2009 年 のアーカイブ

五島のはなし(53)

五島を活性化させるプロジェクト(の妄想)その1。

まずは日本中の注目を五島にがつんと集めたい。
思い切った考えだが、島名を変えてしまってはどうか、
と今日電車の中で思った。

たとえば「ウルトラ列島」。
改名したら間違いなくワイドショーをにぎわすだろう。
(五島の名を捨て去るのはいかがなものか、
 という意見が多い場合は「ウルトラ五島列島」でもいい。)
「さて何がウルトラなのか、といいますと!」
テレビのキャスターがフリップをめくりながら話す姿が目に浮かぶようだ。

そして五島市長(いや、ウルトラ市長か)は「五島ウルトラ宣言」を行だろう。
海のきれいさも、浜辺の美しさも、料理のおいしさも、
教育も、観光客をもてなす態度も、
島民みんなでウルトラ(つまり、とってもすごい)を目指そう。という宣言。
やっぱり島民ひとりひとりのモチベーションがなんてったって大事なのだ。

同時に、島へのファンづくりも忘れてはならない。
日本中の子どもたちに五島のファンになってもらう。
なぜ子どもかと言うと、小さい頃に好きになってくれれば
いつかその子どもたちが大人になって、親になったとき
そのまた子どもらを連れて五島に来てくれるからだ。

具体策としては、ウルトラ列島だけに、ウルトラマンだ。
円谷プロにお願いして、地球では3分しか活動できないウルトラマンにも
実は地球上に一か所だけ3分過ぎても活動できる安全地帯がある、
というストーリーにしてもらう。もちろんそこは五島(ウルトラ列島)だ。

そして、ウルトラマンの等身大の像を、島の真ん中に設置したい。
ウルトラマンって確か50メートルくらいあるはず。
ぜったい話題になる。
しかも、よくありがちな堂々としたかっこいいウルトラマンではない。
戦いにつかれ、手を膝についてぜえぜえあえいでいる、
地球に来て2分58秒後くらいの、ぎりぎり安全地帯にたどりついた瞬間の
ウルトラマンの姿だ。
その人間的な姿に、大人たちも心を打たれるだろう。

さらに。
このウルトラマンのあえいでいる像は
島を離れ、都会で暮らす五島出身者たちへの強いメッセージにもなる。
「都会での戦いに疲れたら、いつでも帰ってこい」

・・・どうだろう。
ハードルは高いがやってみる価値がありそうな気がする。
あ、さらにさらにウルトラマンの像であるが、
手を膝についているということは、巨大な背中は一面空に向かっていることになる。
ここをすべて太陽光パネルで覆おう。
その電力で、島のエネルギーを補う。
エコの島としても世界から注目を集めるのだ。

(妄想つづく)

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五島のはなし(52)

21世紀の幕が開けたその日、
つまり2001年の元旦、
僕の五島の実家に16年前の僕からハガキが届きました。

2001年の16年前といえば1985年。
科学万博があった年。
僕は中1でした。
記憶にないのですがその年、
五島の中学校では「21世紀の自分」に
手紙を書くイベントがあったようなのです。

2001年の正月はまだ就職もしておらず
横浜の日吉という町のボロアパートにもんもんと暮らしていて、
五島に帰省していた兄からの電話で
そのハガキの存在を知りました。
「そっちに送るけん」
そう兄は言いました。

16年前の自分からの手紙。
わくわくしました。
どんな字を書いていたのか。何を考えていたのか。どんな夢を持っていたのか。
そして、きっと思い描いていたような人間にはなれていないぞ、
16年前の僕くん・・・となんとなく切ない気分にもなりました。
そんな高ぶる気持ちでハガキを待ったわけです。

数日後。
届きました、ハガキ。
高鳴る胸の鼓動。
そしてひっくり返してみたら・・・
ひとことスケベな英単語(あえて、というか恥ずかしくて、具体的には書きません)
が書かれてました。

・・・・・・。

いやあ、情けなくてどうしようかと思いました。
「目が点」ってこういう状態なんだと知りました。
でも同時に、ほんとにほんの少しだけですが、
「やるなあ、アナーキーだなあ、13歳の俺」
とすがすがしい気分になったのも、事実。

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五島のはなし(51)

かつて五島はクジラ漁の基地だった。
・・・という事実は知っていたのですが
その歴史が江戸時代初期にさかのぼり、
さらにその発展に尽力した一人の薩摩藩士がいたことは
まったく知りませんでした。

ああ。多くの人にとって興味のわかなそうな書き出しだなあ。
少しでも興味がわくように、
今日の文章のしめくくりを先に書くと
「五島みたいな隔離された印象のある場所でも
実は活発な人材の交流があって、しかも歴史的に
名の知られない人々の営みが複雑にからみあって
歴史がつくられてるんだなあ」
です。
・・・書いてみたけどやっぱ興味わかなそうだなあ。

先に書いた薩摩藩士。名を山田茂兵衛。
島津家の家臣として、
薩摩藩で豊臣秀頼に仕えた男。
薩摩藩で秀頼に?
というところが不思議なのですが、
山田茂兵衛の伝記によれば、
(現在は、大阪夏の陣で大阪城において自害したとされる)
秀頼は島津家によって救い出され、薩摩に逃げ延びたとなっています。
その後、秀頼をかくまっている事が徳川家にばれて、
秀頼は(薩摩にて)自害、仕えていたものの多くも自害するのですが、
薩摩生まれの家臣たちはそれほどつながりも深くなかったことから
自害を免れ、ただそのまま薩摩藩に残るわけにもいかず、
いろんな地域へと移り住んだ、のだそうです。

で、山田茂兵衛、です。
彼は五島の宇久島に移り住みました。
そこからしばらく後、江戸に住んだりもするのですが
また五島に戻り、「クジラ漁」の発展に尽力します。
小さな船でクジラをとるための技術とは大変なもので、
そのために、山口県から船大工を呼ぶなど、
全国のエキスパートたちを集め、創意工夫を重ねた結果、
多くのクジラをとるようになり五島はぐんぐん発展することになった
のだそうです。

この話は全部、宮本常一という民俗学者の
「日本の村・海をひらいた人々」(ちくま文庫)に
書かれていることなのですが、
いやあほんとに、
五島みたいな隔離された印象のある場所でも
実は活発な人材の交流があって、しかも歴史的に
名の知られない人々の営みが複雑にからみあって
歴史がつくられてるんだなあ。
と思ったです。

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ベベコンビッチ12月ライブ



ベベコンビッチは五島の言葉でうたうバンドである。
自己紹介の文面によると
「ポジティブバカなGOTO−POPをオラブ〜バンド!! 」
だそうだ。
「オラブー」という五島語は「わめく」の意味だ。
漢字で書くと「哭ぶ」である。慟哭の「哭」である。
早い話が騒ぎわめくのだろうと想像されるが
ただうるさくやかましいだけではない。
悲しみも漂うのである。

話は長くなるが、万葉集の1809に
菟原娘子(うなひをとめ)の伝説が記載されている。
ふたりの男に求婚された娘が
選ぶに選べず死んでしまうのだが、それを知った男は
「仰天 於良妣」(天を仰ぎおらび)
つまり天を仰いで泣き叫ぶのが「おらぶ」なのだ。

方言には古語が多い。そして古語は表現力が豊かだ。
「オラブーバンド」の「オラブー」も古語である。
万葉の時代には表現力豊かな標準の言葉であったものが
方言と呼ばれるのは、
古い言葉が地方にしか残っていないからだ。
方言に較べるといま標準語と称するものは
なんと表現力の貧困なことだろう。

さて、ここで言わんとするのはそういうことではない。
ベベンコビッチオーケストラ12月のライブのお知らせである。

12月27日 日取りだけ決まっている。時間場所未定。
12月30日 時間も場所も未定。

いかにも五島らしくおおらかである。
たぶん正月に帰省した中村直史が
レポートを書いてくれるだろう。

ベベコンビッチオーケストラブログ
http://blog.goo.ne.jp/bebencobicci

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バリ島見聞録(6)


バリ島のお祭り

バリ島ではお祭りだそこかしこで行なわれています。
20日間の滞在で、道すがら出会ったお祭りは7つ以上ありました。

IMGP2743

トランス状態になった参加者

トランス状態になった参加者

この祭りは24時ごろホテルに帰ろうとしたところ出会ったお祭りです。

ウブドの王宮近くのでかい道路に正装したバリ人たちがずらっと奥まで座っていました。
ガムランが奏でられ、神秘的な雰囲気を醸し出してました。
30分ぐらい何も起こらなかったのですが、トランス状態になった参加者がでて、
にわかに参加者の興奮が伝わってきました。
そして、傘をもった人達が移動すると音楽隊もついていき、
道を練り歩き出し、パレードを行なっていました。

IMGP2756

その他に祭りの準備だったり、後片付けしているお寺がそこかしこにありました

なぜそんなにお祭りが多いかというと、
それだけお寺が多いからなのだそうです。

バリ島は、インドネシアひとつの州で、「バリ州」です。
そのバリ州の中に、県があり、市があり、村(デサ)があり、
そしてその中に「バンジャール」と呼ばれる
親族のような結束の強い共同体を形成しています。

「デサ」にはかならず

プラ・バレ・アグン(大会議堂寺院)
プラ・プセー(村の起源となった寺院)
プラ・ダルム(死と火葬の神々を祀る墓地を持った寺院)

と3つの重要なお寺があります。

そしてその他にも、各バンジャールがもつ稲作の神の寺や、
山の寺、海の寺、市場の寺、水浴の寺、湖・洞穴・泉の寺などなど、
数え切れない数のお寺があります。

全部合わせるとバリ島のお寺の数は数万になるとか。。

お祭りは「オダラン」と呼ばれ、それはお寺の創立記念日に行なわれます。
しかもバリ島のウク暦で一年に一回ということで、
西暦に直すと210日に一回行われることになります。

バリ島では毎日どこかで必ず神を祀るガムランのしらべが聞こえてきます。

神々が棲む島の所以です。

このようなことが出来るのも、
肥沃な土地でそう働かなくてもよかったからといえます。
四季が明確にないので、祭りをやることで、
生活のリズムを生んでいたといえるんじゃないでしょうか。
そして、結束力、機動力を高めることによって外敵から攻められたとき、
瞬時に動くことが出来たのかもしれません。
なんて。

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五島のはなし(50)

音楽のジャンルに「GOTO-POP(五島ポップ)」
というものがあります。
あるのか?
って思うでしょう。
あるんです。
・・・僕もさっき知ったんですが。

五島人の五島弁による五島のためのバンド 
「ベベンコビッチオーケストラ」

以下、彼ら自身の紹介文(その下に僕の直訳文)↓

ポジティブバカなGOTO-POPをオラブ~バンド!!
あがんハートをもさる あがどんがソウルをカッパっぞぉ
~オージョ コージョすっぞな~

ポジティブバカな五島ポップを叫ぶバンド!!
君のハートを奪う、お前らのソウルを盗む、
~もうほんとにまいっちゃうぜ~

ぜひ聴いてみてください!
僕はほんとにハートを奪われて、まいっちゃいました。

*ベベンコビッチオーケストラのブログ
http://blog.goo.ne.jp/bebencobicci
*ベベンコビッチオーケストラの歌はこちら
http://www.youtube.com/user/bebencobicci

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薄組・熊埜御堂由香 09年10月18日放送

せつない時計


せつない時計

同じテンポで時を刻んでいたふたつの時計がズレはじめ
やがて、どちらかが先に止まる。
アーティスト、フェリックス・ゴンザレス・トレスの代表作、
「パーフェクト・ラバーズ」。

どんなに完璧な恋人たちも、ずっと一緒にはいられない。
時間の残酷さを、時計は告げる。

ありきたりな掛け時計なのに
止まった時計の隣で動き続ける姿はせつなくて
恋人に先立たれたトレスの心と重なる。

02-Felix3


旅する時間 気休めの薬 

自分の体重とぴったり同じ重量のキャンディが床に
散りばめられている。

フェリックス・ゴンザレス・トレスの
「気休めの薬」という作品だ。

来場者は、ひとりひとつ、キャンディを持ち帰ることができる。
そのキャンディがポケットの中で旅する時間も、
どこかの国で、誰かの口の中でとけていく時間も、
彼の作品の一部なのだ。

常に持ち去られ補充されるキャンディは
彼の作品を継続させようとする人々の意思によって
作者の死後も、活発に活動している。

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薄組・石橋涼子 09年10月18日放送

時を越える


時を越える アントニオ・ガウディ

 人は2つのタイプにわかれる。
 ことばの人と行動の人だ。
 私は後者に属する。

そう語ったのは、スペインの建築家
アントニオ・ガウディ。
そう、あのサグラダ・ファミリア教会の設計者。

幼いころから手先が器用だった彼は
自らの手で作りながら設計することを好んだ。
一方で、自らの考えを伝えたり、
他人の理解を得るために
文章や図面を書くことは大の苦手。

おかげで、着工から120年という膨大な時間の経つ
サグラダ・ファミリアは、今もまだ建築中だ。
なにしろ、ガウディ先生は
たった一枚のスケッチしか
ヒントを残してくれなかったのだから。

晩年、完成までの年月を聞かれるたびに、
彼はこう言ったのだった。

 神様は完成をお急ぎではないよ。

きっと、人は2つのタイプにわかれる。
時間に囚われる人と
時間を越える人。
そして、後者にだけ与えられるのが、
未来に遺せる創造力なのだろう。

400年前からの手紙


400年前からの手紙 俵屋宗達

琳派(りんぱ)の創始者であり、
国宝「風神雷神図」を描いた、俵屋宗達。

その生涯は
自伝もなく、日記もなく、謎に包まれている。
自筆で残されているのは筍のお礼状一通だけだ。

 醍醐のむしたけ、五本送り下され、かたじけなく存じ候

彼が生きた時代から約400年。
自分の記録を残さず、作品のみを残した俵屋宗達が
いっそ潔く見えてくる。

愛の賞味期限


愛の賞味期限 鈴木三重吉

愛情は最高の調味料。
食べ物に対する愛情もその料理をおいしくする。

作家 鈴木三重吉の
湯豆腐に対する愛情は半端なものではなかった。

レシピを訊ねる友人に
4メートル近い巻物に
延々と湯豆腐へのこだわりを書いて送った。

そこまで愛情をそそがれたら、
湯豆腐だってとびきりおいしくなる以外に道は無い。

止まっている時間


止まっている時間 遠藤新(あらた)

1923年9月1日午前11時58分32秒。
その日、そのとき
後に関東大震災と呼ばれるマグニチュード7.9の揺れが起こった。

そして、その日、その時。
帝国ホテルの竣工記念パーティーが
まさに始まろうとしていた。

避難しようと慌てふためく人々の
悲鳴と怒号が飛び交うなか
ひとり、時間がとまったかのように、
ホールで大の字になって寝ている男がいた。

遠藤新。

天才建築家フランク・ロイド・ライトの片腕として
また、ライトが去った後の総責任者として
帝国ホテルを完成させた男である。

彼は言った。

この広い東京のなかで、今、最も安全な場所がここだ。

事実、崩壊と復興でめまぐるしい東京の街に
毅然と建ち続ける は
そこだけ時間が止まっているようだった。

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薄組・薄景子 09年10月18日放送

魂の待ち時間


魂の待ち時間 ミヒャエル・エンデ

時間どろぼうを描いた「モモ」で知られる、
ドイツ人作家、ミヒャエル・エンデ。
彼のコラムに、インディアンの興味深い話がある。

中米奥地の発掘調査団が
荷物の運搬役としてインディアンのグループを雇ったときのこと。

初日からすべり出し好調。
作業は予想以上にすすむが、
5日目、インディアンたちは地べたに座り込み、
無言のまま、ぴたりと動かなくなった。

叱っても、脅しても、全く動じない。
調査団も根をあげたその2日後、彼らは突然立ち上がり、
荷物を担ぎ上げ、予定の道を歩き出したという。

ずっと後になって、
インディアンのひとりが初めて答えを明かした。

 「わしらの魂があとから追いつくのを、
 待っておらねばなりませんでした」

スピード化、効率化、24時間営業。
次なる便利を求めて、前へ走り続ける文明社会に
もはやゴールは存在しない。

エンデが空想した「時間どろぼう」が
現実となった今。
私たちが、腰をすえて
置き去りにした魂を待つには、果たして何年かかるだろう。

見つかる時間


見つかる時間 森 瑶子

あの17年間は、なんだったんだろう。

与えられたレールにのって
大嫌いだったヴァイオリンを
泣きながら練習した日々。
しかしこの先、一生ガマンすることに耐え切れず、
17年のヴァイオリン人生を捨てる。

その後、彼女は
誰からも教えられたことのない小説を
すらりと書き上げた。

森瑶子38歳。
処女作「情事」、すばる文学賞受賞。

彼女は言う。

 「何かを好きで好きでたまらないほど、
 好きになれるのは、天賦の才なのだ」

その「何か」が見つかるまでの時間は、
人それぞれ、
寿命のように定められているのかもしれない。

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坂本和加 09年10月17日放送

1

タンデムストーリーズ①「ガストン・ライエ」 

身長は、たった163センチ。
そのハンデをもろともせずに、
パリダカの二輪部門で2度の優勝歴を持つ、
小さな巨人、ガストン・ライエ。
誰もが、そんな足の着かないバイクで
いったいどうやって? と、不思議がる。

ガストン・ライエの答えは、至ってシンプル。


 だったら、どうやったら足を着かないで、走りきれるかを考えたのさ。

現役引退後も、みんなと同じようにバイクを楽しみ、
世界中のバイク乗りに愛されたライダーだった。

2

タンデムストーリーズ②「マックス・フリッツ」

BMWという名車を語るなら、
そのエンブレムがプロペラに由来していることよりも、
そのオートバイの生みの親、
マックス・フリッツという男を知っている方がかっこいい。

エンジニアであった彼の最大の功績は、
水平対向2気筒、通称ボクサーツインと呼ばれる
エンジンを完成させたこと。
そのスタイルは、
1923年の初号機から今に続くビーエムだけのもの。

ドイツ、ミュンヘンにはBMW本社併設の博物館があるが
展示のほとんどをバイクが占める。
ビーエムのカーオーナーたちが、
ちょっとがっかりするくらいに。


3

タンデムストーリーズ③「ビバンダム」

ことしで111才になる。
世界的に有名な彼の名前は、ビバンダム。
そのからだは、うずたかく積み重なった
白いタイヤでできている。

創業者である、
ミシュラン兄弟のユーモアから生まれた
彼の名前は、「ヌンク・エスト・ビバンダム」という
ラテン語で書かれた最初のポスターから。
「今こそ飲み干すとき」という意味がある。

白いタイヤ男は、
生まれたときからからマーケットを飲み干す勢いで、
現在も世界トップシェアに君臨する。


4

タンデムストーリーズ④「チェ・ゲバラ」

23才の医学部生、エルネスト・ゲバラは
友人とふたりで一台のバイクにまたがり旅に出た。

アルゼンチンからチリ、ペルー、
そしてベネズエラへ。

相棒になったバイクは、英国製のノートン500。
タフなヤツというあだ名だったけれど
実際はひどいポンコツで、旅の間に壊れて鉄くずになった。

本当の旅がはじまったのは、それからだった。

バイクは、彼らが経済的に恵まれていることの象徴だった。
その垣根がなくなったとき
はじめて人々はゲバラに心を開いた。

百万長者よりも、文盲のインディオの方が好きだと言うゲバラが
旅行中に記した日記は、こう締めくくられている。

 この流浪は、僕を想像以上に変えた。
 僕は人民のために生きるだろう。


5

タンデムストーリーズ⑤ 山村レイコ

80年代は、バイクに乗る女の子、
ただそれだけで珍しがられる時代だった。
山村レイコが、そうだった。

バイクで旅する楽しさを伝えたいと、
彼女はエッセイストになった。
パリダカを走る国際ラリーストにもなった。
その魅力は、やっぱり書くことで伝えた。

そしてロハスが流行るずっと前に、
酪農や農業をして生きようと決めた。
大好きなバイクが自然との距離を近くしたから。

生きること、楽しむこと、働くこと
山村レイコのなかで
この三つは、いつも同じこと。


5

タンデムストーリーズ⑥浮谷東次郎

浮谷東次郎は14才のとき、バイクで1500キロを旅した。
とにかくよく飛ばす男は、カーレーサーになった。

けれど、最初は群を抜いて遅かったという。
のちの、最後尾からのゴボウ抜き逆転優勝は、
彼が理詰めで勝ち取ったもの。

そんな浮谷東次郎を語る言葉がある。

 カッコよく革ジャンを着ていました

そうか、こういう人がカッコいいんだ。


7

タンデムストーリーズ⑦ 藤沢武夫

昭和24年、真夏の阿佐谷で
本田宗一郎と藤澤武夫が出会い、
「技術の本田、経営の藤澤」の伝説が生まれた。

ホンダが、世界のホンダと称される由縁は、
原動機付き自転車「カブ号」の爆発的ヒットにある。
そのカブ号に目をつけ、
抜群のセンスで売り込んだのが藤澤だ。
「自分に似た人間なら、2人いらない」
そう断言する本田が、選んだ相棒だった。

神話のような本田の決断の数々も、
必ず藤沢の意見があった上でのこと。

「ホンダの社長は技術畑でなくては」、
という藤澤哲学にもとづいて
つねに経営がシナリオを書き
技術が主役をつとめるホンダのサクセスストーリーは、
いまや、MBAの教科書になった。

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