、ロンドンに移る。

こんな経歴を持つ男が、
のちに「マネジメント」という言葉を生みだした。

経営理論の父と言われる
ピーター・ドラッカーは語る。

将来を築くには、勇気がいる。努力がいる。だが、信念もいるのである。

ドラッカーさん。
あなたの人生を眺めると、
「その通りです」としか言いようがありません。





ドラッカーの言葉2

仮にあなたが、石を切る職人だったとします。

ある人に「何をしているんですか?」と聞かれたとき
あなたは、なんと答えるでしょうか。


1 わたしはこの仕事で生計を立てているのです

2 国中で一番優れた仕事をしているのです

3 私はここに素晴らしい建造物を建てるのです


この3つの中で、経営者らしい答えと言えるのは、3番だ。
ピーター・ドラッカーは、そう語っています。

さっそく週明けにでも、
会社の社長に質問してみたくなる。





ドラッカーの言葉3

さて、質問です。
会社の事業とは、なんでしょうか。

「利益を生み出すための仕組み。」

そう思ったあなたは、
経営理論の父、ピーター・ドラッカーに叱られるでしょう。

その答えは、間違っているばかりでなく、見当違いも甚だしい。
事業の目的は、たったひとつ。
“顧客を創り出すこと”にほかならない。

なるほど、と思った皆さん。
彼はこんなことも言っています。

人は、失敗から学ぶことなどなにもない。
ひとつの成功がすべてを教えてくれる。

確かに、と思ったみなさん。
もうあなたは、ドラッカーの虜になりつつあります。





ドラッカーの言葉4

教師が、ある生徒に言いました。

「将来きみは、他の人に
どんな人物として記憶されたいですか?」

この質問、あなたも少し、考えてみてください。

・・・

答えは、浮かびましたか?
なかなか難しい質問ですね。

考えあぐねる生徒に、
教師は笑いながら言いました。

あなたが答えられるとは思っていません。
でも50歳になっても答えられなかったら大変だ。
人生を無駄に過ごしたってことになるからね。

当時、生徒だったのは、
のちに経営理論の父と言われる、ピーター・ドラッカー。
それ以来、彼は、いつもこの問いを自分に投げかけていたそうだ。

難しすぎる質問は、心の中に、ぐさりと刺さる。
さあ、がんばろう。
何かを見つけるには、まだ間に合いそうだ。
年齢なんて、関係ない。





ドラッカーの言葉5

カリスマ社長。

スーパー経営者。

偉大なリーダー。

経済が停滞すると、人は英雄を求める。
藁にもすがるような気持ちで。
だが、経営理論の父、ピーター・ドラッカーは
その考えを真っ向から否定する。

  生まれついての経営者など、いない。
  リーダーとして効果的にふるまえる習慣を持つ人が
  結果としてリーダーへと育つのだ。

周りを見渡してみよう。
不満ばかり言ってはいられない。
彼も人なり、我も人なり、なのだから。





ドラッカーの言葉6

経営理論の父、ピーター・ドラッカーは
80歳を過ぎても本を書き続けた。
晩年に、記者からこんな質問を受ける。

今までに書いた本の中で
最も優れているのはなんですか?

その質問に対し、彼はにっこり笑って答えた。

次です。

自分が80歳になっても、同じことが言えるだろうか。





ドラッカーの言葉7


経営理論の父、ピーター・ドラッカーは語る。

ピラミッドのごとく永遠にそびえ続けると思われた企業も
今ではまるでテントのようだ。

技術革新とは、地平線の彼方でひらめく洞察力という名の稲妻を捕まえ
永遠に輝く光へ転換することである。

企業の業績をチェックする5つのテスト。

人間はコストではなく資源である。


彼は文章に勢いを与えるため、
言葉のテクニックを駆使している。
ときには比喩を用い、数字を使い、やわらかく、深く、強く。
もちろん、悪口を言う場合は、もっと効果的になる。

学校教育を受けた野蛮人

多忙なオフィスで、渦巻きのような混沌に陥るアシスタント

この歯切れの良さは、気持ちいい。
だから、この人の本が書店に並び続けるのだろう。
日本だけではなく、全世界で。



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佐藤延夫 10年09月04日放送



異色のひと/モラエス

ラフカディオ・ハーンが来日した数年後、
ひとりのポルトガル人が神戸の町に降り立つ。

ヴェンセスラウ・デ・モラエス。

ポルトガル領事館の日本総領事長を務め
「日本通信」という本を発表したが、
ハーンほど有名にはならなかったし、
もてはやされることもなかった。

最愛の人、おヨネが亡くなると
彼女の故郷、徳島で暮らし始める。
そびえ立つ眉山と自然の美しさに惹かれたのだろうか。
こんな言葉を残している。

  立ち並ぶ木々の茂み、轟音をあげて鳴る珍しい滝、
  囁く小川、美しい田畑で飾り立てたふんだんに緑また緑の風景・・・


いつも和服姿で正座をしていたポルトガル人は、
島国の小さな町で、
緑の中に溶けていった。







異色のひと/尾形亀之助

宮沢賢治の生まれた4年後、
尾形亀之助は、産声をあげた。

どちらも東北出身で
病気に悩まされ
若くして亡くなったが、
ふたりとも詩人だった。
亀之助は、有名になろうとも
金持ちになろうともしなかった。

これは、「ある来訪者の接待」という作品の一説。

  どてどてとてたてててたてた
  たてとて
  てれてれたとことこと
  ららんぴぴぴぴ ぴ
  とつてんととのぷ
  ん んんんん ん

  てつれとぽんととぽれ



世捨て人のように暮らした亀之助が紡ぐ言葉は、
常人の理解を遥かに超えている。





異色のひと/鈴木紀夫

世界50カ国を放浪した青年は、
1974年、フィリピンのルバング島に渡った。
残留日本兵、小野田寛郎(ひろお)を探すために。

冒険家、鈴木紀夫、24歳。
小野田さんを日本に送り届けたあとは、
雪男を探そうと思った。
何度もヒマラヤを訪ねたが、
世間をあっと言わせる証拠は見つけられず、
苦しい胸の内を明かす。

  早く雪男の件は片づけたいのに、神様はどうして助けてくれないのだ。
  神は、この俺の運命を如何に決めてあるのだ。


そして六度目の雪男探索のとき、
雪崩に遭い帰らぬ人となった。

慰霊のためヒマラヤを訪れた小野田さんは、
彼のことを、友と云ったそうだ。





異色のひと/菅野力夫

現存する明治、大正時代の絵はがきには、
時折、髭ぼうぼうの痩せた男が写っている。
彼こそが、世界探検家、菅野力夫だ。

明治44年から、のべ8回も世界探検旅行に赴き、
そのたび、新聞に大きく取り上げられた。

足跡は全て写真で残されている。
スマトラ島では酋長の格好をし、
満州ではラクダに跨がり、
ビルマでは象の前で腕を組み、
ブラジルではアリ塚の上に立ち、
ペルーでは頭蓋骨を持ってポーズをとった。
それが全て、絵はがきにプリントされた。

テレビなどあるはずもなく、
ラジオも新聞も今ほど普及していない時代では、
絵はがきが最大級のマスメディアだった。

世界探検旅行を経験し、
彼が何を語ったのか。
その真実は謎に包まれている。
だけど、
どれほど楽しかったのか。
それは数々の絵はがきが、雄弁に語っている。





異色のひと/熊谷守一(くまがいもりかず)

トレードマークは、
仙人のような長く白い髭。
明治生まれの画家、熊谷守一は
いい絵を描こうとも、有名になろうとも思わなかった。
絵を描くのは、気が向いたときだけ。
知人に金を借りては、千駄木や東中野の借家を転々とする。

絵が売れるようになったのは晩年のことで、
文化勲章も全て辞退した。

  お国のために何もしたことないから。

身の回りだけを見つめ、
自由に、気ままに生きて、97歳で目を閉じた。

  下手も絵のうち。

画壇の仙人と言われたが、
まさに生き方も仙人なのである。





異色のひと/五寸釘の寅吉

人並み外れた運動能力は、
スポーツ以外にも生かされることがある。
たとえば、刑務所からの脱獄。

明治時代の囚人、西川寅吉は
脱獄を六度も重ねた。
濡れた囚人服を壁に叩きつけ、
一瞬の吸着力を利用して壁を乗り越えたという。

盗みに入った質屋では
逃亡する際に五寸釘を踏み抜いたが、
そのまま12キロも逃走し、
五寸釘の寅吉と呼ばれるようになった。

世間を騒がす痛快なアンチヒーローは、
このご時世、なかなか現れにくいようだ。





異色のひと/大上宇市(おおうえういち)

11月になると
赤い小さな実を付けるコヤスノキは
トベラ科の常緑樹で、
日本では兵庫県の一部と岡山県の東部でしか生きられない。
この珍しい植物を発見したのは、
明治時代の博物学者、大上宇市だった。

農業の現状を知らない都会の学者を
名指しで批判する武骨な男だったが、
牧野富太郎とは親交を深めた。
ふたりとも学歴に乏しく、学会から冷遇されたせいかもしれない。

  秋空晴れて日は高し
  今こそ我等の散歩時
  芒(すすき)は野道に招くなり
  小鳥は森によばうなり
  よばう小鳥は何々ぞ
  雀 山雀(やまがら) もず 鶉(うずら)


こんな自作の歌を口ずさみながら、
野山をねり歩いた。
村人には、ヒマ人が来たと疎まれたが、
やがてその研究内容が評価され、郷土の英雄となった。

ひとつの道に通じていれば、いつか必ず花開く。
そんなメッセージが込められているようでならない。

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佐藤延夫 10年08月01日放送



「室生犀星と川」


石川県金沢市には、
市街地を挟むように、ふたつの大きな川が流れる。

地元で女川と言うのは浅野川で、
男川と呼ばれているのは、犀川。

その犀川のほとりに、ひとりの詩人がいた。


 うつくしき川は流れた
 そのほとりに我は住みぬ
 春は春、なつはなつの
 花つける堤に坐りて
 こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ


ふるさとを愛した詩人、室生犀星は
明治22年の今日、8月1日に生まれた。










「室生犀星と伊豆」


伊豆修善寺から少し南に下ると吉奈温泉があり、
さらに南下すれば、湯ケ島温泉に辿り着く。

どちらも明治、大正時代の文人が多く訪れている。
詩人、室生犀星の場合、
温泉旅館でじっくりと思索にふけるだけではない。
萩原朔太郎らと集まり、
どんな日々を過ごしていたのか。
この句を聞けば、だいたい想像がつく。


 萩原の朔太のいびき恐れつつ
 別室にねる夏の伊豆山


賑やかで静かな伊豆の山々が目に浮かぶ。





「室生犀星と母」


詩人、室生犀星の幼年期は、
まるで昼ドラのように悲劇的だ。

父は加賀藩の足軽で、母はその家の小間使い。
世間の風当たりが強い不義の子は、
生後7日で里子に出された。

貰われた先の養母は犀星を怒鳴り散らし、
召使いのように扱った。
そのときの記憶は、詩の中に現れる。


 なににこがれて書くうたぞ 一時にひらく うめすもも
 すももの蒼さ身にあびて 田舎暮らしのやすらかさ
 けふも母ぢゃに叱られて すもものしたに身をよせぬ


幼き日の、虐げられた思い出は
犀星の作品に大きな影響を与えたが、
晩年、こんな言葉も残していた。


 継母に私が仕へなかったら、
 私は何一つ教へられなかったであろう。
 私は彼女にはじめて感謝の言葉を捧げたいくらゐだ。


母という存在は、年齢を重ねるほど淡く、優しく深まっていく。





「室生犀星と魚」


静岡県、伊東の浄円寺には
境内に小さな池があり、奇妙な魚が棲みついていた。

当時の資料によれば、
蛇鰻、毒魚、迅奈良(じんなら)、横縞、湯鯉。
こんな面白い池を見て、
室生犀星が詩に残さないわけがない。


 伊豆伊東の温泉(いでゆ)に
 じんならと伝へる魚棲みけり
 けむり立つ湯のなかに
 己れ冷たき身を泳がし
 あさ日さす水面に出でて遊びけり


「じんなら魚」というのは、コトヒキのこと。
海の魚が棲む不思議な池は、残念ながらもう残っていない。





「室生犀星と虫」


殺していいのは、蝿と蚊だけ。

詩人、室生犀星は、
家族にこんなルールを作った。
蟻の行列を見つけたら踏まないように歩き、
夕立があると、洗濯物よりも先に
大切な虫かごを軒下へ避難させた。

それだけではない。
毎年、軽井沢へ避暑に行くときには
各地から、きりぎりすや草ひばりを取り寄せた。
初夏の軽井沢で、虫の声なんて聞こえないからだ。
二十個いつも近い虫かごを書斎の机に並べていた。

軽井沢を離れるとき、虫たちを野に返したが
お気に入りの数匹だけは、そっと持ち帰った。
いかにも彼らしい話だ。


 なにといふ虫かしらねど
 時計の玻璃(はり)のつめたきに這ひのぼり
 つうつうと啼く
 ものいへぬ むしけらものの悲しさに


彼が小さな虫にまで愛情を注いだのは、
あらゆる生き物の中に、
小さな悲哀を見つけたからなのだろう。





「室生犀星と花」


 庭に咲いているものは、土からの花を見て楽しむもの。


詩人、室生犀星は、庭に咲く花を愛した。
とりわけ、金沢から持ち帰ったという岡あやめ。
犀星は庭をこの花で一杯にしたかったようだ。
これは、ある日の日記から。


 あやめ、紫のえりを覗かす。明後日あたり開くべし。

 あやめ、けふはじめてひらく。

 あやめ百二十五輪、けふが花ざかりと言ふべきか。


あやめの一番蕾を見つけた家族には
チョコレートを褒美に出したというくらいだから、
その寵愛ぶりには、恐れ入る。





「室生犀星と鳥」


懸巣、小綬鶏、五位鷺、頬白、鵯、鴬。
(かけす、こじゅけい、ごいさぎ、ほおじろ、ひよどり、うぐいす)

詩人、室生犀星は
ある日、飼っていた鳥たちを一斉に空に放った。

それは、脳溢血で倒れた妻のとみ子が
一命をとりとめたあとのことだった。
その理由を、娘にこう告げている。


 とみ子の命はどうやらこれで大丈夫らしい。
 その身代わりに鳥たちを本来の生活に戻してあげるのだ。


いちばん大切な、ひとつの愛だけを守る。
これが詩人のルールなのかもしれない。





「室生犀星とふるさと」


詩人、室生犀星と言えば
あまりにもこの作品が有名だ。


 ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの


犀星が、最後にふるさとの地を踏んだのは、52歳のときだった。
73歳で亡くなるまで彼は、
金沢に流れる川、犀川の写真をいつも忍ばせていたという。


 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや


この夏、あなたは、ふるさとに帰りますか?
それとも遠くから、懐かしき風景を思いますか?


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佐藤延夫 10年07月03日放送



南アフリカに浮かぶ星1

午後11時と、午前3時半。
毎日この時刻を気にするようになったのは、
7時間も時差のある南アフリカのせいだ。

寝不足もやむなしと諦めるようになったのは、
世界中から集まった足の器用な男たちのせいだ。

そして、選手ではないのに注目を集める小太りの男。
彼は以前に、こんな言葉を残していた。

  母国の監督をやりたい。給料なんかいらないし、今すぐでも構わない。

ピッチの脇で、選手よりも激しく動き回る彼は、
今日もどんなパフォーマンスを見せてくれるのか。
マラドーナ監督、楽しみにしてますよ。





南アフリカに浮かぶ星2

サッカーは、スポーツなのか、戦争なのか。

グループリーグから
鮮やかなサッカーで注目を集めるドイツ代表。
よく見ると、ベンチに目を見張るようなイケメンが座っていた。
ヨアヒム・レーブ監督だ。
現役時代は無名の選手だったが、
その戦術とサッカー理論は高く評価されている。
彼の爽やかな横顔を見ていると、サッカーはスポーツなんだと思える。

今回のワールドカップが始まる前、
レーブ監督は警戒するチームを挙げた。

  オランダの攻撃には、機関銃、追撃砲、大砲のすべてがある。

なるほど、やっぱりワールドカップは、戦争なんだ。





南アフリカに浮かぶ星3

草食男子、メガネ男子、弁当男子・・・
いろんな男子が出てきたけれど、
そのうち、ビッグマウス男子が流行るかもしれない。
ワールドカップ日本代表、本田圭佑をリスペクトする男子は多い。

  僕自身はベスト4ではなく、優勝を目指していいと思う。

誰もがグループリーグ敗退を予感している中、
彼だけは大風呂敷を広げていた。
そして自身による2つのゴールで、
見事に風呂敷を畳んでみせた。

ところで、ビッグマウス男子を狙う皆さん。
実力が伴わないと、
仕事も女ゴコロもゴールは決められないので
くれぐれもご注意を。





南アフリカに浮かぶ星4

なにしろエピソードの多い人だ。

彼について、オランダ史上最高と言われるサッカー選手は言った。
「マラドーナには、選手として全てかなわない。」

現役時代、1000回近くもゴールネットを揺らしたブラジルの英雄は言った。
「サッカー界でスーパースターと呼べるのはマラドーナだけだ。」

神様と呼ばれる男は言った。
「私とマラドーナを比べることは、彼に失礼だ。」

将軍と呼ばれる男も言った。
「ジダンがボールでやることを、マラドーナならオレンジでできる。」

そのジダンは言った。
「彼とは比べないでほしい。彼は惑星の選手なのだから。」

当のマラドーナは、引退後に言った。
「私は、サッカーボールのように太っている。」

薬物依存、不摂生による肥満、娘との確執と和解。
いろいろなことがあったけど、
今また、時代はマラドーナに味方している。
一日でも長く、あなたの姿を見ていたい。









南アフリカに浮かぶ星5

トルコ移民のトルコ家系に生まれた青年は、
ドイツの国籍を取得し、今、ドイツ人としてピッチに立っている。

メスト・エジルという
サッカー選手らしからぬ優しい顔をした青年は、
毒々しいほどのテクニックと視野の広さを持つ。

しかしコメントは、優等生のように清々しい。
たとえばこれは、ガーナ戦で勝ったときのインタビュー。

  僕はただボールを蹴っただけだよ。チームメイトがたくさんサポートしてくれたんだ。

21歳の謙虚な司令塔は、
限りない才能と、限りない将来を手に入れている。





南アフリカに浮かぶ星6

思えば、今年の4月、
ワールドカップが始まる少し前。
欧州チャンピオンズリーグの準々決勝で
リオネル・メッシは、強豪アーセナルを相手に
たった一人で4得点をあげた。
敗軍の将、ベンゲル監督は、こんな表現で試合を振り返った。

  メッシは、まるでプレイステーションの選手のようだ

今日はマラドーナ監督の手元にも注目してみよう。
もしかしたら、コントローラーを握っているかもしれない。





南アフリカに浮かぶ星7

  岡ちゃん、ごめん
  正直、3戦全敗だと思ってました。

日本がデンマークを破り、
決勝トーナメント出場を決めた直後、
ツイッターは、岡田監督への謝罪の声であふれ返った。

強化試合で結果を出せず、
チームの不協和音が報じられたとき
日本のファンは、あらゆる期待を放棄していた。

一億総ペシミストになったこの国。
でも、サッカーには、国民の意識を変える力があった。

華々しいフリーキックと
タフな戦いに耐える同胞を見て、
人々は息を吹き返す。

ブブゼラの鳴り止まないスタジアムで
岡田監督は、絶対的な信頼を手にした。
それでも彼は、いつもどおりに口をヘの字に曲げている。

6月30日、午前2時。
あの悲観的だった国民は、みんな思っていた。

  岡ちゃん、ありがとう。

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佐藤延夫 10年05月01日放送



剣豪たち1/塚原卜伝(つかはらぼくでん)

秘剣「一の太刀」で
212人を手にかけたと言われる剣豪、塚原卜伝。

剣術は言うに及ばず、
心理戦も、また巧かった。

長い太刀を使う相手には、その欠点を説いて聞かせ、
片手突きを得意とする者には、
そんな見苦しい手はやめろと
門弟を遣わし、何度も申し入れた。

データ収集も忘れない。
相手が右太刀か左太刀か、癖は何かを
必ず調べさせてから勝負に臨んだという。

剣豪という域に達するには、
実力だけでなく、駆け引きも大切。

人生50年の戦国時代で
83歳まで生きるのだから、
塚原卜伝という男、
人生の術も心得ていたに違いない。





剣豪たち2/伊東一刀斎(いとういっとうさい)

戦国時代、一刀流を極めた剣豪、伊東一刀斎。

若かりし頃、
剣の師匠に向かって、こう言った。

   悟りとは、修業期間の長さではありません。
   一瞬のものです。


そうして三度立ち合い、三度とも師匠を打ち破る。
諸国修業の旅に出て、三十三戦負け知らず。

鬼夜叉の異名で恐れられた一刀斎、
生まれの地には諸説あり、
幼少期のエピソードはほとんど残されていない。

一説によると、94歳まで生きたという。
謎が多いほど、人は伝説に近づく。





剣豪たち3/松浦静山(まつうらせいざん)

肥前の国、第10代藩主だった松浦静山は、
剣術のひとつ、心形刀流(しんぎょうとうりゅう)の修業に心血を注いだ。

幼少から病弱だった静山、
剣術を始めたきっかけは、体質を改善するためだった。

心形刀流を極めたのちに
こう語っている。

  剣術を学ぶ者は、
  たとえその奥義に至らずとも
  養生のためにこれを修していくべきである。


静山は33人の子をもうけ、81歳まで生きている。
なるほど、剣術は滋養強壮に活かすこともできるのか。





剣豪たち4/男谷信友(おたにのぶとも)

斬るか斬られるかの世界にも、
“いい人”はいるものだ。

直心影流(じきしんかげりゅう)の剣豪、男谷信友。

性格は極めて温厚。
声を荒げることなど一度もなかったこの男、
三本勝負の他流試合では、
必ず一本、相手に勝ちを譲った。
それはもちろん、残りの二本は必ず取れるという腕前があったから。

ひとたび本気を出すと、
竹刀が生き物のように動き
相手を身震いさせたという逸話も残っている。

趣味は読書と絵画。
暇があると筆をとり
仲間や弟子に贈っていたそうだ。

本当に強い人、というのは
驚くほど柔らかな生き方をしている。

その後、江戸幕府の要職に招かれたのも
頷ける話だ。





剣豪たち5/浅利又七郎(あさりまたしちろう)

江戸時代、明眼(みょうがん)の達人と言われた剣豪、浅利又七郎。

試合になると、
相手に隙が見えても突くことをしない。
そして「私が勝ちました」と言い放つ。
相手が納得しないと
たちまち強烈な突きを繰り出し倒したという。

晩年、一度倒した剣豪、山岡鉄舟が
再び試合を申し込んだとき、
その構えを一瞥して竹刀を引いた。

  あなたの剣は極到に達せられた。
  もはや私の遠く及ばぬところです。


違いの分かる男とは、彼のことを言う。





剣豪たち6/山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)

幕末の剣豪、山岡鉄舟は、
苦悩の中で悟りを得た。

  剣を捨て、剣に頼らぬ者こそ
  真の剣の達人である。


それが、刀を持たない「無刀の真理」だった。

無刀流の極意とは、
春風を斬るようなものだという。

5月の春風に手を伸ばしてみよう。
何か悟りを得るかもしれない。







剣豪たち7/千葉周作(ちばしゅうさく)

北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の開祖、千葉周作は
道場の運営に成功した剣豪だ。

武者修行から戻り
日本橋に道場を建てた途端、
多くの門弟とスポンサーが集まった。
三年後には神田の一等地に道場を移し、
近くにあった塾を買収。
敷地を広げた揚げ句、
客人たちの宿舎まで設け、
江戸一番の道場にしてしまった。

  気は早く 心は静か 身は軽く
  目は明らかに 業は激しく


このわかりやすい指導法も評判だった。

晩年まで剣の腕前も一流だった千葉周作。
その経営手腕も、また一流。

今の厳しい世の中でも、きっと生きていけるだろう。

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佐藤延夫 10年04月03日放送

01-ooshima
大島蓼太と桜

気が付けば、もう4月。

なんとなく、
無意識のままに
この季節を迎えてしまったと
少し心を痛めている皆さん。

次に目が醒めると夏になって、
秋は瞬く間に過ぎて
新しい年に変わっている。
またひとつ年をとっている。

そんな予感がしませんか?

時の流れにただ身を委ねていると
生き方まで雑になってしまいそう。

  世の中は 三日見ぬ間に 桜かな

江戸時代の俳人、大島蓼太(おおしまりょうた)の句です。
咲くのも早いし、散るのも早い。
人生もまた然り。
どうか今年の桜は、お見逃しのないように。



02-yamazakura
若山牧水と桜

旅と、酒と、桜を愛した歌人、若山牧水。

明治38年、宮崎から上京し
早稲田大学に入学した彼は、
ソメイヨシノばかりの光景にがく然とする。

牧水の桜は、故郷に咲くような山桜でなくてはならなかった。
だからこんな歌が生まれた。

  母恋し かかる夕べの ふるさとの 桜咲くらむ 山の姿よ

文明開化が広がるとともに
東京から追い払われるように姿を消した山桜。

ソメイヨシノは、悲しくも美しい、新しい時代の象徴だった。

03-shidare
九鬼周造と桜

桜の名所は数あれど、
誰にでも心に残る桜があり
そのすぐそばには、
えてして大切な人がいるもので。

哲学者、九鬼周造(くきしゅうぞう)は
自身の随筆でこんな言葉を残しています。

  いまだかつて京都祇園の枝垂桜にも増して
   美しいものを見た覚えがない。
    見れば見るほど限りもなく美しい。


それもそのはず、
九鬼が二度目に結婚した相手は、
京都の芸妓さんだったのですから。

04-mukou
加舎白雄、小林一茶と桜

夕暮れの桜は、
一抹の寂しさを伴うのでしょうか。

江戸時代後期の俳人、加舎白雄(かやしらお)は
向島の桜を見て、こんな句を残しています。

  人恋し 火とぼしころを 桜ちる

放浪を続けた加舎白雄は、生涯独身を貫きました。
向島の白髭神社に行けば、今もその句碑を見ることができます。

また、深川に住んでいた小林一茶は、
こう吟じました。

  夕桜 家ある人は とくかへる

花見をして家路を急ぐ人々と、
ひとりきりの我が身。

向島の桜は、夕暮れどきであれば
ひとりではなく、誰かと見に行くことをお勧めします。

でも、いま隅田川沿いを歩くと
桜並木よりも目立つのは、
建設中の東京スカイツリーだったりするのですが。

05-lune
中村汀女と桜

今年は千鳥ケ淵か、飛鳥山か・・・

昼間の桜もいいけれど、
夜桜こそまた趣深い。

その理由は、中村汀女(なかむらていじょ)の句を聞けばわかります。

  外にも出よ 触るるばかりに 春の月

大きくて柔らかな、春の月。
震えながらでも
夜桜を見上げてしまうのは、きっと
朧な空に優しいものがたくさん浮かんでいるからだ。

06-somei
ロバート・フォーチュンと桜

ソメイヨシノの学名は、
プルヌス・エドエンシス。

翻訳すると、江戸桜。

命名したのは、スコットランド生まれの植物学者、
ロバート・フォーチュンだった。

でもソメイヨシノが広まったのは
明治時代になってから。

本当に江戸を桃色に染めた山桜は、
今や23区内ではあまり見ることができない。

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佐藤延夫 10年02月06日放送

01-yoshida

社長は語る/吉田拓郎(小6)


ヤエヤマアオキをご存知ですか。
ハワイの言葉で「ノニ」。
健康食品として注目されている植物です。

久米島に、ノニを原料にしたジュースや石鹸などを販売する会社があります。
社長は、吉田拓郎さん。
あの人と同姓同名の、小学6年生。
ちなみにお母さんが秘書で、
営業部長はお姉さんです。

そんな社長の夢。

   少し大きくて、日本で少し知られていて
   3回飯が食べられるぐらいの会社にすること。


この子ども社長は、大人が見失ったものを
ちゃんとわかっている。



02-matsushita

社長は語る/松下幸之助


寒いから、下を向く。
景気が悪いから、下を向く。
転んでしまわないように、下を向く。

石橋を叩いても渡らないようなこのご時世。
あまり慎重になりすぎると
目の前にチャンスが訪れても
気付かずに通りすぎてしまいそう。

こんなときこそ真正面を向いて
思い切り走ってみるのがいいのかも。
松下幸之助さんは、こう言っています。

 こけたら、立ちなはれ。

この気楽な言葉が、
今の時代を救うヒントのような気がしませんか。



03-kawabata

川端康成

仕事でもかまいません。
辛い恋でも、くだらない中傷でも結構です。
何かを忘れるために、雪を見に行きませんか。
きっと心が真っ白になるはず。

たとえば、川端康成の小説「雪国」の舞台となった新潟県湯沢町。
「国境の長いトンネルを抜けると・・・」で有名なあの場所には、
一面の銀世界が広がっています。

そうそう、「雪国」には、もうひとつ有名なフレーズがありました。

  なんとなく好きで、
  その時は好きだとも言わなかった人のほうが、
  いつまでもなつかしいのね。
  忘れられないのね。
  別れたあとってそうらしいわ。


真っ白な雪を見ても、恋の残り香は消えないかもしれません。






04-yanase

やなせたかし


それは、間近に控えた受験だったり。
終わりの見えない仕事だったり。人生だったり。

毎日頑張ってはいるけれど、
得体のしれない不安に包まれる。
そんなときは、
心の中のモヤモヤが消える魔法の言葉を思い出しましょう。

  何のために生まれて 何をして生きるのか
  答えられないなんて そんなのは嫌だ
  何が君の幸せ 何をして喜ぶ
  わからないまま終わる そんなのは嫌だ


若い人ならきっと、
アンパンマンのうたを歌ったことがあるはず。
くじけそうなときには、そっと口ずさんでみましょう。
勇気が湧いてきますから。

今日2月6日は、アンパンマンの生みの親、
やなせたかしさんが生まれた日。



05-bis

ビスマルク


最近の若い奴は・・・
なんてセリフは、いつの時代にもある愚痴ですが、
現在の若者事情はどうなんでしょう。

仕事をする意味が見いだせない
将来の夢がわからない
マニュアルがないと動けない

どうやら、こんな悩みを抱える若者が多いようで。

ドイツの政治家、ビスマルクの言葉です。

  青年に奨めたいことは、ただ3つの言葉に尽きる。
  すなわち働け、もっと働け、あくまで働け。


なかなかスパルタですね。
変に悩まずに汗を流すことも、案外気持ち良かったりして。



06-black

ブラックジャック

寒くて、朝起きるのが辛い。
このまま眠っていたい。
休んじゃおうかな。

毎朝布団の中で、同じことを考えてしまう皆さんへ。
仮病で休んでしまおうかと、こっそりたくらむ皆さんへ。

かの有名な天才外科医、ブラックジャックは、こう言っています。

  仮病は、この世でいちばん重い病気だよ

でも一日くらいなら、許してもらいたいですね。

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佐藤延夫 10年01月02日放送

01-mucha

「18歳のあなたへ/アルフォンス・ミュシャ」


今年、18歳になるあなたへ。
「将来の夢は?」
そんな質問をされるのが苦手という、あなたへ。

夢は、いつ花開くのか。
その答えなんて、誰にもわからないこと。

18歳のとき裁判所で働いていたアルフォンス・ミュシャは
仕事中に被告人の似顔絵を描きクビになってしまう。

彼がやがてアールヌーヴォーを代表する画家になるとは
そのとき誰も思っていない。

運命が微笑むときはきっとくる。

がんばれ、18歳。





02-ichiyou

「20歳のあなたへ/樋口一葉」


今年、ハタチになるあなたへ。

お金の大切さがわかりはじめた、あなたへ。

今の五千円札に描かれている女性は、
ハタチのとき、今日を凌ぐお金にも苦労していた。

小説家を目指していた樋口一葉。
執筆活動だけではやっていけず、
片手間で雑貨屋を始める。
それでもお金は足りず、高利貸にも通った。

  家は貧、ただ迫りに迫れど、心は春の海の如し

今の時代、この人が五千円札で良かったのかもしれない。

ハタチの皆さん、お金と夢は大切に。



03-nellie

「25歳のあなたへ/ネリー・ブライ」

今年、25歳になるあなたへ。

仕事の面白さがわかってきた、あなたへ。

アメリカの女性ジャーナリスト、ネリー・ブライは
25歳のとき、その後の人生を変える仕事に取り組む。

それは、「80日間世界一周」を実際に体験するという無謀な企画。
飛行機なんて存在しない19世紀の末、
汽車と船を乗り継ぎ、
各地で記事を書きながら72日で戻ってきた。

世界初の女性ジャーナリストは、
単独で世界一周をした世界初の女性にもなっていた。

25歳は、少しくらい無鉄砲なほうがいい。



04-christie

「30歳のあなたへ/アガサ・クリスティ」

今年、30歳になるあなたへ。

毎日に少し迷っている、あなたへ。

イギリスの、ある女性の話です。
16歳のときパリの音楽学校に入学するも、挫折。
24歳で結婚し、看護師として働く。
26歳のとき、ある小説をわずか3週間で書き上げる。

さあ、ここからが大切。
30歳のあなたへ。
20代の苦労を忘れてはいけません。
自信があるなら、諦めてはいけません。

ある日、出版社に何度も断られた作品が採用となり、
彼女は華々しくデビューする。
それが推理作家、アガサ・クリスティーの30歳。
作品は「スタイルズ荘の怪事件」。

30歳のエンジンは、一度火が点けばすぐに熱くなる。
迷う前に、走ろう。



05-goethe

「40歳のあなたへ/ゲーテ」

今年、40歳になるあなたへ。

40代の恋について
ドイツの文豪、ゲーテは
こんな言葉を残しています。

 二十代の恋は幻想で
  三十代の恋は浮気である
 人は四十代になってはじめて
  真のプラトニックな恋愛を知る


いまからでも遅くない。
ゲーテが初めて結婚したのは、57歳のときですから。

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佐藤延夫 09年12月05日放送

01-higashiyama  

「モーツァルトが遺したもの/東山魁夷(ひがしやまかいい)」


昭和を代表する画家、東山魁夷の作品「緑響く」。

そこに描かれているのは、
信州、奥蓼科にある御射鹿池(みしゃかいけ)の風景。

キャンバスを埋め尽くす緑の山々は水面に映り込み、
白い馬が一頭、ためらいがちに、ゆっくり歩を進める。

東山魁夷は、
モーツァルトのピアノ協奏曲ケッヘル488番第2楽章を聴いて
この情景が浮かんだそうだ。

森林は、オーケストラ。
白馬は、ピアノの旋律。

この世には、見て感動できるモーツァルトも遺されている。

今日、12月5日は、
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが亡くなった日。





02-tanigawa  

「モーツァルトが遺したもの/谷川俊太郎」


詩人、谷川俊太郎の作品「ふたつのロンド」は、
自身の思い出話から始まる。


  六十年生きてきた間にずいぶんピアノを聴いた
  古風な折り畳み式の燭台のついた母のピアノが最初だった
  浴衣を着て夏の夜 母はモーツァルトを弾いた
  ケッヘル四百八十五番のロンド ニ長調
  子どもが笑いながら自分の影法師を追っかけているような旋律
  ぼくの幸せの原形



彼が詩の中に込めたもの。
それは、音楽がもたらす幸せにひそむ寂しさと、死だった。

優雅さの中に、悲しみがある。
だから私たちは、モーツァルトの曲を聴くのかもしれない。

今日、12月5日は、モーツァルトが亡くなった日。



03-nakahara

「モーツァルトが遺したもの/中原中也」 


  僕はもうバッハにもモーツアルトにも倦果てた。(あきはてた)

詩人、中原中也の作品「いのちの声」が発表されたのは、結婚した翌年のこと。
恋人の長谷川泰子とは、とうの昔に別れ、違う女性と一緒になっていた。

中也がモーツァルトを聴いていた、というのは有名なエピソードだが、
ある頃から、陽気な音楽にはもう飽きたよ、と漏らしていたそうだ。

長谷川泰子と別れた小林秀雄もまた、
モーツァルトの弦楽五重奏曲ト短調を聴いて、
「かなしさは疾走する」と評した。

モーツァルトの曲は、昔の恋を思い出させる魔法。
そんなふうに思えてしまう。

今日、12月5日は、モーツァルトが亡くなった日。



04-tachihara

「モーツァルトが遺したもの/立原正秋(たちはらまさあき)」


鎌倉から江ノ電に乗り
20分ほど揺られると、
腰越(こしごえ)駅に辿り着く。

ここは、作家、立原正秋が暮らした小さな街。
魚屋の店先を覗くのが、彼の日課だった。
鵠沼海岸に越したのちも
四季折々の魚を愛し、こんな文章を残した。


  ある朝十時に起きて酒をのんでいたら、
  モーツァルトのピアノ協奏曲ニ短調がきこえてきた。
  私は前夜の残りの鮟鱇を肴に酒を酌みながら、
  モーツァルトと鮟鱇はよく合う、と思った。



この冬、鮟鱇とモーツァルトの相性を試してみるのも良さそうだ。

今日、12月5日は、モーツァルトが亡くなった日。



05-abraham

「モーツァルトが遺したもの/アカデミー賞」


奇妙な笑い方をする、荒唐無稽なモーツァルト。
彼の才能を嫉む宮廷音楽家サリエリ。

この二人の人間模様を描いた映画「アマデウス」は、
第57回アカデミー賞のタイトルを8部門受賞した。

主演男優賞にノミネートされたのは、
モーツァルト役のトム・ハルスと
サリエリ役のフランク・マーリー・エイブラハム。

その栄冠に輝いたのは、
映画の中で、悔しそうな表情ばかり浮かべていた、
エイブラハムのほうだった。

モーツァルトを毒殺した疑いがかけられ、
悪役に仕立てられたサリエリも
このときばかりは、晴れやかな笑顔を見せた。

さてモーツァルト本人は、草葉の陰で何を思うやら。

1791年の今日、12月5日は、
モーツァルトが亡くなった日。



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「モーツァルトが遺したもの/ラウル・デュフィ」


20世紀に活躍したフランスの画家、ラウル・デュフィは語る。

   私の眼は醜いものを消し去るようにできている

デュフィは、生涯にわたりモーツァルトを敬い、
彼をモチーフにした十数枚の絵を残している。

色彩豊かに描かれたデュフィの作品は、
美しく、また、奥深い。

モーツァルトの遺産は、パリで静かに眠っている。

今日、12月5日は、モーツァルトが亡くなった日。

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佐藤延夫  09年11月1日放送

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サイレンススズカと武豊1


「もしも、あの馬が無事に走っていたら」

今でも競馬ファンが、そう考えてしまうレースがある。

平成10年、11月1日。天皇賞。
一番人気で先頭を走っていたサイレンススズカは
レース中に左前脚を骨折、安楽死となった。
ジョッキーの武豊は語る。

「夢が一瞬にして消えてしまった。」

11年前の天皇賞の話になると
悲しそうな顔をする人は多い。





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サイレンススズカと武豊2


1997年、2月1日。
京都競馬場。
芝1600mの新馬戦。

サイレンススズカのデビューは、
強烈なものだった。

スタート良く飛び出したら、
そのままゴールまで影も踏ませない。
騎手は道中、慌てず騒がず、
手綱さえ動かさなかった。
まるで他の馬は歩いているようだ、と誰かが言った。
終わってみれば、7馬身差の圧勝。
競馬場は、溜息に包まれた。

「凄い馬が出た。」

別の馬に乗っていた武豊は、
初めて見るサイレンススズカのスピードに舌を巻いた。



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サイレンススズカと武豊3


スピードは速いけど、誰も制御できないクルマ。
4歳当時のサイレンススズカは、まさにそんな馬だった。

幼さと気性の激しさが悪い方向に傾くと、
ことごとくレースを台無しにした。
弥生賞では騎手を振り落とし、ゲートをくぐり抜けてしまう。
ダービーは、ちぐはぐな競馬で惨敗。
秋のマイル戦も、見せ場すら作れなかった。

その年の12月、
香港遠征で、初めて武豊に身を任せる。

5着に敗れはしたものの、
気持ち良さそうにターフを駆ける姿は、
関係者を唸らせた。
持ち前のスピード、ダイナミックな足の運び、後半の粘り。
並の馬ではない。
一流馬となる素質は、随所に感じられた。
レース後、武はぽつりと言った。

「恐ろしい馬になるかもしれない。」

その予言は、思うより早く現実のものとなる。



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サイレンススズカと武豊4


多くの競走馬は、自分のスタイルを持っている。
逃げ、先行、差し、追い込み。
宿命的に「一か八か」という言葉がつきまとうのは、逃げ馬だ。

たとえば2000mのレースで、
1000mを通過するタイムが
58秒というのは明らかにオーバーペースであり、
やがて後続の馬に一気に追い抜かれてしまう。

でもサイレンススズカに限っては、それがマイペースだった。

栗毛の逃亡者。
音速の貴公子。
異次元の快速馬。

のちに、さまざまな異名がつけられた。



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サイレンススズカと武豊5


1998年。
5歳になったサイレンススズカは、
圧倒的な強さを見せつける。

2月のバレンタインステークスを皮切りに、
中山記念、小倉大賞典でも勝ち星を重ねた。
圧巻だったレースは、5月の末、中京競馬場で行われた金鯱賞(きんこしょう)。
スタート直後に飛び出したら、最後まで一人旅。
どの馬も、彼のペースについて行けなかった。

去年負かされたライバルたちは、遠くに霞んで見えるだけ。
4コーナーを過ぎると、観客は拍手を送り、
ゴール前では、笑いがこぼれた。
誰もがその強さに呆れてしまうようなレースだった。

終わってみれば、2着に11馬身の差をつけて圧勝。
レコードタイムを軽々と塗り替えていた。
これで、年が明けて4連勝。
武豊は語る。

「今日のサイレンススズカなら、どんな馬が来ても負けない。」

慎重な彼がこんなに強気な発言をするのは、珍しい。



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サイレンススズカと武豊6


1998年、7月。
サイレンススズカは無傷の4連勝で、
春競馬最後のGI(ジーワン)レース、宝塚記念に挑む。

このときに限り、武豊には先約があり、
南井(みない)騎手に乗り替わった。

距離の延長が不安視されたが、
始まってしまえばいつも通り。
最後までどの馬も、並ぶことさえできなかった。

武は、エアグルーヴに跨がり3着。
サイレンススズカの後ろ姿を見つめるだけだった。
レースを終えて、南井騎手は言う。

「この馬の能力は、ナリタブライアンに匹敵する。」

それはかつて、怪物と言われた馬だった。



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サイレンススズカと武豊7


1998年、秋。
天皇賞の前哨戦、毎日王冠は
東京競馬場で行われた。

サイレンススズカは、
淡々と自分のペースを守り、レースを進めていく。
しかしリードはそれほど大きくない。
最後の直線、他の馬が近づいたところで、一気に引き離した。

「これが理想だと思いました。」

武豊は、誇らしげに言う。
サイレンススズカがスターホースになった瞬間だった。



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サイレンススズカと武豊8


やけに数字の1が目につく日だった。
平成10年11月1日の第11レース、秋の天皇賞。
サイレンススズカは、1枠1番にゲートインした。

芝が西日を浴び、ターフは黄金色に輝く。
彼はいつものように、後続に大差をつけて逃げる。
府中名物、大欅(おおけやき)を越え
まもなく第4コーナー、というあたりで躓くように失速。
左前脚の粉砕骨折。
この日が、サイレンススズカの命日となった。

翌年の7月11日、宝塚記念。
実況アナウンサーは、レースが始まる前に言った。

「あなたの夢は、スペシャルウイークか、グラスワンダーか。
 私の夢は、サイレンススズカです。」

人々の記憶の中で、彼は走り続けている。

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佐藤延夫 09年10月3日放送

1

信濃の秋/平畑静塔 杉田久女


 壺の国 信濃を霧の あふれ出づ


信濃を「壺の国」と表現したのは、
明治生まれの俳人、平畑静塔だった。


山国、信濃は盆地の中にあり、深い霧に包まれやすい。
その形をぼんやり想像すると、
たしかに、壺から煙が出ているように見える。


信濃では、こんな句も生まれている。
同じく明治生まれの俳人、杉田久女によるものだ。



 紫陽花に 秋冷(しゅうれい)いたる 信濃かな


秋になってもここでは、
紫陽花が凛として咲いている。


俳人たちも、この幻想的な土地に訪れると
いつもより筆が動くのだろう。








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甲州の秋/飯田蛇笏


甲州地方の山々を愛した、
明治生まれの俳人、飯田蛇笏。


彼の句は、
自然と対話するなかで磨かれていった。


   
 くろがねの 秋の風鈴 鳴りにけり


蛇笏はこの句を詠んだあと、
あまりに簡潔すぎるので
他者の共感が得られるか、思い悩んでいたそうだ。


静けさがなおも深まる山。
風鈴の音もしない、くろがねの秋。


十月の山梨を、覗いてみたくなる。


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大和の秋/阿波野青畝


アキノキリンソウ、
ヨシノアザミ、
ツルリンドウ。


今ごろ、
奈良県の葛城高原(かつらぎこうげん)では
秋の花が、そっと咲いている。


明治生まれの俳人、阿波野青畝が愛した
大和地方の山々。
この地に生まれた人だから、なのか。
俳句の中に、崇高な世界観が垣間見える。



 秋の谷 とうんと銃(つつ)の 谺(こだま)かな


耳を澄ませば、遠くから聞こえる猟銃の音。
そしてまた静寂が包み込む。


奈良の秋は、神々しく深まっていく。


4

鴨川の秋/鈴木真砂女


千葉県、鴨川に行けば
俳人、鈴木真砂女の句に会うことができる。



 あるときは 船より高き 卯波(うなみ)かな


真砂女の人生もまた、波乱に満ちたものだった。
22歳で恋愛結婚をするも、夫は博打に入れ込み、蒸発。
急死した姉の代わりに、旅館の女将となる。
人に勧められるまま、亡き姉の夫と再婚するも心を許せず、
30歳で、旅館にやってきた海軍士官と不倫。
全てを捨て、思うまま、身を投じた。


銀座一丁目の路地裏に小料理屋を開き、
それでも俳句を読み続けた真砂女は、
96歳まで生きて、ゆっくり目を閉じた。


   
 来てみれば 花野(はなの)の果ては 海なりし


どこに居ても心に浮かぶのは、
穏やかな鴨川の秋だったのかもしれない。



5

草城の秋/日野草城


柿食えば、鐘が鳴るなり・・・という有名な俳句があるけれど、
俳句の中に柿を登場させた数で言えば、
明治生まれの俳人、日野草城に分があるかもしれない。


   
 岡寺の 大きな柿を 買ひにけり 


   
 小包を 解くやころころころと柿


   
 食ふまでの たのしさ尽きず 寒の柿


   
 柿を 食ひをはるまで われ幸福に


いつのまにか、柿の甘さが頭の中を駆け巡っている。
そういえば草城は、こんな句も詠んでいた。


   
 秋の夜や 紅茶をくぐる 銀の匙


この人は、紅茶もお好きだったようだ。


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放哉の秋


結婚するはずの女性と別れる。
会社をひと月で辞める。
酒癖の悪さに、禁酒を命ぜられる。
朝鮮半島に渡る。
禁酒の戒律を破る。
サラリーマンに嫌気がさす。
妻と別れる。
いくつかの寺に世話になる。
小豆島に辿り着く。
そこが終の棲家となる。


自由律の俳人、尾崎放哉は
生き方まで自由だった。
ひとりで生きることを望み、それに苦しみ、
ただ海を見つめ、言葉を残した。


   
 菊 枯 れ 尽 し た る 海 少 し 見 ゆ


枯れ果てた菊の花と、
その向こうに見える海。


孤独を噛みしめたいときは、
冬の近づく海辺で、放哉の句を呟くといい。



7

山頭火の秋


孤独の俳人、尾崎放哉が世を去った三日後、
流転の旅に出たのが、種田山頭火。
放哉と同じ、自由律というスタイルだった。


それなのに
ふたりの生き方は、あまりにも対称的で・・・。


放哉は、海を愛し
山頭火は、山に魅せられた。


放哉は、孤独に苦しみ
山頭火は、孤独を笑い飛ばした。
だから、こんな句ができた。


   
 も り も り も り あ が る 雲 へ 歩 む


昭和十五年、十月。
彼の辞世の句には、
ひとりの寂しさなど微塵も感じられない。


孤独を楽しみたいときは、
山に向かい、山頭火の句を呟くのが良さそうだ。


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